▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
■桜の間へようこそ■
掲示板
Title
「分割自我復元」
のサポート情報や最新報告を記載しています。
★「自我判定」や「禅書」の申し込み方法はこちらです★
【
ご依頼・ご注文の方法
】
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[456]
■
★分割自我復元★その456■AC人格形成の原因の報告■
by:
鈴木崩残
2015/04/13(Mon)19:08:01
報告より
●報告文を何通か頂いておりますが、いつものように、
すべて、きちんと目を通しておりますので、
私からの返信がすぐにはなくとも、気にしないでください。
以下は、その中のひとつです。
*********
崩残様
アドバイスありがとうございます。
関心地図のやり方が根本的に間違ってました。
また、この間違いから、何故私は関心がブレやすいのか、
選別しようとしたのか疑問に思えてきました。
その事を含め、気がついたことなど報告させていただきます。
◆今、自分がブログを書いていた主な動機を考えると、
「承認欲」からだと思えています。
「ブログを書いた」というだけなのですが、
これで他者から承認を得れるだろうという目論みの元で行動していました。
私が承認欲しさに行動し、そして他人から承認を手に入れたと思えているとき、
同時に、これで、その人からは恫喝や怒りを向けられる事は無いだろうと、思っています。
また、バカにされたり、恥ずかしい思いをしたり、
惨めな思いをすることはないだろうと、思っています。
思っているというよりも決め付けて、
最終的には安心が訪れるだろうという目論みの上で行動しています。
これでは、現実対処作用はゼロなのですが、
実際に発生している事態に手詰まりになっていること、
それ以上対処せずに済ませる為としても、
「こちらでは承認から安心を得ることはできなさそうだ、
では、ブログでも書いて承認と安心を入手できるようにしておこう。」
と、承認と安心の入手の為、ここでも関心をブログを書くという行動に
向けるということを行っていたのだと思えています。
このようにして入手できる承認も、安心も、完全に幻想だと思えます。
入手を他人に求めている上、
動機も、行動の結果も踏まえないと判断できないものを、
最初から、「入手できるもの」とだけしている点でです。
また、ブログを書く、そして、見る、という繰り返し動作と、
それに使う時間を通して、
現実に変化を起こす努力をする事から目を逸らし、
AC人格の要求を満たす為の関心の向け先のコントロールを肯定し、
定着させようとする行動だったのではと思えています。
この私の性質に決着が付くまでは、ブログを書く気になれません。
> 何度も私が関心地図で書くように言っている関心とは、
> 瞬間的な関心です。
> 関心地図をしているときに、聞こえたものへの反応、
> エロ動画でも見て自慰をしたいな、などと頭によぎるのもその対象です。
>
> ですから、関心が出てこないなどとは軽がるしく言わないほうがいいです。
> 関心というのは、まとまった思考や、いわゆる強めの関心を言うのではなく
> 一瞬のものであっても監視対象になります。
◆ご指摘ありがとうございます。
先週、掲示板の基幹坊さんの報告文を読んで、はっとしました。
今回のメールも読み、私の関心の汲み取り方が、根本的に間違っていたことを知りました。
熱い、寒い、身体の一部がこわばっているなど、身体の感覚に向いた関心や、
瞬間的な関心や弱い関心は、素通りさせ、
その時、未対処なゆえに、それについて思考し続けてしまうような関心や、
(部屋の整理整頓や、不用品処分など)
日中の比較的強い感情が伴う体験が思い浮かんだ時に、
それらを関心として、ノートに書きとめていました。
台所の蛇口が古く、閉め方が甘いと一定間隔毎に水がポタリと落ちるのですが、
その音を聞き、関心が向いたとしても、
「それは些細なことだ、関心を向けるべきではない。」として、
見過ごすようにしていました。
「水滴が落ちる音に関心が向いた」という事実を、
この事実には関心を向けるべきではないという思考に無自覚な故、
影響を受け、監察対象から外していました。
観察対象からの外し方も、
一度「これには関心を向けるべきではない」と設定すると、
状況問わず続け、時に積極的にさえ行い続けている。
これまで意識的に見過ごした関心は、
はたして幾つあるのだろうと思いました。
その中に、私が見るべきだった関心は、幾つあったのか?
