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[401]
■
★分割自我復元★その401■ 【上手くいく筈のない 自我復元をしている人たち】
by:
鈴木崩残
2014/11/02(Sun)22:08:12
自我復元になっていない人たち
●この問題を明確にしてくれたのは、実は、ひとつ前の投稿で引用した方でした。
確かにトラウマは掘れている部分もあるのはいい。
しかし吹っ切れていない。
こういう人たちは、ブロガーの人にもいますし、報告をくれる人の中にもいます。
●私は、報告から受ける印象で今まで、どうしても違和感のあるものがあり、
その理由が釈然としませんでした。
報告は真面目に書いてあり、それなりにご自分のトラウマやAC人格を
理解しようとしているのは確かなのですが、
「何か」が違うと。
●その何かが違う人たちには一定の特長があり、
それは「生態反応が弱い」という点でした。
私からのメールにも反応が乏しく、ブログの方も停滞する。
その原因が今日までつかめなかったのですが、
それを通じてはっきりしたことがあります。
●たとえば、自我復元をしている人が、
『自分自身』のAC人格の原因に取り組み、そして一方で、
それをサポートする立場の私とのメールに向き合っている、
この場合には、問題はありません。
その人は、自分自身の抱えた問題に焦点があっており、
それをお手伝いする立場の私に少しの関心を向けていて、それでいいのです。
●しかし、私が違和感を感じる人たちは、
自分自身、私、この二者以外に、もうひとつの関心の対象があり、
そこにずっと囚われているということが、違和感の原因でした。
つまり、たとえば、関心地図をその人がしっかりと確認したらば、
自分自身のトラウマ、AC問題、そして私の助言、
これ以外に、いわば、これよりももっとメインの関心がその人たちにはあるのです。
*********
●この問題をここではっきりさせておくために、
たとえば、具体的にいいますと、
ある人は、ある人たちは、自我復元のモチベーションとなっているものが、
次のようなものであったりします。
↓
■同居している人間との人間関係を良くしたいのが本当の理由。
たとえば、本当は問題があるままに結婚したのに、
それを正当化したり、あとから、そのほつれを直そうとして、
みっともない、中途半端な自我復元しか出来ない者、または続かない者。
■これと並ぶものでは、夫に対して逆らえず、その不満から
自我復元で、夫を見返そう、または対等な立場になろうとしている妻。
■これとは逆に、妻の支配から開放されるために、自我復元をしている
というのが本音のところの動機である者。
■さらには、もっと困ったケースでは、誰かいい人と結婚したいがために、
その準備に自我復元をしようとなどしている者。
■また、職場で、バカにされるのが嫌で、なんとか職場で同僚や上司を
見返したい、自分をバカにしないようにさせたい、
ということが、動機の多くを占めている者。
■かつて自分をバカにした者たちのことを恨んで、その恨みから
自我復元をして、見返したいと思っている者。
こうした事が自我復元の「本当のところの動機」として、
今も、その人の精神を支配している場合には、
自我復元は、必ずあるところで、行き詰まります。
その理由は、簡単です。
その人は、「結果待ち」の状態にずっと囚われているからです。
いつになったら、自分は、仕返しが出来るのか、
いつになったら、結婚できるのか、
いつになったら、相手よりも優位に立てるのか、
いつになったら、バカにされないようになるのか、
いつになったら、離婚できるのか、
いつになったら、安心した結婚生活になるのか、
いつになったら、仕事が見つかるのか、
こんなもののために、自我復元をしているとしたら、
それは、「自分を助け出す」ことではなく、
バカにされないように、見返したいAC人格そのものです。
そして、何よりも問題なのは、
基礎的なトラウマも掘らず、
トラウマの百貨店のような報告を並べても、そのまま何も起きない。
起きないのは、当然です。
その人たちは、「さー、これだけやったのだから、褒美はどこだ?」
とやっているのですから。
■ところが、この状態にいる人たちが沢山います。
逆にその状態ではない、自分を元に戻す努力をしている人の方が少ないので、
逆に、その人たちの名前を掲げるほうが、簡単です。
現時点では、という話ですが、
「自分自身の問題」とこちらのメールでの助言や桜の間だけに
きちんと集中していて、他のところに、うつろな目が向かっていないのは、
『マディアさん』『Abyさん』『朱いはがねさん』『雨樹さん』『YNさん』『お姫ちゃん』
のみです。
あとの人たちは、全自我の人も含めて、またブログをかいている人も
書いていない人もふくめて、
全員が、「違う方向」を向いたままだと私は痛感しました。
●自我復元というものは、本人自身の問題であり、
他者承認から自己承認へとシフトすることであるのに、
自我復元の「成果」を、誰かに見せたい、ひけらかしたい、
あるいは、自己確認したい、そういうところにずっと囚われています。
自我復元や、トラウマ掘りや、AC人格にだけ集中していないで、
ずっと、横目で「誰か」の様子、またはその誰かと自分の力関係を
気にし続けているのです。
その誰かというのは、私であることは絶対になく、
その人たちの私生活の中にいる、同僚、家族、伴侶、などであることが
圧倒的に多く、たとえば、ネット上の他人といったものは、
基本的には含まれていません。
リアルな世界で、屈辱的なことがあった場合のほうが、
その人たちの心に巣食うものが大きいからです。
●これ故に、私は、その人たちからの報告が、
こちらをまっすぐ見ておらず、
また、その視線が、その本人自身をまっすぐに貫いておらず、
常に、もうひとつ、もう一人いる誰かを、ずっと気にしている、
そのほうが、その人にとっては、大問題であり続けている。
よって、自我復元がメインの動機にならず、
いつまでも、「仕返し、または見返しの方法にすぎない」
このタイプの人たちが圧倒的に多いのです。
■であれば、
ここで、私は、あえて、その人たちに問いたいのですが、
曲がりなりにも、無明庵というのは、精神世界に属するサイトです。
過去には高度に形而上学的な問題や、意識の問題も扱ってきました。
ならば、人間が自分のことを何とかしようとするのは、
自分自身の為であって、それ以外の目的などありません。
しかるに、たとえば、悟りたいとか「ほざいている者」がいたとして、
もしも、その動機が、
他人からバカにされないため、
自分を無能よばわりした親や兄弟を見返すため、
結婚できるため、
いじめたり、仲間はずれにした奴を見返すため、
仕事場で認められるため、
妻や夫を自分にしばりつけるため、
または夫や妻から、開放されるため、
就職先をみつけるため、
と、
こういう目的で、悟りたいのですが、とどこかの門を叩いたら、
私なら、そいつの頭に蹴りを入れますよ。
そして、二度と来るなと言います。
*********
なぜならば、そんなことは、それぞれにそれを実現する手段があり、
それをまっとうにもせずに、別の方法でと思って自我復元をやっているのなら、
結婚したいやつは、もっとおしゃれに気を使うとか、
捻じ曲がった性格をどうにかするとか、別のことをすればいいのです。
離婚したいなら、離婚の手続きをすればいいだけ。
また、自活したいなら、親と縁を切ればいいだけ。
なのに、「自我復元」をすることを言い訳にして、
あるいは、手段にして、本当に重要な目的は、別にある人たち。
この人たちは、自我など復元できません。
ずっと、何をやっても、ハンパな、しみったれのまま死にます。
●自我復元をやりながら、
せっかくその自我を「元々の正常な形」を取り戻すチャンスがありながら、
AC人格の恨みと、劣等感の解消こそが実は本当の目的になっている人たち。
または、現状の生ぬるい、鈍感に満ちた生活を維持するのが目的になっている人たち。
こういう人たちは、
まず、そもそも、自我復元を始めた動機から、もう一度、
自問しなおしてください。
むろん、人は、社会や家庭で、それぞれに、嫌な思いをして、
それで、自分がおかしいのではないか、という地点から何かを始めます。
いつまでも、自分はおかしくなくて、他人が全員おかしいのだと
思って妄想の中にいたいなら、自我復元など、しなくて結構です。
ずっとその、つまらなく、寂しく、妄想に終始する、醜い地獄にいてください。
誰もが、「自分自身の中の、この気持ち悪さは何なんだ?」となったときに、
その原因を突き止めるのが、自己探求であって、
解決というのは、その結果、あとから、起きてくるものです。
しかし、動機が、いつまでも、
本人ではない「誰かの反応」を、ちらちらと見据えている、というのであれば、
それでは、本人と私だけの関係ではなく、
常に、その人の横には「もう一人の他人」が私には見えるわけです。
自我復元においては、
仮に、その動機が、とてもくだらないことで始まったものでもいいですし、
とても現実的な問題から始まったことでもかまいません。
しかし、それは入り口にすぎません。
そもそも、どうしてそういうことを動機にしたのか、
そこへ、どこかで、関心の視点を、切り替えてゆかねばなりません。
*********
人の心の「醜さ」の、ひとつの例として、こんな話をしてみます。
ある人が、食品の放射能の測定をしていたのですが、
その人に、私は、なぜしようとしているのか問いかけました。
すると、「自分がどこまで出来るのか試すため」と言いました。
私は、この人、全くダメだと思いました。
理由は簡単です。
人は「自分を試す」ということを目的になどしてはならないからです。
みなさんは、誰がが「自分試すためです」と言っていると、
なにやら、なんとなく、かっこよく聞こえたりでもするのですか?
しかしよく考えてください。
もしもその人が、自分を試している、としたら、
その試している判定人は、他ならぬその人なのですから、
そこには、どこまでも生ぬるい「自画自賛」しかあえないのです。
自分で自分試すということは、その結果や成果に点をくれてやるのも
しょせんは、その人のAC人格の自己満足です。
しかし、本当の意味で、自分を試している人というのは、
必死すぎて、試しているなんていう、余裕すらありません。
「試す」というのは、
「いじる」というのぐらいに、いいかげんな態度です。
たとえば「機械をいじる」「他人をいじる」、こういうのは全部アウトです。
機械を、きちんと修理する、他人にきとんと関わる、ならマトモですが、
「いじる」という、その中途半端な、いやらしさは何ですか?
試すも同じです。
たとえば、自分が大丈夫かどうか、通用するかどうかを試すために
人に会いにいったりして試す、これも馬鹿のやることです。
試すという言葉の中には、厳密な「実験」という意味も含まれますが、
実験というのは、あらかじめ取るデータに目的があり、
手順を踏んで行い、その結果をきちんと分析するということまでして
実験であり得るのに、
たまに「試しに、やってみる」という低い程度のことまでを、
「実験する」「実験してみた」とか言ったり、書いたりしてしまう、
おっちょこょいな人がいます。
いずれにしても、何かを真剣にやっている人は、
「試しに」とか、
「自分を試すため」とかそんなことは決して言いません。
必死で必死で、とにかく、突き進んで、何年もしてあとになってから、
あのときは、よくやれたよな、と、軽く思い返す程度のことです。
本当に自分をそんなに試したいのであれば、
その判定人を自分とせずに、
他者から、さんざんに罵倒され、酷評される、
そういう場所で試すべきです。
もっとも、それでも、なお、その「自分試し」という考えは醜いのです。
エゴの主体が、そのエゴを試したところで、
自己満足すぎないのは、当たり前のことじゃないですか?
自分を試すなどと、そんな流暢なことは言っている暇もなく、
試しているなどとも思わず、
結果やみてくれなど考えずに、必死に突き進むことのほうが、ずっと重要です。
たとえば、もっとわかりやすくいいます。
もしもあなたの付き合っている恋人や、伴侶や、パートナーが、
「私はね、自分を試すために、あなたと付き合っているのよ」
とあなたがいわれたら、あなたはどう思うでしょうか?
「その、自分試しの道具にすぎないあなた」ということになります。
そんな、なまくらな付き合いをしている人間よりも、
率直に、あなたのことを大好きでいてくれる人のほうが、ずっといいものです。
自分で自分のことを試すことにしか関心のない人間。
これほど、人間として、魅力のない者はいません。
直に、その人を相手にしている人は、必ず、
「ぼーっとして、この者は、どこを見ているんだ」と感じるはずです。
●ただし、
自分で目標を立てて、それを着実に行う、
という行為は、それには該当しません。
「自分がどこまで出来るかを試す」というのが、
一流の誰かか言うのと、チンピラが言うのの大きな違いは、
一流の選手とか学者がそれを言うのであれば、
その人たちは、嫌というほど、世間からの賞賛など受け放題に受けて、
しかし、なおもそういうものではなく、自分が納得しなければ意味がない、
というのであればまだしも、
ちっちゃく、自分で自分を試して、自分で点数つけて、
「ちょっとは出来た自分」などで満足して、それに甘んじていたら、
「きちんとした仕事の出来る者」には、なりません。
だから、「自己評価」などしてはならないのです。
「自己承認」と、「自己評価」は、全く違うものです。
そして『自我復元』とは、
あなたの「困りごと」を解決する為にあるのではなく、
あなたが、困ることになった
その本当の「原因」について、観る力、知る力をつけるためのものです。
こんな声がメールからは聞こえてきます。
「自我復元してます。
トラウマ掘っています。
AC人格を列挙してみました。」
そういうことをやるのは、むろん、いいのですが、
本当は、「どこ」を見て、
どこの「誰」を見て、やっているのかを見ると、
ちっとも、こちらをまっすぐに見てやっていません。
また、何よりも「本人自身」を本人が、まっすぐに見てやっていません。
いつも、誰かを恨み続け、
いつも、誰かに怯え、
いつも、誰かを馬鹿にしようと待ち構え、
いつも、仕返しや、見返しをたくらんでおり、
いつも、他人の不幸を妄想したり、他人に嫉妬したりしており、
いつも、どうやって幸せであると思い込めるのかを、妄想しています。
そういう場合に、私の眼には、
その人が、その人自身ですらもない「別の方向」を、ずっと見ているように見えます。
だから、
私は、その人たちの報告やメールから、「生気」を感じません。
生命反応がないのです。
その人たちは、自我復元や、トラウマ掘りや、AC人格解除よりも、
その別の誰かの目や、誰かからの評価や、あるいは相手の不幸を願うこと、
そのほうが、ずっと、しっかりと目の焦点があっているようです。
そんな状態で、大切な自我の「復元」が出来るわけがありません。
そんな人に出来るのは、惨めなAC人格の「維持」のみです。
*********
最後にひとつ、面白い事実を指摘してみたいと思います。
現在残っている自我復元ブログの、その「タイトル」をよく見てください。
今後、残る人たちのブログには、すべて「主語」ないしは「自分」
があります。
私が 契約した乗り物
自分を 裏切らないための
自分に 帰る
お姫ちゃん と
無干 の
それ以外のブログタイトルには、「主体」がありません。
かつてあったものでは、「おめめ」さんだけ。
あとは、消息安否不明では「自らが我であるための」の人。
他、すべて、タイトルからして、まるで他人事です。
「自分」もなく、
「自分の名前」もなく、
そもそも、自分を中心としていないような、タイトルばかりでした。
そんなところにも、
「自分に」取り組む姿勢の「原点」の違いが出ているものなのです。
そして、私がこういうことを書くと、
かならず、次のように言う人が出てきます。
「自我復元を汚すようなことをしてしまい、申し訳ありません。
これ以上汚すのは失礼になるので、やめます」
そんな気持ち悪い偽善者のようなことを、どこで覚えたのか知らないですが
そんなことを口にする暇があったら、
そして、
本心から、失礼だと思い、
自我復元を汚したと思うなら、
汚したものを、元に戻してから、消えてください。
すなわち、自我復元をやり遂げて、
ご自分を元に戻してから、失せてください。
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