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[444]
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★分割自我復元★その444■トラウマ掘りの報告−その3■
by:
鈴木崩残
2015/03/10(Tue)16:22:53
トラウマACに関する報告−3
■地道にですが、トラウマ掘りを進めている男性の方からです。
崩残様
自我判定をお願い致します。
復元回数 前回延期時 **回 + 今回 **回です。
同じ所を何度も探っているので重複箇所が
いくつもありますがよろしくお願いします。
◯ 自分の気配を消そうとした小学生。
私が最も嫌だったことは怒られることだった。
母親から怒られることが嫌だった。
学校の教師から怒られることも嫌だった。
怒られないためにやったことは気配を消すことだった。
小学生の頃、給食が嫌で堪らなかった時期がある。
生野菜が食べる事が出来ずに残していたが、全部食べないと
家に帰れなくなった日々があった。
だから給食の時間になると自分がそこにいることを教師に悟られないように、
気配を消すという無駄な努力をしていた。
声も出さず、見つかりませんようにと全部食べたかのように
こそこそ片付けをしようとしていた。
しかし、そんな事は通用せず、生野菜が出た日は毎回居残りだ。
ある日の家庭科の授業で家の中の絵を見せられ、
その中で季節を感じるアイテム見つけてくださいという質問に答えた。
一人ずつ「花」とか「カーテン」とか答えていく。
私も誰もが選ぶであろうと思ったものを答えた。
担当の女教師は即座に私の答えを叩き潰した。
「はぁ? 何でそれが季節を感じるの? 感じないでしょ!?」
みんなの前でそんな答えをしたことを辱められた。
ただでさえ、引っ込み思案だった私はますます授業で答えることから
遠ざかった。
小学生時代は質問されそうになると気配を消しにかかった。
夕食の後、背後で家事をしている母親の様子を気にしながら
見たいTV番組を見ていた。
家事に夢中で私に気づかないでくれ、と祈りながら見ていた。
だからTVに夢中になれなかった。
夢中になり油断すると母親のイライラが私に向けられる。
「そんなものばかり見てないで宿題をしろ!」と。
まるで囚人と看守の関係だ。
家事がひと段落ついた時は一緒にTVを見ていることもあり、
私も楽しくTVを見ていた記憶もあるのだが、
私の記憶のほとんどを占めるのは、怒鳴られたらイヤだなぁという
ビクビクした気持ちが多かった。
そうだ、気配を消すという表現がとても合っている。
祖父が一緒に好きな番組を見ている時は救いだった。
母親は遮ることをしなかった。
祖父はこの時は私にとって「堀」のようなものだった。
母が近づけないからだ。
祖父からも怒りを食らったことは勿論あったが、
私のイタズラや悪さに対してであって母親のものとは違っていた。
だから祖父に母親に対する感情のようなものは持たなかった。
気配を消すことに疲れると勉強机のある部屋で宿題をするふりをし、
ノートの隅っこにイタズラ書きをして気を紛らす。
それを見つけた母に、猛烈に問い詰められる。
なぜ、子供時代にここまで親に気を使わなければいけなかったのか?
なぜ、母親をここまで恐れなければいけないのか!?
祖父から怒られることは多かった。
祖父が怒ると怖かったが、
私は祖父を恐ろしいとか気持ちが萎縮するとか思ったことはなかった。
その怒りで行動を抑えたことはなかった。
が、母親に対してはどんなこともバレるということを恐れた。
◯ 悲しみを感じた出来事たち
小学2、3年の頃だろうか、私は家の階段の天辺から転げ落ちた。
バク転で転げ落ち泣き喚いた。
あまりの痛さと首の骨を折って死ぬ恐怖で大声で泣いた。
母親が大きな物音にびっくりしてやってきた。
当然、私は母親が心配して
「大丈夫か?、怪我はない?」と言うのを待っていた。
しかし、私の耳に聞こえたのは怒鳴り声だった。
「何をしてるの!? 馬鹿だね、お前は! ふざけてるからだろ! しっかりしろ!」
階段から落ちたことにあきれ返るだけで心配などしていなかった。
大怪我をしても私は怒られるだけで心配されないんだと悟り悲しくなった。
同じく3、4年のとき、買い物を頼まれた。
いなり寿司とのり巻きを買ってきてと…
店に着くといくつ買うのか覚えていなかった。
母が言うのを忘れたか、渡されたお金で常識的な個数を買えということなのか、
覚えていない。
預かったお金分のいなり寿司とのり巻きを買って帰った。
中を開けた母はヒステリーに怒鳴った。
「何でこんなにたくさん買ってくるの!? 誰が食べるんだい!?」
「バカだね〜、お前は! 返しておいで!」
多いと言っても20〜30個だったはずだ。
6人家族なら食べれるんじゃないか?
