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[480]
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★分割自我復元★その480■ 本の薦めと報告からの引用 ■
by:
鈴木崩残
2015/08/05(Wed)11:35:19
本の薦め
「日本を掘る」
●掲示板で私が皆さんに本を薦めるということは、めったにありません。
私自身が本よりも日々の体験を重視するためということもあります。
しかし、そんな中でも今までに、ほんの少しだけ本を薦めたことがあります。
ひとつは、
>「大往生したけりゃ医療とかかわるな」冬舎新書 中村 仁一 著
もうひとつは、
>「不幸にする親」人生を奪われる子供(ダン・ニューハース著)講談社
でした。
ひとつめは「身体」の次元のこと、ふたつめは、「心」の次元のことでした。
そして今回は「社会」の次元のことです。
●この季節には、戦争の問題がクローズアップする、
恒例の「年中行事」が行われるわけですが、
以下の本を読まずしては、戦争に反対するにしても妥協するにしても、
何も始まらないと私は思ったからです。
最近は、都市部その他でも、皆さんも、
俗称「戦争法案」に反するプラカードを持った人たちを見かけると思います。
●私自身、長年、たぶんこうではないかと、もやもやとしたものが、
一気に、一直線上に並んで整理されたということもあり、
この本をお勧めします。
●ただし、読めば読むほどに、落ち込むことになることは覚悟してください。
この本は、いわば、「日本という国のトラウマ」を掘るような本です。
トラウマを掘るということは、当然、痛みの連続です。
それでも、事実を認識して、どうすればいいのかを考えるという
今まで皆さんが、自分個人に対して行ったこととほぼ同じことを
「自分が住む国」をひとつのAC人格として捉えるということになります。
●ただし、(私もそうですが)、知識がなかったり、理解するのに
時間がかかる部分もありますから、2度、3度と読む必要がありそうです。
ただ、この本は、男女関係なく、読んでおいて損はないと思います。
私がこの本を薦める理由は、知識として知って、
斜に構えて、知ったかぶりを他人に対してする、
そこらじゅうに転がっているAC人格に、餌を提供するためではありません。
知ったところでどうにもならないが、現状を知った上で、
自分ならば、どうしたらいいと考えるのか、
どうしたいのか、という難題に、個人で立ち向かうためです。
誰かと論議をして、他人を馬鹿にして偉ぶりたいだけの、
AC人格の論理武装の道具ではないのです。
●この本を読むと、ある意味で、トラウマとAC人格のこと、
あるいは「毒親」についての理解すらも、関係してくる面があります。
勝手に一方的に支配して、押し付けておきながら、
「お前が自分で決めたんだからな」という態度(洗脳)をした、
Abyさんの父親が、どこか米国政府(GHQ)と被ってしまいました。
もしもマディアさんが前世で米国の空軍兵だったとしたらば、
かつて所属していたアメリカがどれだけ「侵略のプロ」だったか
ということの理解になるかもしれません。
この本は「どうしたらいいか、という答え」を与えることはありません。
確実にわかっている戦後の事実、現実を羅列し、
現状を理解するのには役立ちます。
そういう意味では、自分が住むこの「一国を対象」とした、
トラウマ掘り、AC人格分析に該当します。
しかし、どうやったらAC人格的になった日本を解除できるのか
それは答えはありません。
ですから、「自分で考える」という題材のひとつになります。
報告からの引用
●ここ数日、自我判定のご依頼や、報告が数件ありますが、
いつものように、すべて、二度は目を通しています。
仮に私から返信がなくとも、しっかりと読ませて頂いております。
その中から少し、引用させていただきました。
*********
鈴木 崩残様
お久しぶりでございます。
朱いはがねです。
大変、暑い日が、お住まいの場所でも続いている事と思っております。
そんな、厳しい暑さの中、私のメールを読んでいただく事、
大変ありがたく思い、書かせてもらいます。
今回、メールを書こうと思った、動機は
