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★分割自我復元★その549●【 「 しん 」 】●
by:
鈴木崩残
2015/12/21(Mon)06:30:43
「 しん 」
●まずは「報告」からとなります。
これに関連する、いろいろな話は、その後、または次回の投稿でします。
崩残 様
いつもお世話になっております。基幹房です。
崩残さんに報告させて頂いてから、一週間が経過しました。
一週間。
たった一週間と言えば、それまでですが、
この一週間ほど充実したものはなかったのではないかと思います。
もちろん、最大のテーマは、自分自身の身体のことです。
この身体というものを通して、身を持って経験させられた、
いや、経験したことはなかったと思います。
この一週間において、最大の転換期は12/15でした。
そして、最大の難関は本日の12/20でした。
まず、12/15の事を書きます。
朝食を食べて、歯を磨いて、トイレに入っている時でした。
その時は、色々と考える事が多い。
あびさんのブログで「初めて泣いた日」という記事がありましたが、
その中に出ていた女性の事を思い出していました。
下記に、その記事の内容について転載します。
>仕事中、お客さんの一人が、帰り際、
>女性のお客さんだったが、
>とても、歩き方がかっこよかった。
>何がかっこよかったか、というと、フォームとかではない。
>はじめてこんなのを見た、と思ったのは、
>その人の身体は、その人の意志に「従って動くことを」
>「なによりも嬉しそうに」喜々として、足腰は動いていたのだ。
>ああ、身体とは、
>こうやって、その人の意志、主に従うことを
>喜びとしているんだ、と見てすぐに理解した。
このような内容の記事でした。
実際は、ここまで詳細に覚えていたわけではなく、ああ、そう言えば、
「身体が、その女性の為に喜んで動いている」
というような事を書いてあったというような事を思い出していました。
とても印象に残っていた内容でした。
このような事を、思い返している時、ふと思いました。
自分が子供の頃、親にしてほしかったこと。
ああ、自分がしてほしかったことを身体にして上げればいいんだと思った。
次の瞬間、、あっと思った。そうだ。そうなのだ。
身体は、身体さんは、私に喜んでほしいといつも考え、
私が喜ぶように、楽しむように、動きやすいようにしたいと思っているんだ。
と思った。
ああ、私の身体は、私の為に動きたかったんだ。
今まで、私は、体調が色々と悪くなる度に、
どうしていつも身体がしんどくなって苦しくなって、私を困らせるんだ。
色々とやりたいことがあっても、
どうして、その時に、体調が悪くなるんだと思っていた。
そして、体調が悪くなる度に、
「ああ、またか」といつもいつも身体が弱い事を責め続けていた。
小中学生の頃から何十年も、そのようにしてきた。
でも、そうではなかった。
身体は、私の邪魔ばかりしてきたと思っていたけれど、
本当は、私を楽しませたり、喜ばせたりしたかったんだ。
それなのに、私は、
いつも私の味方で、私の為に動こうとしてくれていた身体の事を、
悪くばかり言った。
本当に申し訳なく、謝っても謝っても許してもらえないほど、
ひどい事を身体に対して、思ってきた。
そんなひどい事を思う私に対しても、いつも頑張って、
私が少しでも動けるように喜べるようにしてくれていたんだ。
もう本当にひどい事をしてきたね。本当にごめんなさい。
私も子供の頃、そうだった。お母さんやお父さんが怒ったら怖かった。
特にお母さんさんが怖かったけれど、
そして、いつも怒られないかとビクビクしていたけれど、
お母さん、お父さんと一緒に遊んだり、喜んでほしいと思っていた。
でも、僕が思うほど、僕の事を思ってくれなかったし、
僕が、色々と、泣いたり苦しんだりするほど、迷惑そうだった。
いつもおとなしく言う事を聞いてくれる事しか望んでいなかった。
僕が、問題を起こさなければ良かったのだ。
僕の事を本当に優しい目で、
本当に、僕の事を思ってくれたことはなかった。
