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★分割自我復元★その412■ 「 いろいろ思うこと 」
by:
鈴木崩残
2014/12/19(Fri)02:22:24
我慢への誤解
●また少し、夜中に、怒涛のように書き込んだメモから抜粋しておきます。
*********
父親が、どれだけ阿呆でも、
母親が子供にとって安心できる者であれば救いがある。
だが、母親が子供よりも夫におもねたら、
その子供には行き場がない。
そもそも、何のために子供を育ているのか?
夫や自分のためではあるまい。
父親が厳しいというのは、
まるで日本では変な美徳だったり、
厳しく躾られたからその子供は行儀が良いに違いない、
という(印象的な)誤解がある。
だが母親も父親も、厳しくある必要などどこにもない。
なぜならば子供は幼稚園、小学校に入った瞬間から
厳しい社会にさらされるのだから、家庭が安心できないところになったら、
子供は、どうすればいいのだ。
甘やかしは悪いというが、
親が子供を、本当に甘やかしたことなどあっただろうか?
物を買い与えたり、親の趣味や、旅行に引きずりまわしたり、
また親の勝手で、逆に子供に甘えたり、子供に期待したり、
または、旦那に対抗するために、自分の子供を自分の子分・手下のようにする、
こんなことは「甘やかし」では全くない。猛毒だ。
本当の「甘やかし」とは、本来子供にとって「甘いもの」
つまり「楽しい時間」であるべきだった。
世の中では「やさしいことがいいこと」みたいな風潮があるが
「厳しい親」「子供を否定する親」「ダメだしばかりする親」
に育てられて、「優しい親」を肌で感じてこなかった人たちが
そんなことを「口先」だけで言っても、まったく信じるに値しない。
やさしい親とは、子供にどうこう「手出しをしない事」が大原則なのだ。
母親からのスキンシップは最低限普通にあればいい。
べたべたする必要はない。
しかしそれよりも大事なのは
子供が母親の膝や母親の体に接している時に「安心」出来る事。
一方で父親は少しボケまくっているぐらいの方がいい。
親が実の親であろうが、なかろうが、
また、子供が実の子供でろあうがなかろうが、
喜怒哀楽の、感情の一部を我慢しなければならないという
そういう状態だけは避けなければならない。
そもそも抑制してもいい感情とは殺意と、
過剰すぎた場合の性欲ぐらいのものだ。
それ以外は子供の時に抑圧したらダメだ
子供のころは子供は十分に母親に甘えて良い。
なぜならば、いずれ小学校にあがれば自分から、
はにかんで、気恥ずかしさを覚えて、
自分から母親に甘えなくなるからである。
子供が本当に母親に甘えられたら、
その時期は大人が思うよりもずっと短い期間で済むものなのである。
逆に、母親が自分から進んで子供を愛でるというのは、
子供の幼少期のみであり、
そのあとは、子供が自分から母親に甘えるものだ。
子供が、立って歩くようになったらば、
その子供の方から母親に甘えてくるのを、ただ受容すればいいだけで
ことさらベタベタする必要もない。
ただし、子供にうるさいとか、子供を嫌悪したり憎しみを向けたり、
子供を挟んで夫婦対立をしたり、子供を奪い合ったり、
または子供に嫉妬するとなると、それは子供にとっては地獄になる。
実のところ、親が子供に対して「すべきこと」など、
ほんの数行で書く程度しかないのだ。
逆に、絶対に子供に対してやってはならない、膨大な禁止事項がある。
それをしたら子供は必ず不幸になるというものとは、
つまりそれは、
子供に不幸を感じさせることだ。
だから親がしてはならない禁止事項の方がずっと多いのだ。
夫(つまり自分の父親)に献身的に尽くす母親を見て
偉大だなどと思ってはならない。
また私は長く母子家庭で片親だったが、
一人で自分たちを育ててくれたからという理由で
母親を偉大だとは全く思っていない。
私が、私の母を偉大だったと思うのは
安心できる存在だったという、ただの「その重要な一点」のみだ
片親になる場合、その原因としては、
死別、離婚、行方不明などがあるが
その時に、特に母親が苦労する姿をあまり子供に見せてはならない。
自分の母親は大変な苦労をしてきたという事をもってして
子供に恩義を感じさせるような事はしてはならない。
母親は、適度な泣き言を子供に言うのはいい、しかし、
常に年中、疲れた、悲しい顔ばかりを子供に見せていてはならない。
自分にとっての母親というものの記憶が、
「苦労人」に見えたら良くない。
躾けた親に見えたら良くない。
厳しい親に見えたら良くない。
正義に見える親もだめだ。
重要なのは、母親というものが子供の記憶にとって、
楽しい人だったり
友達のような人であったり
安心できる人であることだ
ではどういう母親、または家庭環境が 、
子供にとって母親が楽しかったり
友達のようであったり、
安心できる母親であり得るのか?