私の現在の状況について、崩残先生に少し報告させて頂きたいと思ったからです。
どうか、しばらくの間、私の文に付き合っていただく事、
勝手ながら、お願い申し上げます。
中略
しかし、それは、
何かや誰かの上か下に自分と置いて、他人を利用して、自分を捨て、
楽に生きる事を目的とするAC人格の誘惑でした。
しかも、それは一生を親の言いなりのまま生きるという最悪の選択でした。
このあたりの、お金に対する自分の価値観や、お金の稼ぎ方、
お金がどういった影響を自分に対して与えるのかという事を
私は、もっと注意して生きていかなければ、どこかで油断してしまい
親の真似の様なことをして、自分を見失うと思いました。
実際に、私の商売に対する考え方は、父に仕込まれており、
父親そっくりであり、その考えに対して私は違和感をあまり感じれずに
生きていることに気が付きました。
そして、そういった父の様なお金の稼ぎ方をすれば、
父のようになってしまう可能性すらあると私は感じています。
これらの事に関しては、また掘りや考察が必要になると思っております。
中略
また、自我復元のカリキュラムについてになりますが、
私は、18歳以降のトラウマ掘りに関して深く手をつけていないので
それをやって行きたいと思っております。
これも、幼少期を結構やったと自分で思えたので、
「やらなくても良いのかもしれない」、「それよりも他の問題に取り組まなくては」と
迷ったのですが、やっぱりやるべきだと思っております。
幼少期から現在まで、いったい自分はどう生きてきたのか
それを、やはりはっきりと自分に突きつけ
不快年表まで書き上げたいと思っております。
中略
関心地図の重要性に改めて気が付き、この作業に本腰が入り始めました。
そして、関心地図を続けることによって、自分が今ここに居るという感覚を
意図的に、感じるようにすることがしやすくなってから、
自分を感じ続けたまま、生きるという事が少しずつ出来るようになってきました。
そうなる事によって、他人に対して恐怖が沸き出る場面でも
その恐怖に負けずに、人と接するという事が出来るようになったというか
そうするように自分を操縦する事ができるようになってきました。
また、そうなってくると、本当に小さな出来事の中でも、
自分が恐らくトラウマによって憶えてしまった、恐怖や焦りと言った類の感情に、
しょっちゅう負けてしまい、それに突き動かされているという事を
よく感じるようになりました。
そして、
そういった、小さなことでも一つ一つ、最低でも自分が不在のままでは、
終わらせないように、気をつけています。
不要な対人恐怖が沸いて、「はっ」と気が付いとすれば、
そのときから生きるしか無い訳で、そこで自分を感じるように自分を燃え上がらせて、
AC人格がそこで一気に消え去って解除されるという様な都合の良い期待はせずに
逆に、AC人格と感じる内面の気持ち悪い部分を消さないように、捕まえて、
そこに、居れるものなら居てみろと言うぐらいの気持ちで、それと対峙するようにして、
AC人格だけだった今までとは違うということを、態度で示すようにしています。
そして、AC人格を引き吊り回すような形で、その恐怖に負けない自分を押し進め、
そこで現実にする。
その繰り返しが、AC人格解除に繋がるのではないかと私は思っています。
そして、それが
自分が感じた事から、一歩を踏み出すということなのだと解り始めました。
こういった行動で人生を塗り替えていくのが現在の私の最大の課題であります。
その為に、必要である、関心地図、自我復元、トラウマ掘りを
教えてくださった、崩残先生には本当に感謝いたしております。
ありがとうございます。
まだまだ、私は自分だと思い込んでいる言葉や妄想に振り回されている
狂人状態でありますが、焦らず、油断せずに、最後までやり遂げようと決心しております。
その際、崩残先生にはご迷惑をおかけする事もあるかもしれませんが
どうか、よろしくお願いいたします。
まだまだ、暑い日が続きますので熱中症など、お体に気をつけて下さい。
また、
いつも大変おいしそうな料理を作っていらっしゃる砂手さんや
博士君にもよろしくお伝え下さい。
朱いはがね
*********
自我復元の報告13
狂っているように暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか?
