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★分割自我復元★その485■ 死んだ後の軌道 ■
by:
鈴木崩残
2015/08/19(Wed)12:58:58
死んだ後の軌道
●あまり気が向かないままに、書き始めています。
書く内容の軸がまだ完全に、固まっていないからです。
しかしこのまま書いてみます。
●死後に世界については、あれこれの推測というか、
その体験談の事例を集めた書籍類が世間に出回ったせいで、
いわゆる宗教みたいな「推測」ではなく、
「統計」または「類似する症状」みたいな扱いになっています。
共通項がいくつかあるために、荒唐無稽な、
(または象徴を解かないとならない)宗教よりはずっと扱いやすいです。
●ところが、死後の問題については、ブラックボックスや疑問点があります。
まず、死後について私たちが知ることのできるのは、
「臨死体験談」か「前世記憶談」か、
そのどちらかのベクトルの他者の体験談になります。
ところが、医学的に数分間(長いと30分)死んでいる状態から蘇生した場合、
その人が果たして死後の世界に本当に意識を突っ込んだのか、
本当のところはわかりません。
肉体が本格的に崩壊してしまったあとに戻ってきた人はいないわけですから。
ここでよく登場するのが、臨死体験における脳内変異説、
つまり脳が作り出す幻想ということですが、
これについては、以前に紹介した、彗星探索家の木内氏は、
「あるところまでは、脳内の働きにより、あるところからは死後ではないか」
といったことを言っていましたね。
●臨死体験者は、すべて生き返っているという点で、
その体験の全部を仮にここでは、「単なる脳内幻想」だったと仮定してみます。
すると、残るのは、
その逆の方向である、自分の「誕生前の記憶」を持っていた場合です。
これをさかのぼると、通常は自分が前にどのように死んで、
その次にどのような世界を経験して、どういう経緯で現在の生を選択して
生まれる場所(土地や親や環境や時代)を選択したのか、
ということが記憶されていてもいいようなものですが、
前の生で死んだところまでは覚えていても、
そのあとにやりかわされたことの記憶は、せいぜい、
「そろそろ、また生まれたらどうか?」といった余計なことをいう、
何者かがそこにいた、といった程度の話しかありません。
●私個人は、この問題については、臨死体験者の言うことよりも、
むしろ、前世の記憶を持つ人たちの言い分を集めてみたのですが、
どうも、その中間の部分がかなり不明確です。
●ロバートモンローの本の場合にも、
「契約に合意した」その次には、「強烈に圧縮される」ということしか
書いてありません。
これは図にすれば、細長いラッパのような円錐形の管を、
「どちらから入るか」の違いです。
生まれるときには、広い口から狭い口へ、
死んだときには、狭い口から広い口へ、
だから死んだときには、多くの人たちが、広がる開放感と錯覚する。
この管が、「トンネル」として経験されるものであろうということです。
ここでの疑問は簡単です。
>誰が何のためにトンネルを作ったか?です
>次の疑問は、トンネルの先にある領域を誰が何のために作ったか?です。
●死んだ後を経験したと説明する人たちのうち、何パーセントかは、
そこでは、思ったことは何でも実現すると語ります。
(本人の主観の中ではという意味です)
すると、思ったことが何でも実現する、そういう世界にいたらば、
いくら願望を投射して、ものを作ったり、経験を再現しても、
いずれは飽きてしまい、退屈し、
早い話が、
死後の世界が「ネタ切れになる」という話は、
もっともありきたりで説得力のない説明にすぎません。
●死後の世界で、思うことが何でも実現したとしても、
その楽しむ題材そのものがネタ切れになったときには、
「思うようにいかない世界」へ行けば、また新しいネタが手に入る、
よってだから、人は、この制限された世界と、あの世とを往復している、
そういうゲームだという、ありきたりな信念体系。
私はこの信念体系を、もっとも稚拙で非知性的な信仰であると思っています。
まったく人間の生、または生物の生について、
何の説明にもなっていないのに、物事を考えない人たちが
簡単に納得しそうな信念体系だからです。
●もしもこの、信念体系(=ネタ集めとしての地球生活または三次元生活)
を信じようとしても、多くの人たちは、翌日目が覚めて、
理解のない家族の顔を見たり、出社すれば、あっと言う間に、
「くそ面白くもないもの」に囲まれてしまい、
「前とは違う新しい経験を持ってきなさい」と言われたと頭で信じようとしても、
繰り返し、その日も次の日も、同じことを続けるだけに留まります。
●また、この「死後の世界を創造するための、ネタ集めの為に地上での人生がある」
とする信念体系は、同時に、「一人でも経験すれば、それは共有できるものになる」
という特徴も持っています。
この点を多くの人が見落とすのですが、
たとえば、何かの料理を食べたときの「美味い」という経験の記憶、
これは、たったひとつあれば、それを向こうにいる無数の意識が
まったく同じように経験できるシステムがあります。
検閲を通るか通らないで、そのまま記憶されているかはわかりませんが、
たいたいの「人間が体験した内容のデータ」は揃っているはずです。
●つまり、誰か一人でも経験したことは多数も経験できる、
ということは、「他者のとは違う新しい経験を持って来いや」
というコマンドで動かされることになります。
すると、たとえば、この時代に、時代錯誤な武術とかやっている人は、
死んだら思いっきり馬鹿にされます。
それが体の体操程度ならば無害ですが、それを過去の武術家の経験したことを経験したい
などとやって時間をつぶして死んだ場合には、
「お前のやっていたようなことは、実際に過去に殺し合いで戦った人たちの
腐るほどの同じ記憶があるので、まったく何の価値もない。
なぜ、そんな中途半端なものではなくて、
まったく新しい経験をしてこなかったのだ?」と、責められるのみです。
同じことは、宗教的な体系や修行や、あるいは享楽的な生活でも同じです。
他人と同じことなど、経験する必要はなく、
体験ソフトを共有できるデータベースに、新しく付け加えられるものだけが価値を持ちます。
●つまり、過去の人たちが残したものに追従する、または追経験する
というコンセプトはまったく評価されず、
「誰も経験をしたことのない体験」そのものを、死後の世界には持ってこい、
というわけです。
できなかったならば、戻って、やり直してきな、となります。
*********
●前述したような信念体系を裏付けるひとつの傾向が、
「臨死体験」または「OOEB体験談」にはあります。
それは肉体を離れたあとに、肉体と同じアウトラインを持っている身体の、
その次の段階では、形がなくなり意識と、
ある程度の個性的傾向が残ったパーソナリティーがあるわけですが、
肉体に相当する知覚器官がないにもかかわらず、
なぜ、人間として生きていたときと似た、視覚、聴覚、味覚、臭覚、触感、
これらの五感によって経験される世界が安定しているかです。
●たとえば、死んだあとに、
昆虫や鳥類や、両生類の視覚で世界を見てもいいわけですし、
なんならば、別の星の知的生物の感覚でその世界を認識する自由もあるはずです。
ところが、臨死体験またはOOBE経験者は(特に臨死体験に多いですが)、
判で押したように、そこに「ないはずの人間の五感」で知覚しています。
時には視界は360度になったりもするようですが、いずれにしても
焦点の合い方も見え方も人間だったときの視覚です。
●これが意味するところは、
死んだあと、またはOOBEで経験される世界は、
>この地上で生きた人たちの経験のデータそのものでできている、
ということです。
「できている」のですから、死後の経験をする人たちは、
その「誰かが作った共同イメージの空間」に、ほぼ自動的に移行してしまう、
ということです。
実際には、
>軌道変更、停止、休息、質問、熟考などが可能であるにもかかわらず、
>せかされるように、次の生を選択している人たちがほとんどのようです。
その場合の次の生とは、何も、もう一度人間をやることばかりではないですが、
>選択肢は、すでに何者かによって「用意されている」
>というところが、非常にありきたりなストーリーになっています。
●いずれにしても、五感がないはずの経験空間で五感が「再現されている」
ということは、その領域は、死んだ皆さん個人が、それぞれの主観で
作った幻想ではなくて、
「集団の記憶を元にして作られた知覚システム」であるといえます。
ところが、この知覚システムルールには「古すぎる」ものが多くあります。
現代では使えないものがあるということです。
*********
●一例として、死後の「ストーリー」の典型的な事例は以下のようなもので、
これは、夢に主観が混ざるのと同じように、
宗教や国民性で、多少のアレンジが加わるものの、
大筋では、特定の民族や宗教とは、関係ないものになっています。
*********
1、自分の死の宣告が聞こえる
2、これまで経験したことがないような穏やかで愉快な感覚に包まれる
3、不思議な声が聞こえる。中には美しいメロディーという人も
4、突然暗いトンネルの中に引っ張られる
5、魂が肉体から離脱し、外部から自分の身体を観察する
6、懸命に自らの苦境を他人に訴えるが、誰にも聞こえない
7、時間の感覚がなくなる
8、視覚や聴覚が非常に敏感になる
9、強烈な孤独感に襲われる
10、周囲に様々な“人”が現れる
11、「光の存在」と出会う
12、自分の一生が走馬灯のように映し出される
13、先に進むことを遮られる
14、蘇生する
これ以外に、そこの世界にいる者とは、言葉によらず意思の疎通ができるとか、
あるいは、何でも創造することができるといった経験も多くあります。
また、こうしたデータもあります。
↓
http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/kaiki2/120rinsitaiken.htm
●これらを見て、皆さんも、すぐに不信感を持つはずです。
「話が出来すぎている」
「誰かが、すでに体験のコースのレールを敷いたのではないか」
「ストーリーが大雑把すぎて、かつ、要素が何かしら古い気がする」
「個性があるのに、どうして人それぞれのユニークな主観の世界が展開せず、
型にはまっているのか?」
●言うまでもなく、これは、皆さん自身が「同意」はしたのかもしれませんが、
「皆さん自身の手で作った世界ではない」ということです。
自分で作ったのではない、ということは、
自分の思うようにならない「ルール」もそこにあるということです。
●多くの人は、臨死体験者の話を集めて総合してみると、
なんだか、変な学校か、学習システムか、
何かの倫理的な基準のある試験に放り込まれている
といった不快感を持つ人もいると思います。
●しかし逆にいうと、もしも死んだあとに、
すべてが自分の記憶だけでしか作れないとなると、
すぐさま、ネタ切れになってしまうでしょうから、
こうした「共同幻想」の必要性は、私は、わからなくはありません。
●ただ、自我復元というものを私が提唱した動機は、
このよくあるシステムから、軌道をずらすためでした。
普通の転生のシステムに絡めとられずに、行き先の軌道をずらす方法は、
いくつかあります。
臨死体験者であれ、OOBE経験者であれ、
唯一「一環」していることがあります。
それは、どんな経験内容の世界に自分を投じるのであっても、
>必ず事前に「同意」が確認されていることです。
ということは、「拒否権」があるということですが、
死んだあとに、多くの人は、拒否権を使うことすら忘れてしまい、
その場の至福感や、安心感、または恐怖、などによって、
そこで説明者の形として現れる対象が言って来る内容に、
いとも簡単に「同意」してしまいます。
それは、まるで毒親の言うことを、ほいほい鵜呑みにしている子供
というぐらいに、まったく手も足も出ないような状態ですらあります。
もっと悪くいえば、臨死体験者が経験する何もかもが、
まるで、家畜や農作物が、プラントを移動したり、通過したり、
精製されるプロセスを、たまたま、人間をやっていた人たちには、
抵抗すべきものと感じられないように、されており、
作物や家畜が、彼らの仕事の邪魔をしないでくれるように作った、
麻酔的な幻想である、と言うこともできます。
*********
休憩所を作れるか?
