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宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
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[2305]
■
◆行法をしたい人の為に◆
by:
ほ う ざん
2002/06/06(Thu)08:18:12
ppp01001.tyo.alpha.hdd.co.jp:61.198.0.1:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; MSN 2.5; Windows 98)::::ja:
http://mumyouan.com/k/umenoma.html
↑の「梅の間」の753など、竹の間の読者の方も、
参考に読んでみてください。
◆というのも、竹の間の最近の投稿でもありましたが、
どうも、執着を離れるとか、仏性の顕在化というものを、
全く、とんちんかんな勘違いをしている時代遅れの人たちも、
ごく部分的にですが、未だにいるようだからです。
◆瞑想とか、あるいは悟りの体験というものが
最終的には、解脱=無生に至ることとの関連の中、
あるいはその連続性の中で、人に与える最大の恩恵とは、
「欲望を満足させる」ということです。
世の中には、「中毒的」に満足を求めて、それが得られない
という葛藤を生むタイプのものと、
そこに満足さえ得られれば、2度とそれに囚われなくなるものがあります。
すべての欲望が障害になるのではなく、
むしろ、実感されない欲望、当たり前に達せられるのに
それを避けてきたことで、いつまでも、本人の足をひっぱるタイプの
欲望があります。
◆そして、その中毒性のない無害な欲望、
いや、むしろ、修業者として、修業以前に満たす必要のある欲望というのは、
生活の基本である、「衣食住と性」です。
◆衣類。つまり、自分の独自のファッションスタイルですが、
これは特に、ブランド中毒や買物中毒でもしないかぎりは、
ある経験と年齢に達したときに、自然に出来あがるものですし、
今の日本で、平均的な生活をしていれば、着る物に困る
ということはありませんので、あまり問題になりません。
◆次に食事。これも、今の日本では、幸いにして、
幸福なことに、「餓える」と言うことは、めったにありませんので、
強いていえば、一度は、食っておきたいな、と思ったものは、
ちゃんと食っておく、というぐらいの満足のさせ方でいいのです。
◆住居、これは、何もマイホームを持つことではなく、
とにかく、自分が一人で落ちつける環境を確保するということです。
◆あとは、性。セックスに思い残しをなく死ぬこと。
これは、現状では、やや難しいかもしれない。
むろし、もしかしたら、今より古い時代の方が問題なかったかもしれない。
まー、そのために、梅の間や、「性のレシピ」「虹のオーガズム」の本が
あるわけです。
性の満足は、少しの努力で達せられるのに、
怠けたり、諦めたフリをしたり、怠惰になったり、
また、相手との関係の駆け引き、利害関係に患わされてしまい、
「純粋なセックスのための努力」とううものをしないために、
その満足に達することが出来ないケースが多いのです。
◆一人の人間として生まれて、
たとえ、何千回の生まれ変わりをしたとしても、
人間の持てる欲望などというものは、
「たいしたものではない」と思いませんか?
一見すると、いろいろな欲望があるようで、
せいぜい、自己顕示欲やら、食欲、性欲、愛情に餓える、そんなものです。
そのうちの、性欲と食欲、それと住居、
これは、精神の変革の問題ではなく、物理的に手をほどこす必要がある。
考えれば、人類は近年になるまでのその大半を
衣食住に追われ、また未だにそのことが原因で、
国境紛争が起きている。
ですから、せめて、その心配のない幸福な国に生まれたのですから、
あとは、自分にとってのやり残しりの課題、心残りは何か?
