▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
■桜の間へようこそ■
掲示板
Title
「分割自我復元」
のサポート情報や最新報告を記載しています。
★「自我判定」や「禅書」の申し込み方法はこちらです★
【
ご依頼・ご注文の方法
】
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[448]
■
★分割自我復元★その448■地球上の人間がおかれている現状の概要■
by:
鈴木崩残
2015/03/19(Thu)17:06:56
劣化が進む自我の概要
>ひとつ前の投稿の「不思議な女性」の動画のリンク先が違っていたのを訂正して、
>もっと分かりやすいバージョンも追加しておきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「朱い刃金」さんの自問自答に、少し応える形になりますが、
メモ書きをそのまま掲載しておきます。
話があちこちに飛びますが、最後は、適当にまとめておきました。
*********
被曝大国日本では、この先、
「医者」と「坊主」と「葬儀社」は 一生、食うに困らない職業だ。
一方で、本当に放射能の被曝被害に関心を寄せている保険屋は
うおさおして、加入希望者の居住場所を聞いたら保険に加入させない
というルールを既に設けている。
葬儀屋で思い出したことがある。
この話はずっと前にも、掲示板に書いたことがありますが。
20歳のころ自分が最初になってみようかと思った職業は
葬儀社勤務だった。
当時はアルバイトニュースとかほとんどなく
電話帳で適当に調べて電話して面接にいったら、
非常に応対はよくて、ほぼ入社できそうだったものの、
普通免許がないという唯一の理由で、入社はできなかった。
葬儀にかかわる仕事につきたいと私に思わせたのは
祖母の死顔を見たのが原因だった。
祖母の死顔はとても静かだった。
どんな糞坊主の座禅も敵わないほど静かだった。
死顔は美しいと高校生の時の私は思った。
むろんいろんな死に方があるから全部がそうではないのは
当然知っていた。
しかしそれでも葬儀社に勤めたいと思ったのは
私が人の死顔が好きだったからだ。
ところが、動物の遺体やある種の人の死顔は美しくもなく、静かでもない。
何が違うのかを考えた。
それはその人や動物が生きていた時の状態に起因していた。
ここは説明が難しいので省略する。
また遺族から見れば「生きていて欲しかった」と思ってご遺体を見れば
それは悲しくもなるだろうが、それはあくまでも主観の投影である。
祖母の死顔に感じた静けさが何であったのかは
その後歳月が経ってから分かった。
人から「人であるための構成物」を抜き取ると
「より本質的なものが残る」という事と、
それは生きている人間にも起き得るという事。
ちなみに大人の寝顔は幼児あたりにまで戻っているが
本質にまでは戻っていない。
昔の賢人たちが、人の遺体が朽ちていったり、火葬される
その有様に対して瞑想をしなさい、と言っていた事の本質は
「形あるものは無常だと知れ」という そんな単純な事ではない。
そうではなく
では、死しても残ると信じている魂なる物もが
「さらに崩壊したら何が残るのか?を問え」、と言っていたのである。
私、もしくは無明庵という所が、一環して提示している問題点は
人や生物が死んだらば、何かが残り継続するだろう、
と信じ込んでいる分野については、
その死後に残るものがあるという、この点については異論はない。
ただし、その死んだ後に残るものにも寿命があり
第二、第三の層での死があるという事。
そこでの死は、肉体の死とは質が全く違うのである。
科学がどうしても解明できない事がある。
たとえば脳を有機体のコンピューターとして考えれば、
その目的と機能は明確であり、
電気さえ与えれば人類が死んでもずっと動く。
だがコンピューターの画面は最終的には「人の目」で見ている。
自己プログラムする人工知能が開発されても同じ事である。
それ、すなわち事象を「見ている者」が存在する。
我々の脳作用は機械として理解できる。
しかし知覚される信号の「総体全体」を意識している、
この意識とは何か?が問題である。
宇宙では単に事象が起きて崩壊しているだけで良いはずなのに
なぜ知覚内容をわざわざ認識する主体があるかである。
痴呆になってり、脳を破壊すれば「知覚される信号の内容」は狂う。
しかし、知覚内容が狂ってしまっている事を、
知っている、認識している、意識している主体は、
本来は物理的に運用される宇宙には必要がないはず。
つまり知覚「作用」は機械として理解できるが
生物の主体が「知・覚」をする必要はないはず。
では、目や耳を通じて我々の中の一体
「何が?」
「何の為?に」
「何を?」見ているのか?
たとえば仮説の一つとして、
我々を含む宇宙の全生物が何者かの知覚の端末であるとしてみる。
つまり監視カメラと定義してみる。
しかし監視カメラが わざわざ意志や、感情や、思考を持つ必要はない。
しかし実際には、
ただ動いてランダムに捕食と排泄を繰り返す「可動性生物」の中でも
その「自己意識」には差があるのである。
自分の知覚している内容は、
「自分に固有のものである」事を強く意識するほどに
「見ているのは私である」という認識に至るのだが
この「私が世界の中心であるという認識」は、
時間的な継続維持が出来ないゆえに、
日常的に我々は高速で、自己意識を失ったり取り戻したりしている。
とりわけ「思考している内容」と多くの人は自己同化している。
つまり「自分は日ごろこんな事をよく考えている」
という事をもってして、それが自分であると認識している場合が、
圧倒的に多いのである。
だが、自分に固有の思考をしていない場合、
たとえば、痛みや性感などで五感の知覚が優勢な場合、
または睡眠中の夢の中、
そこでの認識の主体は、必ずしも、自分の思考内容とは同化していない。
「なぜ」生きているのか、という事を解明するには
そもそも外界に、あたかも安定した物質として、
ある「かのように見えている」宇宙の発生原因まで、
紐解かないとならないのであるが
「何が」 今、生きているこの感覚を生じているかを解明するには
宇宙を相手にする必要はない。
知覚している内容を、生物が認識するのは何故か?