前回の報告から3ヶ月くらいたちました。
引き続き、自我復元の呼びかけや、トラウマ堀りや、
感情に蓋をしないことを意識して生活してきました。
中略
そして生活している中で、明確なきっかけは思いつかないが、
しかし明確な回答が自然にふとあらわれた。
「自由になりたいんだ」
「もっと自由に、叫び、歌い、喜び、苦悩したいんだ」
と。
そしてこの「自由」を恐怖という垣根で蔑んでいるのが、父母だと分かった。
中略
思い出した。
携帯電話が一般的でない時代に、母は私に女性から電話が自宅にかかると、
わざと私の部屋の前を掃除機で大きな音をたてながら掃除をしたり、
電話の親機のボタンを拭き掃除をしながら押したりして、妨害をした。
異常だった。母の異常性は分かっていたから、私は恋人を母に会わせたことはなかった。
もっとも今考えると、こうして恋人を母に会わせないという、
自分にとっての「防衛」のつもりの行動も、
すでに母に洗脳されていた結果の行動だった。
母にとって私は所有物もしくは、奴隷もしくはペットであり、
奴隷が恋人ができて幸せになることを好ましいと思わなかったからだ。
サディスティックな部分。
それは恋愛も含めて、
私の自由に表に出せない気持ちが屈折した形であらわれものじゃないか。
自分の支配欲だと思っていたサディスティックな部分は、
実際には自分が父母によって支配欲され拘束された自分が、
屈折した形であらわれたものだと確信した。
表に出せない感情は、屈折した形で、思考や性癖にあらわれるのだ。
中略
書いていて思ったのだが、
私は「勝ち気がない」また「人がこうなっているから、私もなりたい」という気が薄い。
それは、書いているこの瞬間まで「平和的な」もしくは「人と比べない」という
私自身の長所であると思っていた。
でも違う。現実には逃げているだけなんだ。
この逃げる感覚はどこからきたのか?
中略
親から暴力と、一方で親への依存。
この2つを使って、私は調教されてきた。
親から見て、私は自分たちの庇護なかにいて、
無理を言ったり、とっぴなことを選ばないで、
自分たちの気分を害することのない良い子だっただろう。
だから、私の行動の実行の実行基準は
「親の機嫌を損なわないこと、親の庇護のなかにいること」になった。
そして、人と摩擦が生じることを怖がり、人に依存するために、
現実世界では人とできるだけ争わない、人に助けてもらいやすい、
平和的な人格を演じてきた。
そんな中で、私は自分の手で何かを掴み取らない、
依存性のある甘えん坊将軍になった。
だから、なんとなく大学にいき、なんとなく就職した。
金銭的に独立した今でも本質的なところは変わらない。
だから「嫉妬」=「悪」なのだ。
人と比べることが悪いことだと思っていたのだ。
「嫉妬」をもっと感じよう。
そして考えよう。
私は「いつ」「どこで」「誰に対し」「何を」「なぜ」「どのように」
嫉妬したのか?
そして、嫉妬に付随し、近い理由で蓋をしていた感情たち、
めんどくさい、苦しいことをしたくない、人に勝ちたい、
そういった感情も機会があれば味わい尽くしてやりたい。
この頃から、自分が負の感情だと決めつけていた、
嫉妬とか、面倒くさい、怒り、不安、こんな感情が生じて、
正面に向き合って感じることが気持よくなってきた。
こうして湧き上がる感情を感じることに、
変化があって少し日にちがたったころだった。
普段の生活では、自分の内面の感情豊かになったのはもちろんのこと、
対人のコミュニケーションの感情も豊かになってきたし、
何よりも、自然とそういった感情がわきあがるようになってきた。
意識をしなくても感情を出せるようになってきたし、
また感情を否定したり蓋をすることもなくなった。
これまでは、AC人格からの脱却というテーマのもとに、
自分の心に常に意識を置いているようにした。
そうでないと、感情を出さないでトラブルをただ避けようとしたり、
トラブルによる自分の心が不安になることから逃げようとしている自分がでてきて、
元に戻ろうとしていた。
しかし、元の自分に戻ろうとする心の動きがあらわれなくなった。
理由は、むしろ、そうした感情を意識的に隠そうとする自分が
違和感を感じるようになってきたからだ。
もちろん、こうした感情は喜怒哀楽の喜楽だけでなくて、
