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★分割自我復元★その535●【 友 とは? 】●
by:
鈴木崩残
2015/11/21(Sat)03:41:17
『 友 』
●何について書き始めるか、だけは、たった今、決めました。
ただ、何を書くかは決めていません。
ただ表題を書いたのみです。
では書きます。
『友』という言葉について、私はついさっきまで、
さほど考えたことはありませんでした。
正直言って、これを書いている今も、あまり考えていません。
だから、それについてこれから、考えようと思います。
*********
『友』という言葉、この世界に氾濫していて、
ある意味で、『神』とか『善良』とか『愛』と同じぐらいに
その定義が曖昧です。
定義が曖昧なままに、日常性生活で使ってしまっている言葉の一つです。
『友』といっても『遊び友達』『親友』『旧友』『一生の友』など、
区分けというか、差別というか、コントラストというか、グラデーションがあります。
「ある」というより、グラデーションは、自分の側が作ったものであったり、
または、心理的、物理的、時間的な距離が遠いか近いかで、
それぞれの『友』との距離感が違います。
一般に『親友』というと最も近いように思いますが、
なかなか、自分の親友だ、と言える人を心に持っている人は少ないと思います。
そこまで言うか、という、はにかみもあると思います。
またそこまで親しくもなく、信頼もしていない、と自覚して
その言葉を使うのは適切でないと考える人も多いものです。
*********
ところで、『友』とは、そもそも何なのか、思考上、経験上、
そして、感情の中では、どう分類されているのかです。
これを想うとき、私も皆さんがするのと同じように、
子供時代から、思い出してみました。
よく、子供の時の話をするときに、皆さんからの報告の中にもあったりするのが、
『その当時、仲の良かった**ちゃんという子がいて、云々・・・・』
という言葉です。むろん私も使うことがあります。
*********
では、何が仲が良かったのかと、記憶を見て自問すると、
1/
「自分と話題が合った」
2/
「話題は合わないが、相手の雰囲気が楽しかった」
(これは、友達同士を意味するのではなく、一種の片思いです)
3/「何かの恩義や、授受があった」
4/
「その友達といると、話題が合うかに関係なく、相手も自分も楽しかった」
この4については、自分だけが楽しかったのに、
相手も楽しかったのだろう、と誤認することがAC人格にはあります。
ここで、話は、毎度同じ、悲しいAC人格のことに少し移ります。
1/の話題が合う。
これは私の定義では『友』の条件ではありません。
よく、子供でも大人でも、相手の『話題』の中に、
自分も入れると勘違いをして、はいってゆき、
性格の悪さで、ハブられることがあります。
また逆に、『話題が似ている、同じだから』ということで、
それによって成り立つコミュニケーションというものがあります。
コミックマーケットとかですね。
ある分野について話題を共有しているという状態です。
しかしこれも、『友』の条件ではありません。
2/の「相手が楽しい人だった」
これは、自分の側が、相手の人を、楽しい人だと思っているだけで、
その人が、あなたを楽しい人だと思っているわけではありません。
その、楽しそうにしている人といると、自分が楽しかった、
というそういうことです。しかし記憶の中にはそういう人はいるものです。
3/の何かの「恩義や授受」があった。
これはよく世間でいう「世話になった人」という意味であり、
『友』とは全く違います。物理的に深く、かかわったというだけです。
4/の、双方が、話題以前の問題として楽しかった
これが私が定義するところの『友』、ということになりそうです。
少なくとも、今、これを書いているこの時点では。
*********
幼いころに、AC人格を患った人の場合には、前述した、
1から2を多く経験していると思います。
3は、これは大人の感じる義理とか恩義の世界ですね。
では、4というものがあったのかどうか、
それを私自身も思い出してみることにしました。
*********
子供の時、何も特に偏見も違和感もなく、子供同士は遊びます。
もっとも国や場所によっては、もう6歳ともなれば、
立派に(=無残に)毒親と同じことを、子供同士でもやっていますが、
時にはそうではないこともあります。
ただ、はしゃいで、ただ楽しんだ、そういう遊びもあったと思います。
その遊んだ中で、その後に、いじめられたり、仲間はずれにされたり、
嫌われたり、といった悲しい思いに展開することも多いものです。
しかし、遊んでいるときには楽しかったはずです。
ただし、なんとなく気が合わないから遊ばなかったという相手もいる
と思います。
逆に、なんだか気が合って遊んだ、という相手もいると思います。
*********
自分を振り返ると、はっきり言って、小学校2年の前までは、
何が何だか分からずに、夢の中と同じです。
アメリカでも、ただ、ただ、いたずら三昧で、遊んでいただけです。
日本に戻り、小学校2年の時まで、
しばらくは、帰り道が一緒だった、女の子と手をつないで登下校していました。
たしか名前は「品竹」さんです。
珍しい名前だったので(しなたけ)という音は覚えているのですが、
