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「分割自我復元」
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[400]
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★分割自我復元★その400■ 悪意なき親からの毒
by:
鈴木崩残
2014/10/29(Wed)07:42:22
悪意なき親のもたらす毒
●今回、頂いた報告は、非常に重要です、
ということを前置きしておきます。
トラウマ・AC問題には、主に3つのタイプがあります。
そして主に問題になるのが、そのうち、2つでした。
それは、「いらない親」の本にも出てきますし、
何よりも、自我復元ブログの人たちの何人かを見るとよくわかると思います。
1/自分の親から、明らかな虐待的な暴力、恫喝、脅し、からかい、があり、
自我復元を始めた段階で、すでに、本人もそれを明確にわかっている場合。
マディアさん、お姫ちゃん、天音さん、YNさんがその例です。
ブログを書いていない人の中にも同じ人たちは何人もいます。
2/自我復元とトラウマ掘りをしていたら、そこで、
ようやく、自分の親が、とんだ毒親だったことに気づいた場合で、
掘るまでは、むしろ問題などなかったとまで誤認していた人たち。
単に思い出してすらいなかっただけの人もいれば、
手の込んだ、洗脳人格や感染人格を受けてしまったケースもあります。
Abyさん、朱いはがねさん、新子さん、黒丸さん、
どんがめさん、無干さん、その他、報告を頂く方にも何人もいます。
●この2つのタイプは、少なくとも、きちんと思い出してみれば、
確実に自分の親を「毒親認定」を出来るだろう、という特徴があります。
本人からしても、あるいは報告を受ける私から見ても、
「おいおい、そんな重要なことを、何十年も忘れていて、
それを見ないようにしていていて、何一つ、うまくいくわけがない。
うまくいっていたという自己暗示と錯覚をしてきただけで、
結局は、人生を何十年も無駄にしてきただけじゃないか」
と、ほかならぬ「本人自身が自覚する結果」となるものです。
思い出してみたら、実は、とんでもない明確な毒親であったり、
自分自身の対人の態度や動機にも、それがそっくりのそのまま感染していたことに気づいて、
本人は、ショックで愕然となるものです。
*********
ところが、前々から私も気になっていたのですが、
他者から見れば毒親というのでもなく、特に毒親というほどではない
ようにも見えるものの、明らかにどこか壊れている人というのがいます。
今でも、報告をくださる人の中にもいます。
この人たちには、自分の親は毒親に、なかなか見えないのです。
そして、実際に、毒親というほど故意に子供をいじめたり、
または悪意による有害性ではないのかもしれません。
ただし、そこは、まだその人たちは、誰も「自分の親の親」について
掘っていませんので、真相はわかりません。
おそらくは、結局はトラウマが代々連鎖しているのだとは思います。
しかし、問題なのは、その親が毒親であるかどうか、
ではなく、「毒」として「作用したのかどうか?」なのです。
(親に)悪意はなくとも 毒になる
それがトラウマの恐ろしいところなのです。
*********
今回のご報告からは、私にしては、めずらしく、
個人情報を伏せた上で、ほとんど全文を掲載します。
どんなに小さな部分、何気ない部分に見えても、
報告全体の中でそれが占める重要な部分だからです。
この方も、私はずっと心身の両面から、心配をし続けていた方のお一人で、
しかし、「核心部が、どうしても掘れていないで狙いが外れている」
と、思っていました。
しかし、数ヶ月かかって、久しぶりに来た報告から、
「やっと、この方は、本当に掘れた」と感じました。
この方はむろん何度も、報告をくれていますし、幾度か自我判定もしています。
しかし、ずっと何年も、掘れなかったのです。
しかし、状況は一変しました。
以下、長いですが、ほぼ原文のままで、掲載します。
*********
崩残 様
いつも、大変お世話になっております。
そして長い時間、ご無沙汰してしまいました。
今年4月に禅書を書いて戴く際には、
ご苦労をおかけしてしまい申し訳ありませんでした。
そして、DVDでの崩残さんからの数々のご指摘、
正直、とてもショックでした。
しかし、崩残さんからの
「時間がかかってもかまいません、
あせって結論や成果を出さないと無視されると考えずに、
自分に本腰をいれてください」
この言葉に、ほんとうに救われる思いがしました。
気持ちが落ち着きました。
勇気づけられるとともに、
ありがたくて、涙がこみあげてきました。
わたしのことを心から気遣ってくれて、
こんなふうに、やさしく見守ってくれる言葉を、
私はあの両親から、かけてもらったことがあっただろうか・・・・・
さみしい気持ちがこみ上げてきました。
私は、とても、焦っていました。
今年中にはなんとか目途をたてなければ。
来年の2月、**歳になる前に、できるだけ、なんとかしなければ。
自我復元実習者のなかで、きっと、わたしが最高年齢なんだろう・・・・
私には時間がない。
だから、早くなんとかしたい!!
こんな焦りの気持ちが、昨年暮れ頃から、ずっと先行していました。
月に最低でも1度は報告のメールを出さなければと、自分で決めていました。
そう自分にプレッシャーをかけていないと、すぐ怠惰になってしまい、
ずるずると無駄に時間を費やしてしまいそうで不安でした。
そして崩残さんに、
あのような失礼なメールを、無神経なわたしは送ってしまいました。
私は、こんなに、がんばってトラウマ掘っています。
今はまだ途中ですが、AC人格もここまでは掘り出せています。
だから、私のこと見捨てないでください。
こんな私ですが、
一生懸命にやっているので、どうか見捨てないでいてください。
私は崩残さんに見捨てられるのが怖かった。
とても怖かった。
ただでさえ、サニヤシンだったということで、
崩残さんは私のことあまり、よい印象はもってないだろうなあ・・・・・
以前から、こんなふうに考えていました。
*********
>ここだけ突っ込みを入れておきます。
>私が深くお付き合いした何人かの女性のうち、一人はサニヤシンで、
>とても素敵な人でしたし、私も多くの楽しみを経験しましたし、
>また、私が関わった男性の中にもサニヤシンや禅僧も複数いました。
>彼らもまた、それぞれに私にとっては、私の人生の中では思い出深い人たちです。
>また、報告を下さる方の中にも、
>けっこうなカルト系の宗教にまで関わっている人たちも何人もいます。
>無明庵の掲示板ですから、むしろ当たり前のことでしょう。
>しかし、私はその人たちの、一人一人をこの上もなく心配しています。
>なぜならば、過去の導師たちの不手際によって、その人たちは、
>助かると思って何かにかかわり、結局、人生を棒に振ってしまったからです。
>そのことに関して、むろん私には、直接の責任は何もありませんが、
>ただし、その人たちは、確実に、何かを求めて、自分の何かが変だと
>そう気づいて、何かしようとしたのですから。
>それが終始、AC人格のやらかした事であったとしても、
>当時は、依存心からであったとしても、それでもその人たちは、
>自分自身に対して、「何かの働きかけをしようとした人たち」です。
>私には、その人たちを見捨てることは出来ません。
>なぜならば、その人たちは、自分自身を見捨てなかったからこそ、
>寺に行ったり、サニヤシンになる決意をしたからです。
>それがたとえ、結果として、余計に自分を見捨てる事態になっていたとしてもです。
>一方で、私が、どうしようもないと思うほど愚かな人たちがいます。
>それは、サニヤシンにすらなれなかった人、
>宗教組織にすら行けなかった人、
>心底、傾倒する対象物すらもなかった人、
>若いか老いているかに関係なく、
>いつまでも親の仕送りに依存して暮らしているニートとなって、
>真剣に必死に何かを求めることもせずに、
>そのくせ、サニヤシンたちや、僧侶たちや、カルト信者をせせら笑い、
>斜にかまえて、小ばかにして、「自分は、あんな馬鹿とは違う」と思い込んでいる
>そういう人たちです。
>この人たちこそ、最低の人間なのです。
>何も出来ないポンコツであることを認められないほどに弱く
>弱っちいからこそ、他者批判と、自己妄想に終始するのみの者。
>多くの場合に、自活も自立もできていません。
>ようは、自主性もなく、親のペットである事に気づかずに
>自己を見捨てた人たちなのです。
>このあたりの「探求の道」の問題は、非常に微妙であり、
>愚かゆえに近所の付き合いで宗教や組織に入ってしまった人もいる一方で、
>少なくとも、私に、この「自我復元を通じて」関わっている人たちは、
>多くの場合、「自分をどうにかしよう」として何かのアクションを起こした人たちです。
>つまり、今、ここに残っている人たちは「本人が自分を見捨てていない」
>そのわずかな炎が残っている人たちだけです。
>ですから、どうか、サニヤシンであったことを恥じないでください。
>かつての時代の無明庵の本は、
>サニヤシンの人たちや、禅僧の人たちに、
>「せっかく、良い師に出会って、そのザマは何ですか?
>師の残したものに失礼のないように、もっと、しっかりしなさい」と
>叱咤激励をしているのであり、馬鹿にしているのではありません。
>ゆえに、無明庵からは、沢山の著作物が生まれたのですから。
>一方で、どこまでも、その人たちの未来を思って書かれた本から
>サニヤシンや、僧侶たち、あるいは社会の仕組みや常識を批判している部分だけを拾い上げて、
>時には、まるで自分の考えであるかのように思い込んでしまい、
>それをもってして「自分の親よりも上である妄想」を持とうとし、
>自分は、あんな馬鹿どもと違う、だから、どこにも属さなかったんだ、と、
>そういうことに、無明庵の本を悪用したAC人格者がいます。
>そういう者は、「関わらなかった」のではなくて、
>それこそ、過去のAbyさん、みたいに「関われなかっただけ」の、
>「ただのコミュニケーション障害者」であることがほとんどです。
>内心では他人を見下げることしか出来なかった毒親と、そっくりなだけです。
>ですから、どうか、サニヤシンであった事を恥とは思わないでください。
>「自己探求」を本当にしているかぎり、それは
>何かに属したか否かに関係なく、
>その人たちは、私が、この惑星で、ずっと昔から大切に思っいている人たちです。
>一方で、自己探求だ、自殺願望があって、絶望してたんだとか、
>ニートのガキでも言うことを、真顔で言ってしまい、自己探求に向かわず、
>親の金で食って、家にこもっては、ネットで他人を馬鹿にし続けて、
>自らの無能さをごまかして、AC人格が逃げ続けている人とは、
>まったく違います。
>また、同じ和尚のサニヤシンを過去にしていて、しかし、
>本当にトラウマを掘れた人も、貴女の他に、お一人いますから。
>このように「自己探求」をする人は、私にとっては「仲間」であり、
>一方で、自己探求ぐらいしたんだ、と言いながら、
>まったく自己探求でも何でもない、恨みつらみの鬱積から物事をしている者、
>それは、私にはまったく関心のない人たちです。
>だからこそ、自己啓発関係に少しだけ関わったものの、
>まったく精神世界には、縁も関係もないマディアさん、その他何人かの人たち。
>この人たちは、最初から、真に「自己探求」をしている状態でした。
>だから、私と関わることになったのです。
>マディアさんのブログが、他のどんな精神世界のブログよりも、
>私の目には「精神的」に見えるのは、そのためです。
>あなたの師の和尚は、あなたに「強烈に生きなさい」と教えたはずです。
>強烈にです。そうでなければ、平安もまた、安っぽいものになると。
>しかし、そうした「まず生きてからにしなさい」という言葉を信じて、
>自分は、ちゃんと生きてみたんだ、と思い込んでいたAbyさんは
>どうだったでしょうか?
>生きたつもりで、生きた形跡すらなかったことをご本人が自覚したわけです。
>実は、そこで生きていたのは、本人ではなく「毒親の思惑」のみです。
>だから、決して、トラウマを甘く見ないでください。
>そして、それを超えてゆく人が現実にいるという事は私が保証します。
>いえ、私ではなく、
>それは自我復元をしている人たちが証明を続けてゆくことになります。
>ただし記憶の掘り方に、一定の条件がそろっての話ですが。
>だから、あきらめないでください。
>貴女も、その自己探求を、本当に始めたのですから。
>と、ものすごい、長い、突っ込みになってしまいました。(崩残)
*********
崩残さんが「しきい」を低くしてくれていなかったら、
私なんか、とっくに切り捨てられていた人間だろうと思ってきました。
もし崩残さんに見捨てられたら、
私はもう終わりだ。
こんな恐怖感がどこかにいつもありました。
「見捨てられる」恐怖。
この恐怖の元凶がどこからきていたのか、
今やっと、この報告ができるようになりました。
4月以降、崩残さんのアドバイスにありました、
やりたいのに、やらせてもらえなかったこと。
やりたくないのに、やらせられたこと。
この記憶をできるだけ幼少の頃に向かって、掘り起していきました。
そして、それと同時に、
「一度、自分のイメージをまっさらにしてください。」
崩残さんからのこの言葉との格闘がはじまりました。
メールを戴いて数日が過ぎた頃からでした、
突然、顔面神経痛が出始めました。
両頬のあたりに集中して、小さな痙攣が2週間くらい続きました。
崩残さんに、完璧に見破られてしまっているAC人格が、
「ヤバい !!」と察知し、
ひくひくと、ひきつって、焦り出しているように、私には感じられました。
そのなかでも、私が一番意外で驚いたのが、
「落ち着きがない」というご指摘でした。
それは、私にとって、今までまったく考えたこともないことでした。
わたしは今まで自分のことを、
落ち着きがない人間だと思ったことがありませんでした。
そして、若い頃から、
「落ち着いている」とよく言われることがあっても、
「落ち着きがない」と、誰かに言われた記憶がまったくありませんでした。
しかし、
あらためて、というか、
今はじめて、この「自分」を冷静に客観視してみると、
それは、私の行動が愚鈍なだけで、
単に、自分に都合のよい表現で、
「落ち着いているように見えていた」ということであって、
私の精神状態までもが落ち着いていたのか?? というと、
その真逆で、そんなことはまったくないことは明白でした。
常に何か漠然とした、大きな不安を感じ続けている私。
おどおど、びくびく、委縮した状態を引きずったまま、大人になり、
常に何かに、おいたてられているような感覚、
そして、漠然とした焦りと不安を感じ、ただ戸惑い続けている私。
こんな状態の私が、落ち着いていられるわけが当然ありませんでした。
私は無自覚に、「平静さ」を装い、
「私は落ち着いた人間だ」と自己暗示をかけ続けていただけでした。
そしていつのまにか、
自分でつくりあげた「自分のイメージ」を、
これが私の性格なんだと、思いこんでいただけでした。
そして、
やりたいことをさせてもらえなかった記憶をさぐっていくなかで、
この「落ち着きのなさ」とリンクするような、気になる出来事を思い出しました。
あれは、2〜3歳頃のことだったと思います。
私は、正座している母の膝の上に、ちょこんとすわって、にこにこしています。
あったかで、ほんわか気持ちのいい、母親の膝に座るのが私は大好きでした。
でも、
その心地よさは、なぜか、いつも突然、寸断されるのでした。
母はなんの前触れもなく、突然、
私のことを膝からおろして、どこかへ行ってしまうのです。
母親に突然ほっぽりだされてしまった私は、
おろおろして、状況がのみこめないままに、
ひとり、不安な気持ちで取り残されているのです。
何度、記憶をたどってみても、
あの時の私は、いつも突然、置き去りにされるのです。
*****
我が家は父が自営業をしていました。
そして母は専業主婦で、
お店に来るお客さんの接客をよくしていました。
昭和のあの時代、お店は結構忙しく、そこそこ繁盛していたようでした。
お客さんの多くは、お店に置いてある椅子にすわって、
のんびり待っていることがよくありました。
そんな時、母は
お客さんに、お茶やお漬物、お菓子などを出して接客することが常でした。
そして、母はそんな常連のお客さん達の相手をして、
世間話をしていたようにおもいます。
お客さんはお店の椅子に座り、
母は、茶の間の引き戸を開け、畳に座って接客するのが定位置でした。
そして、そんな時、
ちいさな私は、接客している母親の所に行って、
母の膝の上に座るのがとても好きでした。
膝の上に、気持ちよく、にこにこして座っている私。
私は母に甘えて、ずっと座って、いっしょにいたいのに、
でも、いつも突然、
母は立ち上がって、
私のことをひとりにしたまま、
どこかへ行ってしまうのでした。
お客さん達は、支払を済ませて帰る時、母親にお金を渡していました。
母親はお金を受け取り、
そして、お釣りを渡すために、時には領収書を書くために、
立ち上がって、部屋の隅の金庫が置いてある机のところに行くのでした。
また時には、次に来たお客さんのために湯のみ茶碗を取りに行ったり、
お茶の葉を、新しいものに変えるために、台所に立って行くのでした。
こうして母親は落ち着きなく、
頻繁に立ったり、座ったりをしていたように思います。
そしてその都度、
結局、私は母の膝の上から降ろされていたのだと思います。
「あっちにいってなさい」 という感じで。
大人になった今の頭で考えれば、
この母親の行動は、特別、どうという行動ではないのですが、
母親に、まだべったりと甘えていたい2〜3歳の子供にとって、
この母親の行動は、もちろん理解不能なことで、
私はかなり動揺していたはずです。
私は大好きな母の膝の上に座ることができて、
うれしくて、安心しきっているのに、
それが突然、
母親は立ち上がって自分を置いて、どこかへ行ってしまう。
ひとり取り残された私は、
状況がのみこめずに、
見捨てられたような不安とさみしさでいっぱいになって、
おろおろ、びくびくして、戸惑っている・・・・・
そうやって、
結局いつも、母は、私のことを気づかって、見守ってくれることよりも、
お客さんとの接客を優先させていたのだろうとおもいます。
私がどんな状態でいるのかなんて無視し、
お客さんとの関わりを優先させていたのだろうと思います。
*****
何度も幼少の頃の記憶を探ってみましたが、
私は母親に、
ゆったりと安心した気持ちで、
甘えたいだけ甘えた、という記憶がないのです。
母は外で働いたことがなく、専業主婦で家にいたので、
自分は幼少の頃から、
いつも、母親のそばにいて、充分、母に甘えていた。
と今まで、安易に思いこんでいました。
しかし、あらためて記憶を探ってみても、
私のそばに母親がいて、
いっしょに遊んでくれたような記憶がないのです。
4〜5歳の頃、寝る前に本を読んでくれたり、
昔話をしながら、背中を撫でてもらって、とても心地よかった記憶はあるのですが、
それ以外、思い出せないのです。
母は心配性で、なにか常に気持ちが落ち着かず、気忙しい人で、
「さっさとしなさい」が口ぐせの人でした。
常に、何かにおいたてられていてる感じのする母親は、
ゆったりとした、落ち着いた気持ちで、
私のことを見守ってくれるような、
そんな気持ちに余裕などない人だったのだと思います。
こうして、幼少の頃の記憶を掘り起こしてみると、
あの母親の「落ち着きのなさ」が、
私に感染していたのは確かなことだと思います。
そして、
私がどれほど必死に、母親のことを求めていたのか、
そんなことは、あの人には関心もなく、無視していたのだと思います。
気がついていたとしても、
子育てにも疲れ、
そんな私のことを、「うっとおしい」と感じていたのだろうと思います。
母親自身、10歳の頃に母親(祖母)が亡くなり、
甘えたくても甘えられなかった少女時代を、過ごしてきています。
母親(祖母)を求める気持ちを、
無自覚に、長年、押し殺して生きてきた母。
そんな母親の本音はこうだったのだと思います。
「本当は自分が一番、甘えたいなのに、
何で私がお前のことを甘えさせられるか」。
そしてなによりも、あの母親は、
私が戸惑い、不安を感じてしまうような言動を、
日常的に、無自覚に、安易に行っていたのだとおもいます。
*********
そして、
私は母親から、
「そんなこと、やめなさい」を、
たくさん言われて幼少期を過ごしてきました。
* 幼稚園ころまで、私は自分の指を口にくわえて、
しゃぶっていることが、よくありました。
それが母親にみつかると、
みっともないと何度も言われ、やめたようにおもいます。
* 3〜4歳の頃だったと思うのですが、
私は部屋の真ん中に立って、ぐるぐる、ぐるぐると廻るのが好きでした。
そしてそのうちに、目まいがしてきてヨタヨタして、
最後は畳にバタッと倒れてしまう。
これが、私にはとてもおもしろくて、好きな遊びでした。
しかし、母親に叱られ、やめさせられました。
* 3〜4歳の頃だと思いますが、
父親が温泉旅行のお土産に、刀やピストルのおもちゃを買ってきてくれていました。
私は父とそのおもちゃで遊ぶのが好きだったのに、
母親は、「これは男の子のおもちゃなのに・・・」
と言って、不機嫌そうな顔をしていた記憶があります。
そして、いつのまにか、そのおもちゃは消えてなくなっていました。
* 幼稚園の頃のことだと思うのですが、
私はなぜか分からないのですが、「葉っぱ」を食べるのが好きでした。
それは、野菜ではなく、
雑草だったり、生垣のちょっと固そうな葉っぱだったりと、
私の目の前にある、興味の惹かれる葉っぱなら、
なんでも口にいれてみたくなりました。
その葉っぱは、一体どんな味がするのか興味津々で、味見していました。
それはとても苦くて、直ぐ吐きだしてしまうことがあったり、
甘くておいしい葉っぱもありました。
しかし、母親に見つかるとやっぱり叱られて、
いつのまにかやめてしまいました。
* 小学校低学年の頃だったと思います。
日曜日になると、両親はよく色々な所へ連れて行ってくれました。
私は広い原っぱに行くと、はしゃいで、よく走りまわって遊んでいました。
母親に「もう辞めなさい」と言われても、それでもまだ私は走りたくて、
くたくたになるまで走り続けていた日がありました。
そして次の日、私は高熱を出して、学校を休んでしまいました。
あの時、両親から(先生からも)注意された言葉が、
「何でも、やりすぎるのはよくない」 でした。
そのあと、私は好きなだけ思いっきり走り回るのをやめてしまったように思います。
***
また、「やりたくないのに、やらせられたこと」、で思い出したのが、
* 小学生になった頃から、母親が私に要求し始めたことがありました。
「明日、学校に着て行く洋服を今晩のうちに決めて、
自分できちんとたたんで用意して、枕元に用意しておきなさい」 でした。
私が朝起きて、学校に行く準備をするのに、時間がかかっていたからだと思うのですが、
どうして、前の晩に考えて、着て行く洋服を決めなければいけないのか??
私は、このことを納得していないのに、いやいやしていました。
* 小学2〜3年頃だったと思います。
父親に「自転車に乗れないのは恥ずかしいぞ」と言われ、
いやいや猛練習させられたことがありました。
私は乗れるようになるまで、時間がかかったのか、
「二人の姉達はすぐ覚えたのに、お前はなんで出来ないんだろう?」
と比較され、
私は自信をなくし、さみしい気持ちがした記憶があります。
* 小学生の低学年の頃、
中略
*********
こうして、幼少の頃の記憶を掘り進めていた間、
私は何度も涙を流しました。
しかし、
泣いても、泣いても、それでもまだまだ掘り出せていない、
胸のどこか、もっと奥深くに押しこんで、
長い年月、隠し続けてきてしまったもの、
重くて、硬いものが、確かにある、と感じ始めていました。
「それ」を何んとしても掘り起こさなければいけない。
「赤ちゃんの頃まで遡って、記憶を掘り起こさなければ駄目だ」
と強く感じ始めていました。
それは7月に入った頃だったと思います。
そう決心した頃から、急に、咳が出始めるようになりました。
そして7月中旬頃になると、
咳は収まるどころか、
一日中続くようになり、痰も頻繁にでるようになってきました。
頭から鼻にかけた辺りに、
もや〜っとした、気持ちの悪い重さを感じる日が続き、
吐き気、寒気がして数日寝込み、仕事を休むこともありました。
数十年も前の、深く押しこめててしまった感情が、
涙や咳というかたちでは、少しづつ出始めてはきたものの、
どうしても言葉にならない。
そんなふうに感じる日々が続きました。
そして、
どんよりとした重く苦しい時間が、ひと月近くも過ぎた頃でした。
赤ちゃんの頃の記憶が、徐々に鮮明になり始めてきました。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん」
「おかあさん来て、私のとこに来て、
おかあさん私のこと抱いて、
おかあさん、おかあさん早く、私のとこに来て」
私は母親のことを、何度も何度も呼んで泣いていました。
私は泣いて、泣いて、必死におかあさんを呼んでいました。
でも、いつまでたっても、
あの人は私のところへは来てくれませんでした。
だから、私はもっと泣いてみました。
私は混乱し、何が何だか訳が分からなくなってきて、
不安とさみしさでいっぱいのまま、泣き続けていました。
でも、それでも、あの人は来てくれませんでした。
どうして?
どうして来てくれないの、おかあさん?
私がこんなに呼んでるのに・・・・・
私にはおかあさんの声が聞こえるのに、
おかあさんは、私のそばにいるのに???
あの時の私は、こんなふうに感じて泣いていました。
そしていつのまにか、
泣き疲れてしまった私は、ひとり不安なまま眠ってしまいました。
母親に無視され、見捨てられた恐怖で、
私の小さな肩は首まで持ち上がり、
私は、ひくっひくっしながら眠ってしまいました。
あの人は、私の泣き声を聞いていたはずです。
しかし、あの人は、私のことよりも、
お店に来ていたお客さんの方が、
大切だと思って接客でもしていたのでしょう。
あの人は、私の泣き声が「うるさい」と感じていたのでしょう。
そして、
「そのうち泣きやむだろう」ぐらいにしか思っていなかったのだろうと推測します。
*****
あの時もうすでに、
私は母親に見捨てられていたのだと思います。
でも、私はこのことを、今までどうしても認めたくなかった。
生まれて最初の、最愛の人に裏切られた絶望。
得体の知れない大きな不安。孤独感。
こんなものは見たくなかった。
あまりにも、みじめすぎて私は逃げたかった。
結局私は、ことの最初っから、つまづいてしまっていました。
まだ歩けもしない、寝たきりの赤ん坊の時から、
ずーっと、
**年もの長い間、私が心底求め続けていた人が、
「あの人」だった。
このことに、今回やっと、気がつきました。
そして、
私が心底、求め続けていたものは、
「あの人」からは、どうしても感じることができなかった
「安心」 でした。
私は、あの時の満たされなかった感情を、なんとか満たしたくて、
それがどうしても欲しくて、欲しくて、必死でした。
そして、
無自覚な夢遊病者状態の私は、
その代わりとなる「人」や「物」を必死に探すために、
ただそれだけのために奔走し、
翻弄されて生きてきました。
あまりにも、みじめすぎる。
ただそれだけの人生でした。
*********
このことに気が付いた、すぐ後だったと思います。
私が今まで思いこんでいた、ある一つのことに気がつきました。
以前、報告したことがある、
「姉のお下がりの、おそろいの洋服」のことです。
私は今まで、
自分は姉(次女)とおそろいの服を着るのがうれしくて、
自分から、好きで着ていたと思っていました。
しかし、私の本当の気持ちは、
それとはまったく逆だったことに気づきました。
「本当は、おそろいの服なんて着たくなかった」
でも、母親が喜ぶから、私のことを見て、うれしそうにしているから。
だから、私は姉とおそろいの服を選んで着ていたのでした。
母親自身の趣味で選んだ服を、
娘二人が一緒に着ている姿を見るのが、あの人は好きでした。
私達、二人の姿を誰かが見て、
「まぁ、かわいいこと」なんて褒められると、
あの人は、まるで自分のことを褒められたように喜んでいました。
そんな母親の様子を私は見ていて、
「おかあさんが喜ぶことをしょう、
そうすれば、私のことを好きでいてくれる、そしたら、私は安心できる」
そう徐々に思うようになっていきました。
こうして私は、あの人に嫌われないように、
見捨てられないようにするためには、自分がどう振舞ったらよいのか。
そのことに異常なほど、神経をつかってしまうようになっていきました。
そして、このことに気づくと同時に、
「○○ちゃん(次女)なんか、大っ嫌い !!」
という、あの頃の、私の本音が出てきました。
私は今まで、
勉強が出来て、私の面倒もみてくれる、やさしい次女のことを、
自分は子供の頃から好きだったと、この数か月前まで思いこんでいました。
しかし、あらためて記憶を探り直してみて、始めて気がつきました。
私は小学校の低学年の頃から、
常に自分は姉と比較されている、という家庭の空気を感じ、
次女に対して劣等感を持ち続けていました。
両親にとっての次女は「手のかからない、自慢の良い子」、お気に入りの娘でした。
私は次女のことがうらやましく、すごく嫉妬していたはずでした。
そして、じっくり思い起こしてみると、
私は、常に、
両親と次女の様子を横目でうかがっていたような記憶があります。
そして、
「そうだ、私も○○ちゃん(次女)の真似をしよう、
そうすれば私も、お母さんとお父さんに気にいられる」
と徐々にそう考えるようになっていったように思います。
***
小学生の頃には次女の真似をして、髪型を同じにしていたこともありました。
また、
姉は学校から帰って来ると、両親が何も言わなくても、
すぐに宿題にとりかかり、自分一人で済ませてしまう様な子でした。
だから、私も学校から帰って来ると、まずは宿題をする。
というポーズだけは、しっかりと真似し始めていました。
しかし、私は次女とは違い、
結局最後は、誰かに面倒みてもらうことになることがほとんどでしたが。
私は今まで、トラウマを掘っている時点でさえも、
「自分は姉のことが好きで、だから姉の真似していたんだ」
と思いこんでいました。
見捨てられたくない。
だから、気に入られるようにしよう。
気に入られるためには、その人の喜ぶことをすればいいんだ。
自分がやりたくないと思っても、
自分のことを気に入ってくれるなら、
そのためなら、やりたくないという自分の気持ちは我慢してでもやろう。
このことを思いついた私の頭の中は、
徐々に、この思考に占領されていったように思います。
そして、それに伴ってか、
私の身体も、小学生の時からもうすでに、
がっちがちで硬く、やせ細っていました。
そしてその姿勢は、
いつも前かがみになって、背中を丸め、
胸を閉じているような姿勢でした。
子供らしい、のびのびとしたところが少なく、
神経質なおとなしい子供でした。
家の中で荒れていた時期もありましたが、
あれは単に、溜め込んだ感情を表面的に発散させ、
自分の存在をアピールしたかったただけのことでした。
*****
私は自我復元をする前まで、
「人に気に入られようとする」こと事体、
人間にとっては当たり前のことで、
皆も同じように考えているのだと思っていましたし、
周りの人達を見ていても、皆そうしているようにしか見えませんでした。
希釈されている私には、
このことが、どれほど異常で醜いことなのかなど、
自覚できるはずもありませんでした。
そして、このことが当たり前だと思っていた、
この「私が異常」だったということを、今回、やっと気づきました。
***** (内容が飛びますが、)
今日は10月16日です。
夕方から仕事で帰りが遅くなるので、昼間のうちに、と思い書いているのですが、
今朝からどうも頭が重く、気持ちも何か落ち着きなく感じていました。
今、少し休もうと思いお茶の時間にして、
外の空気を吸っていると、急に涙が溢れてきました。
「私は自分で自分を見捨ててしまった」
私は子供の頃、「本当の自分」を無視し、
あまりにも簡単に、その自分を見捨ててしまいました。
母親が私にしたことと同じことを、
そっくりそのまま、私は自分自身にしてしまっていました。
自分自身を切り捨て、人に媚びることが当たりまえになり、
その人に見捨てられないようにすることばかりに神経をすり減らして生きてきました。
でも、もうやめよう。
私はこの私を絶対に見捨てない。
今、はっきり、こう決めました。
*****
もう一つの思いこみが父親に関することで、気づいたことがあります。
3歳の頃からか、
私は父親のことが好きで、
いっしょに遊んでもらったり、よく甘えていました。
母親の膝の上には、落ち着いて座っていることは出来ませんでしたが、
仕事が終わってからの父親は、
喜んで私のことを、自分のあぐらの中に、ゆっくりと座らせてくれました。
私は小さな頃から、どちらかといえば、
母親より父親との相性が良くて、
それで好きで、母より父に甘えていたのだろうと、
単純に今までそう考えていました。
しかし実際は、
母親に充分甘えることが出来ず、見捨てられたと感じた私が、
その満たされなかったものを、
次に求めていったのが「父親」だったということでした。
***
しかし結局、小学3〜4年頃、
その大好きな父親にも必要とされず、見捨てられたと感じた私は、
深い絶望と生きる力を根こそぎ奪われた恐怖感で、
次第に、無気力で無感動な子供になっていきました。
小学校から高校までの時期、本当に私は無気力でふて腐れていました。
その上、学校が嫌で嫌でしかたないのに、
でも、学校にだけは絶対に行かなければいけない。
まさに、「やりたくないのに、やらせられた」その一つでもありました。
世の中で生きるには、「やりたくないことでも、我慢してやらなければいけない」
このころまでで、すでに私は、完璧にこの洗脳にやられてしまっていました。
そして、人間はこうして生きるのが、
ごく当たり前のことなんだから、しかたない。
とあまりにも安易に、
自分自身を切り捨てることを自ら承諾してしまいました。
(話が飛んでしまいました)
そして思春期になると、今度は、
自分はこんな社会の在り方に反抗してるんだ、
私は世間一般人とは違うんだと、
自分の存在価値を誇示できそうなものを探し、
しがみ付いていきました。
その後、私は、
両親に認めてもらえなかった、
自分の存在価値を異性に求めていくようになりました。
自分が好意を感じる男性には媚を売り、
自分のことを気に入ってもらい、
そして、
自分のことを認めてもらおうと振舞い始める私でした。
それは相手が変わっても、私のやっていることはいつも同じでした。
そして、
見捨てられたり、見捨てたりの、このパターンの繰り返しでした。
そして、
夫のすぐ上の兄夫婦が、私達の長年の同棲生活が気に入らなく、
影で文句をいっているのが面倒になってきて、
結局、私は彼の籍に、自分の「籍」をいれました。
しかし、
私は「籍を入れる」ことで、
自分の存在価値を、彼の両親や兄弟に認めてもらおうとしていたのです。
***
今、あらためてサニヤシンの頃の自分を振り返ってみると、
私は「和尚」という存在に憧れ、
そして、「和尚」という人に認めてもらいたくて、
ただそのために、「瞑想」していたのかもしれません。
まったく、どうしようもない大ばか者です。
そして私は、自分はあの「ばか達」とは違う、
少しはまだましな人間だと、
自分の存在を、今度は崩残さんに認めてもらおうとしていました。
そんな私は、崩残さんからの「御守り」のプレゼントが、
飛び上がるほどうれしくて、有頂天になってしまいました。
メールや、変な手紙やら、崩残さんへの現在までの数々のご無礼、
大変申し訳ありませんでした。
*****
サニヤシンになってから、
そしてその後の私は、
家に居る時や、気心の知れた友人の前で、一人でいる時でさえ、
わざと無邪気そうに振舞って見せることがありました。
そうしていると、気分が軽く明るくなっていき、
自分が生き生きとしている子供のようになれるような、
そんな妄想にひたることが出来たからです。
そのような行動を自らやりたくなる衝動の影に、
現実の自分の姿から逃げたい。
こんな私じゃなかったはずだ。
という思いが隠れていたように思います。
*********
トラウマを掘り進めつつ
崩残さんのご指摘にありました、
「気分を盛り上げようとする癖」に関し、
その癖を、私はいつ、どんな時に行おうとするのかを、
まず観察してみることにしました。
しかし最初は、その瞬間を捕まえることは、なかなか出来ませんでした。
知人との会話のなかで、あの癖をやってしまった後、
家に帰って来て、数時間してから、
「あっ、やってしまった。 あれだったんだ。」
とかなりの時間差で気付く状態でした。
しかし、注意深く観察し続けていると、
あの癖が出たその瞬間を、捕まえることが少しづつ出来るようになってきました。
そして気付いたことなのですが、
あの癖は、少しテンションを落としながらも、
私が日常のほんの些細な行動を開始しょうとする時にも、
頻繁にやっていることに気が付きました。
たとえば、
仕事や買い物で家を出ようとする時、
そして、そのために車を運転しようとする時。
料理、掃除を始めようとする時。
お風呂に入ろうとする時。
誰かに電話をかけようとする時。
等々、 いちいち、さーやるぞ!! よーし、やるぞ!!
と自分で自分に声なき「掛け声」をかけ、
それから行動する癖が分かってきました。
今まで、この行動に対して、
特別な違和感も感じたことはありませんでした。
気合をかけてから行動することは、時と場合には必要なことで、
普段誰でもやっていることだろう、
ぐらいにしか考えていませんでした。
しかし、
自分のこの行動を客観視できるようになってきて、
始めてその不自然さに気が付きました。
私のように、些細な行動をする時にまでも、
無自覚に掛け声をかけてしまうのは、
やはり、どう考えても不自然ですし、違和感を感じ始めました。
この癖は、必要のない緊張とストレスを
自らに与えているようにも感じました。
そして、
なぜこの癖をするようになってしまったのか、探り始めてみました。
しかし、この癖の起因となるトラウマがなんだったのかは、
そう簡単には掘り起こせませんでした。
しかし、
無気力になり始めた頃の自分に、
記憶を搾りこんで何度かトラウマを掘っていた時に、
やっとその繋がりが見えてきました。
それは、
以前の報告にも書きました、例の父親が言った、
「子供は二人ぐらいがいいよ」事件で受けたトラウマが起因だと確信しました。
三女の私は「いらない子供」だといわれたのと同じ。
あの時の感情の記憶を、
私は今まで何度も掘り起こしてきたつもりでいました。
恐怖と絶望の中に突き落とされた、
あの時の感情は、もうほとんど出し尽くしたと、私は甘く見過ぎていました。
しかし、
あの瞬間、そして、その後の私の苦しみ、
現在の、この自分の頭では想像も出来ないくらいの「地獄」だったということが、
ほんとうに、つい最近になって、ようやく分かってきました。
子供は2人がよくて、自分はいらない三人目だったと親に言われたこと、
それはあまりにも辛くて、苦しくて、
ちいさな私が耐えうる限界をこえていました。
そのショックがあまりにも大きすぎて、
私の身体も、感情も、思考も、すべてが硬く凍り付いてしまいました。
そして、
私の生きる気力は、足元から根こそぎ、完全に奪われてしまっていました。
「抜け殻」になってしまって、ただ茫然としている私。
でも、また明日も学校に行かなければいけない。
明日、着て行く服も用意しておかなければいけない。
お母さんやお父さんに
「おやすみなさい」や「おはよう」も言わなければいけない。
あのショックの後、
私は、自分の力をどうにかこうにか、
まったく無くなってしまった気力を、
なんとか絞り出しては行動するようになっていったように思います。
その時、無自覚に私は自分自身に掛け声をかけてあげていたように思います。
そうやって、無理やりにでも、自分のことを動かそうとしたのだと思います。
そしてこの後、
私は自分に起きてしまった「現実」から、なんとか逃げようと必死でした。
今思うと、
ドリトル先生が好きで読んでいたのも、かわいいアニメが好きで見ていたのも、
あの記憶を忘れてしまいたい、
消してしまいたいという気持ちからだったように思います。
私は、その主人公を自分のことのように「妄想」し始め、
自分の気持ちを、
無理やりにでも、楽しく幸せな気分にさせようとしていたように思います。
そして、こんなことも考えていたように思います。
「私には、お父さんもお母さんもいないんだ。でも、私は大丈夫!!」
私は平気なんだ、なんともないんだ。
と、みじめな自分から必死に逃げるために、
何事もなかったことにしようと・・・・・
うまく自分自身を騙すようになっていったように思います。
こうして私は、
自分に起きてしまった
「最悪の現実」から逃げる手段を次々に考え、
妄想の世界に自分の身を置くようになっていきました。
そして私は、
現実の「みじめな自分」が、いやでいやで、
「かわいい無邪気な女の子」になりたくて、
自分の気持ちを無理に盛り上げ、
自分はそういう子なんだと妄想し、
自分で自分を騙し始めていったように思います。
*****
そして
何をやっても、いつも中途半端で終わってしまう私。
勢いがあるのはいつも最初だけで、すぐ諦めてしまう私。
自分にはまるっきり自信がなく、自己信頼もまったくゼロの私。
こんなみじめで、何の取り柄もない、ただの神経質なだけの私が、
崩残さんのご指摘にありましたように、
唯一、自己満足の自慢が出来たものが、
「私には感性がある」 と思い込むことでした。
私はちょっと普通の人とは違う感性があるのよ、
と妄想の世界に逃げ込むことで、
誰から認めてもらえなくても、
「私はすごいのよ」
と自分の存在価値を自分自身で認めようとしてきました。
しかし、現実の私は
あれ以上、傷つくことを強く恐れ、
子供の頃に持っていた「感性」までも閉ざしてしまったことは明らかです。
そして、常にびくびく、心配ばかりして、融通のきかない
「頭がちがちの思考人間」、
今まで、私が一番嫌いなタイプ、と思っていた人間が、
こうして、冷静に自分自身を観察してみれば、
実はこの自分自身がそのタイプだったいうことでした。
これには正直、かなりショックでした。
いかに自分のことを、
自分の都合のいいように、いいようにと考え、
その考えが、いつのまにか考えだけではなく、
「これが私なのだ」と思い込みはじめ、
「自分のイメージ」を、なんの違和感もなく、強固に信じてしまう。
自分が今までもっている「自分のイメージ」
この点からも、引き続きの観察が必要だと思っています。
*****
そして、この身体には
「あの事件」で受けた時のショックの記憶が、
今もまだ根強く、かなり残っていることに、最近気が付きました。
そして気づいたことなのですが、
この時のトラウマを掘っている時に出てくる身体の症状と、
長年の体調不良の時出ていた症状とまったく同じものでした。
この身体に、長年隠し続けてきているトラウマの記憶、
はっきりと記憶されているはずのトラウマの記憶を、
これから、さらに細部まで注意深く見続けていく必要があると感じています。
そしてそれと共に、
押し殺してしまっている感情の記憶も、
さらに鮮明に浮かび上がってくるように、今あらためて感じています。
そして、もしかするとこの私は
PTSD(以前、崩残さんに尋ねられたことがありました)、
躁鬱、摂食障害、その他にもまだいくつもの病名がつくのではないかと
思えてきます。
自分がかなりの「重症患者」だったのだと、
今になって、やっと認識しました。
*********
今回、この報告ができるようになったのも、最初に書きましたように、
崩残さんからの
「時間がかかってもいいので・・・・・
自分自身に本腰をいれてください」
の言葉があったからこそです。
10月になるまでの間にも、
報告を出せない焦りが2〜3回はありました。
もうそろそろ出した方がいいんじゃないの。
ちょっと時間がかかり過ぎているんじゃないの。
このくらい掘れたんだから、もういいんじゃないの。
など、私を追い立てようとする魂胆のAC人格がいました。
しかし、そのACが顔を出すということは、
今まだ掘るべきものがあると感じ、
そして、今日になってしまいました。
まだまだ、掘り方が粗雑で、曖昧とした部分がかなり多い、
これが私の現状でのトラウマ掘りの報告ですが、
これが正しく、現在の私の姿でもあるのだと感じています。
粗雑で曖昧で、
みじめな生き方しかできなくなってしまているのが、今のこの私です。
*****
そして、
今回のトラウマ掘りのなかで気づいたことがいくつかあります。
辛く苦しい、目をそむけたくなる感情に突き当たった時、
その時いかに、その感情と自分の間に「ギャップ」をつくれるか、
この「ギャップ」がほんの少しでもあれば、
そこから、その硬く委縮してしまった感情を、
引っ張り出せるという感覚が少し理解できたように思います。
そして今回、
いかに自分の「思考」が、
長年の無自覚な「思い込み」や「癖」、「妄想」で埋め尽くされているのか、
そして、それをいかに、自分の都合のいいように解釈し、
「思考の奴隷」となって行動してしまっているのが、
この私だと痛感しました。
そして、長年無自覚に溜め込んで、
今現在も処理されずに残っている「感情」。
その処理しきれていない「感情の奴隷」となって、
常に過去に引き戻され、翻弄され続けているのが、今の私です。
そして、トラウマの「記憶」が、
この「身体」には想像以上に、かなり深く浸みこんでいて、
それが長い年月を経てもなおも、症状として残り続け、
この身体に、感情に、思考に影響しているのかを、
あらためて痛感しました。
そしてまた、トラウマを掘り進めて行く段階で、
その傷の「記憶」を手放したくないと思っている「AC人格」の存在に気づきました。
「AC人格」自身が生まれるきっかけとなった、
ACにとっての大切な古巣、
その古巣の「記憶」にしがみ付いている「AC人格」がいました。
そして、その「記憶」の牢獄のなかで、ぐるぐる、ぐるぐる、
行ったり来たりしながら、もがき苦しむ私。
その苦しんでいる私の様子を、
「いつまでも、永遠にそこで苦しんでいろ」と嘲り笑っているAC人格がいました。
苦しいけど、時間がかかっても、私は絶対にここから抜け出してやる。
そして、これを「掛け声」だけで終わらせるわけにはいきません。
*****
また、仕事中に感じたことなのですが、
私のレジで会計を済ませようとしているカップルや家族連れがいます。
一人の人が代金を支払って、そして、もう一人の人は、
そばで、ただ、ぼーっと一緒に待っている。
そういう、ぼーっとしている人に対して、
私は異常にいらつくのです。
「ぼさーとしてないで、さっさと買い物したカゴを運んで、袋に入れてあげなよ!」
と、私が見ていて「気が利かない」と感じる人に対して、
無性に腹が立ってくるのです。
私にとっては、人に気をつかって、その人に何かしてあげるということが、
優しくて、親切なこと、と言う思い込みがあり、
コミュニケーション上、当然するべき、
重要なことになってしまっていることに、あらためて気が付きました。
そしてそれと同時に、
私が気をつかうように、相手も私に気をつかうべきだ。
という観念で、相手にもそれを要求してしまうのです。
*****
また、
自分自身への無意味な「掛け声」に気づき、それをやめていくと、
徐々にではありますが、
今まで感じたことのないような、
落ち着いた気持ちでいる自分がいることを、
微妙に感じるようになってきています。
自分にとっては、「ほんの些細な癖」と、軽く思ってきたものが、
実は重大なトラウマが奥深くに潜んでいたとは、まったく想像もしていないことでした。
長い年月、
自分にとって「当たり前」と思って行動してきている「癖」
このことにも、トラウマを掘り進めると同時進行で、
厳しく目を凝らして、
日常の自分を観察していく必要があると強く感じています。
*****
10月の初旬でした。
姉二人と母が「母娘旅行」ということで、
私のところに、2泊3日の日程で遊びにきました。
当初、3人に会うことには気が重かったのですが、
気持ちを切り替え、
前回会った時(今年5月)と、
今回会う時の自分自身の反応がどう違うか、
そのことを観察することに重点を置くようにしてみました。
前回、次女に対して、
私は今まで思っていても、口に出して、
本人に言ったことのないことを言ってみました。
「○○ちゃん、猫背になってるよ。もっと姿勢に気を付けたほうがいいよ。」
この一言を言うのにでさえ、私には結構な勇気が必要で、
自分でもそのことに驚きを感じました。
私は子供の頃から、両親に気に入られている姉に対して、
悪口や注意するということを、極力さけようとしていたように思います。
そして、
両親に気に入られている次女にも、
私はずーと「かわいい妹」として、
やはり気に入られていたかったのだということに気づきました。
そして今回、
次女と会って、私は、
「この人」の今の生活や、生き方を見ていて、
「この人」のことが羨ましい、とはまったく思いませんでした。
そして今回、年老いた母親の姿をあらためて見ていて思いました。
私が**年もの長い間、
必死に求め続けていた人が 「この人」 だったのか。
でも、今、
もう私は「この人」に甘えたいとも思わないし、甘える必要もない。
こう感じる自分がいて、
なにか、少し、ほっとしました。
*********
以上です。
最後になってしまいましたが、
本日、5回目の自我判定をおねがいしたいと思います。
実習回数 前回から255〜265回
よろしくお願いいたします。
本日は、貴重なお時間を最後まで読んでくださいまして、
ほんとうにありがとうございました。
_______________________________
★
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