それだけを、とことん、突き詰めていけばいいのです。
◆解脱というのは原則として、
「一切の形体の生への欲望が切断されたとき」に起きるものです。
ただし、それは、生への嫌悪や自殺、
または、生への「改革意識」によるものではありません。
生というものに、ことさら全く関心がなくなった場合に起きることです。
しかし、その無関心というのは、単なる無関心のフリや、
単に、何かの瞑想を何十年したぐらいでは達成されるものではなく、
瞑想をする過程で、いつでも、毎日でも、
「自分は明日死んで、もう2度と次の生もなくていいか?」
という自問を繰り返す必要があります。
これに対して、本当に別になくてもいいと思うなら、
あなたは、本日かぎりで、
来世へ希望を繋ぐ、あるいは前世に興味を持つなどという事を
一切捨てて、生きればいいだけです。
◆何も宇宙全部を経験しなければ脱獄できないわけではありません。
どんな細部の断片からも、「絶対の無」へと通じていることは、
ホログラムの原理と同じようなものです。
◆涅槃というものは、何も、多くの経験を「積み重ねて」、
宇宙から脱獄するのではなく、
現時点で、自分が背負っている生への欲望、行為への欲望、
不安から解放されたいという満たされない欲望などの、
こうしたもののうち、
満足させられるものは、自力で、さっさと満足させてしまい、
そのあとで、自分に、「ギリギリの苦のない状態で」
ほとんど苦のない状態で、
「あとは、何をしたいのか?」と自問することです。
◆こうした自分の中に「残った物」を引きずり出すためには、
すべての具体的な悩みや欲望は、解決しておく必要があるのです。
ただし、たかが、私たちは、人間という動物にすぎません。
えらそうなことを言っても、その偉そうな理想すら、
たいした事など言えないのです。
理想理想といいますが、どれだけ広大な理想をあなたは描けますか?
宇宙全部をデザインしなおしたいという欲望があったとしても、
たいした欲望とは言えません。
◆だから、欲望などといっても、その欲望自体、
大げさな言うほど、たいした欲望すらイメージできないのです。
ちょうど、地球全部を核で破壊したところで、
それが、宇宙から見たら、
子供のいたずらにすらならないぐらいに微微たることであるのと同様に、
人間というのは、進化した「悪」すら創造できないのですから、
とうぜん、それをひっくりかえして言えば、
人間には、大それた善の概念すらも、全然作れないのです。
◆だからこそ、人間程度の生命が持ちうるような、
その悩みや、苦痛や、欲望などというものは、
何も、大げさに敵視したり、禁欲したり、戒律でしばるほどの
そんな価値のある大それた障害でもなんでもないのです。
◆だから、ちょせん、一人の人間の欲望などは、
大した欲望ではないのですから、
欲望は、欲望として、ちゃんと、満たすことです。
そして、自分の残った欲望の残りを探り出すこと。
そうしないと、いくら、瞑想などしても、ただの時間の無駄です。
◆ここで今、どんなに偉そうなことを口で言っても、
人が死ぬ瞬間、そして、その後には、
自分の残っていた欲望によって、
また、同じことを、ぐるぐる繰り返すだけですから。
◆瞑想とか、悟りを目的にするのが、高尚な目的なのではありません。
そんなものは、いつでも、
{人のコンプレックスのはけ口}として機能してしまうほうが多いのです。
その事例を、皆さんは、自分や周囲に、
どれだけ多く見てきたかを、思い出してください。
だから、まずは、当たり前の衣食住と性の欲望を満たし、
そして、もう、自分の考えたこと、欲した事は「満足したぞ」
と自分に言える状態にしてから、
そこから、自分にまだ最後に残っている根本的な不満を
さぐり出したときにこそ、はじめて、瞑想が意味を持ちます。
◆通常は、これが修業者の本来辿る、常識的な道です。
ですから、以下に書くことは、あくまでも、私の個人的な意見ですが、
たとえば、釈迦にしても、彼は、普通の生活においては、
何も全く不足はなかったわけです。
和尚も確か、小さいころは、まるで王子のように扱われて育ったという。
別に甘やかされてという意味ではないと思いますが。
それと、昔は、現代の日本とは違って、兄弟も多かった。
また、親も子供には、普通レベルで必要な最低限の愛情を注いでいたし、
適度な突き放し方もしていた。
これが意味するものは、コミュニケーション障害だの
愛情に餓えるだの、そんな病理は、昔にはあまりなかったということです。
また、時代を遡ったりのある特定の地域や体系においては、
セックスの問題も、今よりもずっと、オープンで技術も高かったかもしれない。
◆こうしてみると、
よく人が宗教に入るような原因となる、
家庭問題、人間関係、社会不適応への不安、愛情に餓える、
各種のストレス、病気持ちなど、
こうしたものは、私個人に言わせれば、探究の動機としては、
全く不純だということです。
こんなものは、全部問題のない状態にしておくべきものです。
ただし、その基準は、社会的な基準ではありません。
なんなら、ホームレスだってけっこう。
あなた本人が、あなた本人の基準で、
それ以上に求めないほどの衣食住に満たされて、不満がなければ、
それでいいのです。
◆何も大富豪や皇族や王族になる必要などありません。
普通の意味での平均的レベルで、あるいは本人の満足の基準によって、
全く生活に過不足のない環境にいる人達、
愛情だのとか、家庭環境や生活環境にも、特に問題なく、
セックスにも問題なく、
あとは、さて、死ぬまでの間、自分の問題は何なのか?
明日死ぬとしたら、何を優先して望むか、
何を解決したいか?
この段階になった人以外は、
私個人は、瞑想者とも探究者とも認識していません。
◆だって、そういう人は、たとえ、今はわかったような平気な顔をしていても、
ちょっと転生でもすれば、必ず道の途中で、
またまた、必要もないものに興味を持ち、
またまた、新しい欲望の種を拾うだけですから。
◆そういうわけで、私が思うに、
本来、宗教または、もっと正確に言えば、「秘教」というのは、
ある精神的な資格を必要とするものだったと思います。
今のように、「誰でもOK」そんな甘い話ではなかったはすです。
誰でもOK、それは商売のセリフです。
◆釈迦は、誰でも出来る修業であるとか、
誰でも、その仏の本質を持っている、
とは、言ったかもしれませんが、
「誰でも到達できる」、なんて事は言っていないはずです。
彼は商売的にオープンにしたのではありません。
彼の言う事は、あくまでも秘教に属することですから。
◆だいたい、そもそも、ブッダ自身、
そもそも、せっかくの至福にひたっていたのに、
禅定を説いたその、きっかけは、
何も、多くの者を悟らせるために説法をしたのではなく、
ブラフマンに
「あんたが、ちっと、しゃべってくれれば、
数は少ないけど、真剣でよく修業者を積んだ少数の者には助けになる」
と、「そそのかされて」、それで、事が始まったわけである。
だから、結局は、実際、彼の法は、あれだけいた弟子の中でも、
その生存中には、「迦葉一人に正しく伝達された」との逸話が
残るぐらいですから。
◆そういうわけで、
伝統的な「道」の中では、
そもそも、いわゆる一般大衆は、修業者のうちの勘定には入っていません。
ただし、それは表向き何かの宗教に属しているとか、いないとか、
瞑想をしてきたとか、してこなかった、という事ではないのです。
私が言う、一般大衆というのは、
「普通のことを普通に終わらせていない人達」のことです。
◆ですから、本来なら、
瞑想など出来る人自体の数は、
極端に少なくなるわけです。
◆そこでEO師が編み出した方法というのが
死人禅でした。
それは、その技法の頭頂部への集中と、
特に、闇に対する瞑想というものが、
本人の中に「残っている欲望」「残っている執着」「残っている囚われ」
こうした、「残り物」を本人に分かる形、あるいは分からなくても
明確にして、処理するという方法を取ったわけです。
◆実際、私が接した範囲では、
それまで、関心自体がバラバラになって、生きる方向自体に
全く、まとまりのなかった人も、
死人禅というものが、早い場合には、2年、3年と続けられるうちに、
「結局はこれが私の残った問題である」というものに
到達することが多くようです。
それは、必ずしも、瞑想とか意識の問題に帰着するのではなく、
本当に、当たり前のものの中に、「燃え残り」があったりします。
◆死人禅の瞑想方法は、ある意味で、「妥協の上に作られたものだ」と
EO師からは、聴いたことがありました。
つまり、本来の死人禅とは、完全に孤立して、何もしない、
という事を長期的に、強烈に、する必要があるのですが、
それだと、出来る人がいなくなるので、
社会生活をしながらでも、少しずつ、
残された自分の問題を、明らかにする方法として、
調整されたようです。
◆もしも昔でしたら、ほとんどの人達は、
EO師の門では、門前払いだったでしょう。
しかし、死人禅では、
門前払いであるか否かの判定を、
導師や人がするのではなく、「行法が判定する」という
極めてシステマティックな方法を取ったようです。
これですと、行法が続かなければ、資格なし、
と単純に出るのですから。
そして、EO師が言うには、
あの行法は、一見、単純に見えて、最初だけなら誰もが出来るが、
その時期が来ていない人は
1/「なぜか関心が他の事に向いて、行法を、やらなくなる」
2/「闇に恐怖を感じて、逃げかえる」
3/「何も変化を感じられなく、やめる」
などの自動的な、選別がなされるといいます。
ただし、1の場合には、
その関心の方向が、自分に残っている欲望である可能性があるので、
それはそれで、効果があったと見なすべきかもしれません。
2も3も、時期でないという事を示唆しているので、
その時には、やめればいいと思います。
というより、頭で続けようと思っても、
絶対に続けることが不可能だと思います。
◆たまに、自分には、死人禅をする「資格」があるのだろうか??
という質問をされる人がおりますが、
それは、「行法」をしてみることで、自覚できると思います。
そして、上記の123のいずれかになれば、
それは、今は、自分には、向かないという結論で
いいと思います。
将来、また、いつか、必要になる事はあるかもしれませんけど。
◆EO師は、師が生きていたときには、
来訪者が、師を直接に訪れていましたから、
その場で、その資格のあるなしを、かなり厳しく、
はっきりと言っていました。
しかし、その師がいない現在では、
私がそれを判定することは出来ません。
私個人には、私なりの経験的な基準、
つまり、その人が瞑想に入れる時期や状況への私見はありますが、
それを、他人に、強いることは出来ませんので。
◆だから、もしも本やこの掲示板を見て、
死人禅の行法をやってみようと思う方は、
やったらいいかどうかで迷っていないで、
やれば、続くものは、自然に続き、
変化のある人は、自然に変化し、
ない人は、何も変化しない、
そういうものだと思います。
◆ちょっと、漢方薬と似ていますが、
死人禅というのは、
抗生物質のように、強引に変化をさせるものではありませんので。
その効果は、かなり緩慢です。
人によっては、すぐに出る場合もありますが、
長く続けないとならないのも、漢方薬と似ています。
根本的な体質改善、という意味でも漢方に似ていますので、
場当たり的に、出ている症状を即効で押さえるということは出来ません。
ただ唯一、漢方と違う点は、
体質分類がされていないことです。
この体質の場合には、この処方という、
そこまでの分類や体系化をする前に師が他界したためです。
ですから、
「効く者には、やたらに効く」゛「効かない人には、まったく効かない」
という、かなり「怪しい治療法」だと思ってください(笑)。
◆ただですね、
それを行うに当たって必要なのは、
たった2000円の茶碗と、
行法マニュアル、または二冊の書籍とMDの3点で、5000円程度。
それ以外、全く何もいらないのですから、
カルト団体や、信仰宗教団体やら、
セミナーや、カルチャーセンターで、何万もぼったくられるのに
比べたら、全く経費なんか、かからないわけですよ。
◆でもね、死人禅では、
一番、経費がかかるのは、
あなたのこれまでの「生き方」そのものの価格なのです。
◆
★
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