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自殺
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[3629]
■
自殺に関して、政府は、一切、口出しをするな。
by:
崩残
2006/11/25(Sat)07:49:26
●簡単に言ってしまえば、次のようなスタンスを貫けということである。
日本国政府は、老若男女を問わず、
その国民個人の自殺に関しては、一切の責任を負わない。
と同時に、政府は、国民の自殺する自由意志を
一切規制することもしないことをここに宣言する
●従って、同じことは、
医療を受けるか受けないか、尊厳死ということにおいても、政府は一切口出しするな、
ということである。
この法案、または宣言で最も重要なことは、
自殺の原因が、「どうであれ」、その理由に関係なく、
政府は、自殺そのものに対しては、口出しを絶対にするな、
ということである。
その理由が、いじめによる「心理苦」であろうが、
飢饉で食えなくなっての自殺であろうが、
借金苦であろうが、失恋であろうが、人生の意味に悩むのであろうが、
その動機、「理由の一切に関わらず」、
「自殺」を悪いとか、良いとか、
それは政府が決めることではない、ということである。
●その自殺に至るまでの経緯、経過の中にある、
犯罪的行為、詐欺行為、暴力行為、これらはむろん法的な規制を
必要とするものであるが、
唯一、人間における最後の自由意志の「引き金」である、
自殺するかしないかの最後のスイッチ、
このことに関してだけは、
それを唯一、人間に与えられた、人間の最大の尊厳、決定権利として尊重し、
その部分に関してだけは、一切、口出しをするなということである。
●殺人や暴行、これらはあくまでも犯罪である。
そしても、世の中には、自殺というものを「間接殺人である」と
定義する人達もいる。
それは確かに、狭い「ひとつの方向だけ」から見れば、
社会や周囲が殺したんだ、という「こじつけ」が出来ないわけではないが、
もしもそうした「社会責任に押し付ける」という次元にまで、
自殺のというものの「敷居」を下げたら、
「人間の尊厳」など、何ひとつも残らなくなってしまうのである。
太田の番組だか、何かで、いじめで自殺した親の手紙というものがあったが、
全くもってして、愚かな親ですね。
「あなたを死なせたのは、私達、大人社会です・・・」みたいなことを
のたまっていたが、私の相棒(うちの料理長)が、
思わず、口にした言葉が、ふるっていました。
「最も近くの人間に対して言うべき言葉を、
ずいぶんと、一番遠いところに対して言うもんだね」
●つまり、この親っていうのは、
ずいぶんと、安直に「社会」とか「大人」とか、
自分の足元もおろそかにして、最も言ってもしょうがない遠い距離に
言葉を発するという、矛盾したことをやっているわけですよ。
子供を死なせた「最大の原因」は、
「大人社会」ではなくて、そこの「あんた」だろ。これが正解なんですよ。
●最近の報道とか風潮では、親たちが、ずいぶんとまー、
社会だとか学校だとか、政府だとかに責任を押し付けまくっていますが、
家で、あんたら、一体、家族として、何してたんだね?
とは、誰も問わないわけですよ。
加害者家族も、被害者(?)家族も、同様で、
どっちも、まったく同じことです。
●どっちも、「それだけの家族」でしかないならば、
加害者側も、死んだ側も、生きている側も、「それまでのこと」です。
私は何も強くなれとも、政治的な活動をしろとも言わないが、
回避したいならば、転校を重ねてもいいのであるし、
なんなら国外に留学してもいいのであるし、
なんなら、ずっと不登校になってもいいのであるし、
そもそも、自分の子供の人生にどう接していいのかも分からない親なのだから、
そんな親には、大した人生の指針も、哲学も、目的もないのですから、
何ひとつも、対処など出来ませんよ。
親が自分の人生を、もう半分捨ててんですから、
子供はそれを映し出すだけのことです。
●自殺というのは、理由は、無限にあるわけではなくて、
いくつかに分類・整理される理由がそこにあるわけであるが、
その原因を形成した理由と背景が、いかに社会的なものであったとしても、
たとえば、戦争や内乱、飢餓、どういう混乱状態にあったとしても、
そして、どういう政治的な犠牲者としての立場にあったとしても、
ただ唯一、その引き金を引くかどうか、
それだけは、その「個人の意志」に委ねられているものであって、
それだけは、つまり自殺は、誰もそれを強制できない、と同時に、
自殺を止めることも出来ないし、してはならないことである。
借金取りがあなたの家に「早く自殺しろよ」と何万回言ったところで、
決定権はあなたにあるのである。
家族が何万回、自殺だけはするなといっても、
決定権は、あなたにあるのである。
この、最後の最後に残された、人間の自由意志の決定権をも、
「他人のせいにする」ようでは、
自殺して、死んだにしても、自殺して、生き延びたにしても、
どっちにしても、それは、「人間やめました」ということなのである。
もう一度いいますが、自殺の理由が、どれだけ社会的な圧迫に
あったとしても、その引き金を引くのは、あくまでも個人の意志である
ということ。
この意志を放棄したら、それで、あてつけに死んでも同じ。