努哀のような感情もある。
中略
それでも、そうした負の感情も私の中で認めている。
というか勝手に私が一部の感情に「負の感情」レッテル貼りしていた。
そうした負の感情も認めて無理に隠そうとしなかったり、
以前よりも負の感情が起きた時に、
それに囚われなくなっている自分をハッキリと認識している。
感情を出したほうが、むしろ自分の感情に囚われないとはおもしろいものだ。
そうした中で、自分の意識の隔壁というものをすごく感じるようになった。
自我の隔壁だろうか。
ともかく他人と私をハッキリと意識の面で壁のように分け隔て、
自分、もしくは自我があるということを感じるようなった。
とりあえず「自我の隔壁」と呼ぶが、この自我の隔壁は、
意識や存在の面で私と他人との区分けをハッキリ行う。
しかしながら、自我復元をする前のような、
不安神経症のような孤独感をとはまったく違うものだ。
この自我の隔壁を感じるようになって、
私はより自分の感情に気づくようになった。
また、特に、他人の何かによって自分の存在価値や、
自分がこの世界にいるんだという感覚を得ようとしてしていた自分に気づき、
そうした行為に興味が急に薄らいだ。
具体的には、あれほど好きだった***や***や***のドラマ。
なんかこういったものが、自分以外のもので気を紛らわしたり、
自分に向けられる注意力がそういったものへ触れる時間が
不快に感じてしまうようになった。
ネットもそうで、目的があってするときはいいが、
ただ漠然と時間つぶしすることがとても不快なものへと変わってきた。
また、他人の何か、例えば私や、
他の人への悪口や、ねたみなどを聞きながらも、どこかそれは、
私以外の人がいってること。
という、いい意味での私と他の人の距離感を感じている私がいる。
また、これまで政治の話をするときなど、自分と反対な意見をいう人に対して、
心のなかでフツフツとわきあがるような怒りがあったときも、
今は落ち着いて見ている自分がいる。
おもしろいことに、他の人との「自我の隔壁」というべきものを感じるが、
他の人に対して以前よりも余裕をもって、ある意味優しい視線で見ている私もいることだ。
もっとも顕著なのが私の職場で、これまで
「なんやこの奴らめ」という虫ケラを扱うような感覚でいた私が、
1人の人間として彼を見ている私がいる。
人間として見たうえで、この人はこんな点が問題だなという視点で
彼を見ている私がいる。
中略
それは父に対しても同じで、ただ恨みの対象として見ていた自分が、
同じような視線で父を見れているのです。
中略
どのような恐怖からの行動にしても、
その行動はその人の独自の行動と言えるのだろうか?言えないと思う。
崩残様がよくいう「個性」とはこういった恐怖から生まれた行動ではなく、
その人の中から純粋に生まれたものを言っているだと思う。
先の私が***や***や***のドラマに興味を持たなくなったり、
人の悪口やねたみに過剰反応しなくなったも、
政治の話で頭に血が上らなくなったのも、***しても動揺しないのも、
それは、そうした恐怖が薄まってきた結果だと報告をまとめながら思う。
純粋な感情はどのような感情でも美しい。
それは思考よりも、ずっと美しい。
純粋な感情から起きた行動は100%の自分でやろうと自然と思う。
私はそう思う。
杏樹
***************************
子供の感情(=当たり前の喜怒哀楽や、拒否や共感)を
とことん制圧することで、毒親は毒親のポジションを保てたのですから、
その感情を少しずつでも、対人関係や、個人の中で開放してゆくこと、
それが「AC人格の解除」という意味です。
感情の開放とは、AC人格に由来する、捩れた感情のことではありませんし、
ただのわがままや、ひねくれた感情を出すということではありません。
その違いは、トラウマを本当に分析した人でないとわかりませんし、
何よりも、やり方を間違えば、長続きせず、
自分が変わってゆく実感が決してありません。
●くれぐれも、次の原則を、よく認識してください。
毒親は「言葉」や「理屈」で子供を躾けたり、洗脳したのではありません。
子供の「思考」をコントロールしたのではないのです。
毒親は、子供を怖がらせ、おびえさせたのですから、
それは、子供だったあなたの「感情」をもて遊び、利用したのです。
だから今の大人の頭で、いくらトラウマとAC人格を理解しつくしても、
その先に行くには、頭による分析「だけ」ではどうにもならないのです。
毒親に操作されたのは、思考ではなくて、「感情」なのですから。
恐怖や、服従しなければならないような罪悪感や、さまざまな感情を、
子供の中に生じるための、その「手段」として、
叩く、怒鳴る、閉じ込める、暗に言葉で脅迫する、
ということを毒親はしたのですから。
毒親の目的は子供の思考をどうするか、なのではなくて、
子供にどんな感情を植え付けるか、これこそが毒親の目的だったので、
言葉でやっても、暴力でやっても、感情さえ動かせれば成功なのです。
また、その多くは、最初は子供の感情を操作して、子供を怯えさせますが、
最後には、その「怯えの感情すら出さなくなる」という形で調教されます。
これこそが毒親の最終目的です。
●怒りや拒否や、恐怖の感情をまず子供に感じさせ、
子供は最初は、その感情を外に出す。
そして、子供が恐怖したことを確認したあとは、
今度は、「その感情は迷惑だから、出すな」と命じて、
感情を出さないで我慢さえすれば、
「脅されたり、怒鳴られないで済む」ということを子供が自己学習し、
感情があるのに、それをないふりをして、やりすごし、
その結果として、
完全に心が病む = 楽しめない = 目的がわからない = 不幸になる、
これこそ、自分自身が不幸や不満の塊である毒親が、
子供を同じく不幸にすることで、
「親が自分の親への呪いを(子供へと)向ける」
という「代理復讐」の構造であることは、幾度も説明してきました。
だからこそ、自我復元の中でのトラウマ掘りでは、
あなたの「親とその親との関係がどうだったのか?」を、
なんとかして調べる必要があるのです。
●このトラウマ、AC問題に対しては、
最初から最後まで、私は「感情」を元の正常な状態に戻すことと言っています。
これはオカルトでもなければ魔術でもなく、
精神世界でも、瞑想でも、ありません。
それらのどれよりも重要なものです。
なぜならば、よく考えてください。
家庭環境や社会環境にもよりますが、
少なくとも、皆さんは、知識や、ただの情報だけに関してならば、
ネットによって、いくらでも、自由に思考することはできます。
たいした深い思考はできなくとも、
自分勝手な妄想にあけくれる自由ぐらいはあります。
頭の中に、ゴミくずを詰め込んで、妄想して引きこもる自由はあるのに、
ところが、みなさんが、生まれたときから、
徹底して自由を奪われたものがあります。
それが「感情」を、リアルの世界で、
自由に、両親や、兄弟姉妹や、他人に向けることです。
この場合、「リアルの世界で」という点が最も重要です。
ネットでいくら他者に感情をぶつけても無意味です。
そこに利害関係があり、金銭面での依存関係などがあり、
自分の生命や財産に直接に関係する、
「家族や職場の同僚などの、リアルな身近の他者」へ感情を向ける
ということをしないと、
「子供の時に置かれていた状況」との接点が失われてしまいます。
自分が感情を出せば、その時点で、リアルの環境では、
争いやトラブルが絶対に生じて、自分が不利益をこうむる。
それを覚悟した上で、自分の感情に嘘をつかないように戦い抜く。
それが、生き延びることだけを目的にしてきた、
ずるい毒親と同じにならない方法です。
その、無謀に見える感情戦争の積み重ねによって、
感情は、その本来の役目を自覚して、収まるところに収まります。
●本来は、感情のままに振舞うことが、全面的に許されるべきだった、
子供のころの「たった数年間」、そここそが、重大な分岐点だったのです。
極論を言えば、
小学生6年ぐらいまでは、なんなら、感情だけで生きていてもいいのです。
なぜならば、子供が唯一、親やその周囲の社会に対して武器にできるのは、
感情だけだったのですから。
逆に、親に対して、
理屈や正論で勝とうとした小学生とかは、必ずAC人格になります。
せっかくの唯一の武器である感情の代わりに、言葉や理屈で武装すると、
それを悪用してきた毒親と、そっくり似た人格になってしまうのです。
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