▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
■桜の間へようこそ■
掲示板
Title
「分割自我復元」
のサポート情報や最新報告を記載しています。
★「自我判定」や「禅書」の申し込み方法はこちらです★
【
ご依頼・ご注文の方法
】
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[511]
■
★分割自我復元★その511■ 「報告」&「求道者以前から、求道者への道」 ■
by:
鈴木崩残
2015/10/11(Sun)00:34:02
「報 告」より
●今回の報告の中にもありますが、
Abyさんの復元ブログの中でも、
「中心に戻る」という方法について、コメントがあります。
1.
http://mmjhb11.exblog.jp/22305191/
2.
http://mmjhb11.exblog.jp/22305489/
それでは、報告です。
*********
崩残 様
いつもお世話になっております。基幹房です。
前回の報告においては、新しい人格をイメージし(作って)、
それを実際に身にまとい使っていこうと決めた、
というような内容の報告をさせて頂きました。
まだ、途中経過ですが、順調に進んでいると思われます。
10月1日から新しい仕事内容になるということで、
その仕事を通して、イメージした人格を生かしていくぞという意気込みでした。
しかし、現場の仕事の都合上、新しい仕事内容になるのは、
来週から(10月13日から)に延期になりました。
だからと言って、私の意気込みは、変わるはずもありません。
毎日、なりたい人格のイメージは怠りませんでした。
その際「日記」が非常に強力な助けになりました。
毎日寝る前に、一日を振り返って、日記を書く事の重要性が、
これほど身に染みたことはありません。
なりたい人格のイメージだけでなく、
「今日は、どのように生きたか」、「明日は、どう生きていきたいか」
というようなことに対しても、
より強力な意識化、イメージ化ができているということが、
実感として感じられるからです。
また、教えて頂きました、
「頭の中の空間においてのなりたい人格のイメージ」についても行いましたが、
これについても相乗効果があったのかもしれません。
と言いますのも、イメージした頭の中の空間の中心に、
自分の意識を固定するということが、まだまだ曖昧な状態だからです。
自分に最も近い位置を完全に固定できていないからです。
日によって、行う時の心理状態などによって、
ある時は、鼻の奥の少し上だったり、ある時は、鼻の奥の少し下だったり、
「中心はここだ」というものが特定できていません。
今の所、「中心はどこだ」と求め続けているような状態です。
正直な所、まだまだ手探り状態で、崩残さんに質問する以前の状態かと思います。
崩残さんから教えて頂いたように、見つけた又は感じた中心で、
とにかく休息することを第一に心掛けています。
「自分が落ち着ける位置はどこか」、
「自分に最も近いと感じられる位置はどこか」というように、
常に探し求めています。
その結果として、何とも言えない落ち着きを感じたりもしますが、
もっと続けていかないと何とも言えません。
ただ、毎日続けていて、日記・関心地図と同様に、
その重要性を感じるので、その感覚を大切にしていきたいと思います。
あと、日記、関心地図、中心で休む、
というような順番で行った方が、より行いやすいように感じます。
話が逸れましたが、予定していた新しい仕事内容になるのは、
来週からになったことで、なりたい人格を使っていくに当たって
十分な準備ができました。
当初から、新しい仕事内容になるまでは準備期間と捉え、
その期間はなりたい人格の基礎固めをしていこうと考えていました。
その後、新しい仕事内容になってからは、実際の本番と捉え、
イメージしたなりたい人格を存分に使っていこうと考えていました。
準備期間は、昨日で終えたわけですが、本番に向けて十分すぎるほど、
イメージした人格で動くことができました。
新しい仕事の開始が延期になり、
結果として、万全の態勢で本番に臨むことができたと考えています。
詳細については、この後、報告させて頂きますが、
その前に、今、最も感じていることについて、書きたいと思います。
いや、今回、最も報告させて頂きたいことになります。
今、生きている。
日常生活を送っている。
または、仕事をしている。
小さい事から、大きい事まで、様々な問題があれど、
楽しい事があり、苦しい事があり、
しんどい事があり、幸せを感じる事があり、本当に色々とあれど、
そのような事は、何れも大した問題ではなく、
意識的に生きていくと言う事。
色々な想い、色々な感情があり、
時には、それらに翻弄されることがあれど、意識的に生きていきたい。
完全に全てを自覚し、監視することはできないにしても、
出来得る限り、自分自身の内外で起こっている事に対して、
意識的であり、かつ、それらに対して目を背けず、直視していくと言う事。
