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[474]
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★分割自我復元★その474■帰還への道は「逆行」である■
by:
鈴木崩残
2015/07/14(Tue)09:40:28
何かを、やり続けていないと落ち着けない者
何かを、考え続けていないと落ち着けない者
何かを、しゃべり続けていないと落ち着けない者
何かを、見たり、聴いたり、読んだりしていないと落ち着けない者
自分を麻痺させるものに依存する者
これらは、すべて、「狂人」である
●まず他ならぬ自分が、
その狂人である事に気づく人が非常に少ないということと、
もうひとつは、座禅だの瞑想だのを始めても、
そこで直面するのは、「自分の狂いっぷり」と、
たまに静かになっては、これでいいのだと、
「さらに狂う」という悪循環です。
うんざりするぐらいに、私が他者の中に見てきた稚拙さです。
●そこで、そもそも、
皆さんの個々人の「現実」というものは、
「どういう部品」で構成されているのかを、
もう一度ここに明記しておきます。
ただし、ある段階の途中までは、「狂っている」ものとして記述します。
皆さんは、当たり前だと思っているものもほとんどが「キチガイ」の
状態で生きているということです。
*********
●人間は、対象物を知覚することによって、
自分が今、生きていると思い込んでいます。
しかしその対象物の中には明らかに「狂人」の状態と言えるものが
沢山あります。
頭の中で「独り言」を言い続けている者
■皆さんが自分をよく観察してみて、考え事をいちいち「言葉や文章」にして、
自分の頭の中で、「あーだ、こうだ、いやこうだ、いや違う」、
ということを言葉でやっていたとしたら、それは完全な「狂人」のそれです。
言葉が頭を去来している時には、人間というものは、
そこに「実感」を一切伴っていません。
自分が自分の頭の中に発している言葉に自己陶酔して
それを理解している気になっているだけです。
■本、テレビ、ネット、映画、小説、漫画などから、
言葉を多く食べてしまっている人は、
その言葉が、勝手に自分の頭の中で浮かんでいるだけであるのに、
まるでそれを自分で考えたことであるかのように思い込んだままて、
それが、乱舞するのを全く止められません。
たとえば、皆さんが仕事や、同僚や、同居人や、その他、
何か他人との関係について、不快感が頭から離れずにいたとしたらば、
「その状態そのもの」は、別に悪いものではありません。
そこには処理しなければならない自分の何かがあることを、
単に示唆しているだけだからです。
■しかし、そのときに、あなたが自分の頭の中で、
「言葉で考え、言葉をぶちまけている」としたら、
それは完全な狂人の状態です。
また見たり聴いた言葉に影響されやすい者というのは、
言葉にしがみつく以外には、自分を保てないということです。
ただしこの自分を維持できない原因は、言葉だけではなく、
「過去の記憶」にしがみつくことからも起きます。
この言葉に脳内を占領されている状態から抜け出すと次の段階に移行します。
そこで次の狂気の説明です。
頭の中で「記憶が去来」している者
■前述の狂気が、頭の中に言葉だけしかない最悪の状態とすると、
この状態では、「断片的な記憶」をたどっている状態にあり、
その記憶の中にある五感の記憶や、その時の感情も思い出している状態です。
そこにさらに言葉も浮かんでしまっているので、
完全に「混沌」としています。
おそらくは人類の99.99%以上が、現在もこの状態にあり、
それで自分は生きている、などと思い込んでいる状態にあります。
この状態にあるという意味では、
かなり痴呆が進んだ人と、あなたの間に大した違いはありません。
記憶の中だけに生きており、言葉もゴミのように頭に詰まっています。
■この手のタイプの人達が、その事実に直面することを回避するのに
行うことは、
何かの鑑賞や、読書、創作または、スポーツ、そして飲酒です。
特にスポーツというのは、その時には自分の身体の感覚を感じるのに
忙しくて、頭の中に言葉や記憶が去来することを、
一時的に強制的に止める方法でもあるので、やがて中毒してゆきます。
中毒とは、それをしないではいられない禁断症状と言うことです。
言葉と、記憶のイメージが混在した、この「混沌とした状態」を脱すると
次の段階に移行します。
頭の中が「絵」で構成されている者
■この状態では、頭の中には、「言葉や文」は全くありません。
イメージや記憶が断片的に去来して、消えてゆき、また現れる
ということを延々と続けています。
このイメージの断片は、いわば「スライドショー」のようなもので、
言葉によらず、これだけを使っても、むろん人は妄想を続けることは出来ます。
ただし、言葉をまだ覚えない子供のときも、
