▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
■桜の間へようこそ■
掲示板
Title
「分割自我復元」
のサポート情報や最新報告を記載しています。
★「自我判定」や「禅書」の申し込み方法はこちらです★
【
ご依頼・ご注文の方法
】
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[479]
■
★分割自我復元★その479■ 戦争について思うこと ■
by:
鈴木崩残
2015/07/31(Fri)07:50:55
戦争について思うこと
●実はこれは「松の間」の投稿からの続きという形になります。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?M1230
しかしここは桜の間なので、この戦争について私が思ったことも、
一気に、飛躍した領域に視点が変わります。
戦争と平和について 多くの人々はただの一度も何年もかけて
「そもそもの定義」を試みたこともなければ、
では根絶するには人間の中から何を削除したり、
または追加すべきかを考えようとした事もない。
同様に愛についても一度も真剣に自問しないで、偏愛と混同したままだし
善悪についても、単に社会常識に準じているのみ。
実は、人を殺すのが戦争ではないにも関わらず。
たとえば人間がゴキブリを害虫とみなせば、
殺虫剤で彼らに戦争を仕掛けるわけである。
ところがゴキブリそれ自体は菌類を媒介することはあっても、
直接的に人間を刺したり攻撃する昆虫類ではない。
だがそれでも人は彼ら虫けらとして殺す。
一方で無農薬で栽培したい場合には害虫を食う生物を投入する
という形で殺し合いをさせるのである。
戦争の定義それ自体も、実は非常に困難を極めるのであり、
全ての事象は任意の特定の生物にとって、
何が苦であるかに寄るところが大きい。
戦争は、倫理や宗教の扱うべき問題ではないという事実が一つ。
次に戦争を虐殺ではなく「侵略」と定義すると、
死ぬまでこき使って出来るだけ働かせるということは侵略である。
戦争の定義を「邪魔者の抹殺」ではなく
「侵略」または「支配」をされる側とする側への分断と定義すると、
何の疑問も持たずに考える事なく、なんとなく気持ちよく働いて、
納税して死ぬ。
それを当事者の労働者がどう感じようが、
もしもそれを支配して「搾取する者」がいるとしたら、
それこそが戦争である。
たとえば農作物を害虫から守るために別の捕食者の生物を投入すると、
いかにもそれはエコに見えるが実は人間のご都合で
「これなら両方とも文句あるまい。これは自然だ」と言っているだけで
明らかに他の生物の食物連鎖に介入しており、
収穫率を上げるための支配をしており、侵略的である。
「自然に」と口では言いながら、
かなりの確率で他の生物を騙して使っているというところが、
人間の行動や産業には多い。
宇宙における生物が、生存能力を上げるという事は、
軍事力と詐欺力を向上させるという事であり、
それによって物理的に安定した生存は確保できるが、
時間が余ると必ず、繁殖しすぎて他を侵略することを繰り返す。
戦争という課題の定義をしようとすると、
とかく人間は「殺す側」の罪悪感、または正当事由の捏造に躍起になる。
が、そもそも「死ぬ」ことは悪い、という大前提が疑問なのである。
老衰や不治の病や事故死以外の死を悪いとする根拠は全く曖昧である。
戦死、自死、いずれもそれらを完全悪とする根拠がないからである。
人間は自分たちについて疑いを持つことが苦手で、
いつも自分たちが標準であったり当たり前であると思っている。
ところが死生観(正しくは死生実感)の点で言えば、
地球上で人間だけが精神異常と断言しても良いほど、
自分や自分が気に入っていたり、
自分が依存している他者の死によって混乱をする。
つまり、人間が生命を大事に思う心を、もしも持っていたと仮定しても
実際にはかなりの確率で人間以外の生命を軽んじており、
さらにもっと問題なのは、命が大切であるという思い込みが
