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[3538]
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和尚に関する雑感、およびダイジに関するメモ
by:
崩残
2006/06/05(Mon)11:19:24
●私の個人的な感覚であるが、
和尚は、時には、こんな話をしたかったに違いない。
________________________
私は、ある日、いつものように、
ムラを題材にしたジョークをあなたたちに話していた。
すると、オチを聴いたとたんに、あなたたちは、皆笑いころげていた。
しかし、その聴衆の中に、1人だけ、泣いてる男がいた。
私は、その男にこう問いかけた。
「どうしたんだね?」
すると男は言った
「ムラは、私自身なんです。私がムラなんです。
ムラの愚かさは、私そのものなんです。
それが悲しくて、その自分が醜くて、情けなくて、
私は泣いているのです」
私は男に言った。
「この大勢の聴衆の中で、
君にならば、
本当の事を話せそうだ」。
_____________________________
和尚がムラをネタにしたジョークなど語れば、
それを自分のこととして、痛みを感じる者などほとんどいない。
ただ、馬鹿笑いしているだけだ。
それが、
全く、誰にとっても、笑い事ではない
人々の人生と社会と自然を破壊し続けてきた、エゴの醜さだというのに。
だから、1人も、達することが出来なかったのだろう。
_______________________________
●ところで、和尚のもとで、弟子の誰かが悟りに達したか否か、
という点については、たった一人だけその「可能性」のある
人物がいたと、私個人は感じています。
それは、スワミ・ゴーウィンド・シッダールタというお弟子さんです。
どうしてそう感じたかというと、
その古い時代の、和尚タイムズだかの記述で、
とても、とても、お馬鹿なサニヤシンの女性(?性別も記憶不明)が、
シッダールタ氏に、このような質問をしていたのが書かれていました。
インタビュアー
「(悟られてから)あなたの人生は、これからどう変わりますか?」
シッダールタ(以下、うる覚えなので、意訳になります)
「どうして、私が変えなくては、ならないのですか?
私が、どう変わらなくては、ならないのですか?」
意訳をすると、そんなような、ごく短い言葉であったが、
私から見れば、その言葉だけを一瞥して、
シッダールタという人は、確実に小悟していると見なせました。
つまり、、、
「変わるのは、対象のみです。
そうではなく、変わらない【これ】を見つけたというのに、
どうして、私のこれからの変化などが問題にされなければならないのか?
あなたは、一体、なんというナンセンスな事を、尋ねているんだ!」
私には、彼の言葉が、そう聞こえたわけです。
彼は、のちにアシュラムを離れて、
独立して、ボンベイで、少数の人たちに向けた、
瞑想センターのようなものを開いた(らしい?)が、
その後については、私も知りません。
もしも「その後の氏のこと」を知っている方、たぶん、それは
古いサニヤシンの方になると思いますが、
それも、ただの彼の行く先などの情報ではなく、
彼のアシュラムでの略歴や、その他詳細で、しかも、重要な点は、
有益になり得る、「彼が直接に残した言葉」などを
知っている人がいましたら、メールで、お知らせください。
メールには必ず本名と(あればサニヤシンネーム)も記載してください。
↓
houzan@mumyouan.com
●ちなみに、私が言っているのは、
ゴーウィンドシッダールタ(記憶違いかもしれないが、インド人??)
であって、当時、ガキんちょだった、シッダールタ君ではありません。
名前も、ゴーヴィンドだったか、ゴーウィンドだったか、
私の記憶では、定かでありません。
もしも国籍や名前で違っている部分がありましたら、指摘してください。
●追伸●
このシッダールタの件については、既刊の書籍「マイトレーヤー(瞑想社)」
を紹介してくれた読者の人が早速いましたが、
その本は私の所にあります。
他にもいくつかの断片的な資料があるようですが、
公開されているものよりも、
個人的に「実際に接した人」のコメントの方が望ましいです。
ただ、今回、久しぶりにメールに引用されていた、
本の中の次の箇所については、少しだけ、言及することにしました。
↓
>------ 旅はたったいま始まったばかりだ。私は
>まだどこにも行き着いたとは言えない。
>この〈旅〉は『到達』されえない。
>ただ道の途上にいることしかできない。
>--- これがいま、私のいる地点であり、
>私の前にはまだ長い長い道程(みちのり)があるのです」
>
>(一九八六年十一月十九日付け 米国 「ラジニーシ」 紙)」
●実に面白いことに、無明庵の死人禅を6年実習したあげくに
小悟した人もまた、同じことに力点がありました。
すなわち、小悟した人たちに共通するのは、
「ようやく今スタートラインに立った」という「感覚」の存在です。
大悟の場合には、そこが反転しています。
スタートではなく終焉。
和尚もまた、自分の旅は終わった、
「それ以後は、物語はない」と述べたように。
大悟では、方便として重要性を持ってクローズアップされるものが、
絶対的に「死の側面」になり
「死のもたらす恩恵」に関するものにならざるを得ない。
なぜかというと、
その大悟のあとは、寂滅しかないからである。
それ(絶対的な無)が、頭上に、またはベールの向こうに、
かいま見えている、
そのぎりぎりの次元に、その者が存在している以上は、
虚無、無、死というものがすべてのキーワードとして
常に最大の重要性を持ってくる。
一方で小悟した人の場合には、終わりというものは意識されず、
逆に、「原点にいる」と感じる。
ここでの力点は、意識性という非人格的な「主体性」にある。
>人は、自分が意識(対象化)できているその地点は、
>実際にその人の本体がいる地点の「一段階下のものである」という
>大原則がある。
小悟の人の場合には、「終わりなき永遠の生」というものが
自分の上層を支える「天井」として意識されている。
よって、それがいよいよ始ったと、足元の「床」に感じる。
むろん、それは錯覚ではなく、実際にその旅が始り、
それまでのような、錯乱して苦悩の旅では全くなくなる。
大悟の場合には、生死のぎりぎりの境界付近をさすらうという旅が
待っているので、それは「結果的な感覚」としては、始まりではなく、
宇宙の終焉そのものを、
自分の傍らに、常に感じつつ、生きることになる。
そのあたりの、絶対的な無意味と、冷酷なほどの虚無というものを
そのポジションに在る「背景」とすることの徹底さにおいて、
小悟と大悟では、本人がその位置で感じるニュアンスが
かなり「位相が反転すること」になるといってもよい。
悟りが徹底するということは、結局のところ、
本当に「無」が徹底してゆく事と、ほとんど同義なのである。
ただし、このためには、常に正反対に向かう力のベクトルが
必要になるので、単なる「観念的な無」を志向する方法では失敗します。
死人禅で言うなら、その全く異なるふたつとは、
「無限無の闇」と、「有としての頭上点」である。
到達に必要な条件とは、
「まったく逆の特性のものを常に同時に使う」のである。
__________________________
そういう意味では、シッダールタは確実に小悟していたと
私個人は思います。
ただ、シッダールタの他の言葉にも、
エゴの死や自我の死という言葉は登場するかもしれないが、
完全なる死とか、「そのあとは何もない」といった、
「和尚」がごくごく希に語った、涅槃の「彼方」のことについては
言及されていないはずである。
そして、そもそも和尚の話には、
幼いころの火葬場の話、祖父の死の話、そして
自分の死んだ日、と、
常に、死というものがどれだけ重要であるかがキーワードとして
機能している。
それと同じように、世界の死、といったものも、
実は和尚もその射程範囲に含んでいたのである。
でなければ、大悟の問題については本腰を入れては、
言及できないからである。
残念なことに、欧米人にとって、神そのものがいなくなってしまう世界、
世界そのものが本当に終わってしまう世界というのは、
とても受け入れがたい。
(キリスト教的、または神智学的な「集合意識的な観念の壁」のために)
だから、東洋では当たり前の「無」とか「死」といったものの
東洋的な美学や、その中にある絶対的な真理については、
和尚も、欧米人に対しては、ほとんど語ることがなかったのである。
それは、欧米人につけるは、かなり「強すぎる薬」だったのである。
それについては、むしろ、確実に大悟をしていたダイジの方が、
平易な言葉だが、その言葉の中に、頻繁に現れている。
彼は、永遠の生命など信じていない。
彼は、旅など認めていない。
彼は何も認めないし、何もかもを認めている。
彼の中では、終わりも始まりもない。
彼は、シッダールタよりも、遥かに「デリケート」だ。
その、もろさと強さの微妙な混合が、彼の最大の味でもある。
死に神が半分、生き神が半分といったところだ。
そして、EO師は、99%が、死神だったのであろう。そして
1%だけ、慈悲(存在物への僅かな関心)を持っていたのだろう。
_____________________________
■さて、この投稿の以下に、
ダイジに関するメモを更新しておきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>◆「只管打坐」について
(普通の禅の本や、ダイジの本にも書かれていることとも重複しています)
・背骨はまっすぐにせよ。畳の水平面に垂直にすること。
・腹は出すな。首を引くこと。あごをしっかり引いて首を立てること。
・視点は固定しろ。また印と脚は絶対にほどかず不動の姿勢を保て。
・肩は後ろに下げぎみにして、胸を開く。肩と腕に力が入ってはならない。
・印が鍵となる。特に頭が先行するタイプの人間は印が死活問題となる。
印は舵取りだ。
・印は柔らかく、卵を持つがごとくに。親指を伸ばして軽くあわせるが、
力を入れてはならない。親指のあわせた点がへそにかかる位置に印を組む。
この時、その点が正中線に来るようにする。腕を前に張って、手首が
まっすぐになるようにする。
・腰を性器の付け根に向けて入れる。この斜め下向きのベクトルと、
膝が畳から受ける反作用のベクトルがつり合う。
・体の力、エーテル体を下に押し付ける(押しつぶすという印象)。
体の力を腰、性器の付け根に集める。アストラル体は無視しろ。
メンタル体は頭上部にエネルギーが蓄積される。
メンタル体はジャンプする。
・只管打坐においては、上半身は天国、下半身は地獄となる。
・座蒲は高さが高いものを使用する。お尻が半分乗る程度に坐る。
性器の付け根が端にくるように坐る。
・座禅は、40分〜50分に壁がある。3時間坐れるようになると、
いろいろとわかる。
・体のゴミがいったん腰に集まり、それから上下に振り分けられ、
「あるべき位置」で、消化される。あるいは腰で燃焼される。
ゴミを頭頂から抜くが、体で燃焼するものも重視される。
・燃えたものはエネルギーとなり、栄養になる。
・只管打坐は、童貞の方が良い。セックスの体験のある者にとっては
只管打坐は地獄となる。
・只管打坐では、日常の生活がとても大切である。
・接心は、21日間が人間の限界である。その際には、
飯作りなどの世話人は、完全に信頼できる人を選ぶべし。
・只管打坐では、一ミリの誤差も許せなくなる。
・勢いというものがあるから坐り続けろ。鉄の意志と、気迫で坐り続けろ。
・三年間座禅しても結果が出なければやめたほうがいい。
・只管打坐という生き方がある。
_________________________________
>◆「ダイジの言葉の断片」
(実際に、メモをまるめてみると主要な部分の量は、さほどありません)
・「君は、人類の思考の起源と、なぜ思考が存在との壁になるか理解せよ」
・「クンダリーニでは導師の存在が物理的と言っていいほど不可欠である。
師がいない場合、完全な姿勢での只管打坐を毎日(または一日中?)、
3年間続ければ、カルマがきれいになり得る。
史上、導師なしでクンダリーニで行ったのは、バグワンただ1人である。
彼はカルマ圧力で脳天をぶち抜いた。」
・「私は禅よりもクンダリーニの方が好きだ」
・「空は、リアリティーとノンリアリティーの極限である。」
・「仏陀苦行像は只管打座の姿だ」
・「座禅で、姿勢が右に傾いているのは、
ギリギリで愛に傾いているからだ。左は知恵だ。」
・「どのように坐れば良いかに、答えはない。ただ坐れ」
以下はダイジの言葉かは不明記であるが↓
・「いくら物や思想を持ったところで、人の重心は決められている。
逆らったところでたかが知れている。
クンダリーニは神にあらしめられている人が神を知ること。
禅は、人が人であり、神の一部なのは当たり前で気になることもない。
メカニズムは存在が知っているのだから、任せておけばよい。」
__________________________________
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