漢字がこれで合っているのか定かではありません。
ちょっと「しいたけ」に似ていたので、覚えていたのです。
今ちょっと調べたら、ありそうであまりない珍しい苗字なんですね。
それで、ほんの1年ぐらいだったと思いますが、
何が楽しかったかというと、私も相手も、何の恋心があるわけでもなく、
子供としては「手をつないで登下校する」という、
ただ、そのことそのものが楽しかったのだと思います。
特に私の側に、まだ日本に戻ったばかりで、学校へ行くということに
不安があったので、友達と登下校をしていた、ということではなく、
たまたま、方向が同じだったのだと思います。
楽しかったというより、当たり前で、なんでもない風景で、
安心を求めてそうしたのでもなく、ほっとしたのでもなく、
本当に、何の意味もない風景ですが、
何か私の中には、ひとつの原風景として、ずっと残っています。
*********
その後、成人して恋愛をするようになってから、
私は「手をつなぐ」ことをする相手と、そうではない相手というのが
区分けされました。
女性というのは、手をつなぐのは好きな一面があるかもしれませんが、
そういうのは、たいてい、子供の時にそうしたことがなかったか、
もしくは、友達とそうした楽しい思い出があるか、そのどちらか、
または片方です。
それで、私は手をつなぐと、違和感のある女性がいます。
むしろ、違和感のない女性の方が少ないです。
違和感のある女性というのは、いい大人になってしまったAC人格
というせいもあるのでしょうが、手をつなぐことに、
戸惑いや、魂胆や、何かしらのノイズを私が感じる場合です。
なれないことを大の大人として、はにかみもあるのかもしれませんが、
私がそのときに、感じ取るのは、相手の中にある、いろいろな歪みです。
そうやって、「試しに手をつないでみる」ということを、
その時期、時期で、付き合っていた女性としたのですが、
どうも、手をつなぐのが合わない、感覚的にしっくりこない、
手を繋いでいたい気持ちは持続しない、ということが圧倒的に多かったです。
思い出すと、私が無条件に、何も違和感もなく、
手を繋いでいて、それだけで、私も相手も楽しかったのは、
たったの2人だけです。2度目と5度目の恋人でした。
先日の昔の写真に、ツーショットがありましたね。
彼女は、肩に回された、私の指先を、軽くつまんでいます。
もう一人は、私が30代の終わりごろ、
夕暮れの公園で、「試しに手を繋いだ」ときに、
「あー、こういうのもたまにいいね」と両方で、
子供時代の感覚を思い出した人がいました。
その人とは、いい大人のくせに、通勤の朝の電車の中で、
手を繋いでもみました。まるで、まだ新婚さんみたいにですね。
これも、試してみた、という程度ですが、何か当たり前に自然でした。
この遠い過去の二件だけが、成人後の私の中で、
異性と手を繋いだ、「自然な経験」として残っています。
強烈に楽しかったとか、そういうこともあったりなかったりですが、
ポイントは、楽しかったかとか、安心したか、ではなくて、
自然だったかどうか、何の違和感も抵抗も感じなかったかどうかです。
小学校2年のそのときを入れて、この3つの「手つなぎ」だけが、
私の中では、別格に分類されています。
*********
実は、最初に付き合った女性とは、ある意味で『親友』のようなものだったのですが、
あるときに、手を繋いでみたら、
何かそれが、お互いの歩くリズムの違いから、相手の邪魔になるかな、
ということで違和感を感じました。
手というものを通じた感触は、恋愛感情とかセックスとはまた別のものです。
このことは、「虹のオーガズム」にも書いたとおりです。
手を通じた接点が合うという人は、実は少ないのかもしれません。
*********
二番目の恋人との「手つなぎ」は、私と歩幅も違うし、身長も違うし、
ある意味では、性格も違うし、それなのに、スキップしても歩いても、
リズムが合うです。よくいう、馬が合うというそれです。
周囲からも「鈴木さんたち、ほんと馬が合うのね」と言われました。
今思えば、彼女のほうが、まるで、兄を好きな妹のように、
私の歩幅に合わせて、はねるように歩いていたのかもしれませんが、
そうともいえないのは、ゆっくり歩いていてもリズムが合っていたからです。
そして、手を繋いでいる感覚は、まるで仲良しの子供同士が、
そうしているようなものでした。
私は二度目の恋愛でしたが、実際には、一度目は友愛であり。
また冒頭に記した分類上は「話題が合う」というものでした。
たとえば、前述の2の「相手を見て楽しむ」という要素は、
私の側には、どれぐらいあったか疑問ですが、
相手にとっては、私は見て楽しむ存在ではあったと思います。
しかし、いうなれば、二人目のその子(人)とは、
相手もたぶん、初恋、こちらも本当の意味では、初恋、
というお互いに熱を上げた、はじめての恋愛ごっこだったわけですから、
それは、楽しいことだらけでした。
意見が分かれたころに、意見の相違を理解して、合意で別れたので、
お互いに、楽しい思い出ばかりしかなく、
「付き合って本当に楽しかったよ」というのが両方からの最後の言葉でした。
それで、話は、手つなぎのことですので、
過去の思い出で、ノロけていてもしょうがないので、続けます。
*********
では、この3件の手つなぎが『友』を感じることに通じるのか?