本能以上に過剰な強迫神経症となっている点である。
他の自然界の生物は仲間または子供が死んでもすぐに忘れる特徴を持つ。
おそらく地球上では、
人間とその他何種類かの知的生物を除いては、
そもそもなぜ、肉体という衣を借りて、この世界を見て経験し、
それによって何を収穫したり持ち帰るか、
ということ(生存目的)を疑うこともなく知っているが故に、
人間ほど身体の乗り換えに深刻ではないようだ。
人間という立場から位相をずらして、
収穫者の立場になってみると事実の一端がよく見える。
たとえば仲のよさそうな動物の親子から子供を引き離して
別の生物に惨殺させた場合に、
殺された子供からとその母親から出る 悲しみの質量を10%とする。
しかし同じ事を人類に行うと質量は70%に跳ね上がる。
つまり人類と他の生物に優劣をつけるとすると、
他の生物よりも圧倒的に人類が勝っている点は、科学力でもなく支配力でもない。
それは 死を恐怖する能力と、
実際に、まだそこにはない危険でも「想像だけで恐怖する」。
つまり恐怖、不安、葛藤を自己生産するという点で、
他生物よりも群を抜いているのである。
今の地球人類がこの先、
遺伝子操作と元素合成の能力を獲得したら未来の人間が何をするか、
想像してみると良い。
彼らは必ず、地球外へと進出し、どこかの星を見つけて、
「人間の性質を持つが人間ではない生物」を合成してその惑星に投入するだろう。
自分たちに出来ない事を代行させたり実験の為にである。
つまり、ある程度の思考力と理解力は人間と等質だが、
人間の「命令には逆らわない生物」を作り出すだろう。
そして人間の身体や五感では適応できない惑星に、
その生物をおろして、労働や調査をさせるなどである。
必ず人類はそれをするだろう。
だとしたら、過去に私たちが、かつて、それをされた側の
被験者の合成生物であっても何も不思議ではない。
産みの親が自分に対してしたことを、
子供は必ず、自分の下の世代または、次元に対して行う癖があるからだ。
トーラス状の宇宙で、消えては沸いている宇宙で 何度も繰り返されてきた性である。
地球人だけではなく、多くの生物が路頭に迷っている。
何億年かけても心休まる自分たちの故郷が見つからずにいる。
だから、この千年以上が経過し 科学技術が進歩し、
その結果として多種の他の次元や宇宙の知性と、
当たり前に情報や物資を交換できる世界を経験したとしても、
それによって増加するのは「理解や安心」ではなく、
また「学習する喜び」ではなく、
そもそも、何の為に宇宙で生きているのか?という苦悶である。
一例として昔、ある星系でひとつの種族が分裂して、
9種類ほどの異なる属性を持つ生き物となり、
幾度も銀河系で対立戦争起こした。
その9つ(正しくは2種)の性質を、
地球の人間を通してバランスよく 調整しようとした時期があったが、
すべて失敗した。
つまり一度分裂したら元には戻らないのである。
地球だけではなく、多くの生物が外宇宙に進出する動機は、
実は生存圏の拡大や、好奇心からではない。
彼らも地球人と同様に不安が解消されず、
自分たちが「生じた故郷」を必死に探している。
その帰巣本能自体を外から利用する、また別の生物がいる。
帰還のルートとしては、
「宇宙の噴出孔」かまたは「吸収孔」に行くしかない。
ビックバンは存在せず、
トーラス状の宇宙の片方からは物質が噴出し、片方へは吸い込まれる、
そういうプラントがあると思えばいい。
出口と入り口の中間にある回路には、
全宇宙の生物や物質が経験した事の中から、微量の価値ある抽出物が送られる。
そうした抽出プラントが 無数にあって上位宇宙を形成する。
「利用価値」のない宇宙など造る馬鹿はいないし、
造られた側にいる者は常に「道具」として機能する。
自分たちが価値があると思っている物は、
利用者にとっては無価値だったり、その逆も真なり。
始まりは原初の自己喪失であり、
これ自体が重篤なエラーだったのに、
それを自己回復ゲームと思いたがる馬鹿も多い。
僅かに真実を語った者もいた。