●半世紀ほど、この時代の地球の日本に生まれてみて、
もうすぐ、自分のすべきことも終わるという時期にきて、
私が、人間を生きた人たちにとって、最も必要だと思ったのは、
>「休息所」です。
急かされるように、次のプラントに運ばれるのではなくて、
いったん、死後の世界を作っているシステムと遮断して、
>好きなだけ休息をとり
>じっくりと熟考する機会を持つ
>その際に、地球上の人たちの経験のデータに加えて、
>選択枝として、別の次元や宇宙の経験データも閲覧可能にしておく
すなわち、どういう生き方や死に方をした人であれ、
こと自我復元をちゃんとやってきた人たちだけに限っては、
「まず、時間制限なしに、休息できるシステム」
これを構築するか、またはどこかに仮設できないかということを
昨年あたりから考えていました。
●それを、
太陽の中に作るか、シリウスに作るか、それとも銀河系の渦の中心部に作るか、
または、そこを借りられるか、ということを本気で考えていました。
またはそういう隔離された休息施設は、
既にもうどこかに作られている可能性もあります。
自我復元をしている人たちは、とりあえず日本人ですから、
日本人が安心できるようなデザインの建物や室内にして、
個人が個室をあてがわれて、そこで無際限に休みをとれるシステムです。
室内はたとえ8畳ほどでも、中に入れば、
山脈ひとつ作り出すことも、惑星ひとつ作り出すこともできますので、
空間は無限で、時間も関係ありません。
やりたい放題の部屋です。
ただし、目的は、やりたい放題をすることではなく、また、
うんざりして、人の人生に疲れてしまった魂のリハビリでもありません。
リハビリというのは、休んだら、とっとと次に行ってこい、
というシステムですから、それでは休息ではないのです。
●そうではなく、無限の時間を、何もかもに「無関心」で過ごすもよし、
いろいろな地球の他の人たちのしてきた経験で、自分が経験していないものを、
バーチャルで経験するもよし、また別の異世界を経験するもよし、
そうやって、まずは「自己選択の自由」を獲得するということです。
●最初はこれは、死後の世界のある座標の中に、
私がおおまかに設計して、パスワードを決めて、
自我復元をしている人だけに通行許可を与えようと思いました。
休憩と熟考が目的ではない、あれこれのしたい欲望をもった人や、
ようするに、他人に認めてほしいとか、
かまってほしいだけの人などが、この施設を利用できないようにです。
●しかし、このようなものを何も私が、何者かと共同で作り出さなくとも、
一人の人間が死んだときに、自分ひとりで、そうしたものを作ればいい、
というのが現在の結論です。
やりかたは、うまくいくかどうかはわかりませんが、
皆さんが実際に死んだ場合に、
「私は、まず休息を、とりたい。
私は、休息する、その場所を自分で作る。
私はその場所で、好きなだけ自分の意思について考える」
そう宣言するということです。
死後の経験の中でもっとも怪しいトラップは、前述の共通体験のうち、
>9、強烈な孤独感に襲われる
>10、周囲に様々な“人”が現れる
この部分です。
強烈な孤独感と、暗闇への放置などを生じさせる演出をしておいてから、
「そらよ」、と「そこに待ちわびた他者が存在する」という幻想をあてがわれます。
●この、誰が作ったのかもわからないトラップを回避するには、
死んだらば、
>>1、自分の死の宣告が聞こえる
>>2、これまで経験したことがないような穏やかで愉快な感覚に包まれる
>>3、不思議な声が聞こえる。中には美しいメロディーという人も
>>4、突然暗いトンネルの中に引っ張られる
↑
遅くとも、この「トンネルに引っ張られる前」までに、
自分で自分の部屋を作ってしまうことです。
部屋でなくとも、家。
家でなくても、車のような乗り物でもいいですし、
なんならUFOでもかまいません。
その世界と自分とを仕切って「遮断するような空間」を自分の想像力で作ります。
理由は「休みたいから」のみです。
誰かが文句を言ったり、何かを諭すようなこと、
誘導しようとしても、
>「私は休息したい。
>その休息の場を自分で作る。
>そこで自分の意思について熟考する」
これで跳ね除けてください。
●おそらくは死後でも通用する、
いくつかの簡単なルールがあります。
>第一に、「あなたの同意なしには、何も起きない」ということ。
そうでなければ、死んだあとに、
「先に行きますか? 肉体に戻りますか?」などという質問をされることはなく
強制的に、人は運ばれても仕方ないほど無力だからです。
●次に、相手が何かが必要であるという説明をした場合には、
>なぜそれが必要なのですか?
