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2007年3月までは
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●禅書道日記・その-105
by:
鈴木崩残
2010/03/23(Tue)12:48:28
前衛書道への踏み込み
●その話の前に、ある外人さんに書いた書を紹介します。
これは謹呈ということで、注文を受けたものではありません。
前に言いましたように、私は外人さんに対して書を書くときには、
楷書か草書を、崩した場合にも、それほどぶっ飛んだ書にすることはなく、
創作書のように、デザインを少し味付けする、
といった程度に留めています。
既に「無心の禅書のDVDの−10巻」や梅の間でも説明したように
漢字という文化を、
彼らは、意識の接続のための記憶として持っていないからです。
ですから、今回も最初は、そのような書になるだろうと軽く思っていました。
ちょっとしたインテリアとしてエキゾチックな書があれば外人さんは
満足なのだろうから、
そこそこ自分の作品として恥じない仕上がりならば、それでいいだろうと。
●ところが、いったん筆を走らせてみると、
どういうわけか、この人に対しては普通の書にならないのでした。
ちなみに、お題は「Shining moon」でした。
和訳すると、
月光、または、月影(げつえい)、月明かり、月の輝きといったところです。
しかし、どう普通に書こうとしても、
筆が、読めるような字になることを、とことん拒否しましたので、
そこで、急遽、カウンセリング書に切り替えたのですが、
それでも、なお、字が全く書かれようとしません。
そこで、日本の人にすら、注文がこなければほとんど書かない
「無心の書、無無心の書」に切り替えました。
そして出来たのが以下のような書です。
こういうことは、めったにあることではないのですが、
たぶん、この相手の人の中では、
書というと、読める書とか、東洋のインテリアという定義ではなく、
「アート」、しかも抽象的でサイケデリックなアートとして、
書を位置づけてる意識が強いのだろうと推測しました。
そうでなければ、ふつう、外人さんに対してこのような書が
出てくることはありませんし、
私も、さすがに、書き終えてから、いくつかの作品については、
送ることを躊躇しまして、数点は、送るのを断念しました。
手紙を添えて「もしもこういう抽象的な作品がお好きでなかったら、
ごめんなさい。でも、あなたの場合には、草書とかにならず、
こうにしかならなかったのです」と記しました。
左から「月色」。残り二つは「月光」。すべて「無無心の書」です。
左から「輝月」。これは二つとも「無心の書」です。
●なんという事はない月、輝、光、などの字なのですが、
いつも皆さんに書いているようなカウンセリング書にすらならず、
こういう作品になりました。
後日、一ヶ月以内には感想が来ると思いますが、
私も予想外の展開でしたので、気に入っていただけるかどうかは分かりません。
●さて、この人に、こうした作品を書いた結果、
私の中で、いままでに入ったことのない書の分野のスイッチが
はいりました。
それは、「前衛書」という領域です。
これは以前に「書の種類の分類」の投稿を書きましたが、
その中でも、私が全くやったことのない分野です。
★【現存する書道の分野の分類】について。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?U1358
私にとっては、現在まで、カウンセリング書がメインでして、
(私の定義するところの)禅書である「無無心の書」が、
ごくたまに書かれるだけでした。
それ以外の領域は、興味もありませんから、全くノータッチでした。
●しかし、今回どういうわけか、前衛書という領域、
つまり、その人のための洋服の仕立て屋さんでもなく、
やりたい放題の「パリコレ」でもないという領域のスイッチが
少しだけ入ったようです。
それで書いた作品が以下のものですが、さすがにこれは、
その外人さんにも送りませんでした。
これの面白さが分かるのは日本人でしかあり得ませんから。
見分けがつかない人は、「無無心の書」にしか見えないと思います。
しかし、私の中では、これは他の今までの作品と
違う分野のものとして、明確に区別されています。
●一言で違いをいいますと、無無心の書が放つような、「禅的な迫力」や、
受け手の意識に飛び込む性質が後ろに一歩引いた分、
「抽象絵画」、または、単なる「墨の模様」に入れ替わっているのです。
無無心の書が紙から手前に飛び出すような雰囲気であるのに対して、
今回のこれらの書は、紙の少し向こう側、
「窓の外に文字が浮いているような感じ」であるといえます。
その分、迫力は落ちるのですが、
インテリア書のような「作者の主張が少し引いた味」があります。
一見すると、
墨は、こんなにも激しい動きに見えます。
それにも関わらず、
無無心の書や、カウンセリング書とは、異なる気配になりました。
●実はこれらは、同じその外人さんに向けて書いていたものなのですが、
「これは、ちょっと、いくらなんでも、行き過ぎた書になった」
と思って、送るのをやめた作品です。
初の前衛書の作品
「月輝」「月光」「月光」
「月光」「月光」(これだけは無無心の書に近い) 「月輝」
「月輝」「月影」」「三日月」(これだけは無心の書に近い)
「輝」
●これはさすがに、無無心の書ですらないです。
ですから、これは皆さんから注文されても、書けません。
またこの書は、分類できないので、
しかたなく、「猫の足跡」の落款が多く押されています。
私自身が、なぜこういうのを今回書いたのか分からず、
無無心の書にすら、分類が出来なかったからです。
微妙に「無無心の書」と似ているように見えますが、
分かる人は、今までの私のどの書とも、根本的に違う点を感じるはずです。
禅的な境地でなければならない、という枠(制限)すらも外れてしまい、
全く自由に筆と墨が、勝手に遊んでいます。
●書いていて、今までと最も違ったのは、
今までは、最初の位置に墨が落ちたり、跳ねても、
それは別に意図したことではなく、
文字を描く「プロセスの中で偶然に起きること」でした。
つまり字を描こうとしたら、「たまたま墨が跳ねた」という事です。
ところが今回の書は、
まず、筆から墨が、ぼたりぼたりと、したたり落ちないと、
書くことそのものが私の手に始まらないのでした。
つまり落ちてゆく数滴の墨が、描くきっかけを私に与えました。
その墨が偶然に落ちた位置がスイッチとなって、
次の線が自然に決まってゆくというものでした。
だから、書き始めの地点には、墨の雫がいくつも落ちています。
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