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[562]
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★分割自我復元★その562●【軽蔑を誤認するAC人格】●
by:
鈴木崩残
2016/01/04(Mon)11:35:16
上から目線に弱いAC人格
毒親の「お前馬鹿か」と
そうでない「お前馬鹿か」の違い
●世の中には、よく「上から目線だ」という言葉があります。
しかし、これについてよく考えたり、洞察しないで、
上から目線に対して、反応してしまうのがAC人格です。
毒親と同じAC人格が不愉快になり、相手に恨みを持つわけです。
みなさんも、「上から目線で言われた」と思い込むと、
不愉快になると思います。
不愉快になった結果、その不愉快さを逆手にとって、
「そういう上から目線が悪い」と、相手を攻撃する材料にしたり、
または、直接に攻撃できないと、心の中でメラメラ恨んでいます。
●しかし、上から目線というものを、よく理解もしていないのに、
自分が馬鹿にされた!と、とっさに思い込む者が多い。
たとえば、単なる「断定口調」は、上から目線ではない。
また仕事上その他の「命令」も、上から目線ではない。
対立意見を強く主張するのも、上から目線ではない。
上から目線とはその視線の中に「軽蔑」を含む場合だ。
●すると、相手を馬鹿にする視線での軽蔑の言葉を、
世間では、すぐさま「良くない」と単純にきめつけて、
善悪や人間性の問題だとして嫌悪する者が多い。
しかし実際には、
上から目線を「向けられる側にある問題」については、
熟考しようとしていない。
単なる(情報格差や力関係の上下による)弱者は、
本質的な意味では、軽蔑されることはない。
一番軽蔑されるのは「虚勢を張る者」なのである。
●世の中で、一番軽蔑され、馬鹿にされるのは、
実力や実績や実経験がないのに、
そのあやふやな根拠と自尊心だけに基づいて、
理屈や言葉での反論や、知識披露だけを一人前にする者である。
これのみは、徹底して軽蔑されてしかるべきである。
簡単に言うと、
「出来もしないのに、口だけだな、お前は」と言われるタイプの人間である。
●毒親というのは、
そもそも、自分自身が自分の親から、常に馬鹿にされたために、
今度は、自分の子供を小馬鹿にして、「お前は駄目な奴だ」、
「よって、こうしろああしろ」と、
「馬鹿にすることそのもの」が、目的、動機となっており、
それが子供、時には他人を代理復讐のサンドバックにしている場合である。
●しかし「馬鹿だと思うから軽蔑する」という場合には、ちゃんと正当性がある。
つまり「その動機が、とにかく馬鹿にすること」
「親切で言っているんだ」と言いながら、目的はAC人格、
これがまず先にあるのが、毒親のする、上から目線や軽蔑である。
一方で、本当に馬鹿だ、と思ったので相手にそういう場合には、
仮にそこに「軽蔑」を含んでいてさえも、
それは親から馬鹿にされたから、他人を馬鹿にしたい、という
「無自覚の動機」が先にあるのではなく、
「真に馬鹿だと思っている」のがその言動の理由です。
この違いを理解しない人が物凄く多い。
特に、AC人格者は、まったく理解できません。
●こうした、思考や感情の「微妙な差異」を自覚していない、
または相手の中に観察していない人は、
軽蔑したり、馬鹿にする事=上から目線で、自分のことを馬鹿にしたがっている、
と、あっと言う間に被害妄想になり、敵意をあらわにする。
だが、本来は、相手を馬鹿だと思ったら「馬鹿だ」と言えばいい。
それをしないで抑圧するから「慇懃無礼な態度のゾンビ」になるのである。
「ボク、別に、あなたのこと、馬鹿になんか、していませんよー。
僕ちゃんの言葉のどこに、見下しがありますかぁー?