このイメージのスライドショーが起き始めています。
それはある特定のことをすると、毒親が怒鳴ったり、叩いたりした
その場面の記憶のイメージなどです。
これは、動物の中にも、記憶の作用としてあります。
この記憶の断片が、
スライドショーのように脳内を去来している状態を脱すると、
次の段階に移行します。
現在実在する「五感だけ」がある
■頭の中に、前述の「イメージや記憶のスライドショー」がなくなるか、
または極端に減衰すると、
あなたは、頭の中に浮かぶものにしがみついていた状態から、
ようやく、今、ここの現実にあるものだけを、知覚の対象とすることになります。
■ただし、この際に注意すべき間違いは、たとえば、現在の感覚の中に
とどまるために、無理やりに、
何かを「凝視」する、
何かの音に集中する、
自分の呼吸を意識し続ける、(禅の数息観)
こうしたことは、すべて失敗します。
やっているその時だけ、なんとか居座っていられるだけで、
その反動で、社会生活の中に戻れば、
さんざんに他人の振舞いに振り回され続け、
何かをして落ち着いていられる時との差によって、分裂病的な人格になります。
■たとえば、全く思考もなく、むろん言葉もよぎらず、
イメージや記憶さえも、あなたの頭に数分間全く浮かばずに、
雨音を、ただずっと聴いていたとします。
ところが、あなたは気づかないでしょうが、
その雨音といっても、近くで鳴っている雨音だけを聞いていたかと思うと
少し遠くで鳴っている雨音を聴いていたりしています。
つまり無条件に、自由自在に聴いているのではなくて、
どのあたりの音を聴くかという「選択」が働いているのです。
■しかしそれでも、
自分の頭の中、意識の中、それをを絶えず観察し続け、
その状態で、まったく言葉もなく、イメージもなく、
雨音から「別の何かを連想すること」もなく、
ただ、ただ、雨音だけを聴いており、
あなたの頭の中では、それに何も反応せずに一切黙っている。
あなた何も連想せず、イメージも去来しない、
しかも、あなたは寝入ることもなく目覚めている、という、
この状態を数分でも出来たらば、初歩的には上出来です。
■ただし、この状態そのものは、
「いかに、普通の生活の中で、あなたが、馬鹿やキチガイみたいに、
たえず頭の中で、ピーチクと独り言を続け、それをやめることもせず、
その独り言や妄想の思考を、観察すらしようとしなかったこと」
が、明らかになるのみです。
■そうやって、ただ雨音や風の音を聴いていても、
あなたは、「こんなことをしていても、時間の無駄」だと、
いらぬ「雑音」が頭の中に戻ってきて、
またごそごそと、
何かを見たり、読んだり、聴いたり、行動したり、あるいは、
ふて寝してしまうだけです。
しかし、それでも、その全くの無思考のまま、
ただ五感からの刺激を感じ続けているだけ、ということをしていると、
何かを知覚する時には、その前に意識がそこに焦点を結ぶことが
その始まりにあることがやがて分かります。
つまり思考やイメージの断片、そして五感には、
「それが発生するよりも前の段階がある」という、
非常にデリケートな現象に、あなたは気づくかもしれません。
関心地図とは実はこの状態を経験するためにあります。
そして、やがて、それも、時々止まり、次の状態に移行します。
「存在感覚」しかない状態
■頭の中の独り言、記憶の去来、イメージのスライドショー、
こうしたものが、剥がれ落ちて、やがて、五感の刺激だけを
延々と感じつづけ、しかも、そこから連想にも流されない、
これが続くうちに、自己存在感覚というものが浮上してきます。
雨音や風の音が、ただ聞こえている。
頭の中は、沈黙をしたまま、
このことを意識している主体から、
その対象物の雨音や風の音すらからも意識が離脱をはじめると、
残るのは、
「どうやら、自分は今、死んではいないし、
体の感覚もあるようだから、眠ってもいないようだ。
よって、私は今、ここにいるようである・・・」
という、かなり「漠然とした存在感」です。
明確な存在感というよりは、
「消去法」の結果として「残っていたもの」というほうが正しいと言えます。
頭の中には、何も言葉が浮かばず、
何も考えず、
何もせず、
体も、むやみ動かさず、
何も見ない、聴かない、味わわない、嗅がない、触れない、
そして、自分の過去の記憶からも自由で、
イメージの断片のスライドショーも起きず、
何かを感じてから別のことを連想することもなく、
その中で、さらには、
今現存する「五感からの情報」が薄れていっても、
それでもなお、そこに在るものは何か。
「最低限」でも、人間は、ここに至らなければ、
言葉と、思い込みと、期待と、不安と、イメージと、
うっかり、ついつい「習慣的に思考してしまう」ことだけで、
ゴミ屋敷のようになっている自分の頭の中に気づくことはありません。
そのゴミ屋敷に、新たな粗大ゴミを、ネットや本や他人から仕入れてしまい、
まったくの「盲目」まったくの「混濁」つまり、
まったく「生きてなどいない、ただの習慣に支配された機械」
に成り下がるのみです。
■自我復元が、最終的になそうとしていることは、
外部のもの(情報、言葉、イメージ、自分の記憶)に、
一切頼らずとも良い状態です。
そのためには、今回私が段階的に書いたように、
今まで、あるいは今もまだ、「自分だと思いこんでいるもの」を、
その部品を、ひとつずつ、剥がしていってみるとことです。
■ただし、最初の言葉を頭の中から消すことすら、
何時間も、何日も、何年もかかるかもしれません。
イメージのスライドショーを抹殺して、
現在ここの瞬間にある感覚だけにするのに、
何年もかかるかもしれません。
それでも、それを思い出し、
思い出しただけではなく、
決してどんな瞬間にもそれが失われないものにならないかぎりは、
あなたは、毎日毎日の大半を、
「やらなくて良いこと、考えなくて良いこと、求めなくて良いこと、
理想としなくて良いこと、理解しなくて良いこと」に翻弄され続け、
他人に振り回され、あるいは振り回されまいと、やっきになり、
まったく、落ち着きのない一生を、最後も落ち着き無く迎えるだけです。
それでいい、などと思っている人は、
私から見れば、人間ですらありません。
否、まともな生物ですらないのです。
なんとなく生まれて、なんとなく生きて、
なんとなく夢を求めたり、夢がかなった気になっているだけで、
最も肝心のものが、一生「不在」で「留守」なのですから。
そうした意識で過ごす人生には、
本当の意味での実感などあろうはずがなく、
充実感もあろうはずがなく、
楽しいと口で他人に言っているだけで、
本当は楽しくもない現実というものに真っ向から直面する覚悟もなく、
ただ、何かをやり続け、考え続けることで、
重大な問題を、ずっと「ごまかし」続けているだけになります。
僧侶も、精神世界も、ぜんぶ、今もまだ同じことをしています。
3000年前と全く変化していません。
人間は、考えるゴミです。
いや、ゴミのようなことばかり考えているのです。
むしろ、考えないほうがマシであるようなことばかり、毎日考えてしまい、
頭も感情も、支配されていて、それでも自分が自分を支配していると
思い込んでいる妄想のかたまりです。
そのようなことを続けていても、一生を終えたときには、
「これでもいいんだ」と、
自己暗示を自分にかけるながら死ぬしかないのです。
●しかし、そうではない、生と死、
それを示唆している道が、自我復元の「本当の基軸」です。
ただし、これを安直に、他の何か(精神世界の、いろいろなうわ言)と
関連づけてはなりません。
この基盤が出来ていない人が、精神世界や思想や価値観やワークに迷い込んで、
人生の大半の時間と労力を無駄にしてしまったのですから。
もしも、それだけのエネルギーと意識を、たったの数時間、
死を覚悟するほどの意志で、
自分に現に起きている事だけに目を向けるだけで、
あなたの意識世界が、
根底から、ひっくりかえるほどの変容をしたのにも関わらずです。
■ただし、
「自分は鑑賞者の意識です」なんてことは、
精神病患者でもいえることなのです。
そう、あなたは、何でも、口で言うだけなら出来ます。
しかし、口でいくら言っても、知っていると言い張っても、
今、この瞬間に、そして、次の瞬間も、
そして死ぬまで、「その状態」にあるわけではないのです。
自分がその状態にもないことを、
「それぐらい、知っています」と言いだけに振舞って、
一体、あなたの人生に、それが何をもたらすのですか?
他人から馬鹿にされないように「あがき」をしているだけです。
また、あれこれの本やサイトを、ただ、退屈から逃げるために読んで、
「自分は、これでいいんだ」と、自己暗示を続けるのみで、
「自分には、できているんだ」と、自己安心を生産するだけす。
そして単なる無気力な自分を、落ち着いていると勘違いをし続ける
ただのAC人格のまま、腐り果ててゆくだけです。
それでは、全く、一度も あなたが、
まだ生きてすらもいない、ことなのです。
私は絶対的なまでの自信と確信を持って、
皆さんに、こう言えます。
「この世界に生まれて、社会や周囲から、目指すべきだといわれてきた、
そのほとんど全てのものは、嘘であり、詐欺であるに過ぎない。
その中には、人格的成熟だの、社会的価値だの、悟りだのがある。
しかし、間違いなく全部、詐欺であり嘘です。
逆に、
最も無価値であり、何も価値がないと思われることの中にこそ、
価値など超えたものが、燦然と実存している。
ただし、徹底して、
あなたが 自分が価値を全く感じないこと は何なのか?を
一人っきりで、徹頭徹尾、自問を続けなければ、
正しい形で この結論に至ることは ありません」
______________________________
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