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★雑記/NO.650 【 スピリチュアル 】
by:
鈴木崩残
2016/12/09(Fri)11:01:00
角度変更
つい最近、ずいぶん昔に読んだ「スカルソープ」著の「私の霊界紀行」
という本の本文の一部を目にする機会があった。
私は、この手の世界をずいぶんと離れて久しい。
前回の投稿で、救出者のことを書いたけど、
ここ最近の私は、この9ヶ月にいろいろとあったおかげというか、
いろいろあったせいでというべきか、
いわゆるスピリチュアリズムの宇宙観に、再度触れるというバランスを
必要としているようでもある。
そこで、そもそもスピリチュアリズムとは、となると、
無理やり凝縮して言えば、
ある特定の時代または、個人または集団にとって、
「教えられているからそうする」のではなく
「明確な感覚」としての自覚を持って、またかつ知識として、
世界の仕組みを知り、そこにおける自分の生き方を選択する、
ということに、応用ができて、役立つ見識、ということになろうか。
以下、ざっとまとめてみましたが、私の専門(興味対象)ではないので、間違いもあると思います。
こうした世界観に私が触れたのは、何かと精神世界に、
主婦の趣味として興味を持っていた私の母親からの影響だと思いますが、
私が中学生のころには、まだ今のような霊訓関連の書籍は出ていなくて、
せいぜい、エドガーケーシーとか、たま出版とか、大陸書房あたりの本だけだった。
スウェーデンボルグと神智学関連は、あまり読まなかった。
それに対して、私は、こうした「永久に続く進化論」とか、
「一体どこまでやればいいのか分からない魂の成長」に絶望したり、
「そもそも、そういうのは地球にいるときだけに認識されるもので、
だから、いろんな人が言うことが、たまたま上手く一致しているだけではないか」
とかの疑惑も生まれた。
一方では、なんとなく整合性が取れている、
そうした法則が、世界を貫いていると感じられたのも確かであるが、
結局のところ、頭がこんがらがって、私は、自覚的な理解とか、
霊的世界におけるモラルとか、霊的な経験による積み重ねを基盤にするのではなく、
単純に自分がやりたいことだけをすると決めたのが、22歳のころだった。
さて、スピリチュアリズムの概要となると、
「テーブルラッパー」と揶揄された霊媒と
幽体離脱者たちが形成したのが「スピリチュアリズム」の原型で、
十九世紀半ばから始まった科学的心霊研究と、それに続くスピリチュアリズムは、
既成宗教界の侮辱と弾圧の中にあっても着実に普及して、現在では、
既存宗教よりも精神世界のベースとなったようである。
つまり、交霊会で、霊媒師が、他界した者から聞き出した「死後の世界の様子」と、
何らかの指導的な立場または、協力的な立場にいる霊的存在からのメッセージが、
体系として、まとめられたのが、スビリチュアリズムであるといえる。
自分とは一体何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつか、
という、誰もが持つ問いに対して、比較的統一された解答を提供したのが、
スピリチュアリズムだった。
その信念体系の中では、
人間の苦労や苦痛を進化に必要不可欠とする思想は、次の言葉に集約される。
その領域の霊言の言い分はこうだった。
「何の困難も、何の試練も、何のトラブルも、
何の苦痛も、何の悩みもない世界を想像出来るでしょうか。
そこには最早向上進化の可能性が無いことになります。
克服すべきものが何も無いことになります。ただ朽ち果てるのみです」
とりわけ有名な、シルバーバーチに与えられた役目は、
長い人類の歴史の中で人間が勝手に作り出した宗教教義の下に埋もれてしまった、
霊的真理を掘り起こして、その本来の輝きを取り戻すことだった、という。
その霊言は、1938年の一冊が最初の出版であった。
その霊的真理なるものの普及を、
霊媒(心霊時交流)という方法で行ったのは、
代表的なところでは、
シルバーバーチ
アラン・カルデック(1800年代)
コナン・ドイル
ステイントン・モーゼス
ジョージ・オーエン
ジェラルディン・カミンズ
C・A・ウィックランド
OOBEという方法で個人的に探索したのは
代表的なところでは、
ロバートモンロー
スカルソープ
その他、最近では、こうした分野もカジュアルになって、
体外離脱サラリーマンさんとか、増えているようですが、
私は、細かいことは知りません。
その他「臨死体験」の経験談も、これらの世界像との一致を見ることが多い。
ところで、つらつらと読んでいたら、面白い記述があった。
真偽はともかく、他界したブラバッキーが霊媒を通して語ったとされている。
「スピリットは『印象づけ』という方法で、
霊媒にもっともらしい生活ドラマを吹き込むことが出来ます。
それが霊媒の霊的視覚にパノラマ状に映じます。それを前世の記録であると勘違いするのです。
私は地上時代にそのことに気づかず、
間違いなく前世の記憶を回想していると思い込んでいました。
こちらへ来て、それが間違いであることを知りました。
輪廻転生説は間違いです。かつては正しいと信じ、自信を持って説き、
死んだらきっと誰かに生まれ変わってみせようと考えておりましたが、
その考えはもう棄てました。
それよりももっともっと意義のある仕事がいくらでもあります。
中略
世俗的煩悩を十分に克服していないところに、隙を与える原因があるのです。
私がその一番いい例です。地上であれだけ活動して、
一体人類の為に私は何の貢献をしたというのでしょう?」
質問
「あなたのお陰で、キリスト教のドグマから救われた人は大勢いたのではないでしょうか」
スピリット「そうかも知れませんが、それに代わる間違った教義を、
たくさん教え込んでしまいました。
セオソフィー協会など興さず霊媒のままでいて、霊界と地上界の橋渡しの仕事をしていた方が、
どれだけ意義ある人生だったことでしょうか。
そのセオソフィーの信者達も分裂し始めております。
現代という時代は、何もかもが分裂していきつつあります。
世界全体に落ち着きがありません」
「こういう話をお聞きになって、私が本当にあのブラバツキーなのかと疑われる方が
いらっしゃるかも知れません。が、間違いありません。
ブラバツキーがあんなことを言うはずがない、あんな言い方はしない
などとおっしゃるかも知れませんが、
私は地上でエレーネ・ペトロワ・ブラバツキーと呼ばれた人間のスピリットです。
と、ちょっとしたネタ話にも聞こえるけど、それなりに楽しめました。
●精神世界は「いわゆる」宗教とは異なり、宗教の欠陥を正して、
矛盾のない統一された世界像を、人間に提供し、説明し、
または、その片鱗を可能なかぎり、体験させようとしたようだが、
その崇高な理想と、現実の生活や対人の感覚を上手く接合できている人は、
とても少ないのかもしれない。
私などは、ある特性の自己調整を別にすれば、
当然、何らの接合もほとんどしていないし出来てもいない。
19世紀ごろからはじまったといわれる、このスピリチュアリズムは、
最低限の柔軟性は保持されているものの、
どこか、ガチガチで堅苦しい。が、一方ではその網の目は膨大で、
ああした信念に基づく霊的階層の法則は、
確実にあらゆるところに張り巡らされているようだ。
それで、無明庵風の世界観というのも、私の中ではトークCDで出尽くしたので、
かつて接した、こうした信念体系に、自分の関心を少しだけ振り戻してみようかと、
考えているけど、まだ今は、横目でざっと見ているような状態です。
30歳と少しのころまでは、私は経験する全てのことに強引に意味づけをしていた。
何から何まで、理由をつけたり、意味づけをしないと気が済まないというか。
自分の事と、自分がでっちあげた理想(というより面白いと感じる世界)、
それだけしか関心がなかった。
おかげで、変に窮屈な大人社会に迎合せずにすんだが、子供っぽさが残り、
その未熟さと八面六臂という性質が生み出すものも確かにそこにはあったが、
常に詰めが甘いので、遊んだ玩具(概念や知識)も、
その後は、だらしなく散乱しただけとなった。
ただ、この時期に私が愛読したのが、エイワスよりの通信と書かれた「法の書」で、
先日、掃除をしていたら、なぜかそのコピーが出てきた。
こんな一文が目にとまった。
30.『もしも意志が立ち止まって、
<そのわけは(理由)>を召喚しながら
<何故>と叫ぶようになりでもしたら、
<意志>は停止して何事をも為さずじまいになってしまう』
22.『中略 しっかりせよ、おお人間よ!
官能と狂喜をもたらすありとあらゆることを貪欲に享受するがよい。
このために自分を拒む<神>がいるのではないか、などと恐れるなかれ!』
今、全体をざっと読むと、相当にクローリーが、ノリノリで、
イっちゃっているように見える文中に、
『然り! 変化などに思いを巡らすなかれ。汝らはあるがままの自分であって、
他のものになりはしない。』 とか、
『私達はひとつであり無である』 とか、
ノンデュアリティーなんだか、違うんだか、
わかるようなわからない文言が混在している。
なんだか、懐かしい。
それで、30歳の中ごろから、意味づけの類は、ほとんど放置して、
単に自分に起きることだけを外に放出するだけにしてみた。
すると、自分というものが、あるんだかないんだか、よく分からない歳月を過ごすことになった。
しかしむろん、その中には、ここ最近書いたような、私の欠陥も混じって放出されて、
いろいろと自他に問題を引き起こした。
ここでもう一度、自分の関心あることだけしかしなかった時期と、
さして個人的には関心もないことまで、なりゆきでしていた、
その二つの自分の時代の、前、つまり小中高、あたりの自分の中に、
何かヒント、または自分の原型がある気がします。
続くかも
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