意識的であると言う事、これが最も大切であるということを実感し、
その感覚が日々、強くなっているのを感じます。
過去の今までのAC人格満開の自分においては、
楽しい事、幸せに感じる事などを常に求め続け、
苦しい事、辛い事などから逃げ続けてきた。
そうすることが、楽になり、幸せになることだと思い込んできた。
でも、今は、自分自身の内外で生じる事に対して、
意識的でありたいと強く感じます。
実際、意識的であろう、意識的であろうということを通して、
色々な事、他人や出来事等がよりリアルに感じられます。
言い過ぎかもしれませんが、
「ああ、生きている」、
「なぜか幸せを感じる」、
「なぜか嬉しくて涙が出てくる」
子供の頃、幼稚園に入る以前かなあ。
その頃、感じていたように、周りの景色や人達が、色濃く鮮明に感じる。
体調が悪かったり、眠かったり、日常においても、仕事においても、
「ああ、しんどいなあ」、「眠たいなあ」と感じるようなこともある。
そのような中にあっても、
生きている充実感というか、幸せ感というようなものを感じる。
言葉では、表現しにくいけれども、
「しんどいけれど、苦しいけれど、なんか充実している。幸せを感じる」
「しんどいけれど、苦しいけれど、その中でも、嬉しくなぜか涙が出てしまう」
このように言葉で書くと、何か矛盾しているようだけれども、
そのように感じます。
日々、朝、起きて、仕事に行ったり、
休みの日は、自分の好きな事をやって楽しんだりしている。
そして、夜寝る前に、日記・関心地図・中心で休む、
というようなワークを行う事によって、より意識的になり、
「今日は、こうだったから、明日はこうしよう」というように、
自然と思うようになり、日々、臨んでいく。
そして、思い通りとはいかないまでも、
「自分がこうしよう」と決めた又は思ったような自分の姿を見たり、
出来事を経験したりするようになってきています。
「人生が自分の思い通りになれば幸せになる」、
というように思っていましたが、実は、そうではなくて、
「より意識的であろう」とする事によって、
結果として、思い通りになり、幸せ感や楽しさを感じるのではないかと思います。
ある時、日記に次のように書いたことがあります。
文章になっていないですが、その一部を書きます。
自分自身に問い続ける。
これでいいのか。
なぜやるか、なぜ生きているか。
なぜやらないか。
やりたいか、やりたくないか。
感じたい。感じられる。その喜び。
じわっとした感じ。リアル。鮮明。
相手の存在、リアル、感覚、息づかい、感情、
声、笑い、感じる、より鮮明に。
子供の頃のようなリアルさとも言える。
周りのものが、色濃く、鮮明に見え、感じる。
苦しい時もある。しんどい時もある。眠たい時もある。
それでも、感じる。リアル感、それが、なぜか楽しい。
幸せ、落ち着いた興奮。
何と表現したらいいのだろう。生きている実感。
今まで、自我復元を続けていく中で、
幸せ感や充実感のようなものを、何度か感じた事があり、
そのことについて、報告させて頂いたこともあります。
その時に感じたものと今回感じたものは、
結果、同じような幸せ感ですが、
そのきっかけというか、始まりというか「最初」が、全然違います。
以前、感じていた幸せ感は、
現象面や出来事等が、自分が良いと思ったように、
または、自分の思い通りになったと感じた結果でありました。
しかし、今回は、自分の内外で起こっている事に対して、
より意識的であろうとした結果です。
イメージした人格についても、まだまだ基礎固めができたに過ぎず、
これから育てていく必要があります。
また、AC人格についても、まだ完全に消え去ったわけではありません。
絶対に油断はできません。
相手(AC人格)を完全に倒し切るまでは。
そうしないと、相手に足元を掴まれ、
形勢逆転ということにもなりかねませんから。
ですから、まだまだ油断はできないですし、するつもりもありませんが、
あとは、時間の問題であると思っています。
今回、いちばん報告させて頂きたいことは書いてきました。
ですので、そろそろ、具体的に仕事上では、どうだったかについて、書きたいと思います。
中略
今までは、仕事が嫌だと思う事が多かったです。
AC人格満開で、AC人格に翻弄されることが多く、
周りの評価や、仕事ができる、できないに左右され、
前回の報告にも書きましたように、
いつも不安と恐怖の中で、仕事してきました。
そのような自分が、もうホトホト嫌になって、
新しい人格を作って、それでやっていこうと決めたわけです。
実際の仕事において、案の定と言うか、当たり前と言うか、
色々と問題が生じたり、困難にぶつかったりしました。
今までのAC人格のままの自分であれば、
仕事する際、何の問題もなく、順調に進んで行くのが楽で、
楽しく感じられると思い込んでいたわけです。
実際の仕事においては、
そんな事はなく常に問題等が生じたりする事が、特にこの仕事においては多く、
それは、AC人格の妄想に過ぎないわけでした。
だから、実際、問題が生じた時は、
