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[551]
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★分割自我復元★その551●【 生涯 忘れない日のひとつ 】●
by:
鈴木崩残
2015/12/22(Tue)08:33:56
ある日のこと
●まず最初に、昨日、2015年12月21日に、
福島第一原発のある町の、この看板が撤去されたようです。
↓
この標語を小学生の時に考えたご本人が、こう訴えていました。
↓
しかし、
私が突っ込みたい点は、これです。
↓
地元の人たちも、電力会社の人たちも、全国の人たちも、
きっと、ずーーーーっと長い間、気になっていたとは思うのだが、
誰一人、声に出して言わなかったようです。
普通、グラフィックデザインとしては、完全に初歩的にもアウトですよ。
***************************
私の 2015年12月21日
●ところで、昨日の、2015年12月21日は、
私にとって、忘れられない日になりました。
おそらくは、私の半世紀以上の今回の人生の中で、
「生涯最高の日」のひとつに掲げられます。
生涯で「最高の日」などという、大げさなものは、
一生の間に、そうそうあるものではありません。
たぶん私自身、指折り数えても、3つかそこらです。
そのうちのひとつの日が、昨日、2015年の12月21日でした。
何か、覚えのある日付だと思って確認したら、私の母の誕生日でした。
とはいっても、母親は特に関係なくて、またその生涯最高の日は、
自我復元者の誰かに関わることでもなく、
まったく「私個人」にとって、最高の日のひとつとなったということです。
別に宝くじが当たったとか、セックスが良かったとかでもなく、
そういう物質的なことでは全くありません。
物質的な幸福ではなくても、生涯に、最高の日というものがあります。
もっといえば、
「生きていて良かった」と、私が思えた貴重な日でした。
正しく言うと、「生きていて良かった」とは違うのですが、
説明はせずに、はしょります。
夕食のしたくをしている台所で、私は、思わず、
ガッツポーズを三度しましたが、
砂手には、私に起きた事が何なのかは、さっぱり分かっていません。
●これについては、それを知らせたい、教えたい人というのは、
一人しかいません。
それは、あびさんです。
それは全くもってして、私の「個人的」なことなのですが、
少なくとも、その雰囲気だけは理解できるのが、あびさんだけだからです。
砂手も理解できませんし、無明庵に関わった他の誰一人も、
理解できないと思います。
だから、その知らせを、私は、あびさんへメールで送り、
そのメールは、私の死後に、もしも、あびさんがその時にまだ生きていれば、
あびさんのブログで、公開してもいいと思います。
2015年、12月21日、
幾度かこれからも私は思い出す日付となると思います。
それは、本当に、まったく、私の「個人的なこと」なのです。
そういう、全く個人的なことを、
相手の迷惑や理解力も考えずに、
これほどに気楽にメールできる人間(友)と知り合えたことを、
私は、本当にうれしく思います。
●もっと言えば、
私は生まれてはじめて「乱文」というものを書くかもしれない。
本当に、何もブレーキをかけずに、私の喜びを伝えるかもしれない。
なぜならば、あびさんは、これまでに、
沢山の、ご自分の、全くの「個人的な喜びの経験の話」を、私に伝えてくれた。
だから、今度は、私が私自身の喜びの話をあびさんに伝えたいと思った。
何ひとつも、ブレーキなく。
だから、それは、少し乱文になると思う。
今も、一体、何かから書き始めたいいのかもわからない。
しかし、私自身が、窮屈にならない程度に、あびさんには、
順をおって、分かりやすくは、伝えたいと思います。
●こう書くと、皆さんは、不思議に思うかもしれないが、
私は自分の喜びというものを、率直に他者に伝えたことはありません。
掲示板のネタにする程度の、小さな喜びは沢山書いたことはありますが、
大きな喜びというものは、その受け手がそれを、
何の魂胆や、心理的な利害関係もなく聞いてくれる、ということがないからです。
私は、いくつかの性に関する本や、意識に関する本を書きましたが、
すべてそれらは「説明」です。
いかに、他者の理解をほどこすか、という「説明」です。
●しかし、自分に起きる喜びを、まるで友達に気楽に話し、
仮に理解としなくとも、聞いてくれるだけで十分。
そう思えるのが、私にとっては、あびさんなのです。
なぜならば、あびさんは、今、私に対してだけではなく、
誰に対しても、そうやって生きている、または生きようとしているからです。
●私が自分に起きる喜びについて、書くときに、
自制ないしは、コントロールを保つ最大の理由は、
読む人、聞く人の中に起きるあらゆる反応を考慮するからです。
わたしが喜ぶのはわたしの勝手である。
しかし他者にそれを伝えることに、どんな意味があるのか。
誤解されたり、嫉妬されたり、批判されたり、または憧れを持たれたり、
反応はさまざまだけど、誰一人として、心を沈黙にしたままで聞くことは出来ない。
だから、その言葉によって、どういうことを相手が考えてしまうか、