それでも、僕は、お父さん、
特に、お母さんが喜んでほしいと思っていた。
それと同じように、
私の身体さんも、いつもいつも僕の為に動きたい。
共に喜び楽しみたいと思っていたんだ。
僕の邪魔をする所か、いつも味方でいようといてくれていたんだ。
それなのに、僕はなんてひどい事をしてきたんだ。
本当にごめんなさい。
今まで体調が悪くなったり、症状が出ていたのは、そ
れを教えようと私にしてくれていたんだね。
今まで聞こうともせず、本当にごめんんさい。
これからは、身体の気持ちをしっかりと受け止め、
共に楽しみ、喜び、時には苦しんで行きましょう。
いや、こんな私ですが、
今まで懲りずに助けてきてくれてありがとう。
これからもよろしくお願いします。
今までは、AC人格が、私の身体を支配し、主人であったが、
もうAC人格の良いようにはさせない。
これからは、基幹房としての私が主人であるからね。
AC人格に2度と入らせないよ。
「AC人格よ。ついにお前の一番大事なものを奪ったよ。
ていうか、元々、この身体は、私にとって、とても大切なものであり、
取って代わることができないものであり、元々、私のものです。
二度とAC人格のお前に渡したりはしない。
もうお前の居場所はないぞ。」
意識、心、体が、やっと一つになったような気がした。
このような思いで、次の日から、新たに臨んだ。
実際、会社に行く途中、または、会社からの帰り道、
同じような景色を見ているのですが、
何だかとても新鮮に見えました。
それもそのはず。
この身体という乗り物の運転席に、やっと、私が座れたのですから。
その運転席から、
この身体の眼や耳、皮膚等を通して、景色を見ているのですから。
そして、今までとは違い、
新たに、充実して楽しく過せるようになってきました。
そうは言っても、実際に、仕事を始めると、どうしても睡魔が襲ってくるのでした。
「さあ、今日も、仕事を頑張るぞ」と思うのですが、
その思いとは逆に、いざ仕事をしようとすると眠い。
眠くてたまらなかった。
今まで、仕事をしてきたけれど、
ここまでひどい睡魔が襲ってくることはなかった。
どんどんとひどくなっていく。どうしたことか」。
でも、しばらくして、すぐに理由は分かりました。
今までAC人格がほとんど、この身体を使ってきた。
そして、私がガンガンと仕事をやりたいという気持ちを攻撃してきた。
身体としては、主の為に動くというのは、当然のことであるので、
仕事中、眠気をさせたりして、
私のやる気を削いでいくのは、自然なことであった。
その癖が、まだ残っていたのだ。
今まで、長い間、身体さんとしても、それでやってきたわけだから、
そう簡単に、その習慣を変えられるものではない。
私自身も、AC人格を分析して、何が問題なのかが分かって、
その悪癖を変えていこうとしてきたが、
長い間に染みついた悪癖を変えていく事は、とても大変だった。
それは、身体さんにとっても同じなのだ。
そして、また、急に主人が代わって、身体さんもまだ慣れていないし、
まだ迷っていると思った。
そこで、私は、宣言することにしました。
「身体さん、これからの主は私です。基幹房です。
AC人格ではありません。
私が、この運転席に座って
あなたと共に動き、生きていきたい。
だから、よろしくお願い致します。
2度とあなたを裏切ったりしません。
だから、AC人格の言う事を聞く必要は、まったくないです。
無視してください。
まだ、この乗り物にAC人格はいるが、
いずれ、私は、彼らを追い出します」
このように決め、宣言しました。
そして、次の日からも、
体調が悪くなったり、色々な症状が出たりとしましたが、
その度に、身体と会話しながら、
どうしたらいいのか、どうしていったらいいのか等とやってきました。
時には、症状に引っ張られそうになったりしましたが、
今までと違って、常に身体と会話できるようになってきました。
そして、12/18の頃には、次のように思うようになってきました。
身体=心体
心と体の使い方を、経験しながら、習得していっている。
今までAC人格がほとんどこの心と体を使っていた。
だから、この使い方に関しては、むしろ、このAC人格の方がよく分かっている。
しかし、AC人格はいらないし、もうまっぴらだ。
だから、私が使ってゆく。
でも、今までやったことがなく、
本来なら、子供の頃から、AC人格ではなく、
この私と言う本心と共に、使い方を習得していくはずだったが、
結果として、そうはならなかった。
だから、今、一からやり直している。
まさにゼロからのスタートかもしれない。
だから、体調が悪かったり、仕事中、眠かったり、痒みが出たりと、
今までなかったような事を経験しているが、
これでいいのだ。
昔よりも状態がひどくなっているように見えるが、
ここからがスタートだ。
今、色々とできないのは、当たり前と思った。
新しい人格を作って、仕事も良くできるようになって、
今までと違う新しい自分が出てきて、喜んでいた。
とても嬉しかったが、その時は、身体の事を考えず、
なかば強引に身体を使って無理やりやっていたのだ。
そんなことは長く続くはずもないし、
それでは、身体の細胞たちが悲鳴を上げて当然だ。
その結果、どんどんと体調が悪くなってきたのだ
次の日の12/19ですが、週末の土曜日の休みでした。
ここ最近の週末の休み同様、
また、体調がとてもひどくなってしまいました。
前日の金曜日の夜から前兆があり、その日は、余り残業せず、
19時ごろには、仕事を切り上げ、早く帰宅しました。
しかし、一晩寝ても、回復せず、その日の朝から、頭痛がしたり、
とても体調が悪く、いったんは、朝のゴミ出しの為に8時前には起きましたが、
ふらふらして、起きていられず、10時半ごろまで寝ていました。
朝ご飯を食べると言う事で、妻に起こされ、
しんどい身体を引きずりながら起きました。
食事を終え、珈琲を飲んだ為、少しは回復しましたが、
しんどくて外出する気分にはなれませんでした。
でも、その日は、毎月2回通っている鍼灸マッサージ治療の日でありました。
余りにもしんどくて、一時は、キャンセルしようかと思いましたが、
次のように思い直し、行くことにしました。
「身体はしんどくて、とても外出する気になれず、
今日は、とても外が寒いので、正直、行きたくない所だが、
今週も、身体さんは、仕事を頑張ってくれた。
だから、身体を引きずってでも、身体の為に行こう」
このような思いで、外出しました。
結論として、実際、行って本当に良かったと思いました。
そして、治療に行く途中、次のように思いました。
今、こうして、体調が悪くなることが多いが、
これでいいのだと思った。
今、身体が頑張ってくれているのだ。
色々な症状が出て苦しかったり、しんどかったりするが、
これが、今の私の身体であり、大切なものであり、
この身体があるからこそ、こうして歩いたり仕事したりできるのだと思った。
とても嬉しかった。
それと、私は、仕事ができるようになりたいとか、
身体が健康になりたいとか思っていたが、
それはそれで、そうなったらとても嬉しいことであるが、
今のこの身体、心というものを通して、
そこから出てくる反応や経験を味わうということ。
その感覚を味わうと言う事。
今、それを感じているし、これで良いのだと思った。
なぜだか楽しかった。
また、治療が終わって、家への帰り道でも、思いました。
今の私は、この自我、この身体の中にいて、
そこで安心しながら、この世界というものを見ていると思った。
楽しかったり、苦しかったり、しんどかったり、
嬉しかったりというような感情が色々と出てくるが、
今、それを楽しんでいると思った。
身体の症状が出て体調が悪くなり、つい、それに引っ張られ、
中心からはずれそうになったりすることもあるが、
この今を楽しんでいられる事が
一番、幸せではないかと思いました。
このように思いながら、帰宅しました。
でも、体調自体は、それほど回復していませんでした。
一時的には、治療したおかげで、少しは良くなりましたが、
夜を迎え、また、だんだんと体調が悪くなってきました。
そして、一晩寝て、本日の12/20の朝を迎えましたが、
治療の効果はどこへやら、昨日の土曜日以上に、体調がひどくなり、
冒頭に書いた通り、最大の難関を迎えるのでした。
今朝から、頭が割れそうでとても痛く、さらに体調がひどくなっていました。
それで、起き上がることができず、9時半ごろまで寝ていました。
妻が私の部屋に入ってきて、言いました。
「まだ起きないの。
今日は朝食をパンにしたいから、パンを買いに行くって言ってたじゃない」
でも、私は、
「ごめん。体調が余りにも悪くて、パンを買いに行けない」
それで、妻は、
「分かった。ご飯が残っているので、焼き飯でも作るわ」
と、このように、いったんは言いました。
このまま寝ていても、頭痛がひどく、体調がひどくなるばかりでしたので、
無理やり起きました。
起きてからも、身体がふらふらして、どうにもなりませんでしたが、
「このまま寝ていても、回復しないので、無理やりにでも動こう」
と思い、顔を洗ったり、ちょっとしたストレッチをしたりしていました。
そうしている内に、少しずつ回復してきて、気分も良くなってきたので、
「ちょっとでも身体を動かした方が、良いのではないか、
身体も、そのように言っている気がする」と思い、妻に言いました。
「やっぱり、パンを買いに行くよ。
少しでも外に出て、身体を動かした方が、良いから」
そして、外出し、ちょっと散歩がてら、
銀行に行ったり、パン屋さんに行ったりしました。
結果として、実際、それで、体調は良くなってきました。
パンを食べ、珈琲を飲んで、少し休憩をしていました。
私の場合、昔から、食後は、少し眠くなったり、
しんどくなったりすることが多いです。
それで、今日も、食べてから、少し眠くなり、
少ししんどくなってきました。
話が少し逸れますが、ここ最近、
週末になる度に体調が悪くなっていましたが、
後から分かった事ですが、
その大きな原因の一つとして、
週末の休みの日は、気が緩み過ぎてしまうからということでした。
そこへ、AC人格が付けこんできていたということです。
つまり、仕事がある平日の場合は、ある意味、仕事があるので、
なかば強制的に仕事に行かなければならないと思っていて、
いつも気が張っていて、それほど気が緩んでいない為、
AC人格としても付け入る隙がない。
しかし、週末は、仕事もなく、ある意味、自分の自由ですので、
どうしても気が緩んでしまうし、そういう自分を良しとしていた。
そこへAC人格にまんまと付け込まれたのではないかと思っています。
だから、今後は、仕事だろうが、プライベートだろうが、
いつも気が張っている必要があると思いました。
いつもいつも気が張り過ぎていては、ダメですが、
私の場合、気が張っている時と気が緩み過ぎている時の差が激しいことに気づきました。
この辺の所は、もう少し、バランス良くやっていくことを
学んで行く必要があると思っています。
話を戻しまして、
昼からは、崩残さんに報告する為、報告文を書こうかと思っていたのですが、
食後、少し眠くなり、しんどくなったので、
少し横になろうと思い、昼寝をしました。
心の中で、次のような声が聞こえていたのは、少し感じていたのですが、
睡魔の誘惑にかられ、
つまり、AC人格の声に負け、寝てしまいました。
「こういう場合、ちょっとしんどいが、
気分転換の為、お風呂にでもゆっくりと入った方が良いのではないか」
そのまま、何時間か寝ていました。
実際は、目が覚めたり、寝たりの繰り返しでしたが、
目が覚めるたびに、頭痛がひどくなっていて、
体調がさらにひどくなるのを感じ、起きることもできず、
そのまま横になっていました。
そのまま横になりながらも、眠る度に、身体が良くなる所か、
体調がますますひどくなるばかりで、
ついにとうとう、寝ることもできないくらい、頭痛がしてきて、
体調もひどくなり、とりあえず、起きました。
起きたのはいいのですが、頭痛がして頭が割れそうで、
身体全体も重く、身体を思いうように動かすこともできず、
そのまま、どうすることもできず、
ただ、苦しくてしんどくてうずくまっていました。
そのような身体の状態を味わいながら、経験しながら、