わたちは、尊敬できる人は、ちゃんと尊敬も、ちますよー」
というタイプの、思いっきり腐った悪臭のする、ゾンビもいます。
●平たく言うと、
誰だって、別に好き好んで、他人を馬鹿にしたくはないのだが、
あまりに馬鹿げていれば、馬鹿にしたくなるのは「自然な事」であり、
なおかつ、相手が口先だけの人間ならば、
それに「軽蔑心」を抱いても「当然」なのである。
その軽蔑を「悪いことだ」とか「親を馬鹿にするな」
そんなことを叩き込まれてしまい、
軽蔑心を、礼節などで包むから、あなたは陰険人間になったのです。
そういう意味では、
「アホ、ボケ、カス」が、連発される、関西の方が東京より健全だと私は思う。
●それで思い出しましたが、外見と性格が、むちゃくちゃ可愛いとか、
知的とか、かしこいとか、スタイルがいいとか、静かな人とか、
いろんな女性とお付き合いしましたけど、
内面的に見て一番イケていて、まともだったのが、大阪の女性でした。
奈良や京都、ではなくて「ずばり、大阪女性」です。
控えめな人でさえも、「ぶっちゃけて」いたように記憶している。
もっとも生粋の大阪女性とは言っても、
家庭事情での、機能不全家族のトラウマAC人格持ちも当然あるわけです。
なので、あまり夢は見ないつもりですが、
私が次に、晩年にお付き合いするとしたら、
がぜん、大阪女性にすると決めています。
あんまり私自身が、そもそも関東圏の乗りではないのだと思います。
●そういえば、オカルトの世界でも、学問の世界でも、
講演に行くと、東京人は、とにかく、おとなしくて暗いと、
いろんな人から聞きました。
東京だけではなくて、特定の都道府県は、まったく自主性がなく
同調圧力のぶっかたまりのように感じる会場の雰囲気があるそうです。
(確か、山口県がその点で酷いらしい)
それと対照的に、皆さん口をそろえて言うのは、
「大阪行ったら、ちゃうぞ。
もーう、みんな、我も我もと、ガンガン、質問しまくりよる。
大阪での講習会は、やりがいあるねー」と、
この大阪人の性質は、今も昔も変わらないと思います。
●大昔、料理屋でバイトをしていたときに、ある支店の店長が
大阪人で、まだ私と数歳しか違わない20代前半のあんちゃんでしたが、
こう言ったことがありました。
「おい、鈴木。 なんか自分(俺という意味)文句あったら、言うてや。
心の中で思っとるのは、こっちも、気持ち悪いんや。」
で、私はこういう性格なので「店長、ちょっと、あれ***だよ」
というと、その店長は、
「おう、わかった。 言ってくれて、おおきに な」
なんとも、さっぱりしたもんです。
「各家庭」の機能不全家族状態はあるのでしょうし、
どこも同じかどうかは知りませんが、
その彼は、そういう大阪の「風土」の中で育ったのかもしれません。
*********
●今回、もうひとつ気づいたのは、
「軽蔑」をされやすい人がいる、ということでした。
既に書いたように、馬鹿にされるのを通り越して、
軽蔑までされやすい人というのは、きまって、
「口先だけで、反論したり、口先だけの人」です。
何も言わなければ、まだ追加攻撃をされないで済むのに、
出来もしないことを、偉そうに言ったり、虚勢を張るために、
「だったら、お前、***してみろよ。出来ないのに言うな」
と、そうやって、黙っていれば、ただ馬鹿に思われたのが、
「軽蔑」の対象にまで進化します。
●で、この手の人たち、つまり軽蔑をされやすい人というのは、
軽蔑をする人のことを、面と向かって、または影で、非難します。
しかし、既に書いたように、
他人を馬鹿にすることも、もっといえば、軽蔑することも、
私は、まったく悪いとは思っていません。
馬鹿だと思うところがあれば、馬鹿だと思い、それを口に出したり
書いたりします。
さらには、口先ばっかりの人間というのは、
たとえ私でなくても、その人は、日ごろから周囲からも、
「軽蔑されている」と思います。
●なぜそうなるのかの原因は、ひとつは既に言ったように、
出来ないとか、わからない、という現実の中に留まらずに、
出来るんだ、わかっているんだという虚勢を張るためです。
すると、余計に馬鹿にされるのは、当たり前のことなのです。
また、馬鹿にされまいとする動機そのものが、
その人の言動をぎこちなくしてしまい、
結果として、馬鹿にされてしまう、という失態も、AC人格はやってしまいます。
しかし、「もうひとつの原因」がここにあります。
このほうが、「より深刻」なのですが、その本人は、気づけません。
●それは、そのAC人格者が、自分でも無自覚のうちに、
「怒りを向ける他人 という獲物を 探していた場合」です。
これは、「馬鹿できる他人、という獲物」を探し回っているタイプの
AC人格とは少し性質が異なります。
これは、「自分を馬鹿にして、軽蔑するような人を、わざわざ、
探し回って、かぎつけて、そういう人間のところに転がり込みます」
なぜ、必ず不快になる結果を招く、そのようなところに、
無自覚のまま、自分から入っていってしまうのか?と思うでしょうが、
そこには明確なAC人格の動機があります。
それは、「自分を、いじめたり、軽蔑したり、馬鹿にする他者」
というものが、いてくれてこそ、その本人は、
その相手を「常に怒りをぶちまける対象に仕立てられる」からです。
「あいつは、私をいつも軽蔑している。馬鹿にしやがって」
と、そうやって、自分の怒りの炎を絶やさないようにしています。
「怒り中毒」というやつです。
●誰もが、平和を望んでいるはずで、
怒りなどは自己嫌悪するだけだから、
そんなものが生じるようなところに自分から飛び込むなど、
そんなの信じられない、
とか言っている、そこのあなた、
この掲示板を見ているたくさんの人たち。
その人たちは、自分の親に対して、直接的な戦いをしなかった、
してこなかった、できなかった、
単に親から逃げた、ということであれば、
その感情が行き場がなく、その恨みつらみに出口がないために、
「結果として、誰かを恨めるようになる状況や他人」、
これを常に、自分で引き寄せているわけです。
表面では、穏やかな生活がいいといいながら、
無自覚ACの本心のひとつ(全部ではないですが)は、
「親への恨みを、他の誰かに向けて、晴らしてやる。
しかし、自分が相手を見下して、軽蔑できるチャンスはなかなかこない。
だったらば、相手が、私を馬鹿にして軽蔑したくなるような言動を、
この私自身がすればいい。
そうすれば、そこで、私を軽蔑するその相手を私は憎めばいいんだ。
よし、これならば、成功率がすごく高い」
こう自動的に考えたAC人格がいきつくところのひとつが、
学校であれ、職場であれ、「いじめ被害者」です。
しかし、この人たちの無自覚の本音は、
毒親への仕返しのはけ口を、探しているので、
被害者のように振る舞い、「自分は傷ついたんだ」と大声で言いながら、
実は、もっとも悪質な「加害者」にも豹変します。
●私はこうした事例もいくつか見ました。
そして、そういう人たちは、心の中では、
「軽蔑する人を、自分は人間として軽蔑するね。
私の軽蔑の方が勝ちだ」
そんなことまで考えるほど、頭が腐った「見下し屋」なのです。
だから、たいていは前世で、他人に対して、ロクなことをしていません。
被害者ではなく、加害者だったことがほとんどです。
●たまたま、今回女性に生まれたりすると、
馬鹿にして軽蔑するという立場が、社会的な理由で、
上手く利用できない場合も多くあります。
そして、いじめの対象となる弱い者(頭が悪いとか、性格が悪いも同じ)
が見つからない場合には、
本人自身が馬鹿にされ、軽蔑されるように行動を、
自分では、「まったくそのつもりなし」に無自覚に演じてしまい、
その結果、最終的に、その者が手にするのは、
「他者への恨み」です。
毒親に対する恨みすらも、直接にぶつけられなかった、
というケースのAC人格者が、
そもそも、他人に直接にぶつけられるほど、
ストレートなわけが絶対にありません。
そうなると、何かの理由をつけて怒りや、恨みを作り出すことで
「親への恨みを継続することが動機」となります。
その方法のひとつが、
相手から馬鹿にされる「状況を無意識に生み出す」という事です。
たぶん、そういう本人自身は、必死に否定するでしょうが、
まぎれもなく
「喧嘩売ってください。私それを買って、口には出しませんが、
心の中で、恨んで、反撃したいですから」
これがAC人格の声です。
だから、そんな大人や、そんな社会や、
そんな相手にめぐり合ってばかりなのです。
>「怒りを向ける相手探し」です。
●一方で、毒親のAC人格が、
馬鹿に出来る相手を、うろうろと探している場合には、
あびさんの毒父のような「お前、馬鹿か」を、常に身内や弱者に言いたい、
常に、馬鹿にする対象を「探しているタイプ」と言えます。
このタイプは、自分が馬鹿にされることには、異常に過敏になるという、
わかりやすい、攻撃型タイプです。
●いっぽうで、「馬鹿にする対象」を探すのではなくて、
そうと知らずに、「馬鹿にしてくれる相手」のところへ行ってしまう、
そういう無自覚の作用もあります。
既に言ったように、その矛盾した行動の動機は、
「怒りでキレることなど、私は求めるはずがない」と口ではいいながら、
結果的には、怒りと、不満、不平、恨みごと、憎悪、ばかりが目立つ
人生となっています。
しかも、それを相手に直接にぶつけないことがほとんどです。
なにしろ、本音は、
>「毒親に対しての怒りを維持したいの」ですから、当たり前ですよね。
親に、少しだけ怒っただけで、怒りつくせなかった場合、
怒りを向けたが、相手に届かずとか、結局はどこかで負けた場合に、
必ずこれが起きています。「怒りの不完全燃焼」です。
そういう意味で、AC人格というのは、手が込んでいます。
*********
●ちなみに、無明庵の本を、皆さんは読んでいるでしょうし、
この無明庵の掲示板も、何年も見てきたでしょうが、
既刊の本の内容でも、または、ここで私が語っている中でも、
私は、毒親問題やAC人格に対してだけではなく、
思いっきり、何かを、馬鹿にして、軽蔑もします。
ぜんぜん、私はそれを、悪いと思っていないからです。
また皆さんだって、
「いつも軽蔑したい病」からではないものだ、と自負できる場合に限っては、
職場や過程で、本当に、その時に、相手や物事が馬鹿だと思ったら、
相手や対象にかまわずに、言えばいいのです。
言わなくても、顔で馬鹿にした感情を表現をしてもいいのです。
「何を俺のことを馬鹿にしてんだ、その顔は?」
と相手が言ったら、「その理由を言えばいいだけ」です。
馬鹿だと思うには「理由」があるのですから。
その理由が正当性があると、本気で自分で自信を持っているならば、
言えばいいのです。
私が馬鹿にするときには、それは相手の「偽善」であったり、
「いつも、いつも、口先だけの人」であったり、
軽蔑されて当然だと、私個人が、そう認識した相手や対象物ならば、
徹底的な、軽蔑戦争、見下しのやりあい、ケンカ上等です。
これがかつて、私が他の掲示板でやりつくしたことです。
●なぜならば、私は、軽蔑対象を探しているのではないからです。
AC人格の場合には、親から馬鹿にされた八つ当たりに、
自分が軽蔑できる対象の獲物を、目を光らせて探し回っているのがその特徴で、
見るからに、その表情や文章は、死んでいて生気がなく、
言葉の使い方も、暗く、陰湿で、陰険で、
回りくどくて、しかも、あれこれの言い訳が多いものです。
●しかし、私だって、人々や人類や、世界を見るときに、
出来れば、馬鹿にするようなものは見たくありませんし、
軽蔑するようなものに接したくはありません。
しかし、どこから、どう見ても、
馬鹿らしく見えたもの、軽蔑にすら値すると思ったもの、
そういったものが、書かれているのが、無明庵の掲示板であり、
また、皆さんは、無明庵の別のシリーズの
「ひきつりながら読む精神世界」を、面白がって読んだわけですよ。
あれは、全部、「馬鹿にしている」のです。
それ以外の何がありますか?
見下しているのです。
軽蔑もしています。
しかし、あなただって、ああやって、言われてみれば、
偽善や、みっともない虚栄心の中に生きている、ある「猿」は、
荘子から軽蔑されて当然だ、
そう思ったからこそ、皆さんは、
あの手の本を読んで、笑ったり、苦笑したり共感できたのです。
●だから、あなたも、家庭や、職場で、
誰かが馬鹿げたことをしていると率直に思ったら、
まわりくどい軽蔑ではなく、「馬鹿みたいだと私は思う。私はね」
と言えばいいのです。
それで相手が不快になっても、それこそ、大阪人みたいに、
「一方的ではなくて、
あんたも、わしの気にいらんところがあったら、言うてな」
と言えばいいのです。
そもそも、馬鹿にすること、軽蔑することは悪い、よくないと決め付けずに、
双方で、思いっきり、相手を馬鹿にして、軽蔑すればいいのです。
ただし、「本気で、そう思った場合」に限ります。
そうなれば、自分が相手を馬鹿にするときに
「遠慮が入りません」から。
●そうやって、お互いに軽蔑しまくれば、どこかでそれは自然に
あるところに落ち着いて、バランスが取れて、そのうち、
相手の言い分の一部は、認めるようになるものなのです。
そういう、
「軽蔑合戦を、社会や他者と、面とむかってやってこなかったAC人格者」とは、
それこそが、「世間知らず」の何たるかであり、
争いや嫌いだ、平和がいい、と言いながら、
「平和を乱す奴は許さん、ぶっ殺してやる」といわんばかりに、
実は、腹黒いほど、上から目線なのである、
こうことを、社会生活をしていて、
物事への違和感として、発見する人は、多いはずです。
*********
概要を、もう一度いいますと、
AC人格者の、半分ぐらいは、「見下したい」が主たる動機です。
原因は、親から見下されたからだけです。
もう半分ぐらいは、その「見下したい」という思考が意識化されておらず、
他人を見下したいなどと自分は思っていない、と本人が思っているだけで、
結果としては、「怒りを想起させるような相手」を引き寄せたり、
自分から、そこへ飛び込んでしまい、
そこで「相手に怒り、相手を恨み」、
そして、最終的には、「見下す」ことに成功する、
そういう、回りくどい「軽蔑」を達成して満足するタイプのAC人格です。
●だから、世の中のACには、
被害者づらした「上から目線」というものがある。
何でも「自分は、あんたのせいで萎縮したんだ」と 相手のせいにして、
その事自体が「立派な上から目線」だとは気づかない。
親あるいは社会に面と向かってこない鬱憤を、他人にぶつけている。
「面と向かって親にぶつけた事だってあります」と口ではいうものの、
客観的に見れば、成果がなく、結果的には敗北している。
しかも、プライドだけ、はあるようで、
「自分は、下から目線なんて屈辱的な状態ではないんだ」とも言い張る。
私に言わせれば、真の「世間馴れ」というものは、
双方が、思いっきり上から目線で、それぞれに、相手をどっちも見下げている、
そういう「やりあい」の場数を踏んで、それを通じて、
それで次第にバランスが取れて、相手の言い分を聞くようになるものである。
しかし、AC人格者は、
ことの最初から、
「相手が上から目線だ、だから私は、つらくなる、
何も言えなくなったのは、お前のせいだ!」
そう決め付けて、ふてくされ、文句をたれ続けるだけで終わるのです。
●私が見てきた、いろいろな人たちの中に、私の目に見えたのは、
自然に、他者からも、対等に扱われていた人というのは、
そもそも「対等な付き合いに慣れて」いました。
または、不対等な関係を、対等な関係にもってゆく手順、
そういうプロセスを、沢山、社会で経験している。
その経験もなしに「対等に扱われない事にだけ文句を言う」から、
それこそが、まさに「世間知らず」と言われる所なのである。
いつまでも被害者でいて、ネチネチと恨みを抱えているか、
また、時には突発的に、「ここぞ、軽蔑できる場面だ」とばかりに、
加害者になってしまう、この手のタイプの人は、
何かの明確な「利害関係」でもそこにないかぎりは、
一人の人間としては、決して、誰からも対等には扱われません。
ただの、「気持ち悪い奴」と、普段からも、
周囲から思われていることは間違いないです。
*********
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