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★雑 記★NO.623【 パイプ煙草の喫味について & その他】●
by:
鈴木崩残
2016/08/14(Sun)09:38:59
喫味(きつみ)
●桜の間に全くの関係ない雑記である上に、
パイプについてなので、ほとんどの人はスルーしてください。
これまで、この掲示板でパイプ煙草の話題を書くときには、すべて、
口内喫煙によって得られる、必要最低限のニコチン摂取量のデータを取るためで、
味のことなど、全く度外視していました。
しかし、本日、ストックに買ってあった二つのパウチを開封して、燻らせた結果、
いくらなんでも、ニコチンだけを問題にするような、無味乾燥なことばかりを、
書いている気にはならなくなり、少しだけですが、
パイプの喫味について「ソムリエ口調」で語ってみます。
そうでないと、喫煙という文化について失礼になると思ったからです。
*********
今回は、どちらも2gだけ吹かしてみました。
【桃山】
数日分(数回分)だけを分けて別の容器に湿度管理をして保存して、
元の葉は、ビニールに密閉しました。
私は、左手の小指に、「タンパー」と呼ばれる、
パイプ用の道具をひっかけたまま喫煙する癖があります。
「3つの要素」にわけて感想を書きます。
>>1/パイプのボウルから立ち昇る「副流煙の香り」から感じたこと。
上品で、清潔にされている和室の空間のような香り。
ただし古い民家のそれではなく、また畳の香りを想起させるものでもない。
現代的に洗練された「和の接客室」という感じである。
>>2/鼻腔をくぐらせた「主流煙の香り」から感じたこと。
この煙草について名前からの連想のせいか「桃の香り」を感じるという
パイプスモーカーも見かけたのですが、確かに「柑橘系」っぽい香りがする。
しかし私の感じでは、この控えめな香りは、むしろ「梨」に近い。
>>3/口内の舌と頬で味わった「味」から感じたこと。
最後に味であるが、この味とは、鼻腔に感じる香りとは区別してみた。
すると、この濃厚な不思議な甘さを私なりに例えると、
「成熟した官能的な女性の、口紅の味」です。
わからない人には、全くわけのわからない表現ですいませんが、
この表現でいいと思いました。
こんなことを書くと、パイプ喫煙に興味を持ってしまう人もいるかもしれませんが、
現在、非喫煙者の方ならば、お勧めしません。
【コルツゴールドデラックス】
>>1/パイプのボウルから立ち昇る「副流煙の香り」から感じたこと。
歴史のある、それでいて古過ぎない築年数の図書館に入ったような落ち着いた香り。
>>2/鼻腔をくぐらせた「主流煙の香り」から感じたこと。
その図書館の一番奥にある扉をあけて、秘密の書庫に案内されたような香りで、
1とは違う野性味と深みと古さを香りに感じた。
>>3/口内の舌と頬で味わった「味」から感じたこと。
よく出来た「ミルク入りの飲料」のような味。
たとえば、それはよく出来たタンポポコーヒーに濃厚なミルクを入れ、
やや多めの砂糖が入っているような甘み。
最初は、「甘みのあるホットミルク」と表現しようと思ったのですが、
何か健康志向のハーブ入りのようでもあり、野生的な香りがかすかにあるので、
それをミルク入りのタンポポコーヒーと表現してみました。
________________________________
今回は、しょうもない投稿ですいません。
しかし、味と香りのあるものに対しては、ソムリエ的な表現をするのは
なかなか悪くない趣味というか、自分個人の感覚の確認法だと思いました。
何かを作る側ではなくて、味わったり、見たり聴いたりして、
評論をするだけの鑑賞側にとどまることは、私は少なかったのですが、
今までにそれをしたのは、香りに対してでした。
昔、香を探し回っていた時代がありましたが、パイプ煙草の香りも、
言うまでもないことですが、奥が深いと思います。
しかし、私はパイプにお金などかけていられる経済状況ではなく、
もともとが、ランニングコストを下げるためのパイプ煙草だったので、
私が買った種類はすごく限られます。
40g〜50gで、1000円前後のパウチ入りのものだけ。
私の体に何かの変化か?
●それで、せっかく今回、ようやくパイプの味わいが少しだけ分かってきた、
というのに、私の体にはある変化が起きています。
しばらく静観してみないと分からないのですが、
ここ4〜5日ほどずっと、朝の目覚めが物凄くいいのです。
まだ気力や、やる気は低迷していますが、
すくなくとも、底なしに落ちてゆく、ダウン系の禁煙鬱からは、
なんとなく出口が見えているような気がします。
とにかく朝は意識がすっきりしている。
しかし、昼ごろになると、血圧が上昇してしまい、しんどくなりますが。
●この午前中のすっきり感は、前日に、
微量(適量)のニコチンを口腔内から摂取しているせいで、
それの蓄積のによるものだろうと思っていたのですが、
どうも、そうとは言えない要素も感じています。
●いつか、数日間、パイプも吹かさずに、
ニコチンを断ってそのままにしておくことを今度してみますが、
まずは、ここのところは、ためしに、わざと、
ニコチンなしで、頭がすっきりしている午前中に、
そのままのすっきり感を味わったあとに、わざとパイプを燻らせてみました。
すると、喫煙から5分程度の地点では、少しだけ頭がくっきりするのですが、
そのあと数時間ほどは、逆に、少し何かのモヤがかかったようになります。
なので、ドーパミン放出のスイッチが押されるのはニコチン濃度が薄いときで、
ある程度の濃度になると、逆にセロトニン放出が刺激されるのではないかと推測しています。
しかし、今、私に必要なのは、どちらかというとリラックス系ではないので、
この変なリラックス感は「いらないもの」なので、どうしたものかと思っています。
●せっかく始めたパイプ喫煙ですが、これもやめて、普通に時間をかけた禁煙と脳のリハビリをする、
という道も、選択肢に入ってくるかもしれません。
パイプの口腔喫煙でニコチンがそれなりに摂取されているとは言え、
「そんな量じゃ足りない。しかしこれ以上のニコチンはもう入ってこないな」、
と諦めた私の脳が、アセチルコリンの自己生産を促進し始めた、
のであれば、それはそれでいいのですが・・・・実際には、どうなっていることやらです。
*********
二種類の死に方
●実際には、二種類以上、もっと細かいバリエーションがあると思いますが、
ここではざっくり二つのケースがありそうだという話です。
ひとつめの死に方、というか死ぬ前の状態は、一般的にも多い「継続型」です。
この継続型というのは、今回の生の最後に本人が持っていたパーソナリティーや記憶の一部を、
次に生まれた時にも、継続して活用する場合です。
または、この死に方をすると、おのずとそうなります。
今回の生と次の生が持続的に関係するためには、
死後もしばらく、今回の性質を温存する必要があります。
その前段階として、死ぬ間際にも、それまでの生のパーソナリティーとの
自己同化がしっかりとしている必要があります。
たとえば、漫画家や作家や研究家が、死ぬ直前まで仕事をしていて、
仮に入院などをしていたとしても、「ノリ」が全く同じままで、
そのまま他界する場合です。
別に著名な人ではなく、町工場のおじさんや、主婦でも同じです。
とにかく、それまでのパーソナリティーそのままの状態で他界するということ。
この場合に、最も次へと受け継がれるのは「価値観」または「好み」です。
信念体系という場合もありますが、やはり全てを支えるのは関心の強さです。
●しかしもうひとつのケースは、末期でそうしたパーソナリティーを
保存したままであることを必要としない、または逆にそれが邪魔になる場合です。
その場合には、今回の生で親しんだ対象、良き思い出、保存したい記憶、
学んだこと、自分の好き嫌い、性質として身につけた技術、価値観を、
「自分のものである」と思う必要がありません。
次の生にまでは、それを継続しないからです。
●あとは、もうひとつありえるのは、末期が痴呆状態で他界した場合ですが、
これは、ちょっと私には、現時点では、推測材料がありません。
痴呆が入った場合に、自己同化が外れやすいのか、それとも、逆に、
一部の記憶との同化が強くなってしまうのかなどには、不明な点があります。
なので、これはちょっと横にどけておきます。
●死に際では、人は自分の今回の生の思い出も含めて、それ以外にも、
自己同化していた今回の肉体や、自分の個性と思っていた人格そのものが、
「本当にそこで終わるという本番の実感」に、躊躇する場合もあれば、
躊躇しない場合があります。
突然の事故死などの、死の自覚がなかった場合には、死ぬ間際ではなくて、
死んだ直後に自分の遺体を見て、少し躊躇するかもしれませんが、
一般的には、事態を理解して、諦めるのはわりと早いような感じがします。
●これに対して、まだ死んでいない、死に際で死がやってきた実感を明確にすると、
いろいろな躊躇が生ずることがあるものです。
普通は、死期を告知されていないかぎりは、死はわりと突然に訪れるものです。
が、もしも上手く、何度も死の際で、死の「実感」に巻き込まれることが出来れば、
その都度、自分がまだ自己同化しているものや、または、次の生でも、
自己同化しても良いと感じられるもの、
あるいは、これは次にはいらないものだ、など、
そうした「準備」を、何度かリハーサルとして出来るのだろうと思います。
●実は、私がわりと現在、経験しているのは、これです。
異常に高い血圧の急上昇(一日の中で、たまに上の血圧が190とか200に達する)
に伴って、脳血管に何かの負担がかかっているのかは分かりませんが、
死が少し近づいたり、遠のいたりする感じの繰り返しです。
いきなり死の本番が来るのではなくて、
毎回、いろいろな自分の意志の有無の確認が何度が出来るのが利点です。
もっとも、こういうことを言いながら、しぶとく長く生きたりするケースが
多いものですけどね。
●それで、私の場合には、死ぬ直前には、今回の生で経験した、
「ほぼ全部」のコンテンツ(価値観、意識状態、好み)から、
切り離される必要があると感じています。
というか、2015年の時点から、その流れに乗っているとしか思えません。
なので、まだ生きている今現在の時点から、今までに生きた自分の生が、
他人事か、何か自分には関係ないようなものに、だんだんと変質してきています。
むろん記憶はちゃんとありますので、読者の方や知り合いを忘れたり、
具体的な記憶を喪失したりはしませんが、
三日前の夜に食べたものを、すぐには思い出せないぐらいに、
今回の生を過ごしてきたはずの自分の性質の雰囲気とは、
ちょっと距離が離れてしまっています。
それで、ちょっと現在、問題を引き起こしているのは、
その現在の私というのが、今回の生を生きて行くのに必要なすべての要素を、
ほぼ失っているということです。
今はぎりぎりでまだありますが、今後はどんどん失いそうです。
なぜ失うかというと、冒頭に書いたように、私の死後が、おそらくは、
「継続型」の移動ではなくて、別モノに乗り換える可能性が高いからです。
その別モノにとっては、今回私が経験した生の記憶は、ほぼ全部必要ないどころか、
むしろ邪魔になるので、脱ぎ捨てろというわけです。
しかし、脱ぎ捨てても、まだ、しばらくまだ生きている間があるとすると、
それが何ヶ月か、何年になるか分かりませんが、
その期間は、私は完全に社会不適合者となるだろうと予測しています。
私自身は、それが悪いことだとは思わないですし、必要なプロセスだと思いますが、
私の周囲にとっては、迷惑な人間になると思います。
なぜならば、次では今回の生の記憶が必要がないということで、
ここで生きるための手段、関心の対象を放棄してしまうことになるわけです。
(実際、関心が希薄すぎるほど希薄になっています)
そこで現在、この不安定な状態から、どうするのが良いのか?と思案しているのは、
残りの人生の時間に、今までとは全く違う生存方法を臨時に確立するか、
それとも、それをも放棄するかです。
すくなくとも、長く無明庵という出版元を運営してきた私の性質や関心を、
今後も継続する方法は、今のところ、手立てはほとんどないと踏んでいます。
●最近の投稿でも書きましたが、
もともと、この微妙なトラブルを生み出してしまったのは、
2015年に、3度もやってきた「迎え舟」に乗らなかったせいです。
特に乗らない理由もなかったのですが、特に乗る理由もなかったので、
せっかく、わざわざ来てくれていた「列車に乗り損ねたようなもの」です。
こうなると、次に死するタイミングを、サポートしたり準備してくれないので、
死のデザインを、自分でやらないとならないわけです。
こういう事故というか、予定外のことが起きることが予測できていれば、
時間をかけて死ぬための余生を過ごすための、生計を立てる手立て、
たとえば、売れないアートをチンタラと作って、死ぬまでの間、細々と生存するとか、
または貯蓄というものを、事前に準備すべきでしたが、手遅れかもしれません。
とにかく、この24年間、目の前にあるもの、
目の前にやってきたもの、それにただ対処し続けてきただけで、
私には何の計画性もなく、生活の保障も求めませんでした。
生活の保証や安定を全く求めないで、生き延びようと意識すらしないからこそ、
どういうわけかコケずに、奇跡的に続いた24年間でしたが、
私が経験したことは、すべて著作、その他としての出力を終わりました。
自分の経験や性質それ自体が「表現の為の道具」であることを選んだので、
私の中に、個人的な所有物として経験や知識や技術を、
死ぬ最後の時まで蓄積している必要はないわけです。
ただ、何かがこの意識や個体を通過するだけの生だった、といった感じです。
なので、使い道が全くなくなった、この「スクラップとしての私」を、
自分でどう処分するか?、ということに、もっぱら最近は、関心があります。
●少し前にも書きましたが、現在の私の状態というものは、
非継続型の「死」に向かうベクトルにあることを前提とした場合には、
これ以上ないぐらいに理想的な状態に近いのですが、
それ以外には全く何のメリットもないために、
もしも死を前提としない場合には(つまり生き延びるのでれば)、
この状態は、生存するのには、全く何の役にも立ちません。
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