食べ物を返しに行くなんて嫌だ。
自分が返しに行ったか母が返しに行ったかは覚えていない。
たかがいなり寿司をいっぱい買ってしまっただけで何故怒鳴る?
呆れて笑えばいいだろう?
ヒステリーになる必要があるのか?
悲しかった。
ろくに買い物もできない自分が悲しくなった。
そんなことで怒られることに悲しくなった。
どうして、いつも怒られるんだ!?
同じような買い物事件が何度かある。
夏のある日、セミを捕まえる網を買うため渡されたお金で、
つい、目の前にあったプラモデルを買って帰り罵倒された。
母は返品しに行き、網を持って帰ってきた。
友達と駄菓子を買うためにお釣りを持ってきてと渡されたお金で店にある
いろんな物を買って帰った。
母は呆れ、怒鳴り、
友達の親と一緒に返品できるものは返品してしまった。
返品される都度、悲しくなった。
どうして母親を怒らせることをしてしまうのか、なぜ、許してくれないのかと。
親戚の従兄弟たちがよく家に来ることがあった。
年に1、2回だが。
小学生の私はその日がいつも楽しみだった。
彼らが来ると小遣いがもらえるからだ。
貰った金なら自由に使えるからだ。
金欲しさに彼らが来る日を喜んだ。
家の金をなるべく使わないように気を使った時期がある。
私が無駄な物を買うと怒られてしまうから、
家の金は少しずつ使うべきだと心がけた。
ある日、母方の親戚が来た時、寿司を頼んでもてなそうとする母に
「俺はラーメンでいい」と言った。
母は折角みんな集まってるから寿司にしようと言い張る。
私はみんなの前で
「寿司は高いからラーメンにしよう!」と言った。
結局、寿司を頼みもてなした。
私は家計を心配して安いものでいいと言ったのだが、
みんなが帰ったあとで母は私を罵った。
「みんなの前であんな事を言うなんて! お前は恥ずかしい!」と。
家計を気遣ってお金を使わないように我慢したのになぜ怒られるんだ?
家のことを考えて言ったのにどうして怒られるんだ?
どうすれば怒られなくなるんだ?
自分のやること全てに信頼できない。
やること全てを信頼されていない。
私は邪魔者となっていった。
怒られることは嫌だった。
もう、怒られたくない!
「もう、怒らないでよ。
言われた通りに出来ないけど…もう、怒らないでよ」
小学2、3年の時、学校からか塾からの帰り道、
私は小雨の中を傘もなくゆっくり歩いている。
家に帰りたくない気持ちでいっぱいだ。
母親に捕まりたくなかった。
「宿題を忘れたか? 成績表を持っているのか?」と言われるから。
家に帰るのがつらい。
その姿を見た見知らぬ女性が「大丈夫?」と声をかけてくれた。
傘に入れてくれた。
「大丈夫? 家の近くまで入れてあげようか?」
嬉しかった。
自分に優しく接してくれる人がいると思い嬉しかった。
でも自分の気持ちを表に出せただろうか?