色々な思いが出てきました。
「体調がひどくなるばかりだ。
このまま回復しなかったら、どうしよう。」
「このまま回復しなかったら、仕事にも行けないな。どうしよう」
「このまま体調が、どんどんひどくなって行ったら、自我復元どころでもないな」
このような否定的な妄想も出てくる始末でした。
AC人格の声だと言う事は、十分に分かっていましたが、
体調が、ひどいままでは、どうすることもできませんでした。
今、思えば、もうまさに、AC人格に翻弄されたままの状態でした。
でも、夕方の17時半頃だったと思います。
ふと思いました。
自我復元のことについて思いました。
昔、確か、桜の間に書いていたと思うのですが、
少なくとも100人以上は自我復元を続けてきているのだと思います。
しかし、一線を超えて、全自我となった人は、わずか3人しかいない。
恐らく、私も含めて、全自我直前の人達は、何人もいるのでしょうが。
今だに超えられていない。
この一線を超えた人と、そうでない人の違いは何だろうかと考えました。
ふと、突然、出てきました。
「命がけ」
そうなのだ。
相手のAC人格も命がけなのだ。
向こうだって、必死なのだ。
そうりゃあ、そうだ。
AC人格解除を目指して、今、やっているが、
つまり、それは、AC人格を殺すと言う事なのだ。
改めて、そう思いました。
奴らだって、死にたくないのだ。殺されたくないのだ。
当然、私だって、そうだ。
奴ら、AC人格の手口は、もう十分に分かった。
だからと言って、AC人格を殺せたわけではない。
向こうだって、死にたくないし、
もう全力で、死に物狂いで、私に立ち向かってきているのだ。
だから、ここまできたら、戦略とか、分析とか、そういうものではない。
向こうだって、なりふり構わず、必死で、私に攻撃してきているわけだから。
時には、つかみ合いになったり、
力づくで、相手を封じ込めなければならないこともある。
今、やっているのは、AC人格との心の中の闘いであるが、
実際の本当のリアルな場面で、
双方、自分の命がかかった争いになったら、
格好良いとか悪いとか、周りがどのこうのとか何もないだろう。
それぞれが、相手にやられたら、
自分が殺され死んでしまうわけであるから、
もうそれは、なりふりなんか関係なく、それは、もう必死だろう。
それと同じように、
AC人格もなりふり構わず、必死なのだと思う。
AC人格を十分に追い詰め、奴らもかなり弱っていることと思う。
だが、弱っているだけで、死んでしまったわけではない。
むしろ、追い込まれているわけだから、
それはもう、全力で、私に戦いを挑んできているのだろう。
実際、身体を通して、そうなってきている。
今の体調不良の半分以上、AC人格の攻撃であると感じるからだ。
私が最も堪える、最もやる気を無くす、身体の症状を通して、
AC人格は攻撃してきているのだ。
そして、現時点で、この身体の使い方については、AC人格の方が熟知している。
私の方は、ようやく自分の過ちに気づき、
この身体の主人として、この身体の特性や使い方を身体と会話しながら
習得していっているところだ。
だから、この身体ことについては、AC人格には敵わないのだ。
私が奴らに勝つには、もう戦略とかではない。
「命がけ」
このAC人格との闘いは、私も命がかかっているのだ。
そして、もう最後の最後は、戦略でも、分析でもない。
力づくでも、AC人格を倒す、殺すというものが必要なのだ。
確か、あびさんもブログで書いていた。
この「命がけ」ということにおいて、
どちらが勝るかが勝負の分かれ目なのだ。
AC人格も命がけで、攻撃してきている、ということに対する、
認識、理解が、非常に甘かったということに気づきました。
このように考え、思っていると、
私の心が、身体にに反応したのでしょう。
今まで、余りにも体調が悪く、身体がほとんどまったく動けなかったのですが、
次のように思いました。
「身体が動く。動ける。」
私の心がそう思ったのと同時に、身体もそう言っているようでした。
実際、本当に、少しずつ、身体が動き始め、
それに伴い、体調も回復してきました。
AC人格との闘いを抜けた瞬間でした。
冒頭でも書きましたように、本日の12/20は、最大の難関でした。
AC人格も、命がけで闘ってきている。
このことに気づかなければ、
今でも、AC人格にやられたままの状態で、体調が悪いままであったと思います。
今週の一週間は、しんどかった。
特に、週末から、今日は、もう本当に苦しくしんどかった。
でも、冒頭でも書いたように、
充実していて楽しかったとも言えます。
でも、でも、一番苦しかった、今日、
一番大事なことでないかと思えることに気づけたことは、とても嬉しです。
「命がけ」
肝に銘じ、
いつ終わるとも分からない、AC人格との闘っていきたいです。
いや、必ず、絶対に終わらせます。
つまり、AC人格を殺します。
元々は、奴らは、生まれるべきはずのものではなかったのだし、
いつまでも生きているべき存在でもないですから。
それゆえに、奴らも、その事が良く分かっているがゆえに
もう必死だろうから。
元々いた私が、この自我の、この身体の主人であるのだから。
「命がけ」ということ。
また、絶対に、諦めないと言う事。
これさえ、忘れなければ、負けることはないのですから。
また、奴ら、AC人格を作り出した責任も私にあるのだから、
この私の手で抹殺するのは、当然だと思っています。
以上で、今回の報告を終わりたいと思います。
では、またメールさせて頂きたいと思います。
*********
■ あび さんの
「年内中」毎日更新される「日記」 も参照ください ■
http://mmjhb11.exblog.jp/22676064/
http://mmjhb11.exblog.jp/22679346/
http://mmjhb11.exblog.jp/22683733/
今回は、タイトルではなく、俳句にしました。
うらをみせ おもてをみせて 舞う 大気
原文は、良寛の、有名な一句である、
「裏を見せ 表を見せて 散る もみじ」です。
あびさんの今は、散るもみじ などという侘びさびの世界ではなく、
散るのではなく「舞っている」ように感じたので、そこは改変。
しかし、最も私が改変したのは「大気」です。
「もみじ」には、人が強いてそこに、
裏と表があると思えば、そこには裏と表がある。
だから良寛は、「枯れ葉に、裏も表もないこと」など重々承知の上で、
世の中の人たちが、その頭と常識で見ている、裏と表というものを、
木の葉が落ちるときに見せる「変化」として詠った。
枯れ葉は、あるがままで、裏も表も意識せず、ただ自然に散ってゆく、
その「情景を描写する句」の中に、良寛の感性と境涯を託したのだった。
●しかし、あびさんは、今、舞っている。
枯れて落ちてゆくのではない。
逆に、花が咲こうとすらしている。
ならば、うらをみせ、おもてをみせて、舞う「さくら」でもよかろう。
誰もが、目にはしているが、気づかない、さりげない風景、
それを良寛が詠ったときには、それは一枚の「枯れ葉」に託された。
しかし、私が見ているあびさんは、そういうものとは異質です。
だから、「大気」としました。
とてもシュールで、意味不明の句だと思います。
「うらをみせ おもてをみせて 舞う 大気」
そもそも、大気に、裏も表もなかろう。
というより、仮に裏と表がそこにあっても、目に見ることは出来ない。
その裏表のない大気、裏表の区別の見えないが、
つむじ風となって、枯れ葉を巻き上げている。
そもそも、表も裏もない大気の気流を、
あえて、「そこにない、うら おもて」 をつけて詠いたくなった。
それが最近のあびさんのブログなのでした。
私個人にとってですが。
*********
この今回の桜の間の投稿のタイトル、ですが、
言霊としての「しん」には、いろいろな漢字があてはめられます。
身
芯
心
真
親
信
清
伸
進
秦
神
紳
審
辛
深
浸
診
「しん」は意味深いですね。
________________________________
★
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