と自問すると、それもまた違います。
とても自然で、当たり前で、違和感も抵抗もないという点では、
それは、家族か(毒家庭ではない中での)兄弟姉妹の感覚のようなものでした。
家族と書いて、今、思い出しましたが、
私が「結婚」を想定または前提にした付き合いをしたのは、
その二人だけでした(小学校2年のそれは別として。 笑)
*********
さて、小学校2年のいつだったか忘れましたが、
砂場で遊んでいるときに、ひどく、冷たい態度をする同級生がいて、
名前は、斉藤君といいます。
これは、私が神戸にいたときに、遊んでもくれたのですが、また
一方で、私が作った砂の建物を壊すなどした奴でもありました。
たしか私は、それをされて、砂場に取り残されて泣いた覚えがあります。
以来、その斉藤とは遊ばなくなったと思います。
ただ他の子供同士では、相変わらず、「**ごっこ」で、
遊びほうけている毎日でした。
そして、これは前にもどこかに書きましたが、
神戸から、東京に戻ってきてから、最初に感じたのは、
「なんだ、こいつら、暗い!」でした。
神戸の同年代の子供たちと比べて、圧倒的に暗いのです。
暗いというより、今の言葉で表現すれば、
AC人格か、または、何か「通気が悪い」のです。
お互いの、コミュニケーションがうまくいかないのではなく、
その子供それ自体の中に、「魂胆」を感じたのです。
遊んでいる中にさえ、魂胆が見え隠れするのです。
今なら、それがその子供が背負っていたトラウマとAC人格に由来していたと
明確に分かりますが、
子供の私にとっては、なんだか心から気を許せる相手ではないな、
というのが印象でした。
それも当たり前です。
相手は、子供なのではなくて、
「大人の毒を持った子供」なのですから。
*********
むろん、それでも、やはり子供ですから、
そういう心の魂胆とか、心の取引とかに関係なく、
その場でしている遊びそれ自体を楽しんでいる瞬間または数分間、
あるいは数時間というものがあります。
これがあるゆえに、皆さんも子供時代の一シーンだけは、
トラウマに汚染されていないものが、いくつかあることも多いわけです。
*********
さて、どうやって『友』とは何かの話題に戻ろうか、
と考えています。
たとえば、『話題』に共通性があるだけで、勘違いをして、
自分も仲間に入れるとか、相手と親しくなれると思い込んで、
惨敗した人は、ここを読んでいる人の中にもたくさんいると思います。
逆に、単に話題を共有しているように思えるというだけで、
勝手に自分も仲間入りできたとか、相手と親しくなったと思い込んでるだけ、
ということもよくあり、そういう妄想や期待を思いっきり裏切られたことも
皆さんは多く経験していると思います。
だから、専攻していた学部が一緒だったとか、
趣味が同じで結婚したり、付き合ったというのは、
たいてい、どこかで破綻します。
むろん、それが縁で出会うということは学校でも職場でもありますので、
一概に破綻するとは言えません。
ただ、同じ場所にいたから出会った、という場合は、
それこそ親子がそうであるように、確かに「縁がある」こともあります。
しかし、現在のように、ネット社会の場合には、
単に話題の共有など出来る人は、山ほどいるわけで、
だからといって、親しくなったり、友になるわけではありません。
趣味や話題が一致する、または似ている、
というものは、あくまでも、思考、つまり「頭での関係」です。
頭の関係は、身体や感情との関係とは別です。
この「頭」での関係というのが、もっとも誤認が多く、妄想の土俵となりますので、
最も「AC人格も、しゃしゃり出やすい」ものとなります。
たいていは、話題が同じだったが故に、喧嘩になったり関係解除になるものです。
しょせん、話題や分野を通じた付き合いというのは、
そういう程度のものなのです。
だから、ことに、精神世界とか、武道とか、あるいは科学とか、
そういう、一見すると、体も使っているようで、
実は、「頭世界」の分野では、友というものは決して生まれません。
せいぜい出来あがるのは、師弟関係とか、先生と生徒とか、恩師とか、
または、稽古仲間とか、その程度のものです。
*********
一方で、では、
『友』という意識を持てるかどうかの境界線はどこにあるかです。
たとえば、『戦友』という言葉がありますが、
この場合には『同じ体験をした者』という意味があります。
同じ恐怖体験や、同じ危険から逃げ切れた安堵や、
ときには、同じ勝利感を、分かち合ったなどの経験を共に持つ場合です。
「戦友」という言葉が、端的にそれを表しますが、
これもまた、『友』とは違います。
別の事例では、たとえば、
同じ性質を持つ「神秘体験」をしたとします。
神秘体験といっても、
体外離脱程度のものから、至福体験まで、さまざまでしょうが、
同じ経験をしたせいで、共通に感覚として理解できることがあり、
「そうそう、それそれ、その感じだよね」、
と共感できる部分があるケースもありますが、
そうではないケースの方が圧倒的に多いものです。
また、そうした「そうそう、これと似ている。これと同じだ」
というものは、その相手との関係性が『友』になるかどうかではなくて、
単なる「自己確認」の手段に過ぎないことがほとんどです。
自分の経験したことを、別の人間も経験していた、
または、経験していたと、勝手に思い込んだ、
それによって発生するのは、
「確認欲」または、単なる「確認という行為」です。
比較して、差異のある部分と、共通する部分を確認するわけです。
これゆえに、精神世界その他、いろいろな学問分野、遊びの分野でも、
そのほとんとが、「頭関係」に終始するわけです。
*********
しかし、私のこれまでの経験上、
『友』というのは、頭関係ではありません。
また、神秘体験の共有者でもありません。
これを仏法の世界では「法友」と呼ぶらしいですが、ちゃんちゃら、チープです。
では、同じ危険や、同じ喜びを共有するような、
たとえば戦闘とか、革命とか、何かの大事件を共に乗り越えたといったものが、
はたして、『友』を生み出すか?となると、
それは、かなり大人の勝手な感覚にすぎず、
冒頭の、1、2、3、であることが多分に多く、
4のように、お互いに同じように、喜んだと思い込んでいても、
4ではなかったりもします。
*********
それでは「感情」を共有したら、どうなのか?
同じように、同じ対象物に対して、頭で理屈を言うのではなく、
心底から、怒り、あるいは笑い、あるいは、悲しむ。
この共感は、『友』をそこに生み出すのか? です。
私の中での答えは、NOです。
私は、感情を他者と同時に共有して、
泣いたり、または大笑いをしたり、激怒したりした、
そうした感情を共有する経験もしてきましたが、
それは、その場の「盛り上がり」としては事実なので否定はしませんが、
『友』とはいえません。
一瞬だけは友だった、というのとも違います。
*********
私の中には、長い間、この『友』という中に、
それが異性であっても、同性であっても、
確かに、『戦友』という、戦争仕立てにする癖が少しだけありました。
何かの目的を遂げるために、小組織または、個人同士として、
協力関係を前提して(つまり「敵ではなく味方」という前提で)、
苦労や、恐怖や、成果をともにする、というものです。
だから、私の中にある一面で、共に戦える女性というのが、
ひとつの理想像としてあったことが過去にはあります。
しかし、それは、自分の過去生の中で、既にもう経験をしたことですし、
目新しいものではありませんでした。
ただ、これが持つ利点は、「手分け作業が出来る」という側面で、
まー、よくある漫画やドラマの世界での
役割分担された、よき組織、・・・・の中の恋愛、のようなものです。
しかし、それを支えているのは、やはり、同じ境遇の共有です。
だから、それが崩れると、とたんに関係は解除されます。
*********
そういう意味で、そもそも、『友』というのは、
そのほとんどが、条件つきのものであり、
何を出来るから、とか、
何をお互いにするからとか、
何の分野の話題を共有しているからとか、そういう事、
それにプラス、自分が相手の性格をどう思うか、
または、お互いの好みとしてどうなのか、ということを根拠として、
同性同士でも、異性間でも、気軽に、
『あー、あの人は友達さ』とか『親友です』とか『マブダチだ』
という「表現」をされているのだと思います。
*********
そういう意味では、小学2年のときのその女の子とは、
「手つなぎ登校の友達」であったのであり、
最初の彼女とは
「頭友達」であったのであり、
二番目の彼女とは、
「ベタベタ、ラブラブ ごっこ」の遊び友だちであり、
その間の人たちは、少し飛ばして、
5番目の女性とは「熟年のラブラブ夫婦ごっこ」をした遊び友だちであり、
12年ほど前まで付き合っていた、6番目の女性とは、
香(インセンス)を探したり、セックスの実験をしまくった友達でありと、
それぞれに、強烈な方向性があったのですが、
ここで、原点に戻ってみます。
その中で、私が、単なる同居ではなく、結婚を考えた二人だけは、
何かが違うのです。
その何かとは、すでに書いたように、
『手を繋いだときに、違和感が何もない』、これなのです。
それがたとえば、どこかで知っている手の感触なのか?となると、
たとえば、手の大きさや、気配の感触は、私の母親のそれとは違います。
温度も、感覚も、違います。
では、何がそれを区分しているのか?
そんなときに、こんなツイートを目にして、腑に落ちました。
↓
>幸せにしてやろうとか、してもらおうとか、
>与え合おうとか、そんな奴らは結婚しても、うまくいかないよ。
>ただ、この人となら不幸でも構わない、って思うけどな
これは、自分で昔、理想とする基準にしたことがありました。
しかし、この基準に照らし合わせると、
楽しいことばかりだった、二番目の彼女とは、
その後、もしも結婚していたら、私自身のその後に向かう探求方向によって、
相手を困惑させたり、不幸にしたかもしれない展開を予測していましたので、
相手の将来を心配する、ということがありました。
5番目の彼女に関しては、彼女の望みの一部は、私にはかなえられないものだった、
ということも理由です。
(彼女は子供を望みましたが、私は今回の生でそれを契約していません。)
というわけですから、もしも、
「不幸になってもいいのが友」と極端な仮定をした場合に限りますが、
そうすると、私の中でも、最も『手をつなぐ』ことに違和感のなかった
その2人すらも、『友』の定義には入らないのです。
もしも、両者がお互いに、
「一心同体」を契約できるほどに、相手に(一時的に)熱を上げたか、
または、つながった手が、そのままくっついて、
途中から、どれだけ相手を嫌いになっても、
そのまま永久に離れなくなっても、それでもいいのか?
この自問にYesと言え、その結果に真に後悔することがないならば、
それがもしかすると、究極的な『友』なのかもしれません。
もしも、『友』というものが、「共に不幸を経験しても良い」と、
お互いに思える関係である、とするならばです。
そういう意味では、それは、他者の中にではなくて、
皆さん自身の中にあるということです。
ただしそれは、どういじっても使いものにならない、AC人格ではなく、
原主体です。
その原主体となら、不幸であっても共に進み、共に死ぬ、
そう覚悟したのが、全自我の人たちです。
前述の引用した言葉は、ここからです。
↓
https://twitter.com/BLACK_TED_TWEET/status/665501917942968320
ちなみに、こんな面白いのもあります。
毒親に向かって、子供が言ってやると良い台詞でしょうね。
↓
https://twitter.com/BLACK_TED_TWEET/status/667548046431940608
ただし、毒親みたいに、こういう新しい時代の格言を
またまた、周囲や自分の子供に言うようになったら、ゾンビになるだけですよ。
それが嫌なら、自分の人生を広げて、雑巾みたいにしぼっってみて、
自分自身で考え出しなさい、ということ。
他人が作った格言に感心ばかりして、調子こいてないで。
別に格言なんて言えても、ちっとも偉くない。
その人たちは、
ただ、言葉を「凝縮加工」するのが、上手かったというだけのことです。
つまり、「上手いこと言う奴」。
それは人間性の良し悪しの問題ではなく、一種の「特技」です。
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