逆に、社会や誰かに止められて、なんとかずるずると「生きても」同じです。
■他者から見れば、とるにたらない、
贅沢な自殺だと思えるようなことであっても、
また、人類がなぜ生きているのか分からない、
または、生きている意味が全くないという結論からの自殺であるにしても、
「どういう背景と理由がある」にしても、
その土壇場に、現実に存在しているのは、
社会ではなくて「まったくの個人」であるということ。
この視点というものが、政治家や心理学者や、宗教家には
一切存在していない。
彼らは、道徳規範か、さもなければ、宗教教義を盲信することで、
個人を否定して「既成の善悪」を人に押し付けているにすぎない。
そこで、何をどう考えて、選択するかは、
どれだけ幼い子供であっても、どれだけ弱くなった老人であっても、
それは、自分の「自分に対する責任」において行うことだと
認識することである。
無明庵というのは、自殺を肯定も否定もしないが、
とにかく思慮もなく、それを「習慣的な観念」で否定するという事に
たいしては、反論をし続けてきたところである。
それを決定するのは、あなたの「意識」であって、
それだけは、誰にも決定権を譲るな、たとえ相手が、
神であろうが、仏であろうが、絶対に、
「他人から言われたことなど、信じるな」と言っているのである。
それは、本当のことを知りたければ、自分で確かめればいいのだ。
統計すら信じてはならない。
統計とは「限定的な調査方法」における、
単なる、客観「性」の一種でしかないからだ。
だから、自殺の原因は社会的なものであっても、
自殺の「引き金は、個人的なものである」ということ。
自殺は「自分という他人を殺す他殺ではない」。
そんなものは、ただの言葉遊びである。
だから、それは、あくまでも「自 殺」なのである。
●いじめにかぎらず、食糧難、借金苦などの、
主たる自殺の原因となる要素を、「すべて排除した」としても、
(もっともそんなことは人類にも、人類でない者にも不可能であるが)
自殺は、絶対に人間に起きるのである。
なぜならば、もしも無知性と、鈍感で無感性な生き物に成り下がり、
何もかも、他者のせいにして、他人を批判し、ゾンビのようになるなら
死ぬことを思うことはないだろうが、
最低限の知性がその人にあるかぎり、
最低限の美学がその人にあるかぎり、
最低限の意志がその人にあるかぎり、
最低限の自己意識がその人にあるかぎりは、
人間というものは、どういう天国にいったところで、
その「微々たる希望の寄せ集め」には、
永遠とか永久に耐えうるような根拠も力も保証も、何ひとつ無いのだから。
だから、私は言い続けてきたのである。
自殺を考えるということは、「この上もなく高尚な行為だ」と。
それがどんなに馬鹿げた、日常的な理由でもいいだろうし、
それが、どんなに哲学的な理由でもいいだろう。
その追い詰められる悩みの質は、個人で違うものの、
ただ、ひとつ共通して、重要なことは、
「自分の目の前にある自殺スイッチ」を
押すかどうかで、存分に、「躊躇しろ」「フルに考えろ」ということ。
安易に、押すのではなくて、
死んだあとに、誰からも文句を言われないほど、
確たる理由を固めてから、したいなら自殺しろということ。
自殺するときに、無意識になるような薬物やアルコールは
絶対に飲まず、意識を明確にしたままでしろということ。
その結果、
もしかすると、その自殺は、あなた個人にとっては、
間違っているかもしれないだろうし、
正しいかもしれないだろう。
どっちの結果になるにしても、
そこで、自分の頭や意志を限界まで、最後の瞬間ぐらいは、
オーバーヒートするぐらいに、葛藤しろということなのである。
だから、死んだら楽になると、本当にそう思うなら、
生きていても、時間と資源の無駄だから、早く死ねばいい。
それでは、何かがひっかかると言うなら、
うんざりするまで、ひっかかったままでいればいいのである。
●今となっては、人間に唯一残された、重要な意志、
または自我の結晶、または、突如として、時には、何かの道になり得る、
もっとも重要な、「これで本当にいいのかと、自分と向き合う」
その最大のチャンスである自殺というもの、
これにだけは、社会も政治も、
決して、介在してはならないということである。
いじめや、犯罪、内乱、殺人、飢餓、詐欺、こうしたことは、
あくまでも「治安」に関することだ。
それがどこまで、個人の生死や、人生の希望や絶望に「かかわっていようが」、
唯一、自殺の「スイッチそのもの」だけには、
誰ひとりとして、神すらも、介在してはならない。
なぜならば、特定の「意識構造」を持つ生命体が、
そもそも自殺という名の「強制中断」を思いつくのは、
我々人間を製作した「プログラムそのもの」の「結果」なのだから。
■
それと、最後に言っておきますが、
いじめによる自殺をなくす方法は、ひとつだけありますよ。
それは、いじめられた側が、もう少し、まともな人間として、
「きちんと、怒る」ことですよ。
怒りをきちんと、明確に感じて、それを持てないこと。
これが、いじめられる側の落ち度です。
そんなに怒らないのが好きなら、そうしていりゃいいんですよ。
強くなれとは言いませんが、怒る権利ぐらい自分にあると知ることです。
その「怒り」という、動物に当たり前に存在する「牙」を、
一体、誰が抜いたのですか?
宗教、それとも親、社会? なーなーの仲間意識?
いずれにしても、いじめられたら、存分に、怒ることですよ。
そして、まー、「共謀罪」とかいうものが適応されていないから
今のうちに、ここで言ってしまいますが、
そんなに、いじめている側に対して、本当に怒りがあるならば、
「いじめると、どえらい仕返しをされる」ということを
思い知らせてやることです。
具体的に言うと、共謀罪とかになるわけですな。
だから、具体的には言いませんが、
いじめられて、本当に怒っているならば、
犬死になどするなということ、
戦えということ。
そして、相撃ちでもいいから、
何がしかのダメージ相手に与え、
「いじめると、ヤバイことになる」ということを
社会とか学校とか法に頼るのではなくて、
いじめられた側が、自分でオトシマエをつけろということです。
ようは、これが、事件性のない小規模な状態で、
小爆発を繰り返していたのが、かつての時代だったんですよ。
こぜりあいが、きちんと表面化して、
やる側も、下手をすれば、ただではすまなかったこと。
いじめたら、いじめた側は、自分の命や家族も危ないことになる、
そういうことを、明確にすることです。
そうすれば、それが減少するのは、
「恐怖によるもの」という、いささか消極的な方法ではあるものの、
いじめる側も、おのずと、自粛するものなのですよ。
他人や、集団から、甘く見られるのが、いいなら、そうしていればいいい。
嫌ならば、無能な政治家などに泣きついていないで、
相手に、やったことを「一生後悔させるまで」、
「報復しろ」ということである。
タレントだか、誰かが言ったか、あるいは聞いたという言葉で、
私が好きな、殺し文句、脅迫文句があります。
それは次のような、なかなか「粋な」言葉でした。
「お前に、この世に生まれてきた事そのものを、後悔させてやる」
この程度の殺気ぐらいは、あなたの「正当な怒り」として、
きちんと、持ちなさい、ということである。
こういう、動物的な本能や、恐怖に働きかけることでしか、
とりあえずは、人類というのは、いくら美辞麗句を並べても、
相互依存とか、お互いに節度を保つという「秩序」は保てないのですから。
■それと、蛇足になりますが、
オーラの沼でも、泉でも、どっちでもいいですが(笑)、
江原氏の言い方を見ていると、面白いんですよ。
知ってのとおり、自殺なんか、何度か誰でもやっているわけですよ。
過去生では。
彼も、タレントに向かって「あなた自分で命、絶ちましたから」
なんて、さらさらと言うわけですよ。
しかし、彼がそれを言わない相手というのがいます。
それは、そもそも、あんな番組に出ることもないでしょうね。
そもそも、タレントをやるということ自体が、
芸能のネットワークと契約をしてきているのですから、
そこそこ、人生に目的を設定している人達です。
だから、彼らが過去生で自殺をしたとしても、
それを江原氏が、あからさまに言うのは、
>その当時の自殺の動機が「自分自身の問題に行き詰って」という
場合に限られます。
一方で、そうでない過去生での自殺というのは、
主に「相手に対する恨み」によるものです。
自殺の原因を、完全に誰か他者におしつけている者、
完全な、あてつけの自殺、こうした者は、
既に書いたように、「本当の意味での自尊心」という、
「自我」を放棄したわけですから、
「個として自分に責任持てないなら、あんた、人間やめな」という
ことになり、
お次は、まー、群れの動物とか、群れる生物とか、
何者かの政治的、または家庭の支配下で、ずっと制圧とか、虐待されるとか、
そういう立場に生まれるでしょうね。
この世界に、生まれられるならまだいいですが、
大抵は、全く無意識になった、ゴミの塊、「ゾンビ溜め」にからめとられて、
たまに、定期的に、ゴミとして掃除をされる「物」なるでしょうね。
霊能者に言わせると「相手にする意味のない夢遊病者の群れ」みたいなものです。
つまり、どう転ぶかは、自業自得ということです。
他人のせいにして、人間、または「特定の意識構造」の生物をやめるか、
それとも、「自分自身の、この意識や思考、そして生命とは何なのか?」と、
自分の責任において「自問」と「探求をした」「その結果の死」を選ぶか、
どちらの自殺の道を選ぶかは、「あなた」だということです。
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