当然ながら、AC人格の自分としては、ほとんど苦しんでいました。
また、いつも不安と恐怖にさらされていました。
しかし、今回、イメージした人格の核の部分としては、
まず、仕事においても、それ以外の日常生活においても、
大小なりの問題が生じるのが当たり前で、
その目の前に起こった問題を直視し、
その解決を積極的に図っていく姿がありました。
問題の内容によっては、悩み苦しんだり、
簡単には解決しなものがあれど、
常に解決の糸口を探し求めていく姿勢を貫き通していく姿がありました。
もっと簡単に言えば、問題が生じたり、想定外の事が起こったりしたら、
誰だって、落ち込んだり、または、冷静さを失ったり、慌てたりするのは、
当然の事であり、感情を持った人間として当たり前で、
それらに対して、斜に構えたり、冷静を装ったりせず、
自分の気持ちに正直で、
かつ、目の前に起こった事は、自分自身の問題として、直視していく、
というような、どこまでも真っすぐな人間でありたいと思って、
そのような自分自身の姿をイメージしてきました。
文章にすると、このような人格をイメージして、
実際の仕事に臨んだわけですが、理想通り、完璧とはいかないまでも、
自分自身がイメージしたものに近い人格で行動している姿を
確認する事ができました。
中略
4人でチームを作って作業していたのですが、
その作業を誰かがやらなければなりませんでした。
想定していなかった作業である上に、
その作業は、技術的に少し難しかった為、誰もやりたくはないし、
元々、想定していなかった余計な作業でもありました。
ですので、以前の私でしたら、そんな面倒くさくて、しんどい事は、
やっていないだろうし、誰かがやってくれるだろうと思って、
逃げていたと思います。
でも、今回の私は、
「しゃーないな。私が何とか作るよ」と言って、
自然と積極的に行動することができました。
事前にイメージした通りでした。
実際は、何日か悩み苦しみながらも、
新しい仕事を無事にこなすことができました。
しかも、悩み苦しみながらも、
ある感情が生じてきているのが感じられました。
それは、「楽しい。この仕事が楽しい」というものでした。
そして、元々、この仕事を選んだのは、
「その結果を見るのか楽しい」と感じたのが理由の一つであった事を思い出しました。
もう何十年も、この仕事をしていますが、
この純粋な喜びというものを、もう本当に忘れ去っていました。
それを思い出しました。
中略
「物を作る」という喜びを思い出しました。
これは、大きな副産物でした。
また、4人のチームの中で、私はリーダではなかったのですが、
むしろリーダよりも積極的に、中心になって
作業に取り組んでいる自分の姿を見ることができました、
このようにイメージした人格に近い姿の自分を見ることができました。
新しくイメージした人格が、本当に使えるようになったとは、
まだまだ言えませんが、
少なくとも、今まで自動的に出てきていたAC人格が出てこなかったので、
大きな進展であると感じました。
そのような意味でも、前述しましたが、
イメージした人格を使っていくという基礎固めができたと思います。
そして、来週から、いよいよ、新しい仕事内容になりますが、
今までであれば、自動的に不安と恐怖の感情が襲ってきて
それに支配されて、どうしようもない状態になっていたと思います。
でも、そうなっていないのです。
新しい事を始めるので、当然ながら、多少の不安な気持ちや、
恐いというような感情はあります。
しかし、それ以上に、むしろ「楽しみ」という感情の方が大きいです。
言葉にすると次のようになります。
「次の仕事は、私にとって難しいし、大変かもしれない。
悩んだり苦しんだりするというような事も、あるかもしれない。
でも、その悩み苦しみは、新しいことに挑戦していくという事で、
当然出てくるものであり、また、
たとえ問題が生じたとしても、悩み苦しみながらでも、
それは消極的なものではなく、問題を解決していく中で出てくるものであり、
問題解決していくという喜びや楽しみも感じられるだろう」
「よし、やるぞ」
以上で、今回の報告を終わりたいと思います。
また、その後どうなっていったか等については、
また、改めて、ご報告させて頂きたいと思います。
最後に、ちょっと一言。
「日記というのは、凄いツールです。強力です」
では、またメールさせて頂きたいと思います。
敬具
*********
■長く、基幹房さんのことを私は見てきました。
禅書から始まり、自我復元においても、紆余曲折がありました。
不安定になったり、軸が決まったり、また不安定になったりと、
本当に、沢山の報告を頂きました。
ご本人は、どう思われるかわかりませんが、私から見ますと、
かつての自我復元前の基幹房さんとは、「別人」です。
それもそのはずで、AC人格は、
そもそも基幹房さん本人自身ではなかった、のですから。
*********
■今回の基幹房さんの報告の中に、
ある種の人たちは、聞き覚えのある言葉が散在していることに気づくと思います。
それは、
意識的であること
中心の決まった人
自分の中に、つくろぐ
恐れずに 直視すること
どこかで聞いたことがある言葉が散りばめられていることに
気づく人も少数ですがいると思います。
むろん、これらの言葉は、基幹房さん自身の中から、
おのずと「湧き上がるように出てきた言葉」であり、
誰からの仮り物でもなく、
何かの本からの借り物の言葉でないことは、一目瞭然です。
何しろ、基幹房さんは、おそらくこの言葉を多く語った者について
ほとんど知らないと思います。
>意識的であること
>中心に在ること
>つくろぐこと
>制圧せず、喜び、そして泣きなさい
そうです。 和尚(Osho)です。
●私がそもそも、なぜ自我復元というものを提唱するに至ったのか、
それは一言に言えば、
まだ「探求者」にもなっていない人たちを、
まず「探求者」にすることを目標としたからです。
言い替えれば、まだ人になっていない人を、まず人にすること。
まだサニヤシンにすらも、全くなっていない人間を、
「探求の道に、旅立つことの出来る者」にすることでした。
その先で、何かに到達できるかどうかという以前に、
まず「一人の探求者」にならねばならないのです。
自我復元を始める前には、
一人の探求者であり得た人は、ただの一人もいませんでした。
●しかし、今、基幹房さんもそうですし、
Abyさんや、朱いはがねさんも、そうですし、
すでに自我復元を終えた、マディアさん、お姫ちゃん。
とりわけ、特に、この人たちのブログを見るとき、
誰もが、その人たちが「一人の探求者」の「輝き」を放っていることを
見ることが出来るはずです。
その人たちが戦っているという「気迫」を感じない人はいないはずです。
なんちゃって修行僧などよりも、ずっとストイックで、
みてくれではなく、「本質的な次元」で、苦行僧のようである。
ですから、
探求へと、旅立つことの出来る資質、まずその資質がなければ、
この先に進むことは出来ないのです。
自我復元の本当の目的は、
トラウマやAC人格の解除「だけ」にあるのではありません。
むろんその工程を決して飛ばすことは出来ません。
そのことは、この「ひとつ前の投稿」に書いたとおりです。
AC人格は、
「完全に、無自覚のまま、自動的に毒親のコピーしか出来ない」、
のですから、探求者になどなれるはずがありません。
自我の復元とは、
まずその全自我を持った「探求者」になるまでの道です。
親とも、物理的にも、精神的にも、無関係、
そして、自由になったその上で、
本当の意味で、「自分を、探求できる者」になるということです。
基幹房さんをはじめとして、前述したブログの人たちを、
皆さんは、こうイメージできると思います。
もしも、その人たちが、
ひとたび、自分の夢を実現するため、
あるいは、ひとたび、何かを探求し始めたら、
決して、中途半端なものにはならない。
なぜならば、その人たちは、沢山の困難を経験して、
ようやく、本物の「探求者」になったのだから。
何を探求するかは問題ではありません。
それは個々人で違うものです。
重要なのは、探求する「その姿勢」が出来た事です。
世の中にいる、いわゆる、サニヤシン、
単にインドに行って、名前を貰って、
うかれた探求ゲームをしていただけの人たち。
ただの「和尚という遊園地」のようなイベントにかかわっただけの人たち。
そして、数十年が経過した今も、
何もかもが中途半端で、何も知ることも実感することもなく、
三流の瞑想センターの指導員や、セラピストもどきに堕ちた人たち。
そんな人たちよりも、
この、何人かの自我復元者の人たちの方が、
ずっと、サンニヤシンらしい。
ずっと、その姿勢が、僧侶に似ている。
なぜならば、この人たちは、「本気で真剣」だからだ。
悩みながら、まっすぐに生きてゆこうとしている。
だから、ローブをまとったり、頭を剃ったりしただけのエセ坊主や、
いんちきサニヤシンよりも、
遥かに、ずっと「探求者」として私には見えます。
だから、こういう人たちこそ、和尚の弟子になるべきだったし、
彼は、こういう、まともな人たちにこそ、出会いたかったに違いない。
この人たちこそ、「準備」が出来た人たち、なのだから。
(あるいは、これからの人生でその準備を出来る人たち)
●まる6年の歳月がかかったけれども、ようやく「橋」が繋がった。
1 2 3
人間以前 → 人間を意識的に生きる → 人間を超えること
過去の覚者たち、賢者たちは、
あまりも3番目を強調しすぎたために、それはまるで、
足のない人間に「飛び上がれ」と言っているようなものだった。
それはでは、まるで順番が違う。
「未知」に向かって跳ぶには、まず、足を作ってからだ。
________
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(511 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
桜の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -