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[627]
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★近 況★NO.627【 『老い』を早めに体験したい 】●
by:
鈴木崩残
2016/08/28(Sun)08:46:56
「老いの喫味」
『超』
●本題に入る前に、血圧の話です。
最近、以下の4種類の「作用する仕組みの違う」降圧剤をネットで買いました。
一回の服用量が、一個の錠剤を、錠剤用カッターで、
半分とか1/4に割って使わないとならないものもあって、少し面倒です。
↓
日常的に使うというのではなく、緊急用としてです。
「緊急用」というのは、私の血圧の上が200を超えた場合です。
降圧剤は、とにかく副作用の悪評が多いので、めったには飲まないつもりです。
ちなみに、3種類試して、早速2種類に、かなりひどい副作用が出ました。
(動悸、足の脱力、それに、他人の話している事が三分の一しか理解できない、
といった、もはや認知障害のような副作用まで出て、踏んだり蹴ったりでした。)
●ここ最近、気温が涼しいせいか、夏場より楽になりましたが、それでも血圧の上下は平均すると、
上は、160〜180、下は、110〜125です。
今朝などは、一時的に、上が186 下が133まで上がりました。
●ところで、医療機関で言っている高血圧の数値設定が低すぎるという見解があり、
これはいくつかのブログやサイトで私も見ました。
たとえば、
↓
http://syosakoi.kansya1000.com/entry/2015/02/05/204603
この人も言っているように、血圧を測定するというのは、通院したり入院した時だけなので、
そもそも、自宅で血圧をチェックしている人というのが少ないので、
普通の人は、いつもの血圧というのが分かりません。
私は退院する時に、
「血圧が高いままで心配だから、必ず血圧計を買って測ってください」
といわれたので、好奇心半分で3000円ぐらいのを買いました。
私の買った「シチズン」の血圧計はお勧めです。
それで私の場合には、リンク先の血圧に関する見解を参照したとしても、
なおも、中程度から重度の高血圧と考えられますので、
異常に上昇したままになったときのために、血圧降下剤を買いました。
ひとつずつ試している最中ですが、全く効果のないものもありました。
飲んでから4時間ぐらいしないと高圧効果が出ないものもあり、
それこそ、そんなものでは「緊急時には間に合わないという矛盾」もあります。
リンク先のブログの人が救急車で運ばれたときには、血圧200とか
隊員の人が言っていたらしいですが、だとすると、いつぞやの私の216って、
緊急搬送レベルだったということでしょうか?
というか、上の血圧が、180とか、190とか、しょっちゅうなんですけどね。
そもそも、高血圧はその9割が「原因が特定できない」らしい。
たとえば、こういう「生活習慣」を原因とする記述がよくありますが、
>肥満、タバコ、酒の飲み過ぎ、食べ過ぎ、偏った食事、運動不足、
>ストレス、睡眠不足、塩分過多などいろいろな要因が考えられます。
私の場合は、ほとんどどれにも該当しないのです。
運動不足といっても自転車で坂道も漕いでいるし、たまに手裏剣も投げていたので、
別に、過度の運動不足ではありませんでした。
煙草は、「肺喫煙」を完全にやめてから、もうすぐ、まる半年になりますので、
煙草が原因ではありません。
そもそも「入院時の検査では正常値だったものが、
入院中にすでに血圧上昇が開始していたので、
原因は、やはり入院中の何らかの事象にありそうです。
入院中の食事は、当然、糖分は控えめです。
ひとつの可能性は、準備なしの急激な禁煙による脳内物質の枯渇で、
自律神経のバランスが、総合的かつ広範囲に崩れた可能性。
もうひとつは、前にも言いましたが、あの肺炎の初期の頭痛と吐き気と発熱が、
ストレスホルモンの分泌を暴走させて、そのままになってしまった可能性です。
この高血圧とは、私が短命なら短い付き合いで済みますが、
下手に長く生きてしまうと、長い付き合いになりそうです。
*********
●それで、ここからがタイトルに沿った話ですが、
これは、あくまでも私の個人的な話なので、
世情とか、世の中の動きには全く何も関係ありません。
前にも書きましたが、私は「死の最期まで、ぴんぴんしていた」
というのが、デザインまたは生の体験として、好みではありません。
最近、ようやく自分の現在経験していることの位置づけが固まりつつあるのですが、
どうやら、私は一般的には65〜80歳にかけて経験する「老い」という経験を、
60代になる前から、経験し始めているということです。
(早期から老いを経験できるような精神的な準備が出来たためです。
この場合の準備とは、やり残した事がほとんどないという事です)
今回の人生経験は、普通の人に比べると、かなり圧縮された濃度だったので、
ついでに老いの経験も10年以上早い時期からしておくのがいいと思いました。
これが本格的に65歳を超えてからだと、老いを観察している意識までもがボケてくるので、
そこまでいかないうちに、老いと向き合う経験を始めたいとも思いました。
●世間では、よく「まだ60歳より前なんて、若いですよ」とか、
いいかげんなことを、無責任に口にする人たちがほとんどですが、
いつ老いるか、いつ老いという経験をしようと、本人が決断するかは、
本人が決めることであって、
世間の労働の常識や、経済や社会の仕組みが決めるのではありません。
私は、親類などの身寄りもありませんし、同居している砂手にも
今後は迷惑をかけたり、足手まといにはなりたくないので、
とにかく体に重篤な不調が出始めたら、死を呼び寄せるという計画をしています。
これは、晩年に誰と同居するかに関係なく、ずっと若いころからそう決めていたことです。
ただし、今回は体調が崩れ始めてからまだ半年ですので、早急にではありませんが、
「今後の方向性」としては、着実に「死に向かうベクトル」そして「老い」を、
これから短期間に、かつ濃密に経験したいと思います。
●任意の生命体に、この「老い」の経験があるかどうか、
あるいは、自覚的な老いの経験が、他の生物にもあるのかどうか、とか、
別の次元世界では、老いというプロセス、
または「種族としての衰退感」といった主観的な経験があるかないか、
といった話は、横へおいておいて、
現時点での地球の肉体では、「老い」という経験もまた、
あるがままに経験してみるべき良いファクターであると、私は認識しています。
前の生の話は、根拠が曖昧なので、あまり出したくありませんが、
中途で生が中断することも多くありました。
その中で、病んだり老いて死んだことというのは、二つ前の生がそうでした。
わりと高齢で病死したようです。
なので人間に固有の老いの感覚は、少し前の生で経験している記憶は、
ぼんやりとですが、あります。
●ただし今回は、身体よりも先に精神や脳が老いる、
ということが私にとっては必要な経験です。
前述したように、身体が老いるというのは、私の生活環境にとっては、
周囲の人にとっては迷惑以外の何ものでもなくなるので、それは回避して、
私が経験したいエッセンスである「精神の老い」だけをテーマにします。
●身体に限らず、精神における「老い」の最大の兆候の一つは、
「それまで、当たり前に出来ていたことが、
徐々に、または突然に出来なくなる」ことです。
私においては、2015年から始まったのですが、
今年の3月の肺炎が大きなターニングポイントとなりました。
その変化に対して(私もこの半年ほどそうでしたが)最初は焦ります。
私の場合には、そこに、同時期に禁煙による脳機能不全も重なったので、
自分に起きている状況が、非常につかみにくかったです。
そして、やがてこれに慣れると、人は、いわゆる「老兵」のような心境になり、
そろそろ「自分が人生を閉じる時期に来た」ということを察します。
よく世間にいる、頑固じじいとか、人生について知ったようなことを言って
いつまでも、自分の過去の栄光にすがりついている老人というのは、
死ぬまで「昔は、こんなんじゃなかった」とか、しみったれたことを言ったままになります。
あるいは、まだやり遂げたい目標が明確にある老人の場合には、健全な意味で元気なままです。
また、幸いにして、力を失うことに対して潔くなれる人の場合には、
失ったものは、失ったものとして、無理に取り戻そうとはしません。
●それで、いよいよ老いを受け入れると、最初の数ヶ月は、
古いアルバムとか見たり、過去の記憶をあれこれと思い出したりします。
引越しのときに、荷物を整理していたら、アルバムとか本とか
ついつい読み始めてしまうのに、少しだけ似ています。
肉体にしても、意識にしても、どこかへと「移動する前」というのは、
そういう事をする性質があるのかもしれません。
そういう性質というのは、
「自分の経験の記憶を、じっくりと整理する時期がある」ということです。
●よく、老人が「昔は良かったな」と言うのは常套句で、
それこそ、それは、江戸時代とか明治時代から、高齢者によって、
言われてきたことだとは思います。
私は「1988年あたり以前は良い時代だったけど、それ以後、
ロクな時代じゃないな」と、無明庵の掲示板でも、ずっと言ってきました。
実際、ここ過去数百年は、時代が新しくなるのに比例して混乱やストレスは増していて、
たぶん、今後の近未来では、それこそ一度、核戦争でも起きて、
その後に、なんとか社会が立て直される百年後ぐらいまでは、
地球の精神性とか社会構造は、どうにもならないのではないかと思っています。
その時代をどう凌ぐかというのが、これから長生きする人の問題になると思います。
もっとも、その世界をどういう視点(生きていても死んでいても)から見るかによって、
そこに感じる、面白さと、つまらなさは、個人によって違ってきますが。
*********
いずれにしても、ここの人間をやるかぎりは、ここでの「老い」には、
それなりの「味」がある。(と私個人は、思っています)
■突然の死ではなく「緩慢な死」への通路には、「病」と「老い」がありますが、
無明庵では、「死」を「通過点」とか「乗り換え」とかではなく、
もう少し、秘教的な意味(というより求道的な意味合い)で語ってきました。
たとえば、無明庵の格言のひとつに、
「生きていて良かったと思うような幸福にはロクなものがない。
もう死んでもいいと思わせるほどの幸福を求めろ。」
というものがあります。
また、「生が色あせる」ような死・・・という表現もあります。
生命経験が色あせてしまうほどの死、
とは、いかなるものなのかについては、
少なくとも、それは「生の側の理屈や倫理から見た死」ではなく、
「死の中での死の体験」があるということです。
それは、生に還元されるような死、ではない死。
多くの人が知っている「生の経験」というのは、「経験内容」である。
そこには動きがあり、形と色があり、規則性があり、また不規則性があり、
経験と記憶と、知ること、学習と保存、そして必要な破壊もそこにはある。
こうした内容があってこそ、人々にはそれが「経験」と呼ばれる。
しかし、消えること、終わること、止まること、これを仮に死と呼ぶならば、
これを我々が日ごろ思い込んでいる「生」または「一時的な死」と比較することなく、
恐れと退屈なく、本当に、その死の中に溶解していったならば、
「存在していないことに歓喜している」という状態を経験する人がいるということ。
この場合の存在しないこと=非存在性、とは、
自我とか自己が存在しない、とかいう、そんな初歩的な意味ではない。
もっと厳密に言うならば、
「非在」と「存在」が接触する瞬間と言えるでしょう。
*********
この地球上での死であっても、
遠くの星の、丘に腰掛けて、死を迎える瞬間であっても、
その生の終わりに、あらゆることに無関心になることは、悪いことではない。
死の間際にいて、
そこに問題がなく、
そこにすることなく、
するべきこともなく、
思い残すことなく、
やり残しを感じるものもなく、
特別な関心を寄せる事象もなく、
次の生の目的を、あわてて探す必要なども、そこにはない、
そういう時間を過ごすのが、老いの本質であり、
緩慢に死へと向かう老いの喫味だと私は感じています。
●人は誰でも、自分の「老い」と「死」を、
そのような静けさの中で迎えたいと思う、かもしれない。
だが、ある種の人々は、
死すらも、騒動や、ワークや、イベントにしてしまいかねない。
老いながら、次の生の準備をしているのでは、ちっとも老いではないわけですが、
世の中には、圧倒的に「準備」に忙しい人が多いようです。
しかし、それでは「死」は味わえない。
なぜならば、死は、その味が分かるまでは、決して甘味ではないからだ。
人は、ここでの生の中であれ、他の世界での生の中であれ、
何百回と、死を拒否したり、逆に、死に屈服したりを繰り返すうちに、
やがては、醜い横目をチラチラさせて、
生における何かのご褒美を期待しながら、
死を、我が物として悪用しようするのではなく、
本当に、死というものに観念して覚悟をする日が来るものである。
その日が来る人にとってだけ、死は甘味として感じられます。
でも、そういう成熟した日が訪れるまでは、死は誰にとっても不味いものです。
●その死に際して、人間は、幾度となく、
「本当に、今、死んで、いいのか?」
「何か、残っている自分の興味の対象はないか?」
これを、しつこいぐらいに精査してゆくことになるのである。
「死ぬ間際になると、
あれもしたかった。これもしたかった、、、と、
そう思うのが当たり前で、それが次の生へと繋がるのだ」
とか、安直に考える人たちが圧倒的に多いのがこの世界ですが、
私はそうは思いませんし、そう思わないで死ねるように、
その回の生を「使い切ること」「燃焼し切ること」を目的の一つにして、
これまでの人生を生きてきたつもりです。(まだ、やや残務が残っていそうですが)
●一方で、とにかく、生の信者というのは、生は絶対的に正しい、
存在しているのだから、それは間違いではない、としてしまい、
死すら、ただの「生に活かすカンフル剤」ぐらいにしか考えていない点で、
異常すぎます。(私個人から観ると、精神を病んでいる、としか思えません)
これは無明庵の本にも書かれていたことですが、
常識の範囲に留まる人は、なんだかんだと、無を美化しても、
本音、本心では、無関心、無気力、無力、あるいは不活性、不可能、など、
無とか不とつくものを、徹底的に「生の敵」だとして敵視します。
*********
●ところで、話は突然に変わりますが、
パイプによる口腔と鼻腔による喫煙が一ヶ月を超えました。
その結果、ショートスモーキングと呼ばれる、量を少なくして時間を短くした喫煙が、
一番私に合っていると分かってきました。
かといって煙管だと時間が短すぎます。
3gのパイプ煙草を1時間とか燻らせるというのは、
それこそ、死ぬ間際とか、ただひたすら無為の時間を過ごすにはいいのですが、
そうでない場合には、1g程度を20分かけて吹かすのが、
今のところ、私のリズムには合います。
だいたい、1gに対して約20分の喫煙時間をかけると、
パイプを持つ手も熱くならず、火種も消えません。
目的が、パイプスモーキングというより、必要最低量のニコチン摂取なので、
どのパイプも3000円前後の超格安パイプです。
1g程度の少量を燻らせるのには、一番右のが気に入っています。
*********
■ところで、パイプの口腔喫煙による「血中のニコチン濃度」が、
なんと受動喫煙で最高値を示した非喫煙者よりも低いという資料を見つけた。
またこれによれば、
元の摂取ニコチン量と吸収率に大差があるとはいえ、結果としては、
2mg含有のニコチンガム一個を噛むほうが、
3gあたり、推定で72mgのニコチンを含有するパイプの口腔喫煙よりも、
血漿中濃度が3倍もある計算になります。
(ただし、以前に調べた各製品の「ニコチンの吸収率」と少し矛盾がありますので、参考程度に)
>都市在住の非喫煙者39人の約半数の血漿にニコチンが検出され,最高6ng/mlという.
>パイプ喫煙(24mg/g×3g=72mg)による血漿中濃度は4ng/ml程度である.
>>口腔喫煙の場合の製品中含有量から血漿中濃度への換算係数≒ ×0.05〜0.06(肺喫煙の約11分の1)
>6時間半の自由喫煙で7.8〜33mgのニコチンを摂取した30分後の血漿中濃度は,
>12〜44ng/mlの範囲になったと報告されている
>吸入直後には濃度がピーク(35〜54ng/ml)となる.
>>肺喫煙の場合の製品中含有量から血漿中濃度への換算係数≒ ×1.4〜1.6
>ちなみにニコチン製剤に関しては,
>ニコチンガム(2mgまたは4mg)を噛むと12ng/mlまたは23ng/mlとなる.
>>ニコチンガムの場合の製品中含有量から血漿中濃度への換算係数≒ ×6(?)
>経皮吸収製剤(ニコチンを35mg含有するニコチンパッチ)を
>喫煙者の皮膚に貼付したときには貼付9時間後に17〜22ng/mlとなる.
>>パッチの場合の製品中含有量から血漿中濃度への換算係数≒ ×0.6〜0.5
>シガノンCQ1(78mg)貼付時の血漿中ニコチン濃度は
>日本人喫煙者の自由喫煙時の平均血漿中ニコチン濃度
>27.62±13.09ng/mlの「約2/3以下の濃度」で推移した.
>本剤除去後の血漿中ニコチン濃度の消失半減期は5.8時間
>>平均的肺喫煙の濃度の40%前後〜60%前後を推移する。
注・ニコチンガムは、その含有量に比べて血漿中濃度がやけに高いのですが、
ガムを何個噛んだのか、何時間噛んだのかの明記がない点が気になります。
滲 み 書
今回は、「紫色の彩色」を施してみた。
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