答えは実に簡単だ。
それは母親の人格的な成熟度とは関係がなく
母親が知的かどうかに全く関係ない。
子供の喜怒哀楽の感情を、絶対に阻害しなかった母親である。
私の母は、そういう人だった。
我慢が良いとした、江戸、明治、大正、昭和、平成の
この長い教育の世代間連鎖が、今の日本の家庭と社会のこのザマである。
そもそも、「我慢」が正義であり得るのは、
そのもともとの目的は、
社会的な秩序を害する「ギリギリの地点」ですれば良いのであり、
何も自分個人の喜怒哀楽の感情や、好き嫌いまで我慢する必要などない。
子供が、まずい給食を我慢して食べて、そこに何の美徳や偉さがある?
学校で、嫌な思いを我慢して何の美徳がある?
我慢などは、
他人をぶん殴りそうになる、手前のぎりぎりのところですれば良いだけだ。
だが日本の教育や社会の最も良くなかったところは
自分が我慢する事で、
「事前に被害を避けられると思い込んだ」ことだ。
この「自分がここで我慢をすれば事態は悪化しないだろう」
という完全な誤解、間違いを形成したのは、 社会の中ではなくて、
それぞれの家庭だ。
我慢すればいいんだと、あなたが親から思い込まされたのはいつだ?
私に言わせれば、我慢をしたら褒める親など毒親である。
「我慢を出来なかった事」こそ褒めてあげるべきだ
重要なのは
「我慢を出来なかった子供」を褒めてあげるべきであり
「我慢をしなかった子供」を褒めるのではない。
「我慢をするな」などと教育したら
それがまた子供には恐怖になり、押し付けの洗脳になる。
たとえば学校で、
我慢できずに先生に反論したら褒める。
葬式で我慢できず笑ってしまったら褒める。
男の子でも、思わず泣いてしまったら褒めてあげる。
「我慢出来なくて、偉かったね」と。
喜怒哀楽の感情を抑圧させられたと言うと、多くの人たちが
「いやそんなことはない。自分だって感情はある」と言う。
ならば本当にあなたは、毎日、家庭や会社や学校で、
真剣に、相手に面と向かって、
怒ったり、泣いたり、笑ったり、楽しんだりしているのか?
感情があるというのはそういう事だ。
鬱積して、他で気晴らしをしているような感情は単に「病気」と呼ぶ。
私の経験則であるに過ぎないが、それでも断言できる事がある。
我慢をしないほうが、我慢をするよりも、
はるかに問題解決への糸口が見えてくるものだ。
我慢をしていないということは、
その事実がまずそこに展開されているからである。
社会人時代、いくつか転職をしたが、私は自分が1年目の社員の身分だろうが
理不尽な事があれば、社長室に怒鳴りこんでテーブルを叩くことすらあった。
すると改善や解決する事がある。
むろんそれで首が飛ぶ事もあるのだが、後悔はなく清々した。
何度も言うが、
行動においては我慢(あるいは力を抑制)すべき局面はある。
それは物理的な行為という意味である。
他人に危害を加えるなどは、そのひとつである。
しかし「自分個人の持ち物である感情」まで我慢して何になる。
「実際には、やりませんけど、口では言いますからね」ぐらいは、
当たり前に、隣人と言い合う家庭や社会になるべきであったのだ。
「耳の穴に 指突っ込んで 歯 ガタガタさせたろか」が
脅迫罪になるような社会は落第社会であるし、
「殺してやる」は、これは脅迫罪になるのは当然だが、
「あの総理や議員、殺してやりたいと思っちゃうよね」
ぐらいは平然と口に出来る社会でなければ、それは偽善社会だ。
健全な社会には、風刺や、毒舌が満ちるものだ。
人々が、政治やお上を馬鹿にして、それを笑いにまでしたのが
一部の落語や風刺画だろう。
きちんと怒らないから、きちんと笑えないのである
たまにネットなどで、他人様のことをB層呼ばわりしたり
または同調圧力に弱いとか、自分というものがないのか、とか、
いい子ぶっている、 などと、自分を棚にあげて、のたまう馬鹿を見ると、
この人たちは、その勢いで、社会で有言実行であるのかは、実に疑わしい。
たとえば、かつてバブル経済がはじけたあと、
誰もが、弱い立場で雇用されていると思い込んでいる。
だがそもそも、人を「雇用する側」というものは
自分一人では出来ないからこそ社員を募るのであり
会社は「社員に頼んでいる」という事を忘れている。
それは相互契約であって雇用者が優位なわけでは全くない。
また首にするのも、正当な理由がなければ、
本来は「解雇権乱用」となるのだ。
実際、私は、解雇権乱用だと会社を訴えたことがある。
「自分は他のやつらと違って主体性のない愚民ではないんだ」とか
そんなことを、いきまいているならば、
あなたが不当な扱いを雇用者から受けたらば
「そんなに偉そうにするなら、お前一人でやれよ」と言って辞めればいい。
「社員に文句あるなら、一人でやれよ」が広がれば
ブラック企業など存在しないのであるから。
ただし、親の金や資産で食っているような、そんな安全圏から偉ぶったり
私が言ったことを実行しても、全く無意味で、ただの阿呆である。
首にされたら、もう後が全く無いという、命がけのところで、
相手に媚びないで戦わねば、全く無意味なのである。
実際、私がそうやって生きてきたから、その大切さは身に染みて理解できる。
先だっての選挙で、人々がネットやツイートで、
好き放題の事、民主主義がどうこうだの、選挙権を無駄にするな、だの、
あるいは、選挙などどうせ不正だから無意味だなどと、
冷えたピザみたいなツラをして、書くのを見ていて思った。
お前ら、まず自分の家庭内、
そして隣人に対して それが出来ているのか?と私は思った。
小さな身近の世界で出来ない選択や言動は
大きな場でも出来ないのだ。
だから、真に反逆的でありたいならば
まず自分の毒親に対して反逆し
学校で反逆し、
企業内で反逆児であれ。
そんな事は当たり前だろう。
なぜならばそれが、
政治家や報道を金で買う企業や、企業を金で買う議員を、
そもそも、その根っこである「身近な世界」から撲滅する方法だからだ。
そもそも、悪党を選挙で選ばないで済む方法は、
「身近にいる悪党の撲滅から」に決まっているだろう。
そして、自分にとって もっとも近くにいる悪党。
まず、それは自分自身の中の、AC人格である。
それは、家庭内で、 恐怖と、脅しと 遠慮と、我慢という肥料によって
のこのこと、デブになるまで(あるいはガリガリになるまで)
あなたを破壊するために培養されてきた、
もっとも毒性のあるものだからだ。
そんな状態で、
何かを、心底すっきりとした気持ちで「選択」できるわけがない。
選択を誤れば、万事が失敗する。
*********
多くの人たちが、
自分が生まれてきた理由や目的が、分からないと思っている。
中には、自分勝手な妄想にしがみついて、それを分かっていると
思いたがって、現実生活は、ボロボロという人も多い。
人類自体の起源に関わるような、大げさな話に展開すると
やはり、面倒な話になるものだが、
ただし、「個人」としてであれば、
目的は、各自ではっきりしているのである。
自分の生前契約書を開くと、たいてい設定目的は1つか2つだ。
それを知らない人が多い。
というのも、
「大局的で抽象的なテーマ・課題」として自分が決めた事というのは、
一生の間に1つぐらいしか出来ないものである。
あれもこれもするのが人生の目的ではない。
たいていは一つ程度だ。
ただし生まれてくる際の目標設定に、
かなり多大な影響を及ぼしているのが、
長いスパンの複数の転生の記憶ではなく、
直前の臨終時の経験である点が、最近は、問題に感じられている。
簡単に言うと、
3日前の昼食は覚えていないが、今朝食べたものは覚えているという、
そんな程度の記憶の印象によって、
次の生で自分が遂げたい、経験したいことを決定している、
ということが多い。
*********
●現時点で、自我復元をしている人の中で、
確実にそれ(生前契約の内容)を見つけて修正を図っているのはマディアさんのみ。
Abyさんは、現在、苦戦中。
あとは、黒丸さんも、その他数名も、完全に失敗しています。
バランスの取れた感情を伴う全自我でないと、
正確に、生まれる前に自己決定した目的を思い出すとは不可能と言えます。
*********
★
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