さらに、「これが私の関心」だと選別しようとする行動や、
好奇心と勘違いして、関心を逸らせ、
それを肯定してきた行動をしてきた自分をみると、
今のままでは、人生最後の瞬間によくて後悔、
最悪な場合は無自覚なまま。
もゃ〜っとその時を過ごすだろうと思えます。
どちらの状態も断じて嫌です。
死の前に生きていたとは到底言えないような状態です。
今回ご指摘があったので気がつくことができましたが、
そもそも、関心の選別という行為に対して疑問を持たなかった私もおかしいと思います。
なぜ、関心を選別したり、ひょいひょいと変える必要があったのか?
そこに違和感があることを見過ごしていました。
>怒鳴る父親+
>そうならないように、動き回る母親の挙動、
>この母親の挙動のほうが、より強く感染して、
>現在の行動に影響していると思いますが、
> それを理解するには、
> 母親とその親についての掘り下げが足りないと思っていますので、
> そこをよく掘ってみてください。
◆まず、母親に対して思うのは、
自身が怒られたり、怒りを向けられるという事態を避ける為に、
相手に表面上は迎合し、やりすごす性質です。
その際、自身の意見があったとしても、言うことはせず、引っ込めてしまいます。
母親と言い争いというものも、した記憶がないのは、
結論が出ないままに、「そんなこともあるのよねぇ。」と表面上は迎合した後、
無関心になるか、「それは考えすぎ。」とそれ以上話を聞かない状態を作るか、
世間はではこう言っている、昔親からはこう言われた、
とりあえず話しを聞けと、自分の主張だけを通しまくるかでしたので、
私がなんだか、もやぁとしたまま、煙にまかれたようになっていると、
母は家事など、別のことに関心を向け、行動し始めるので、
つられて私も、それ以上言うのを止めてしまっていました。
また、自身の手を煩わせるような子供の行動には、
目を光らせている時がありました。
母が居間にいて、私が台所にいて、何かしようとすると、
「何やってんの!」と言ってきます。
私の視界には、母はおらず、
居間から直接私の姿は見えない場所なのに、
私の行動を見通しているかのようなタイミングで、何故か声だけ聞こえてくる。
まだ、何をするか決めたわけではなく、
ふらっと台所に行っただけなのに、何故か叱られる。
そんなことが繰り返されるので、私は台所に行くときには、
母が納得するような答え、牛乳飲んでくるなどを準備し、
姿の無い母の声が聞こえた時にはすぐさま返事するようになっていました。
後から気が付いたのですが、
母は居間から食器棚の戸のガラスを鏡の代わりにして私の行動を見ていたと知りました。
その事に気が付いてから、食器棚の戸をずらしてから台所に行くようにしたのですが、
今度は、「食器棚の戸をずらすな、元に戻しておいて!」と母は注意してきました。
これでは見守りではなく、「監視」だと思えます。
また、母親からの恫喝を回避する為、
毎回私が親を納得させる理由作りという行動は、
好奇心や関心探しの為の行動であっても、
親が納得するような理由がついてこなければならない
という思考パターンを無自覚に固定する作用があったと思えます。
子供がなにをしでかすかわからないという不安が母にあったにせよ、
はっきり言って、ほっておいて欲しかったです。
私は台所で、なにかを体験する為に行っているのですから、邪魔はして欲しくなかった。
私を監視した理由は、自分の手を煩わせるようなことを、
私がしないようにする為で、
私の為でなく、母自身の為だったと思えます。
◆この、子供を監視する性質は、母の母にもあったと思えます。
私が子供の頃、祖母といる時の印象は、
「この人は安心できない。」というものでした。
いちいち子供のすることに文句を言う、注意する。
大人しくしていると、何も言わない。
大きな不満は、朝ご飯のお味噌汁に、
だしの煮干がそのまま入っていることでした。