という事に対する最も唯物的で思慮に欠ける回答は
「危険を察したり、捕食する為」であろう。
が、これはプログラミングさえすれば、
何もその行為をしている自分を意識などする必要はなく
単に微生物のように機械的に刺激に対して反応すればいいだけである。
生命を維持し、環境に応じて変化させるには、
本来は、生体の反応だけがあれば良いのであり、
哺乳類に多く見られるような、個体まはた群れであるという認識は必要ない。
人類を含むある種の生物だけに
「考え」とは別に「見ているもの」が埋め込まれたが、
その経緯と目的は人間を進化させる為ではなく、
混乱させる為に行われたと言ってもよい。
「自分が ここに今 生きている」
などという、そんなちっぽけな認識の中には、
到底収まる事の不可能な知覚主体を、バラバラに断片化して、
小さな生物の知覚主体として埋め込んでおけば、
当然に人間に生ずるのが「慢性的な違和感」である。
ただ生きているだけですらも、
しっくり来ない所にいる感覚が生ずるのである。
つまり人間以外の何者かに、人為的に創作された
「生まれた瞬間から生ずる、慢性的な不安」
これが産業価値を持った時代があり、それは今も継続中である。
どうやって生物を不安な状態に置くかということの根本的な操作が、
知覚主体の意識の断片化であり、
その次に追加されたのが思考が暴走して「妄想」をする機能であった。
簡単に言えば、
自分がこんな所に、こんな肉体の中にいるのは
「おかしい」「異常事態である」と、
生まれたばかりの赤ん坊さえ、そう感じている。
ゆえにその断片は、元の形に戻ろうと、あがき始める。
だが破片となった断片が、
決して元に戻れないようにする事で
その慢性不安が、永久機関のように継続して人間を動かし続ける。
エネルギーというものは、均衡状態に戻ろうするのを、
食い止めたり遅らせる事で生まれる。
磁石が反発する力を利用するようなものである。
人間型の生物が慢性的に、
必要があっても必要がなくても、
常に思考をし続け、知覚し続けるのは
根幹的な意識の主体が元の集合体と分離してしまったためである。
これらは間違っても、
人間に何かを期待しての「善意」からではなく
生物からエネルギーを発生させて搾取しようという
「悪意」から作られた機構であるが、
これを解決する手段は二つしかない。
ひとつは断片を元に戻す。
もうひとつは
断片の中にホログラムのように「元の状態を再現する」
******************
かくして 私の祖母の死顔が、私に教えてくれたのは、
肉体が、その主人を失い、
その主人の命令を失い
生命の電源が切れた、
その状態の中に、
断片化する前の「元の集合体だった主体意識」に
(同じではないが)「類似する何か」があるという事だった。
つまり肉体以外でも、「各次元層」での「死」が鍵を握っている。
******************
生物の中でも、とりわけ人間が、死を避けようとする理由は、
実際には、死を恐怖しているのではなく
死に至る途中で 自分が経験するかもしれない
空腹、寒さ、暑さ といった苦痛を恐れているのであり
死そのものを恐れている面は少ない事は何度も私は言ってきた。
ではなぜ空腹や苦痛を恐れるか?
単純に抽象化すれば、
頭の中で想定したり、妄想をしている事による苦痛も、
実際の身体的苦痛も、
すべて「落ち着けない」という心理状態を引き起こす。
苦痛なのは、その痛感神経の「信号の強さ」ではなく、
落ち着けない主体にとっては、
どんな刺激でも苦痛になり得るのことは、
精神疾患の事例またはトラウマを持った人の事例でも周知の通り。
もしも人間を含む生物たちが、
まるで日々の眠りを恐れないように、全く日々の死を恐れずにいたら、
生命が維持できないと思うだろうが、実は違う。
死を恐れなくとも、生命は維持できる。
だってあなたは今、
自分の死など全く意識せずに、職場や家庭にいるのだから。
しかし、もしも
死を単に「今のところ無視している」だけではなく、
本当に、全く恐れなくなったらならばどうなるだろうか。
全生物の中で、
もしも死と苦痛に対する感覚が希薄になり異なってくると、
「そら、そんなことをしていたら死ぬぞ」という脅しが効かなくなり
苦痛の回避行動という基本プログラムが壊れる。
その結果として、断片化した主体意識は、
断片化前の状態を「断片化した状態のままで」経験してしまうことになる。
ところがこれは、生物をエネルギー生産のための作物、
または有機的な機械 又は家畜として利用しようとした側にとっては
すこぶる具合が悪い。
という事で、とにかく「断片化を促進する事」で、
主体意識を持つ生物も、そうでない生物も、
「常に不安な状態を認識するようにさせようという、
その悪事の果てが、
個人の自我すらも断片化してしまうという最悪のシステムだった。
意識でも自我感覚でも、断片化すると、いずれも同じ事が起きる。
生まれたその瞬間から
「何か、これは、おかしくないか?」という違和感である。
その違和感を、払拭しようとして、その違和感を感じないようにと、
学んだり活動したり、人生に意味を見出せば、何とかなる、
と多くの人は思い込むが、
違和感から逃げるのとは逆に、
その違和感自体が、実は、帰還への「長い通路」を持っている。
その通路は長い。
決して、一瞬ではない。
*********
半世紀ほど、生きてみて、私は、
よく、こんな言葉を、沢山の人たちから聞いた
「そんなこと、考えても、わからないよ」
そうして、素朴かつ、正直な問いを、投げ捨ててしまう人々。
私はいつも思った。
「ならば
考えずに 分かるように なればいい」
*********
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(448 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
桜の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -