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[554]
■
★分割自我復元★その554●【 判定依頼報告 】●
by:
鈴木崩残
2015/12/25(Fri)13:45:55
報告より
崩残様、
*回目の自我判定報告です。
「落ち着き」:
私には母親から強いられた「落ち着き」と、
今見出しつつある「落ち着き」がある。
幼少期に母親、教師たちに奪われた一つの動きがある。
家の中で飛び跳ねたり騒いだり、
学校から帰るとカバンを投げ出し外に飛び出る。
何かをやってると思えば、もう違うことをやってる。
気があちこちに向いてしまう。
または、集中力がないとも言われた。
そんな状態を大人たちは「落ち着きがない」と言い、嫌った。
母親はいつもそんな私に向かって言った。
「みっともないから、落ち着け」
「なんでそんなに落ち着けないんだ!」と。
みっともないとは何なんだ?
落ち着くとはどういうことだろう?
先日、ショッピングモールで多くの子連れ客を見かけた。
私のそばで子供たちがせわしなく動き、声を出している。
そこで私はまだある感染した母親の目でその子たちを見てみた。
私の中に現れたのは
「こいつら邪魔! うるさい」という思いだった。
でもその子たちを落ち着きがないとは見れなかった。
その時と場所いる私にとってただ邪魔なだけだった。
だから小学4年くらいまでの私の動きは、
母親にとって邪魔でしかなかった。
「落ち着きがない」というものじゃなかった。
子供の頃はそれ以外の動きを知らなかった。
自分の中にこのようにあらねばなんて理想や模範はなかった。
選択肢がなかった。
母親に落ち着きがないと言われた動きが、私のありようだった。
小学5年以降は楽しかった…はずだ。
お山の大将だった。
母親も怖くなくなった。
楽しかった…本当に?
でもそれと引き換えに違う楽しみを失った。
泣いたり、びびったりする感情、抵抗のない動きを失った。
他人の目を気にしない感情を失った。
母親への反抗によって自主性を得たと思った。
そんな偽の落ち着きをかっこいいと自分に押し付けた。
AC人格が起動し始めた。
小学4年までは僕はまだ息をしていた。
他人の評価、自分の格好、服、髪型、そんな物を気にしてない時期だった。
授業が終われば走って家に向かった。
帰り道で気になることがあればそこで遊び始める。
飽きたら、また走り出す。
怖気ずいたり弱気になったりもしたけど、そこに余計なものはなかった。
なんの躊躇もなく怖気ずいてた、弱気になった、大声で泣いた。
草むらの中で遊んでいたら大きな蜘蛛が足にからみついていた。
迷いなく大声で助けを呼んだ。
初めて大きな地震を経験した時、家の中でビビりまくって泣きに泣いた。
カッコ悪かったんだろうな…
でもあの頃は躊躇のなさの方がカッコ悪さを弾き飛ばしていた。
落ち着くって何だよ?
分からなかったよ。
だって、楽しかったから。
何が楽しかったって?
分からないよ!
ケンカに負け泣かされたら、悔しかったけど、
かっこ悪いなんて思わなかったなぁ。
泣いたらそれで終わってたし。
次の日にはやられた相手と仲良く遊んでた。
なのに小学5年になった途端、僕は息を止めた。
そして鏡が現れた。
かっこ悪いと我慢するようになったら、
かっこよく見えるけど楽しくなかったんだ、本当は。
来る日も来る日も我慢が続いて仕返しを妄想するようになった。
ボーイスカウトでも、下っ端の時にやられて悔しかった同じことを
年下の者たちにやるようになっていた。
代理復習だ。
このボーイスカウトってやつも、
毒親と同じくらい感情をつぶされる環境だった。
ことの始めから我慢を強いられる。
リーダーとか言われてた連中は普段は普通の会社員や大学生だった。
町で見かけると気弱そうに見えるのに、
ひとたびそれがユニフォームを着ると途端に威張り始める。
隊長とかやっていた人の職場に行く機会があったが、
その職場では窓際で働くただのオッさんだった。
キャンプに行けば難癖をつけられてテントを倒され、
夜中の2時に便所堀りをさせられる。
肝試しと称して真っ暗な森の中を歩かされるが、
顔の高さに、その日の夕飯で自分たちがさばいた、
ニワトリの首や足がぶら下がっている。
気分が悪かった。
家庭での母親の説教には萎縮から反抗に移行したが、
このリーダーとかをやっていた連中には常に仕返しを妄想していた。
見返すというものではなく、暴力による仕返しを妄想した。
ここでは反抗が出来なかったのだ。
どう動いても我慢と躊躇しかなかった。
私はリーダーとかになる前に嫌気がさして参加しなくなった。
誤解を恐れずに言えば、
落ち着く事って自分に逆らって自分の動きを変えることじゃない思う。
躊躇や抵抗のない動きが落ち着きなんじゃないのか?
落ち着きのなさがAC人格の動きだ。
たとえ、坊主のように座っていても。
「中心で休む」ことで「落ち着き」を感じ始めた。
抵抗や躊躇のない動きが「落ち着き」だということを感じた。
まだ、自分に対して反発や抵抗がなかったあの頃の僕は落ち着いていたんだ。
周りにはうるさかったかもしれない、邪魔だったかもしれない。
でも僕は落ち着いていたんだ。
母親が落ち着きがないと呼んだ私の動きには、
ただ躊躇や抵抗がなかっただけだ。
楽しい時はそれを表現していたし、
恥ずかしかったらそれを表現できた。
躊躇することなしに躊躇した。
その表れに自ら反発することはなかった。
そんな抵抗のない動きが子供の私にとって「落ち着き」だった。
その動きはとても素直な動きだったと思う。
そしてそれは10才くらいを境に不完全燃焼のまま、影を潜めた。
母親や教師に強いられたものは、本当のところ「落ち着き」ではなく、
彼らの邪魔にならないように
自分の動きに反発すること、制御することだった。
そしてAC人格に座を奪われてから、
私に中にある動きこそ「落ち着きのなさ」だ。
自分の中に「理想の自分」なるものを掲げ始めた時から現れたものだ。
演技と我慢と監視の目。
そこで見つかるものは無数の緊張と抵抗と躊躇だ。
それは顕著に体に現れた。
後年、この「落ち着きのなさ」が「確認作業」を生じさせた。
間違った目で思考やら対象物を観る。
やがて静寂らしきものが訪れるとその状態に固執する。
または維持しようとしてしまう。
不安が訪れ、その状態を確認したがる。
今の状態を確かめようとする衝動。
そもそも今を確認できるのか?
どんなに今と言っても確認できるのは過ぎ去ったものだけではないのか。
過去を振り返ってるだけだろ…。
と思っても衝動を抑えることが出来なかった。
そして確認。
繰り返すジレンマ。
疲れる…
来る日も来る日もこの繰り返しだった。
確認することが間違ってると思っていても、
落ち着かない人格はこれを繰り返す。
やがてこの人格は束の間の安堵感を得る方法を見つけた。
買い物だ。
これは買っておいたほうがいいぞ、というものを設定し、
長い時間をかけて吟味する。
実のところ、吟味ではなく、間違った「観る」というやつだ。
欲しい方の目でその対象思考に「これではない」とやっていた。
その「欲しい思考」がそのうち静まるのを期待して。
静まる訳がない。
どんどん抑え込まれて緊張する。
緊張が溜まった果てに、品物を手に入れる。
そして心身共に「ホッとする」。
束の間の安堵感、偽の落ち着き。
自慰行為と同じだ。
ホッとしたいがために常に欲しいものを探している。
この「買い物でホッとする」人格は親から仕込まれたものだ。
反発する高校時代の私を抑え込む手段として母親が使った手口だ。
その頃、私は母親から金を得て高価な楽器をいくつか買った。
私は母親を支配できたと勘違いした。
実は逆だったのだ。
与えれば落ち着くだろう、って具合に操られた。
服に至っては気に入ったものがあると二つ買う癖がある。
幼少の頃のどこかで気に入った物を取り上げられたことが原因なのか?
一つなくなっても、もう一つあれば大丈夫、というように。
だからこれはサイズが良く、着心地も良いとなると、
今でも色違いで2着買ってしまうことが多い。
この時も脳内では「欲しい目」が「欲しい」と、
「必要ない」の二つに分かれせめぎ合う。
そして最後に「ホッと」させる。
「間違った瞑想」も「確認作業」も、「ホッとするための行動」も、
同じ身体反応が現れる。
気がつくと身体中が緊張している。
歯を食いしばる。
下顎に凄いりきみが生じる。
とても奇妙な力の入れ方で、右奥歯と左前歯を同時に噛みしめてしまう。
中心で休めるようになってからはこの緊張が発生しなくなった。
この状態で同じように歯を噛みしめてみると、なぜか出来ない。
同じように下顎に力が入らない。
まるでギアが違うように筋肉の動きが変わってしまう。
中心から外に出ておいでというお誘いはまだそこら中にある。
数々の妄想、欲しい物、攻撃対象の形で現れる。
巧妙なのは技法の誘いだ。
中心にとどまるコツというやつだ。
コツという外に仕掛けてある罠。
コツを掴んだ瞬間に放り出される。
だから長い間、一歩も前に進めなかった。
コツなんかなかったんだ。
真の「中心」とは確認作業からの解放となる。
今はこの解放がうれしい。
私の記憶が正しければ、昔、バグワンがこう言っていた。
「世間に疲れたら、ここに戻って来ればいい」って。
「世間」とはAC人格で、「ここ」とは正にここ、この「中心」だ。
あの頃のサンニャシンたちは、あざ笑って言うだろう…
「今頃そんなこと言ってるの?」ってね。
そう、今頃、言うんだよ!
笑われるのを覚悟で言うんだよ!
あの頃は「世間」に疲れたふりをしていただけだった。
でも今はもう本当に「世間」に疲れた。
繰り返すことに疲れた。
・・・・・
アシュラム時代、よく「死」を妄想し、語った。
間近に感じないからこそできたことだった。
ある日、インドから日本への帰り道、
師がこう囁いたかに思えた。
「味わってみるかね?」
中略
本当に怖かった。
ほとんど諦めた。
死そのものより、
一瞬だろうけど死ぬ直前の体の痛みはどれほどのものかと恐れた。
そして日本に帰ってから継続するであろう
「楽しみ」が断たれることを恐怖した。
その恐怖は身体中に痛みを走らせた。
怖い、怖いが痛みとなって体を襲った。
そこを脱した時、私の声は出なかった。
しばらくの間、恐怖のあまり失語症になっていた。
これ以来、私は「死」について偉そうに語るのがイヤになった。
長い月日が流れ、
無明庵の禅書で崩残さんとのメールのやり取りが始まった。
2度目の依頼で私は愚かにも「死」という字をお願いした。
こてんぱんに叩きのめされた。
「本当にあっち側から書いたらこういう字になりますよ」と…
PC画面に現れた「死」の一字。
絶句した。
前回頂いた「生死」の書、
「死」の文字が走っているように見える。
焦りを感じる。
でもこの焦りに躊躇はない。
焦ろう。
復元回数 ***回です。
自我判定をお願い致します。
2015/12/25
十記丸
______________________________
●この方には、無無心の書を、まだ受け付け始めた初期のころに、
「無無心の書」を書きました。
今でも印象に残っています。
私の好きな書のひとつで、失敗作をうちに飾ってあります。
自分が描いたという感覚が常になく、他者の作品を見るようにみています。
そのように、自然に出来たものなので、気にいったものがいくつもあります。
自我復元への所感
今回の報告の方は、自我復元の方は、おとさたがない時期もあり、
ある時期から本格的に始まりました。
トラウマ掘りやAC人格分析といっても、人によりいろいろです。
未だに、この期に及んでも、何かのパソコンゲームか、
資格取得ゲームでもやっているような感覚でしか出来ない人もいれば、
他者との競争意識に悪用してしまう人もいれば、
トラウマ掘りさえ、やっているフリになってしまう人。
結局、不満など自覚できずに、ただ漠然とした不満や不安の中で、
無明庵以外に、あちこちに手を出しては、
時間をつぶしているだけの人たち。
■そんな中でも、トラウマを掘るということは、
のちに、全く役に立たなかった、ということはあり得ないと思います。
中途半端に終わった人にでさえ、掘らずにいたよりはマシだった、
という、そういうものは残ります。
つらいだけで、結局、今日も、家庭内や職場では、惨めな思いが続いている、
そういう人がいたとしても、それでも少しでも掘ったということは、
(むろん、徹底して掘らねば駄目ですが)、
長い目で見れば「もう一度、本気で掘る時」がくる「かも」しれません。
■ただし、それも「俺は掘ったことぐらいある」という、
ただ、そこが主張したいだけの、
「そんなの出来ました」AC人格、
「そんなの、やりました」AC人格では、どうにもなりません。
■掘ることは掘っても、
「動機が、他人に認められたい、他者承認でした。すいません」
などということを自分で書いていた、
そういう自我復元そのものに失礼なブログは、むろん削除していただきました。
トラウマを中途半端に掘っただけ、という事例は、
実は、おそろしく膨大な量、
「普通の心理カウンセリング」の現場にはあります。
ほとんどすべてが、中途で終わっています。
結婚したり、経済的に自立して、どうにか親と「物理的な距離だけは取れた」、
ということにすぎず、精神的には、一生、親の奴隷のままです。
■むろん、かなりの改善を見せるケースが、稀にあるのですが、
本人自身も、自分が変わったという自覚は持てません。
だいぶ楽にはなった、というところが限界のようです。
また、自我率だけが、全自我になっても、トラウマ掘りが出来ない、
または、終わっていない、という人も、何人かいます。
■今回の方は、私から見ていて、少し印象深いスタートでした。
トラウマ掘りを、「課題とされている。だからしなければならない」、
といった動機から始める人も、むろんいます。
一方で、お姫ちゃんや、マディアさんのように、
事前に、そうしたトラウマを自覚して「知っていた場合」を除けば、
あびさんにしても、朱いはがねさん、にしても、
トラウマを掘るということは「はじめての行為」だったと思います。
ですから、事前に自覚していない人でも、掘り進めるうちに、
とんでもない岩盤の障害物を見ることになることも多くあります。
■しかし、十記丸さんは、違っていました。
ある時期までは、おとさたなし。
しかし、最初に掘り始めたときに、
「もう、覚悟をしないとならない。もう誤魔化せない」
そのような言葉があったのを記憶しています。
ですから、その後は、ペースはゆっくりなのですが、
どの報告ひとつとっても、飾ったところもなく、
どう見られるかを気にしているのでもなく、
本人が自分をとにかく掘っている、
その純度というか、本当に「子供である自分」を思い出そうとしていました。
その意識の向き方が、自我率だけ全自我や、全自我に近くても、
なかなか、そうはいかない、他の人たちとは、格段に違っていました。
つまり、覚悟を決めてから、トラウマ掘りにかかった、
という点の本腰のいれ方が、違っていたのです。
■せっかく掘りはじめてからも、
掘り方そのものが、AC人格という人は、前は本当に多かったです。
しかし、まだ今でもいます。
それは、「最初は、しかたないこと」とは言っても、
「いつまでたっても」、そのままの人がいます。
ただ続けているというだけで、生命感がありません。
この原因は、自我復元の技法や体系に問題がない、
ということは、私は十分すぎるほどに確認しましたので、
原因の特定は簡単です。
それは、いまだに、あれほど重要だといい続けた、
「感情」を、AC人格の雲が覆っているということです。
子供の時に持っていた意志、感情、つまり原主体を、
取り戻せていないということです。
原因は、トラウマやAC人格分析の不足にあるのではなく、
>「AC人格が、使い物にならない」という実体験の、
>圧倒的な「経験不足」です。
■その人たちは、今までにも、
いろいろなトラウマを列挙して並べて、整理したのに、
その行為自体が、AC人格の振る舞いのままになり、
そのまま、変化は何も起きない。
楽しい「ふり」も、
トラウマAC人格を理解したフリも、長続きしない。
そうやって、くすぶったまま、報告することもなくなってゆく。
トラウマを知っても、それだけでは、現実にはまるで役立たず。
■このことの打破に、大きなヒントになるのが、
あびさんの「リハビリ日記」です。
が、その話はおいておいて、
十記丸さんは、いったん掘ると決意してからは、
その後は、本当に、その掘りかたに、曇りがない。
言葉は静かなのだけど、必死さが一環している。
掘りながら、あちこち、横目で、違うところをチラ見している人が多いなかで、
決して、ペースは速くはないのですが、
しかし、一点を見据えて、肝心なところを掘っている。
トラウマを掘っている人たちは、私がその背中(文章)を見れば、
やはり、やり通せそうな人と、そうでない人は、わかるものです。
ただし、それも、
ある時に、突如として変わる事も、よくありますので、わかりません。
良くも変われば、悪化もします。
悪化する事例も、ありましたので。
***************************
■自我復元という、この実験における、興味深い変化といえば、
第一期の、全自我達成のグループだった、
マディアさんと、お姫ちゃんが、
比較的、個人的なトラウマ掘りの連続だったのに対して、
特に、あびさんのその報告は、
「AC人格のやり方、心身を使った、その手口」を、
相当に「情報開示」しているという点です。
だから、同じ症状や、現実逃避に走りそうなった人、
あるいは走ってしまった人にとっては、その原因を、
皆さんに代わって、分析してくれているわけです。
ある意味で、公共性のある、共通の知恵となるもの、
そういったものが、顕著に出てきたのが、
あびさんとのここ一年の報告でした。
あきらかに流れが、それ以前の、
「個人的トラウマ掘りに留まっていたもの」とは違います。
自我復元で、つまづいた人たちが、共有できる、
一般公開されている、AC人格の抹殺法の「戦略」のヒントというものが、
ここ一年、特に半年間の、あびさんの報告には多数ありました。
トラウマ掘りではなく、その次の段階の、
AC人格解除、打破の段階で、あびさんの報告が参考になる点が多いということです。
■技法的な問題でいえば、
お姫ちゃんは、別に前世を掘ったわけではなく、
AC病の治療からは、退院しましたので、
過去生の探索は必須項目ではありません。
今のところ、あびさんと、マディアさん以外に、
正確に視線が曲がらずに、前の生から因果関係を引き出せた人は、
他には誰もいません。
他の人たちは、すべて、誤認だらけでした。
■次に、「胸で整形して脳に送る」
最初の二人はこれで、全自我になっています。
が、「中心を探り、中心に休む」というこの技法が取り入れられた
その瞬間から、少なくとも、
あびさん、朱いはがねさん、十記丸さん、
この3人に関して言えば、それが明確に、起動を起こしています。
■一方で、他の人たちは、ピンキリですが、
全自我判定をされた人も、そうでない人も含めて、
「中心の技法」のことを、いくら報告してきても、
思い込み以上のことは、まるで何も起きていませんでした。
このことから、やはり、中心を探り、中心に休むという技法は、
その人が、どれだけトラウマを掘ったか、どれだけのAC人格を
本気で抹殺しなければならない必要性に迫られているか、
という時期や状態と、
非常に深い関係(作動の条件)があることまでは分かってきました。
実際、トラウマも掘れていない人は、
いくら中心の技法をしても、その報告内容では、
ただの自己暗示にすぎないことしか起きていないからです。
■その点では、マディアさんと、お姫ちゃんは、この年末に、
ぜひ、「中心を探る、中心に休む」という技法を取り込んでください。
全自我であっても、今まで持っていたものでは、対処できないこと、
こなさなければならないもの、新しく手にしないと実現できないことが
この先には、沢山あります。
退院して、リハビリは進んだと思いますが、
全く新しいことにチャレンジする場合には、その力や知恵は、
過去の中に見つけることは難しくなります。
だから、新しい、思いもよらない切り抜け方をしたい場合に、
その技法は役立つこともあります。
■もともと、この技法自体が、全自我を前提としてあったものですから、
ぜひ、まっとうな形で全自我である、お二人は試してください。
特に、私への報告は必要ありません。
ただし、本当に、準備の整った人の中で、これが起動した場合には、
「ただで済むわけはない」ので、
ブログに書かなくても、いつでも報告をください。
他者に言葉で説明をすると、
いろいろと誤解を受けるような経験もするかもしれませんので、
表では書かないほうがいいケースもありますので、
内緒で、私に知らせてください(^_^)。
■この投稿に、中心で休む技法についての、
3つのリンクが貼ってあります。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?S545
*********
■いっぽうで、私が幾度も釘を刺したように、
やってみて、
「早く何かをつかめなかったら、他の人に負けなんだ。そんなの嫌だ」
という悲観をする人も駄目ですし、逆に、
「ほら、こんなの私だって、わかっているさ、へらへらへら」
これだけが言いたいAC人格、
これも、脳みそが腐ってしまっていて、使い物になりません。
問題は、何をするにも、「動機」です。
「動機」を自問し、そこにAC人格は潜んでいないか?
つまり、今の自分がそうでない、と決め付けて、
もっと違う自分を望み、それを羨望して、
「いいな、いいな、ああ、なりたいな」、ではありません。
また、「いいな、いいな」、
「と、正直に羨めないのはAC人格だろうから、
正直に羨望するのは、これは正直で良いことなのだ」
これも完全な、歪んだ屈折です。(風琴さんのことですよ)
今が、どんなに望まない自分の状態であっても、
その自分に、正直に向き合うということです。
>その他の、どんなものに、救いを求めても、だめです。
もしも、あなたがその、今そうである自分を否定したら、
それは毒親がやったことと同じことを自分にすることになります。
ただし、勘違いしないでください。
私は、いくらでも皆さんを否定する自由があります。
世の中の他の「誰もが、あなたを否定する自由がある」のと同じです。
だから、私から肯定されたり評価されることなど、決して求めないでください。
私には、皆さんのことを否定をしてはならない、という掟はありません。
なぜならば、私は、「皆さんの 親ではない」からです。
そういう恨みごとや、他者から認められたい願望は、
あなたを駄目にした犯人の、あなたの親に向けてください。
■しかし、皆さんが「自分自身の現状を」、
親の言ったことに従って否定したり、
親に、反発する為に覚えた覚者や偉人の格言や、
その他の理屈で否定すれば、それこそが、毒親の思うつぼです。
なにしろ、それが毒親が自分に対しても子供のあなたに対しても
やり続けてきた「劣等感からくる」、他者「否定」と「軽蔑」だからです。
だから、自分を過大にも、過少にも、判断せずに、
とにかく「直視だけ」しようとして、見ようとする、その「正直さ」、
それ以外の動機では、トラウマやAC人格を掘ることは出来ません。
それでもなお
「私は、正直ですよ のフリ」
「直視をしてます のフリ」
しか出来ない人は、重度の精神病だと思ってださい。
■親の与えた価値観や、
精神世界の本やら、格言やら、宗教が与えた価値観や、
あるいはまた、私が無明庵というサイトの中で示唆した道や言葉ではなくて、
重要なのは、皆さんそれぞれの「自分」のことです。
十記丸さんも、結局のところ、解決したいのはその自分だったはず。
瞑想や導師は、その「本当に解決したいはずだったもの」から、
目を逸らすものに過ぎなかったのです。
ある意味では、
もしも、その導師という人が本物であれば、本物であったほど、
現実逃避の手段として関わったのならば、
その導師とTAOそのものに、本当に失礼なことをしていたことになります。
しかし、少なくとも十記丸さんは、もう、その失礼に当たらないです。
なぜならば、誤魔化しに、うんざりしたからです。
あびさんが、自分を裏切らないことを決意した、
その結果が、今のあびさんだとしたら、
十記丸さんは、「自分を誤魔化さないための自我復元」でいいのです。
■それにしても、
期間限定とは言っても、
毎日、自我復元ブログを書くと決めて、それを密度ある内容で実行する、
そんな人が出てくるとは、私も全く想像すらしていませんでした。
誰も後追いなどしなくていいですし、出来ないと思います。
あんなことを、おっぱじめたのは、
自我復元史上、あびさんが、最初で最後の人になると思います。
他の人は、また、それぞれに、ユニークであるか、
あるいは、いつか、ユニークになる可能性を秘めています。
● 『自分を 裏切れない』 リハビリ日記の巻
↓
http://mmjhb11.exblog.jp/i6/
______________________________
★
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