人見知りだったので声もなく首を横に振ったか、
「うん」と言ったかは覚えていない。
小さい頃から怒られることで私は知らない間に短気になっていたようだ。
短気でいることが私の防御となった。
そして怒られ続けることで自分の好きな道を歩けなくなってしまった。
好きな道を歩めば他者から必要な怒りを受けることは当然あることだ。
しかし、私はすでに他者からの怒りに耐える力を削がれてしまった。
耐える力を身につけられなかった。
怒られることは全てネガティヴに捉えた。
怒られるくらいなら、やめておこうというようになった。
何かを学ぶ時に必要な、他者からの怒り。
その怒られる力を失った。恐怖でその耐性を破壊された。
だから子供の頃習ったことは、母親が持ってきたものばかりだった。
自分で好きなものを探せなかった。
そして身につけたものは相手に迎合する時の笑顔だ。
私の笑みは相手への屈服の証だった。
母親は、私が怯えてる姿が好きだったと思える。
子供の頃、地震や雷で泣き叫んでいた。
雷が長時間続くと私は怖かった。
その間、母は「へそを取られる」だとか「隠れてないと感電死する」
とか言い、私を怯えさせ喜んでいたようだ。
母と叔母が話をしている横に私がいると、
気味の悪い幽霊話を本当にあったかのように話していた。
私は聞こえていないフリをしていたが実際は怯えていた。
母達はその様子を面白がっていたように思える。
父親とは遊んだ記憶がほとんどない。
話をした記憶も少ない。
あまりによそよそしい父子だ。
人見知りも甚だしい。
この人見知りは完全に感染していた。
子供の頃、父の夕食時間は必ずニュースをやっていたので
私は見たい番組を見るのが困難だった。
私がTVのことで母ともめていると父親は顔をしかめ、
「静かにしておくれよ〜」とか
「家にいる時くらい好きにさせておくれよ〜」
と泣き言のように、私に罪悪感を植え付けるような、
悲鳴にも似た言い方をして嘆いた。
そうだ、私は父親から罪悪感を植え付けられた。
私が父の前で文句を言うことはまるで弱い者イジメだった。
私に見たいTVがあることは罪なのだ。
TVが見たいなら主導権を得なければいけないのだ。
母親のヒステリー同様、私は父親の嘆き声も堪らなくイヤだった。
嘆かれると攻撃対象にはならなく、憐れみを感じてしまうからだ。
私は父の嘆きの前では声もなく、言い返せなかった。
その嘆きは私の存在感をなくすには充分だった。
反抗時期には母親のヒステリーに対してはいくらでも反撃出来たが
父親の嘆きに対しては私は無力だった。
幼少期から大人になっても父の嘆き声に私は矛を収めてしまった。
その雰囲気には近づけなかった。
私の怒りの感情は、
幼少期からこの父親の嘆きによって封じ込められていた。
母のヒステリーの恐怖、好きなことの回避、泣きたい気持ちの消滅。
父の嘆きによる怒りの抑圧。
嘆きに対抗する武器を私は持っていなかった。
おそらく、泣くこともこれにより制御してしまっただろう。
後ろめたさと罪悪感。
幼稚園に通ってた頃、
私は反対側の通りを歩いている人を見て、自分はなぜあの人ではないのか?
あの人として自分を眺めることはなぜ出来ないのか?と思った。
すでにこの頃の環境が不快で他人になりたいという思いが
出来上がっていたのではないか?
母親がヒステリーになり、
父親が嘆き声を上げる。
輝いていたと思っていた少年時代は、
実際はこんなにもギスギスしていた。
◯ 今まで気にしたことがなかった大きな出来事
私も妹を長期に渡りいじめ続けた経験がある。
なぜ、いじめたか?
理由らしい理由が見当たらなかった。
「妹ができれば母親の関心がそっちに向くのは当然だろう」
このありきたりの理由のせいにしてしまい、
本当の自分の感情に焦点を当てて来なかった。
小学1、2年の頃にあった出来事だったと思う。
母が私と妹を海水浴に連れて行った。
場所は覚えていないが人でいっぱいだった。
帰る前にその浜辺に作られた銭湯に入れられた。
私は当然母に連れられ入れると思っていたが、母は妹だけを連れて行った。
「お前は一人でそっちに入りなさい」と言われた。
私は臆病だったので大勢の人がいる男湯に一人で入ることが怖かった。
知らない人たちの中でひとりぼっち、寂しさと緊張で身も心も硬直した。
湯につかりじっとしていた。
周りの視線ばかり感じていた。
いつ出ていいのか分からず、外で母が待っているかどうかも不安だった。
なぜ、一人置き去りにされたんだ?
一人にされるのは怖い、どうしよう?