という質問の仕方を死んだあとも忘れないことです。
何度か、この掲示板でも私は言いましたし、本にも書きましたが、
皆さんが死後に出会う者のうち、とくに、何かの選択を迫ったり、
何かの説明をはじめような存在は、そのほとんどがただのロボットです。
かつそれは、官僚、役人並みだと思ってください。
あとで文句を言っても
>「そのことは、質問されませんでしたので言いませんでした」
でおしまいです。
つまり、質問したからには、答える義務が向こう側にあるのです。
答えられない場合には、別のシステムが出てきます。
●どんなちょっとしたことでも「拒否や変更」をしてみるとわかります。
たとえば、花畑が出てきたら、
>「誰が作ったのだ?」「デザインを自分で変えられるか」
ということを試みたり、
>川が出てきたら、向こう岸に渡るのではなくて、
>モーターボートで上流までいけるか試すなどです。
もしも、何かの行為を禁止された場合には、
>「禁止の理由」を質問するということ。
とにかく死後の世界では、人間をしてきた人たちが、
>死後にそこで言われる事に、異論も言わず、質問もせず従ってしまっている。
>与えられる恐怖や孤独に、簡単に怯えてしまう。
>愛情や安心や至福をあてがうと、すぐにそれに酔っ払う
そうしたことの結果として、
>質問をしたり
>拒否をしない
というパターンが定着しすぎているのです。
しかし、「今見えているこの世界には同意しません、拒否します」
といえば、拒否できるものがたくさんあります。
しかし、「死んだらそんなことぐらい自分はできるだろう」
という希望的観測、過大評価など、まったく何の役にも立ちません。
この世界で生きていて、日々できていないものは、
死んでもできないのです。
●とにかく、死んだ直後に、いろいろな世界が見えてくる「その前に」
休息部屋を自分でイメージで作り、
その内部の空間には、どんな大きさの何であっても思い描けるのですから、
もしも一人が嫌であれば、その主観で作られた室内に、
他人をイメージすればいいのです。
何も、どこの誰ともわからない何者か(正しくは自動的なシステム)が、
「あなたに、あてがう他者」を待つ必要はなく、
光の形をした存在、説教、説明、信念体系、自然風景、
そんなものを、言われるままに、そのシステムに、まかせたままで、
ほいほいと、受動的に、受け入れる必要はないのですから。
だから、死んだら、できるだけ早い段階で、
死後のシステムとは「遮蔽」した、自分だけの空間を内部に持つ、
建造物、または乗り物をイメージして、
その内部に入り、
そこでまず邪魔されずに、好きなだけ休息すること。
これが、自我復元者で、
特に、AC人格解除の段階の人たちに、できるか?できないか?が、
最近の私の関心ごとのひとつです。
●これを試すには、
「バナナを創った宇宙人」に書いた方法で、
死んだ直後の人間に連れ添って、
私自身が、その死者についてゆきながら、
その死者に、そうした遮蔽空間を作らせることができるか
ということをしないとなりません。
が、まだ生きている私がそばにいると、
途中から、私はその先に行くことを拒絶される可能性が大なので、
難しい点があります。
あるいは、そのまま死者に付き添ってゆくと、
私自身がこっちで死んでしまう可能性もあります。
●ただし、トラウマの記憶を持ったままの人、
AC人格を消去して、自分で自分の人格を合成創造することを
してこなかった人、
そういう人は、拒否や、創造力を行使できませんので、
いくら、OOBEを積んでも、
世界を作り出す基礎となる、その信念体系が、本からの借り物だったり、
陳腐で、非常にあいまいで、具体性のない、
漠然としたスピリチュアル的幻想であったり、
その好みに偏り(発想の狭さ)がありますから、
必然的に、他人が作った物語の中に絡めとられます。
想像してみてください。
現状で、家庭や職場で、AC人格に振り回されている状態、
後悔や、望みだらけの状態、無気力な状態、または落ち着きのない状態、
それで今、死んだら、
生きていたときよりもマシな状況が待っていると思うほうが
頭がどうかしています。
コミュニケーション障害というものは、
コミュニケーションの定義が難しく、また障害と正常の基準も
正確にやろうとすると困難さや矛盾が出てくるのですが、
それでも、人間の世界で人間とすら、
まともに、交渉したり、付き合えない人が、
「その場の雰囲気に、押し流されてしまう」という点では、
ここの世界よりも「遥かに強烈」な死後の世界で、
自分を保てるわけなどないのです。
(人は、夢の中での恐怖や感情起伏には弱い、という例から想像できると思います)
このことをおそらく一番、肌身で実感できているのは、
今のところ、Abyさんのみです。
もしも、毒親によって作られた、使いものにならないAC人格を、
死後の世界になど持ち込んだら、
どれだけ、そこのシステムの思惑どおりに、
いいように処理、処分されても、逆らえないのは目に見えていますから。
Abyさんのブログ
↓
http://mmjhb11.exblog.jp/
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