それを常に配慮しないとならないので、
わたしは、率直に自分の喜びを言葉に書いたことはありません。
そもそも、そんなことを他者にしゃべる必要がないのでしょうから。
●しかしそれでもそれを他者に、気楽に話したり、書いたりするとしたら、
それは、私がその相手の人に、理解されることを欲しているのでもなく、
この人であれば、誤解すらされてもいい、そう思っているということ。
そのようなものを、人間的な言葉では、「信頼」と呼ぶようですが、
それは、相手が約束を守るとか、相手が礼儀のある人であるとか、
そういうことでは全くなくて、
それは、この世界の全部ではなくても、同じものを見ている、という、
その信頼感の前提の上に成り立っています。
あびさんは、本当に、いろいろあったものの、
結局、ブログのタイトルどおり、自分を裏切らなかった。
であれば、あびさんは、私をも、決して裏切りません。
ただしく言うと、私の中にあるもの、を裏切りません。
もっと正確にいうと、密度と気圧は違いますが、同じ空気の中にいますので、
そもそも、裏切りというものが存在しないところでの対話が成立します。
礼儀とか、社会常識とか、約束は守るべきだからとか、利害関係とか
そういうものによって、裏切らないように努力をする、のではなくて、
最初から、裏切りなど、存在していないところに、
あびさんと、私は、立っています。
あるいはその世界に暮らしています。
むろん、いろいろな意味で「同じ」なのではありません。
しかし、「人間」としては、同じです。
●だから、私は、自分に起きた喜びを、
理解されずとも、誤解されても、あるいは、それをあびさんが、
呆れて、面白がったり、つまらなく思ったり、どう思おうが、
また、あびさんのことを考えてでは全くなく、
そう、あびさんが最近よく言うように、
私が、あびさんに、話したいから、話すのです。
ただそれだけです。
話したいのは、私であって、
あびさんが、聞きたいわけではありませんし、
あびさんに、必要だからという、
そういう「必要性」という次元は、両者の間には、もうないのです。
それを、この世界では、
友達、あるいは仲間、ないしは、同属と呼びます。
ちっともその本質を正確に表していない言葉ですが。
私に言わせれば、友とは、
喜びを投げ合う関係です。
相手の顔色を伺うことなく、
相手からどう思われるかを心配することもなく、
相手にどう思ってほしいかという期待もなく、
ちょうど、子供たちが、遊んでいて、
その楽しさを分かち合っているように、
かまわずに、放つものです。
ところが、いい大人がこれをすると、
「かまわずに、投げ放つのが、
正しい道なんだ、正解なんだ、よしやってみよう」
と、それを生き方の手本にしたがる。
これこそがAC人格であり、エゴであり、汚れであるというのに。
しかし、子供同士のように、何もかまわずに、
自分の喜びを投げ合う関係というものは、
そうすることが、人間として正しいからするんじゃない。
したいから、するだけだ。
したいことを、
「すべきだと教わったし、そう実感するから、しなきゃ」
「そうすれば、無明庵だけではなく、
精神世界でも、それは良いことだとされているから、
だからしたいことをする、そういう自己演技をしてやろう。
そうすれば、崩残さんに、否定されない」
そうじゃない!
子供はそんなことは考えない。
したいことは、したいから、ただするだけだ。
あびさんは、だんだんと、それが出来るようになった。
けっして、ある日突然にではない。
しかし、逆説的にいえば、それは常に、突然にでもある。
友達に、それが出来るようになったのだから、
私も、友達に、それをしたくなった。
ただそれだけです。
●そうそう。これは書いておこう。
今までにも、私は、ある時期に、誰かを、妙に持ち上げる
ということをしてきました。
特に自我復元の中ではそうでした。
しかし、持ち上げたあとに、突き落とされるという人も何人もいました。
私は、そういう自分の判断を、ちっとも悪いと思いません。
率直に感心することもあれば、率直に幻滅することもあります。
私が、一定に誰かを評価しなければならない理由などはありません。
だから、私がある日、突然に、あびさんを、馬鹿呼ばわりする日が
やってくるかもしれないと思う人はいるだろう。
「あー、また持ち上げて、落とされるんだ、きっと」と。
しかし、それはあり得ません。
なぜならば、
私は、もしも、我慢をする、あびさんであれば、
いくらでも、不愉快にすることや、凹ませることが出来たり、
または、平静なふりをしたくなるように誘導して、
その結果、イライラを溜め込むようにしたり、
心の中に、私の言葉がずっと、ひっかかったままにしたり、
逆に、何でもないさと、無視したくなるようにしたりと、
「ありと、あらゆること」が可能ですが、
しかし、もう、我慢をしない、
本人が本人裏切らない、あびさんを、
私は、決して、不快にすることは出来ないからです。
あびさんは、
もう、我慢することすらも、我慢しないですし、
我慢しないことは、我慢しないですから。
●「あるがまま」というのは、
考えたり、教わったり、その言葉が、人生の標識だと覚えたり、
それにあこがれたりして、到達するものではなく、
徹底して、あるがままからは、「ほど遠い生き方」をして、
それに本当に、うんざりしてこそ、本物になるものです。
それは、目指すものじゃない。
瞑想ごっこの、念仏じゃない。
それは、自分を偉そうに他人に見せかけるために悪用する文言じゃない。
また、それは怠惰に、自分のAC人格を、
これでもいいんだと、放置することじゃない。
●自我復元における、さまざまな局面で、
自分に出来る、あらゆる試行錯誤と、
命がけの、奮闘の結果に、
そこに、ずっと、当たり前にあったことを、
強烈に「知る」ということ。
疑う余地もなく、それを経験するということ。
それを、分かっている「ふり」など決して出来ません。
また、分かっている人が偉いのでもありません。
自分を馬鹿にした他者を見返し、軽蔑するために、
「あるがまま」という言葉を決して悪用するな。
******************
本当に、分かっている人は、それを、喜ぶだけです。
しかも、人間的な意味ではない喜び。
だから、その人は、決して、つまらない人にならない。
その人は、おそらくは、結果としてユニークに、おもしろくなる。
●むろん、これはあびさんが、悟っているという意味ではありません。
それは、幻想と、希望に毒された、悟りどうのこうのなどよりも、
もっと、もっと、もっと、もっと、大切なことです。
すくなくとも、私が見るかぎり、
どの人も、強烈ですよね。
そう、その違いは、「強烈である」ということ。
基幹房さんも、
マディアさんも、
お姫ちゃんも、
朱いはがねさんも、
あびさんも、
私から見ればですが、
最初は、無個性な、ただの、トラウマ持ちのAC人格でした。
自我復元に対する、姿勢や、気合の入れ方と、切羽つまりかたの違いは、
それぞれの人に、確かに、初期値としての差異はあれど、
決して、最初から、強烈に個性的だったわけではありません。
どこにでもいる、ありふれた、悩みを持った人たちばかりです。
それが、なぜ、かくも、
誰もが、「それは、だって、あの人だから出来たんだよ」と、
その、それぞれのブログの個性を、
多くの人が認識するまでに至ったのか。
その鍵は、
「毒されていないもの」にあります。
奇跡のリンゴや、奇跡の生乳を作り出すのと同じく、
人が、ネチネチと、画策しているような思惑とは、
全く離れたところで起きるものなのです。
それが起きるところの名前、
それが起きる、震源地、爆心地、
それを、喜び と呼びます。
それを起こせるのは、
あなたの中の、見捨てられていた「子供」だけです。
自我復元とは、
あなたが、あなたのAC人格の親となることでもなく、
あなたが、親の(または神)の子供となることでもなく、
単に、あなた が、あなた に なることです。
●でも、それは、簡単ではありません。
耳あたりの良い言葉の「あるがまま」とか「自然とか」
「子供のように」とか、
そんなふうに、わかりやすい、簡単な言葉だから簡単なのだろう、
と考えたいのは人の常です。
そうではなく、むしろ、自分の命と身体が本当にかかった、
「大変な世界に踏み込むのだ」という、覚悟でやるほうがいい。
自分がぼんやり、思っているよりも、
100倍も苦しむことを、覚悟できるのかを、自問するといい。
そうでなければ、命や心身を賭ける意味がない。
そのためならば、苦しんでもいい、死んでもいい、
そのリスク、代償を差し出す覚悟のない人には、
「死」という扉は、決してその鍵をあけてくれません。
どれだけ「AC人格を殺してやる」と口で、自己暗示を自分にかけても、
あなたが本気かどうかは、死神が明確に知っています。
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●実は、今年の、2015年2月29日に、
私は、生まれて初めて、ひとつの文章を書きました。
沢山の文章をこれまでに書いてきましたが、
「完 璧 な 独 り 言」 というものを私が書いたのは、
少なくとも、この数十年では、これが初めてのこととなりました。
今年の2月29日に、私が書いたその文は、
誰に向かっても書いていません。
誰一人も、私以外の他者を想定していませんでした。
私が何かを書くときには、常に、読み手を想定しています。
しかし、膨大な量の、読み手の側のことを考えたり、
または、読み手の無意識的なニーズに反応する形で書いてきた、
これまでの数十年の文書とは決定的に違っていたのは、
私は、本当に、独り言を書いていたということです。
書き残したのも、いつか誰かが読むことがあるかもしれない、
という、この世界に残すことを想定して書いたのではありません。
それは、まったく自発的に、
しかし、誰に向かって書き記すわけでもなく、
自分に対して書き記すためでもなく、
それ自体が、それ自体のために、書き記したと言えるものでした。
わずか、たった24ページの、
手書きで書かれた文章です。
これを私は、あびさんに預けようと思います。
それが、たとえ、結局は、この世界のどこにも残らずに、
失われる結果となっても、全くかまいません。
なぜならば、それは、誰かのためとか、
何かのために私が書いたのではない、
私が書いた、唯一の、「完全な独り言」の文章だからです。
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