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「分割自我復元」
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[83]
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★分割自我復元★その82★「自我復元について思う事」
by:
鈴木崩残
2012/03/17(Sat)19:23:16
>3/19-19:23更新・
>>「おたより、その2」を追加しました。
おたより
■おたよりというより、自我判定の申し込みの時の報告の、
「ごくごく一部」なのですが、本当にいい文章だと感じ、掲載しました。
また、皆さんの自我復元の効果に伴って、
こうした力強い報告が来ることが、今の私には嬉しく思います。
今回は報告もかねて四回目の自我判定をお願いします。
・中略・
今が一番、自分が綺麗だと鏡を見ています。
もちろん、若いころのほうが、お肌もピチピチだったし、
今よりスタイルも良いのですが、
ずっと、自分は醜い、汚いと思って見ていたので、
綺麗さを見ることはなかったんですね。
そして、体の軸や筋肉の動き、骨の動きを確認するために、
柔軟をしているときに、
今までできないと思ってたことが、私にも出来るようになったんだ、
という思いがわいてきました。
・中略・
それでも、 この4が月の間の変化はいろいろありました。
まず、 他人の意見に振り回されなくなった。
私は「・・・・」と返事をした時に、ふと違和感を感じました
わたし、今まで、自分が感じたことと反対の事を言われると、
相手の意見に合わせ無くてはいけない、
この場合 相手が「・・・」といったのなら
それが正解で、「・・・・」と感じた私は、まちがっている。
間違っている私が悪い と罪悪感を思っていたことに気がつきました、
自分が感じたことに対して感じてはいけない、と思い込んでいたようでした。
「・・・」なものは「・・・」だと、ちゃんと言葉にできてました。
そのあとに、頭であれ???って
いままでそこのところで、
自分と違うことを言われたら私が間違っている。
私が悪い。と、ずっと思っていたんです
いつの間にか、自分の考えや感じるという事をやめていたようです。
・中略・
ただ相手の話を黙って聞いて そうです あなたが正しいです、
と、うんうんと頷いて聞いていると私が安心していました。
いつ、怒り出すか、わからないので、相手が怒らない様にではなくて、
私がイヤな気分にならない様に、相手の快適な状況を作っている、
でも、相手は私の話は聞かない。
相変わらず、モノと同じだわ、と思ったんですが、
それは、自分自身で感じない様にしていたんです。
だから 「そこらへんにあるモノと同じように扱ってくれ」、
と私自身が、そう言ってたんです。
・中略・
私、輝いてないし、喜んでもいない!!
あ!感じるということを、やめてしまったんだと思いました。
存在を消してしまえば、だれも私を傷つけることはないし
怖い思いもしなくて済みます。
(でも、それによって自分自身を傷つけていた。)
・中略・
また、相手が怒り出すという記憶が再現されて、
怖いから感じないようにしよう。
「私も無視するからあなたも無視してね」って無意識にしていたようです。
自分のなかで感じることをやめていたのなら、SEXも苦痛だし、感じるはずはない!
相手と、sexができないのは当たり前で、
やりたくないことを怖さから逃げるためにやっていたのでは、
体も心もおかしくなるのは当たり前だと気がつきました。
・中略・
そんなことに気が付いてから、なんと、男性から告白されました。
●●歳を前にして告白されることは嬉しかったんですが、
動揺してしまって・・
もし、昔の私だったらそのまま付いて行ってたかもしれませんが、
相手の思いはどう見ても勘違いのような気がして、
ちゃんと、
「その今の感情は違うと思うし、
それは私ではなくて、他に向けるものだ」と、お断りができました。
どこをどう見ても、友達以上にななれないですし
代用品のような感じがしました。
その違和感を、ちゃんと相手に伝えることが出来てよかったです。
・中略・
性に関することでいつも、止まってしまっています。
死ぬまでに「性のレシピ」などに書いているようなSEXがしたいです。
あとは相手が 現れることを待つだけなんですが、
相手を間違えない様にしなくてはいけないです。
・中略・
この4か月の間に●●の講習が終わり、
習っていたカラーセラピーの勉強も終わりました。
●●の講習が終わったとき、
講師の先生が単なる自己権威欲を満たしたい、
という劣等感から、やっているような気がしました
自分の好みの女性をそばに置き、
先生、先生といってくる人を周りにおいている、
そんな気が気がして、よく見ていたんですが
本人自ら好みの女性がきたら特別扱いするよう様な事を話していました。
だから周りは、「見て見てっ」って自己アピールする人が多かったです。
ここは、私の居るところではないな、と思いましたので、
技術だけ習得しようと思い、ここで認められたいとか思いませんでした。
また カラーセラピーのところでも、生徒さんたちが先生の言うがままに
同じブレスレット(水晶に気をいれたものらしいです)をして、
何十万円もする講習をどんどん受けています。
みんな、「先生、先生」って言ってて、
「先生のおかげでこんなに楽になりました」、と言い合っている。
マジ「気持ち悪い」です。
習いたいことは終わったので私はさっさとそこをやめましたが、
これも、今までだったら、
ずるずると周りに引きずられて続けていたかもしれないです。
こうやって書いていくと、
どんだけ今まで周りに引きずられて決められなかったんだと思います。
恥ずかしい・・・お粗末なことです。
最近、やっと、やりたくてもやらなかったことを、
やりつくしたような感じがします。
あいかわらず つたない文章ですが
報告おわります。
では 自我判定宜しくおねがいします
___________________
おたより・その2
「主観的」な自分の変化
自分という小さなまとまりを成立させるためにやってきたことは、
都合の悪いものの排除、分離、否定じゃないか、と思い、
自分の内部にあった、さまざまな方向性を持つ思考、欲求を取り込んでいきました。
(暴力的なもの、自分に対し妨害してくるもの、などなど)
カオスになってしまうだろうが、
その世界にあるのは受容と何ものをも捨てないという自分に課した約束があるのみ、
という覚悟で。
やがて実際に出会った人々の記憶がシンクロしだして、ああそういうカラクリだったのかと。
人に対する恐怖感の正体がどこに由来していたのかやっと理解できたように思います。
そして自分を傷つける加害者として他者を見る、
どうしても見てしまう、という如何ともしがたい状態から、
なんとか解放されるに至りました。
音楽を聴いたり、わざと忙しそうにし、他人の入る余地がない状況を作ったりと、
今ではそんな心理的な防御の必要性をあまり感じませんし、
この頃はやってもいないのでとても身が軽い。武装解除。
・中略・
すぐに壊れるガラスの心、という感じもない。
また、私は人間ではない、生き物にすらなり得ていないという、
弱っちい自己感覚がもうない。
○○しなければならない、という後ろから強迫的に迫ってくる感じがあまりない。
見張り番はもういらない。内にあるのに外にあっても余計なだけ。
見張る必要もそんなに感じない。理解できれば後はやるだけ。
また自分は結局、最後まで自分のままなのだということを痛感したのか、
自分が他人にどう見られるか?という不安、恐れにしばられることもあまりない。
結局そんな状況になる時は、決まって主体性というものに焦点が合ってないはずで、
それが分かった段階で解放への方向へともっていける、という具合。
(私は基本いつも一人でいるので、大勢の人々の中、ストレス下では、
どうなることやらですが・・・だからこそ普段が大事だなあと思います)
結局過去に感じた恐怖感というものは、自分を見失った状態に起因していた。
2度目の自我判定で、自分が「疎外感を味わうこと」
「コミュニケーション能力の欠如と人と接する事への不安と緊張」が怖いとか書いていたが、
まったく逆方向を向いていた。
素直にものを見ている。
なんだか単純だ。
雑音がない、静けさに包まれている。
死ぬ、ということを身近に置いた感覚。
雑念は多いが、前よりとっ散らかってない。
自分にご褒美を与えている、という感じがしない。
外部からの強制や手柄ほしさにやるというのではなくなった。
この主体ゆえにやるという感じ。
同じ地平にいるのか?と思うことが時々ある。
他人の承認が必要、という感じがあまりしない。
時間が経つのが早すぎる。驚異的といってもいい。
・中略・
官僚の使う言葉を霞が関文学、あるいは東大話法と言うそうで
(恥ずかしい話、知りませんでした。)
うそ、いいわけ、傍観、つじつま合わせ、などのサギ的なその話法を
常時駆使することで、はじめて、いるようでいない在り方、
または責任なき在り方が成立するのだと、
もし個人レベルでそれを日常的に使うことを許したら、
まず自分自身がだまされ、二度とその世界から出られない・・・
そんな欺瞞を自分に許すまい、行動をとるまいと自身に約束した。
また原発事故のこともあって自分の中から、安全、安心、などという
数々の「油断」の単語を抜き取りました。
まさにこれぞ「滅びの言葉」だ、という認識からです。
自分の見事な、だまされっぷりに、またそれに対し、
たいした重要な意味を感じてなかったことに愕然とし、
いかに甘かったか痛感しています。
なにかに頼る必要性が生じる在り方はしたくないという思いでいます。
本当にどこまでも、油断も隙もないんだな。
日に日に自分への信頼性が増していくように思えます。
また自分はどう在りたいか、という主体性が見えはじめたのか、
この世界の姿と自分の姿を呼応させてみた時、明らかな温度差を感じます。
こんな在り様は今の自分ではない、という風に。
「今の自分が○○することはありえない」、
と、きちんと言えるようなものが確立されていくようです。
それと同時に自分と世界のあいだに距離が出始めた感覚がします。
・中略・
また自分の中にきちんと総括出来ずにいる思い(?)が、
まだまだわんさかあるようで
できれば夢の中とかでも、表面にでてきて対峙させてほしいです。
・中略・
分かる時は一瞬でその全体が分かるはずで、
なんとかその為にも明確な意識の必要性を感じます。
・中略・
その他の「ユニーク」な変化
自我を復元しているので、「自分」という感覚が日に日に増していくのだろう、
オレがオレが、という感じなるのだろうと勝手に思っていましたが、
逆に薄れて消えていくように感じています。
濁った水が透き通りむこう側が見渡せるといった感覚がします。
ずっと自意識過剰で生きていたせいでしょうか・・・?
________________________________________
●ところで、唐突に「書」の話題ですが、
今日、「滲み書」を書いていて、つくづく思ったのですが、
その人の自我率と、禅書は、あんまり関係ないなと。
禅書がすごく、面白い、いい字に書けた人だからといって、
それは自我率に関係ないです。
禅書はなかなかの出来だったのに、自我率はとても低かった、
という人もいます。
逆に、自我率が高いから、面白い字、素晴らしい禅書になるかというと、
一概に、そうは言えなかった。
自我率の低い人で、かつ禅書も、ほとんど書けない、字にならない
という人もいましたし、
禅書は絶好調でも、自我率は低いと、つまりは、
禅書の出来栄えと、自我率は、ほとんど関係ないと分かりました。
(「無無心の書」ではなく禅書(カウンセリング書)です。)
無無心の書は、相手を選びませんし、そもそも、注文者の為に書かれるものではなくて、
その時に私に「お題」を提供してくれるだけで、あとはどうなるか、
全く予測できませんし。
●禅書が、自我率が低い人でも、なんとか形になる事が多いというのは、
やはり、私の側で、相当に、いろいろと手を尽くして、形に仕上げてゆくからというのが、
大きな原因なのですが、自我判定には、そうした要素はむろんゼロで、
ただただ、意識を研ぎ澄ませて、判定をします。
●強いて言いますと、個別の人ごとに、
助言が内容がかなり違ってくる部分は、むろんあります。
「ボヤキ」
●私は、「竹の間」掲示板で、10年も前から、
『もう時間がないから、恋愛も、セックスも、親との関係も片付けて、
その他、自分のやりたかった事は、決して、やり残すな』
と幾度も、幾度も言ってきたのに、
ほとんどの人たちは、戯言だと思って、軽んじていたんですね。
一体、何年もの間、何をしていたのか?
そんなことじゃ、
地球以外の何処へ行ったところで、同じだ。
と言いたいところですし、以前の私なら、そう言ったでしょうが、
状況は、自我復元法が見つかった、2010年から変わったと思ってください。
たとえ、残りがわずか数年でも、まだ出来ることはあります。
●
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