「宇宙の創造は、悪い事として知られている」言ったのは一人はダグラスアダムス。
視点が不完全ながらもグノーシスもである。
失敗をした事が確実なのに、
何度も宇宙を作り変える物分りの悪い子供に、
「もうその遊びはやめなさい」と万物が警告できればこのゲームは終わるだろう。
宇宙に、もしもそれを支配する中心というものがあると仮定すると
私の中ではそれは、非常に頭の悪い子供に見える。
その子供は自分で考える事を放棄してしまい、
宇宙規模の人工知能を作って放置した。
すると、次々に起きる問題に対しても、
人工知性は場当たり的な解決法を講じたが、根本原因を考察しない。
宇宙は、本当に、とんだ火遊びをやらかしたと思う。
全く笑えないし、その過ちを正当化も出来ない。
宇宙の主体が「自分を忘れてみたい」と思ったことと
「あとでそれを思い出す」ことを試みたこと。
その為の唯一の手段が、
「宇宙が自分を自己分裂させること」だったわけである。
観察する側と観察される側への自己分裂。
しかし、そんな事をされたら、
作り出された万物は、休み無く自分が本来いるべきところにいない、
という潜在的な自己不安を長期に渡って抱えることになる。
しかも始末が悪いのはその不安が解消されないままに永続するほうが
オモチャのスペクトルが面白く動くと、
その子供が思い込んでしまい、それに付き合わされる万物が続くのである。
*********
子供が不幸を感じる原因というのは、親がロクでもない奴であるわけだが、
それは宇宙でも相似形である。
さて逆に、幸福とは何かという難題も出てくる。
死んでから、
「あなたはどんな良質の幸福感、感情、感覚を持ってこられましたか?」
と問われたら、99%の人は「すいません、やり直して来ます」になるだろう。
「死んで、前とは違う新しいものを何か持ってきたか?」と
番人に問われると、多く人々は 人生の記憶の中から、
必死に良き思い出の寄せ集めるのだが、
どれもが「前と同じじゃないかね?」
「そんな程度の幸福感だけだったのか」と冷たく言われ、
決して暖かくは迎えられない。
だがこれこそ落とし穴である。
つまりそれがトラップだというのは、
人間というのは死ぬと急速に記憶が薄れ、
言われる事をなんとなく鵜呑みにしてしまう。
すると、死んでから まるで自分が
「命じられた(自分で決めた)通りのものを 持ってこられなかった
駄目な奴なのでもう一回生まれないと」と 思い込んでしまう。
死んだ後というのは、
その人間の持つ思い込みによって 位相が異なるので一概には言えないのだが、
多くの人々は、死んだあとに、誰からも相手にされずに放置されると
「これからどうしたらいいのか、誰か、出てきて何か教えてほしい」
と思ってしまっている。
それゆえに待ってましたと 期待どおりの案内人が登場するのである。
どんな他者からの承認要求もなく、
また「自分は他人と違うんだ」と言いたいだけの、ゆがんだ自己主張でもなく、
他人から頼まれてでもなく、他人のためでもなく、
嘘偽りなく「自己決定」したという、その経験を多く持つは
「自分の経験は自分が意味づけをする」意志を持つので、
死後も他者を無視できる確率は高くなる。
そういうわけで、幸いにしてまだ生きているならば、
生きている間に 他人の意見、社会が言った事、親の言った事、
本から読んだだけの事、
また自分の経験を本に沿って意味づけをしてしまったもの、
そういったものを無条件にその「全部」を排して、
本当にこれは外からのものではないと言えるものを捉えられれば、
知識や経験の記憶には拠らない主体性が回復される。
*********
難しい話題だったので、最後は、動画で楽しんでください。
↓
_______________________________
★
.
返信 [479]
<<-- これ以前の投稿 10件
(479 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
桜の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -