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[3548]
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雑記
by:
崩残
2006/07/06(Thu)04:12:19
いろいろと、「断片的」に書いておきます。
■■■
以前の投稿で、ACの人が、親の影響から脱するためには、
金銭的な癒着を切るようにと書きましたが、
これが、出来ないタイプの人がいます。
それは、「無自覚AC」です。
ご存知の通り、世の中には、自覚ACと、無自覚ACが存在していて、
自覚ACの人は、虐待や家族の中の明確な機能不全を通じて、
明確に親に対する敵意と敵対関係を、自覚して持っていますから、
この人たちが、ある時成人してから、親に絶縁状をたたきつけ、
金銭的な援助を斬ることには、本人だけではなく、
親の変化に対しても、大きな効果があります。
一方で、「無自覚AC」の者は、親の方が一枚上手だったか、
あるいは本人が単に、トロかったというだけの理由で、
親に対する敵意そのものを持てないように調教されています。
こうした人々は、親に対して、漠然とした、うっとおしさ程度しか
感じることは出来ず、また、いくら絶縁と意気込んでも、
結局のところ、親を恨んではいないわけです。
他人から無自覚で眠り込んだままのACであることを指摘されても、
せいぜい、親を恨んでいる「ふり」しかできません。
自覚ACの人ならば、心底から敵対関係にありますから、
絶縁状を親にたたきつけるにしても、金銭的なつながりを切るにしても、
そこにある動機は、本人の危機感と直結しています。
しかし「他人から指摘」されなければ、何も危機感も持てず、
金銭的に自立しようとする意志すらも持てずに、そのまま、
親に食わせてもらっている状態で、
ずるずると30歳、40歳になってしまっている人を最近も私は見ました。
この、無自覚な人たちに共通する最大の特徴は、
生に対して、ひどく「鈍感」であることです。
そして、口でいくら何を言っても、
本人が解決に迫られている自覚的苦痛など、
全く感じられないということです。
苦を感じないこうした人たちが、いくら精神世界の知識を
振り回したところで、みっともない、「えらぶり」の道具でしか
ありません。
自分よりも下だと見下した人間に対して、意見を言うことで
それを分析力と勘違いしてしまい、
自分に対しては、何も観察できずに、
自己満足の自慰的行為に埋没した、ただのゾンビです。
一方で、自覚ACの人たちの全員ではないが、比較的共通する要素は、
幼いころから、親からほとんど「何も買い与えられていない」ということです。
その家の、「実際の経済事情」には関係なく、ほとんどのケースで、
自覚ACの人たちは、親から何かを買い与えてもらっていません。
たとえば、充分な収入があっても、親が家にお金を入れない、
子供にはほとんど何も買い与えないなどです。
おもちゃ、ひとつ買ってもらうにも、あるいは生活必需品ですらも、
それを買ってもらうのに、親から相当に、ののしられ、
長々と、恩着せがましく説教され、
相当の嫌な思いをして、やっとのことで、
ほんのわずかな物を得ることが出来た、
という経験者が、わりと多いのです。
また、ほとんど何も買ってもらったり、遊ばせてもらった記憶が
ないということが多いものです。
こうなると、親から何かの物品や金銭を受け取るということに対して、
自覚ACの人たちは、そもそも、幼いころから、
全く愛情のない親からの、屈辱的な経験を経ているので、
成人した段階では、必然的に、親の金など受け取る気も微塵もなく、
早々に、家を出て、自活する意志を持つのは当然のことなのです。
ところが、無自覚ACの者たちは、
親が調教のために差し出してきた「餌」に対して、全く警戒心がない。
というのも、彼らは、散々に、親のお金で「自分の楽しみ」に
満足してきたからである。
しょうもない親から与えられてしまっている満足であるとも気づかずに、
彼らは、美味しい思いをさんざんにしてしまっており、
また、美味しい思いを「させられて」しまっている。
彼らは親から何かを受け取るときにも、
「多少、嫌な顔をする」というその程度の反逆精神しかなく、
結局のところ、親からのお金や物品を受け取る際に、
「実害」や「苦」を何も受けていないのである。
だから、なんと、30歳、40歳を過ぎても、
親から物品を受け取ることに、他者から指摘されなけば、
何の違和感も感じないのである。
一方で、自覚ACの人は、他者からなど指摘されなくとも、
そもそも、明確な嫌悪と危機感が、親に対してありますし、
親から、ほとんど何も美味しい思いもさせてもらっていないので、
ある意味で、親に洗脳されていない部分が残っているわけです。
■これを一国の統治に喩えると、
国家から、明確に差別され、虐待的に扱われてきた民族の方が、
それによる「感情的な屈折」といった欠陥はあるものの、
ある意味では、正気を保っている部分があります。
しかし、国家においしい餌を与えられて育った民族は、
親がやっている「子供には分からない見えない洗脳や、虐待、不当な差別」に
対して「危機感を持てないように調教」されます。
自覚ACも、無自覚ACも、どちらも屈折はしますが、
おいしい思いをしなかった方に、
「いくらかの正気を保てる」という意味では、
やや軍配があります。
自覚ACで、20歳で早々に親から離れようと自活生活を始めた人と、
40歳過ぎて、今頃になって、
自活をしなければとかやっている無自覚ACの人、
このふたつを見比べる機会が、たまたまあったので、
傍観していたのですが、
どう見ても、無自覚ACは、あまりにも、あらゆることに鈍感ですから、
結局のところ、親に一生、飼いならされ、
結婚相手や子供すら、実質的には親のもので、その者の一生は、
親の不満の捌け口としての、おもちゃにすぎないといった面が
多々あります。
あまりにも物事に鈍感すぎて、
ひとりの、まともな人間としての会話すら、成立しないのです。
ですから、痛みを明確に実感しているだけ、
自覚ACの人の方が、マシです。
そして、機能不全家族の問題に向き合うにしても、
瞑想などに向き合うにしても、
「何においても」そうですが、
本人が、苦痛を実感できていない人には、
どんな方法論も、全く役に立ちません。
なぜならば、方法論や技法を作動させるスイッチは、
明確に実感を伴う、苦や危機感にあるのですから。
ただ、いずれにしても、自分が無自覚ACであることを知る
「幸運な機会」があったのなら、
親に、本気で、絶縁状を叩き付けることをまずせねばなりません。
いいかげんな、ゲーム感覚に陥りやすいのが、
調教された無自覚ACの者に多いのですが、
何もしないよりは、自分の人生なのですから、覚悟のひとつぐらいして、
親から自立、自活するに越したことはありません。
それが出来るか出来ないか、結局は、親離れできず挫折してしまい、
精神世界など、とても口に出来るような者ではなく
人間としても半人前で終わるかどうかは、
ひとえに、苦しさというものを、
寒熱の気温や、外傷ぐらいに、
「明確に」、本人が「実感」できているかどうかによります。
___________________________________________________
●ところで、新刊の方の編集は、あと2週間ほどかかりそうです。
今回編集を進めている本にも、自覚的な苦の重要性にも主眼があります。
また、悟りの体験に至るまでの、実生活における、
特に、それは対人関係における、
いろいろな悔恨、やり残し、といったものは、
見性したとしても、のちに処理すべき課題として残るものであったり、
それよりも、多くの場合には、
その見性時の「高度」「純度」に対して、著しく足を引っ張ることもある
という点も主要な内容です。
また、至高体験や神秘体験を経験する人たちの多くが、
その後に、数日、あるいは1年という時の中で、
それが失われてゆくケースに私は着目しています。
いろいろな体験記は、多くのものが、その体験の部分と
そこに至るまでの経緯の自伝的な記述はあるのですが、
その後に、実は、大きな転落や、迷いや、再び世俗的な問題に
再び頭を悩まし、晩年あたりになると、
横道へと、どんどん逸れることになる事例がかなり多くあります。
たとえば、有名なところでは
エリザベス・キューブラー ロスなどが、分かりやすい例です。
彼女は他者の死という一見すると普遍的なテーマを扱っていたように
外側からは見えましたが、
結局のところ家族の問題と、
世俗的な意味の愛の問題に帰着してしまった。
彼女は、体外離脱の研究所において、
『非常に限定的な意味での』一種の神秘体験を経験したものの、
のちに、脳梗塞になったときには、
「私は神にあなたはヒトラーだと呼びかけた。」と言ってみたり
最後には、
「わたしは愛を受け入れることがヘタだった。
だから自分を愛する事もできなかった。
自分を愛するのは嫌いだ。」等の言葉を残し、
ついに晩年には降霊術に傾倒してしまい、
それが原因で離婚したとも言われている。
●こうした何人かの、いわゆる神秘体験者の記述を照合すると、
そこには、
>小悟ですらない、一過性の神秘体験。(予定新刊「虚無の微笑」参照)
>確かに小悟であるもの。
>ただし、そこでずっと停滞してしまったり、
>不安定になってしまう小悟もある。(予定新刊「虚無の微笑」参照)
>大悟であるもの(予定新刊「虚無の微笑」参照)
>この3つが混在している。
こうした分類などに何の意味があるのかと言われれば、
それは恐ろしく重要な事であると言える。
伝統的な経典では、なにやら、
面倒な用語で説明をしているものもあるようだが、
こうした経験をするのは、全く何も先入観のなかった人たちである
ことが圧倒的に多いものである。
したがって、ごくごく平易な言葉と分かりやすい説明がなければ、
そうした神秘体験の体験者や、後世の人たちが
自分の位置を確認する術にはならないわけである。
●最低限の「小悟」の場合にでも、その意識状態は、
その日、その瞬間を境にして、「底流」においては、
ずっと、死ぬまで、その人にとって、不変で恒久的なものとなります。
したがって、時間とともに弱まり、
「降下」を開始してしまった神秘体験は、
小悟ですらなかったと言えます。
小悟と「それ以下」を区分するものは、一言に言えば「自我の有無」である。
だから、重荷がどっさりと落ちたと思っても、
また重荷を拾ってしまう「張本人」の自我がそこにあるかぎりは、
悟りだと思い込んだものは、
いずれ時間に比例して水源が枯渇し、
以前と同じか、多くの場合には、その体験以前よりも、
さらに「足元の現実的な問題」「自分の欠陥」に関わり、
錯乱されることを余技なくされる。
神秘体験記を書く者は、多くの場合、
その肝心の「降下経験」の記述が少ないことが圧倒的に多いのである。
おそらくは、体験が、
「あれは、それだけのものでしかなかったんだ」という自責から、
その後の転落については、書かないのだろうが、
実は、その「降下の記録」というのが、
悟りを考察したり再区分したり、その後の課題が何であるかを判断いる上で、
重要なものであると、私は感じている。
●いろいろと調べてみると、
中には、その後の自分の降下について書き、
神秘体験のあとから、自分が苦しんだことを、
「正直に」書く人も、ごく希に、いました。
今回の「虚無の微笑」に編集中の、
死人禅行法によって悟りを得た人の体験記にも、
若いころに、一度、大きな脱落をしたが、
それが、一時的なもので、その後に、
それ以前よりも、いっそう苦しむことになった
という事例が出てきます。
その人は、そこから、本当の小悟に至るまでに、
なんと10年もの歳月を要していたのです。
●体験内容は強烈ではあったが、
「自我は、全く落ちなかった」
というタイプの神秘体験者、については、
そこから勘違いをして、カルト教祖になったりさえしなければ、
しごく無害なもので、あとは本人個人の「人生の問題」なのであるが、
一方で、本当に小悟し、
「個人的な範囲」では「確かに、自我は落ちてしまった」
というケース・・・この状態の人が抱える、独特の問題があります。
それが、悟りの「停滞、または不安定さ」です。
それは、本人が事実としても、
恒久的に、そのまま苦しまない状態にあるために
そこから一歩も、先へと進めなくなってしまうということである。
ある意味では、悟りの中でも、
「小悟」が「最も厄介な状態」であるとすら言える。
社会に対しては、人畜無害ではあるが、
神性(悟り)そのもの、あるいは本人自身にとっては、
この上もなく有害な停滞状態であるとでも言えるかもしれない。
このあたりの、「小悟と、それ以前の一過性の神秘体験」、
そして、「小悟と大悟」、このあたりの区分を明確にしている
ということが、今回の新刊、「虚無の微笑」の大きなテーマと
なっている部分です。
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●全然、関係ない話ですが、
最近、ちょっと気に入っているのが、こういうジャズ。
小曾根真氏と小沼ようすけ氏の共演。
一般ウケするものの中にも、センスのいいものはありますね。
結局、アーティストにとっては、「本人が何を美と感じる」かという
感性の部分が大きくて、作曲のテクニックとか技術も、
その感性の基礎部分がないと、どうあがいても、面白いものは
生み出せないわけですね。
↓2、6曲目で2人の共演が聴ける。
http://www.sonymusic.co.jp/Music/Jazz/Artist/YosukeOnuma/music/index.html
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