子供の味覚には、苦くまずい。
母の作る味とは少し違う味の味噌汁を食べていると、
味噌の味、じゃがいもの味、そして、なんだこれはとなる。
祖母に不満を言うと、「身体にいいんだから食べなさい!」となる。
母は黙っている。
その時は、不満ながらにそうなのかと思ってましたが、
数十年後の今、自分で味噌汁を作って思ったのは、
単に「手を抜いた」のではないか?と思えました。
だしを取ったあと、煮干を回収するのが面倒なので、
そのまま他の具材を入れ、仕上げてしまう。
もしも、そうならば、煮干丸ごと入りの味噌汁の理由は、
手間をかけない為だったのではないかと思えました。
あれこれ子供のすることに文句言う祖母の言動も、
事前に注意すれば子供の動作を抑制できるので、
結果、手を煩わせるような行動は減るだろうという目論みからくるものだと思えます。
手間がかからない、手を煩わせるような行動をしない子供。
これが母方で肯定されていた子供像だったと思えます。
この、祖母の性質と子供像は、母にも影響していると思えます。
私が母になにか相談をしても、
暫くすると家事に関心を向けて、未対応なまま終わってしまうように、
母も同じく祖母に対して、相談ができていなかったと思えます。
相談を行う以前に、
不満や、問題に対しての対処として、別のことに関心を向けなおすことで、
不満の原因は探しせず、問題そのものは見てみぬフリをして、
やりすごすというパターンが祖母の頃から肯定されていたと思えます。
心の中では、母は父に対して不満があったかもしれません。
しかし、それを黙っていたり、やりすごしているのでは、
肯定しているも同然でした。
今思えば、私の記憶の中にある成功体験なるものは、
「うまくやりすごせた。」というものばかりで、
決して、自分の興味から始まり、何かを成し遂げたということでは無いと、
気が付きました。
これらは成功体験でも、ましてや失敗体験でもなく、
未対処のまま、中途半端に終わらせてしまった体験の数々だと思えます。
しかも、動機も親に影響されており、
全然、私の体験ではない。
◆他人の関心を惹くことが、私の主な関心となっています。
これは、恫喝の回避の為、それでいいという他人からの承認を得たい為。
ひょいひょいと中途半端なままに関心を変えるのは、
関心を持つという動機が、自分の外にあるので、
他人の言動でいとも簡単に関心がぶれる。
その場をやり過ごすというのが、目的の関心なので、
場が変れば、関心も変る。
また、つまずいたという事実からの回避の為に、
関心を逸らせいるので、
つまずく度に関心を変える必要があったと思えます。
> 子供は父親が加害者であった場合に、それを回避する方法すら
> 自分では編み出すことは出来ませんので、
> 必ず、その方法も、母親を真似ることになりますから。
報告を書くまでは、関心コントロールは、
元からある自身の性質かもしれないと思っていましたが、これが大きな間違いでした。
事実そのようなことは微塵も無く、
母と父の間で、自身の存在を得ていく為に私が作り出した思考パターンだと知りました。
ここまで母に対して掘り出しが出来ていなかったのは、
特に母に対しては、現実での対応が甘かったのがいけなかったと思えます。
これまでは、一見私の為を思っての言葉にみえたので、
それに対して違和感があっても、「ありがとう。」と聞いてしまっていました。
しかし、先週いつもの言葉を、母からのメールで見たときには、
違和感がありました。
その言葉は、
「あなたは疲れているの。時にはパァっと気晴らしでもして。」
というものです。
その日の私は、自分で決めた、自分のやりたいことを一つやり終えた為、
疲れてはいましたが、満足もしていました。
ぶっ続けでしたいことをしていたので、体力的には確かに消耗はしていましたが、
同時に満足もしている。なのに、何故気分転換が必要なのか?
今の私の状況には必要の無い言葉、
現実にそぐわないアドバイスのようなもの。
違和感が出てきました。
そこで、掘っていくと、この言葉は私にとって、
一つのことを中途半端なままに終わらせ、
関心を別方向に向けさせる行動を肯定する、猛毒でした。
過去、私が何かについて悩んでいると、必ずこの言葉が出てきました。
何か相談しても、最後はこの言葉をかけられて終わっていました。
何かについて考えている私を、状況問わず勝手に疲れていると見た上、
悩みながらも、結論を導き出そうという、私の大事な作業を止めさせる。
母は、疲れている私を見たくないのか?
悩んでいる私を見たくないのか?
明るく、元気な私であってほしいのか?
だから、この言葉を私にかけたのか?
しかし、これらは違うと思います。
母は、単に、私に「手間をかけたくなかった」ので、
相談を持ちかけられるのを、未然に避けてきたのだと思えます。
相談されなければ、対処しなくても良い。
結果、手間がかからない。
まさしく母の思惑通りの人間になっていました。
そのくせ、私が勉強などしているとき、別のことを始めようとすると、
すぐさま「集中力が無い」とか言ってくる。
エピソードとして、このようなことがありました。
「昔、(小学校低学年の頃)お前は何かする時には集中力があった。
なのにどうして今(小学校高学年)は集中力が無くなっている。
あの時の集中力は何処へ行った。」
など、世間体の為都合よく私が動いたことは肯定し、
もう一度再現しろと言ってくる。
母自身に都合よく何かを続ける私は、肯定というよりも強制し、
母自身が何か対処するような状況になりそうな時は、
「疲れているから、気分転換しろ」と言い放ち別のことに関心を逸らせる。
ここでも、とてつもなく母にとって都合の良い人間になっている。
「お前を心配している」とかけてくる言葉ですが、
「母自身の心配の排除」だったようにしか思えません。
本当に、疲れている私を心配しているのなら、まず、どうして疲れているのか?
そこに問題はないのか?気分転換を提案する前に聞くべきだと思います。
だいたい、それが無いまま、気分転換しろというのは、
「私に問題振るな」と言っているようなものです。
そもそも、「お前は疲れている。」この言葉をかけてくることも疑問です。
何を根拠に私が今疲れていると見たのか。
実際のところ、私が疲れていようが、いまいが、母には関係ない。
「疲れている私」を必要としているのは、母自身ではないか。
疲れ、弱っている私を助けられるのは、母なのよと、
これまで、何度も助けてきたじゃないと、でしゃばる隙間を作る為、
私が疲れて弱っていることを必要としているのは、母自身ではないか。
私の為と言いながら、私の状況は把握しようとはぜず、
手間をかけさせるなと、別のことに関心を向けさせる。
手間かけたくないが動機なので、
そもそも私の話を聞く耳すら持たなかったのはその為かと思う。
「あなたは疲れているの。時にはパァっと気晴らしでもして。」
私を弱らせてから誘導するかのようにこの言葉を発する母、
その影で、「これで手間が省けた」とニヤリとしている母を思うと、
怒りが込み上げます。
母の都合で、私から考えるということを奪ったのだと思うと、
どうして最後まで考えさせてくれなかったのだ!邪魔をするな!と思います。
だいたい、その時私が何を考え、悩んでいるか、
母が聞いたこともなければ、私が具体的に言ったことも無い。
それなのに、考えるの止めろ、別の事考えろ、とは、
どれだけ自分のことしか考えていないのか。
母自身が手間かけて、疲れるのが嫌だから、
過去、幾度となく、私をねぎらっているフリして、
その言葉を発したのだなと思えます。
母に対して都合がよく、
手間がかからない人間作りをされているとはつゆ知らず、
無自覚なまま母の言葉に従っていた自分が悔しいです。
金輪際この言葉は聞くことはありません。
その影響を受けた行動と供に
殺していきます。
黒丸
_____________________________________
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(456 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
桜の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -