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[2302]
■
Re[2301][2300]: ■孤高の瞑想■
by:
ほ う ざん
2002/06/04(Tue)06:19
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> 経験も知識も浅い私ですが、少々かじったところに拠れば、瞑想の効果には、「理性では及ばぬ魂の知恵、直感、感謝、愛、受容、社会奉仕の意欲」などがあるそうですが、これら暖色な効果を一切否定しておられるのでしょうか?
◆無視です。
{否定と無視の違い}について、理解している人には
全く問題ありません。
副産物として出てくる、神秘体験や、あなたの言うような状態について
いちいち、かまっている暇などないのです。
また、そんなことにいちいちかまっていたり、自覚したり、
そんなことに価値を置くこと自体、全く道から外れているということです。
したがって、そうしたものは、一切「無視」です。
一方で、「否定」というものは、それらが現れることを拒否したり、
現れるのはよくない、という考えに陥った場合のことです。
◆たとえば、仮にですが、
悟った人は「一生便秘をしない」という現象が経典などに書かれていたり、
実際にそうだったとしましょう(たとえです)
それだからといって、
いちいち、あなたはそんなことに価値を置いたり、
ことさら、大声で言いますか?
それと同じぐらい、ナンセンスなことをあなたは強調して言っているのですよ。
彼らにとっては、そんな事に、いちいち構っている暇はないのです。
また、そんな部分を力点として説明する必要もないのです。
あなたの言う、
>理性では及ばぬ魂の知恵、直感、感謝、愛、受容、社会奉仕の意欲
こんなものは、おそらく彼らにとっては、「糞」とでも思うべきものです。
糞というのは、軽蔑的に見ているという意味ではなく、
いちいち、そんな副産物的なレベルのものは、
「とりあげない」ということです。
そういう事を、やっていると、
いつまで経っても、和尚の言う「宗教性」というものと、
単なる信仰にすぎない「宗教」の違いが認識されません。
◆したがって、たとえば、悟った人が、暴言を吐いたとしても、
また、仏教ばかりでなく、
あらゆる経典の記述に反した事を行ったとしても、
それも、全く、彼らは無視します。
騒ぎたてるのは、いつでも、周囲の無知な人達です。
◆ひとつ、ここで釘をさす意味で、言っておきますが、
どうして、あなたも、あなた的な人達も、
悟りとか解脱というものを、仏教という狭い枠でしか
語れないのでしょうかね?
悟り、または、人間の意識に起きる異変といったものは、
その現れは、必ず、時代や場所によって位相が異なります。
たとえば、仏教(というよりは、ブッダの言った言葉を、
単に出来の悪い、弟子が勝手に記したもの)、の記述などを無視したとしても、
世界には、老子や荘子や、禅師、その他の沢山の分野に
悟った人がいます。そういう人達は、それぞれに、
その悟りの副産物的な現れは異なるものであり、
何も、誰もが全員、ブッダのようになるわけでもありませんし、
同じような事を説くわけでもありません。
■たとえば、和尚は、よく、
ブッダの事を、意訳すれば
「つまらないやつ」と表現することも、ありました。
それは、イエスと比較した場合に、
怒りの要素を味として持っていない、
そして、その悟りの現れが短調であるという意味においてです。
また十牛図の解説の中では、
「仏教や道家のものは、まだ8図のままだ」と、和尚はよく講話で言っています。
■ただし、こうした、人に言わせれば、「落ち度」とも言えなくない部分は、
ブッダ本人の責任ではなく、
その時代背景や、「周囲の状況」によるものです。
平和な土地と、戦乱の土地では、その現れは変わります。
時代とともに法の方便も、変わります。
■極端に言えば、たとえば、
別の惑星であれば、悟りの副産物といえども、その現れ方は変わります。
場合によっては、悟りというその意識自体にも、
その惑星の場の影響で、地球で経験されるものとは違う別の要素が加わったり、
または現存する要素が削除されることでしょう。
■ですから、くだらない経典の言葉にしがみいているようでは、
なぜ、悟りというものが、時代や個人や状況によって
かくも、全く時には、正反対の現れ方をするのかが、
全く理解できないという意識レベルになってしまうわけです。
◆悟りそのものに違いがなくとも、
その副産物的な「糞」としての現れ、すなわち、その「言動や行為」は、
時代や場所によって異なるものですから、
そうしたエピソードや、そうした中で修業者に向けて作られたような、
普遍性を持たない戒律などしがみつくことには、全く意味はないのですよ。
◆では、たとえばの話、
ブッダは、非暴力をその言動で、「表現」したとしましょう。
ところが、チベットのタントラのマスターというのは、
ブッダと同じレベルにいますが、
彼らは、弟子をサンダルでひっぱたいたり、川に放り込んだりと、
いわば、かなり暴力的なことをしたわけですよ。
グルジェフや、一部の禅師たちもそうですね。
◆では、そうした行為をもってして、
悟りであるとかないとか、そのレベルが計れたら、
悟りなんてーものは、ただの「子供の道徳」で計れる程度のものに
なってしまいますよ。
あなたは、
>理性では及ばぬ魂の知恵、直感、感謝、愛、受容、社会奉仕の意欲
と自分で、言っているじゃないですか?
しかるに、どうして、あなたのその「ちっぽけな理性」で、
その理解に及ばないものを、計ろうとなどとするのですかね??
そういうことですから、
それは、今のあなたの理解には到底、及ばないと思いますよ。
◆だからといって、マスターや悟った人が、
滅茶苦茶なことをしたり、弟子命令したりするんだろう、
というのも、これまた、単なる、ちっぽけな理性の判断です。
そういう考え方は、自分に振りかかる状況を、無理に都合よく解釈したり、
自分のグルへの幻想を守ろうとする自己防衛にすぎません。
◆まっ、そういうことですから、
ブッダたちが、その状況や時代や特定の弟子に「感応」して
その結果として、歴史に残した単なる「足跡の糞」としての、教えや、
いろいろな記述にこだわる者というのは、
しょせん、「本物」をこの地球で見つけること出来ないという事です。
また、いつまで経っても、死ぬまで、
そうした、功徳だの、無功徳だのの区別に振りまわされてしまい、
そうしたものを一切、超絶した、悟り、
そうしたものなどは、現れようが、現れまいが、どうでもいい、
という「悟りの純粋性」には及ばない、
暗い、無明の檻の中に、自分を閉じ込めているという事にすぎません。
◆まー、しがみついて、苦しむのは、あなたも、その他の仏教信者も、
それぞれの選んだ勝手な迷いの世界ですから、どうでもいいことですが、
そういう事をしていては、
世の中に隠れた、「悟ってなどいないと見えるような全く普通のブッダ」
というのを、見つけることは出来ませんね。
そうなると、結局は、
多くの人は、耳に聞こえのいい教えや、
いかにも、それらしく思えてしまうようなカルトの詐欺に会う程度の世界
にしか、本人も同調できない、という、
自業自得(類は友を呼ぶ)というだけの事になるのだと思います(笑)。
> とても生意気な発言で、冷や汗です。そぐわない場合は削除してください。
◆いえね。生意気な発言ではなくて、
単に、「読解力のない発言」だと思いますよ。
{否定と無視の違い}がわからないのですから。
1/否定というのは、拒絶や抑圧を含む。
2/無視は、そもそも「とりあわない」という事です。
「おわかり?」ですか?
それとも、まだ、そんな事も、分からなくて、
「おかわり」ですか?
◆
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