些細なことだったが、
妹に母親を取られたと気づいた出来事だった。
ここから妹いじめが激しくなっていったのではないかと思う。
そしてなんとか母親の関心を自分に向けさせおくようにしていた。
母親なしでは何も出来ない子供でいようとしていた。
「母親を取られたくないAC人格」というものが出来上がっていった。
ある時期は夜中に一人でトイレに行けず、毎回付いてきてもらった。
風呂上がりに体を拭いてもらうことは小学4年位まで続けた。
この母親離れが出来ないAC人格はかなりの長い期間私を支配した。
どういう形でも心配をさせておけばいい、ということから始まり、
親不孝者というレッテルまで良しとし、親子関係を持続させた。
そして「社会的不適合AC人格」は、
対母親攻撃にはもってこいの武器となった。
世間がよく言うような「親にとっては子供はいつまでも子供」という
くだらない言葉を、無意識下では受け入れていたということだ。
母は私を復讐の対象にしていた。
母は4人姉妹と一番上に兄がいたと記憶している。
その兄(私の叔父)は曖昧な記憶だが、
特攻隊上がりだったと聞いたことがある。厳しそうな人だった。
田舎の育ちだから男尊女卑な家柄は間違いなさそうだ。
おそらくその兄や父親から厳しく躾けられながら育ったはずだ。
男たちから罵倒されることで復讐心を溜め込んでいただろう。
結婚後も私の祖父から少なからず厳しくされたと思う。
家庭の中で自分のコントロール下における男は私一人だった。
復讐の対象として私がいたわけだが、途中で私からも罵倒され始めた。
そして私も他者へ代理復讐を始めた。
………
先日見た夢の中で、あっさり相手の言いなりになってしまった。
ある男達、おそらく外国人たちと私が金のやり取りをしている。
何かを買い求めたか、両替をしている。
私は不審に思いながらもやり取りをしている。
やがて相手が「これでいいだろ」的なことを言い、
私は納得していないのに苦笑いをし、自分の金と相手の金を交換してしまう。
私の手には価値のない外国紙幣が残る。
簡単に言いくるめられてしまった。
必要のない取引をしてしまった。
肝心な場面で「NO」と言えよ!
こんな簡単なやり取りで拒否出来ないことでがっかりした。
これが現状だ。
妄想ACは落ち着かない。
「必要性」と「他人の目」の戦いは「他人の目」に軍配が上がる。
まだ、他人に迎合して笑みを浮かべるACが顔を出す。
◯ 関心マップの効能
大して必要でない物を探しまわること、
ちょっと欲しいと思ったら、
手に入れないと気が済まなくなってしまうことなど、
妄想ACに振り回され続ける。
誰が振り回されているんだろう?
妄想の一人芝居だ。
私の場合、「もう、やめた!」という決断は必ず失敗する。
この決断は妄想だと気づいた。
関心マップを続けていると何かがとても静かに現れた。
静かに浸透するように妄想を退けていった。
その時は「もう、やめた」と宣言するAC人格はいなかった。
AC人格という妄想は落ち着きたくないのだ。
落ち着きたいと言うけれど、実は落ち着きたくない。
このAC人格は落ち着かないでいるために欲しい物を探しまわり、
そして落ち着かせようと策を講じて充実感を得ようとする。
もう、大丈夫などと調子のいいことを言うつもりはない。
AC人格たちの癖はまだ至る所に見える。
まだ、幾つものAC人格たちが現れて格闘が続いている。
が、それに対して何かが落ち着き始めている。
******************
関心地図と直接に関係はありませんが、
朱い刃金さん、のブログに興味深い展開がありました。
実は2/17あたりに、確定申告の書類が届いたあたりから
3月のはじめごろまで、まる3週間も、自我復元ブログを全く見ておらず、
気がつきませんでした。
ちょっと、自分自身の事で、集中してやりたいことがあり、
どうしても必要な買い物と、
梅の間と桜の間の更新と、
ツイッターをメモ書き代わりにする以外は、
ほとんどネットにつながなかったものですから。
お姫ちゃんのも、だいぶ前に更新されていたのですね。
無干さんのも最近、更新されていたのですね。
●それで、「関心地図」の効能によるものかどうかは
ご本人に聞かないとわかりませんが、
朱い刃金さんのは、ある意味で、
非常に「自然な」自己探求になっています。
↓
1.
http://jibunnikaerutameni.blog.fc2.com/blog-entry-67.html
2.
http://jibunnikaerutameni.blog.fc2.com/blog-entry-68.html
3.
http://jibunnikaerutameni.blog.fc2.com/blog-entry-69.html
_______________________________
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