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★分割自我復元★その560●【強烈さというもの】●
by:
鈴木崩残
2016/01/03(Sun)10:31:45
「強烈さ」というもの
●「強烈さ」という言葉を目にすると、皆さんの中には、すぐに、
「強烈なんて、あんまり経験していない」とか、
「強烈なんて、今どき、ダサい」とか、
「強烈さなんて、やりたくない」とか、
そうした強烈さに対する嫌悪や軽蔑が生じる、と同時に、
「強烈な快感」と私が書くと、興味を惹かれてしまったりします。
●つまり、受動的なら強烈な何かが得られたらラッキーだねー、
でも、自分から強烈になるのは、嫌だねー、
と、どこまでも、その人たちは怠け続けたいのかと、私は頭をひねります。
●しかし、強烈さというものが、確実に持つ「効能」というものがあります。
たとえば、走るのが嫌いな人もいるでしょうから、
100m走を例にするのは、良いか悪いかわかりませんが、
速度を0.2秒縮めるためにはどうすればいいか、というものは、
100mを、15秒で走ろうが、17秒で走ろうが、どうでもいい、
と思っている人には、どうでもいいことです。
しかし、何事にも、ギリギリのラインというものがあり、
そのギリギリのラインを超えられるかどうかになるほどに、
ちょっとした工夫とか、ほんのわずかな力の使い方や、
あるいは、もっといえば「組み合わせ」というものの妙があります。
●調理をする人ならば、微細な味の変化を出すのに、本当に、ひとつまみとか、
または、数粒という、ものすごく僅かな量の調味料の調整が
大きな味の差になるという事例でもわかると思います。
●こうした、力や素材の「組み合わせ」というのは、
ある「目的」がしっかりとしている時にこそ分かります。
逆に言えば、自分が何をしたいのかという目的そのものが、
漠然として、なんとなく、なのであれば、
物事の「変化」というもの、「違い」というものは分からないのです。
●個人的なことで、わかりにくい説明になると思いますが、
私は若いころに、いろいろな魔術に手を出したことがあります。
魔術といっても、東西いろいろです。
それこそ、「雑誌のムー」に出てくるようなものは、
その後、専門書を手に入れて、関心を持ったものは、かたっぱしからです。
最終的にそれらは、自分流にアレンジされた単純な方法に落ち着いたのですが、
それを使う場合に、何かの儀式とか、または何かの行為、何かの集中、
そうしたものをして、そのまま「何か起きないか?」などと放置しても、
何も起きません。
幾度となく経験したことですが、
自分で決めた、特定の儀式とか、集中的な行為というものは、
それをした後に、激しく「運動する必要」があります。
これは身体運動という意味ではなくて「動き」です。
●なので、私は、そうした魔術的なことをした直後は、
出かけたり、人に会ったり、あるいは何かを、でたらめにはじめたり、
とにかく、動いたのです。
それによって、思うようになったからならないか、
ということが問題なのではなく、
何が起きるか?ということは、待っているものではなくて、
動いている時に、その変化は自覚されたり、認識できるということです。
●こんな当たり前のことでも、このことを無視している人が多すぎます。
たとえば、あなたがダイエットをしたとします。
食事制限したり、運動したりと。
しかし、その結果、体重計に乗って、鏡の前で自分のスタイルをチェックして、
それでおしまいの人すらいます。
しかし、その効果が分かる、あるいは、何種類かのダイエット法の
「違い」が分かるのは、あなたが、いろいろな「行動」をしたときです。
走る、歩く、もっと複雑な運動をする、など、
動いたときに、違いが分かります。
別に力説するまでもなく、当たり前のことです。
何かの儀式や瞑想をして、じっとしていて、自分の気分が変わったり、
自分に何か起きないか、なんてものはありえません。
●「強烈にやらないと、違いが分からない」
このことが、自我復元にも言えます。
この場合の強烈にやるとは、自我復元の儀式そのものではなくて、
トラウマ掘りでも、AC人格分析でもそうですが、
目的によって方向づけされたベクトルがないと、
そもそも、効果があるのかないのかすら分かりません。
●この違いが、「中心で休む」という技法にも言えるのです。
報告の中には、「中心で休む技法が心地よいです」とか
ほんとうに馬鹿なことを書いてくる者もいました。
いわゆる、こういう人間は、薬中とか、アル中とか、あるいは、
何か瞑想ごっこをして、その時だけ現実逃避できればいいだけで、
家族や、仕事で他者に対したら、とたんにAC人格丸出しになる、
そういうタイプの人たちです。
●「中心を探り、中心に休む」という技法が、
作用したことを、明確に自覚できる人には特徴があります。
それは、トラウマ掘りにしても、AC人格の自己分析にしても、
「それを捨てたい、葬り去りたい」という強烈な意志と目的が明確です。
口で「明確です、したいです」と言ったり書いたりするのではなく、
自問して、本当にそうしたいのかどうかを自己確認すること。
●すると、本気で、強烈なほどに、
トラウマ掘りや、AC人格に向き合っている人の場合には、
「中心を探り、中心に休む」という技法をやってからしばらくすると、
そのトラウマ掘りに、相当の違いが生じていることが分かります。
ただし、その違いとは、
強烈にトラウマ掘りをしている人であれば分かるのですが、
そうでない人には「なんとなく、落ち着きました」という
自己暗示に終わるだけなのです。
そんな報告も数個見まして、
やっぱり、この人は何やっても本気じゃない、中途半端だと私は思いました。
誰でもそうでしょうが、
そういう人たちが、一時的にでも、本気になって、何かが頭から離れなくなるのは、
他人から馬鹿にされた時の怒りや恨みぐらいなのだと思います。
●そもそも「中心を探り、中心で休む」という技法は、
通常、身体に自己同化していたり、もっといえば、
通常、自分が考えていること、考えている内容が、
そのまま、それが自分自身であると思っている状態に対して、
視点の軸が、脳の中心部に引き下がることによって、
自分の思考それ自体が、客体化されて、そこに「距離が出来る」、
ということを狙っています。
しかし、ここで、いわゆる精神世界や瞑想をかじった馬鹿どもは、
「そうそう。距離が出来るんだ。これでいいんだ」と、
思考との間に、つかの間の距離感が出来たことだけで、
そこで、「これで、いいんだ」になってしまいます。
問題は「距離そのものの存在」なのであって、
「距離感」を自覚することではありません。
●この中心と思考または、中心と感覚の距離が、
本当にその本領を発揮するのは、
強烈なまでに、目的としたものごとへ、自分が意識的に向かっている場合、
特に、トラウマ掘りや、AC人格をどうにかしたいという「動き」が
明確で激しい場合、
この場合にかぎって、
中心と、中心以外のものの間に距離が出来た瞬間を、
「これでいいんだろう 確認AC人格」の餌食にすることなく、
その距離が出来た瞬間に、
トラウマやAC人格に気づくということが起きます。
つまり、気分が落ち着くだの、感情的ならなくなったとか、どうのこうのだの、
そういう、明確な結果も出ていないような、そういう自己陶酔が基準になるのではなく、
明確な結果が出ること、
今までやってきたことなのに、そこに、明確な違いが出る、
それが本来の「技法」というものなのです。
●それは、やっておしまい、あとはご利益や心境変化を待つだけ、
などという、そんなふざけたものではなくて、
何かの強烈な動きや、意志した方向へ進んでいる人にとってだけ、
歴然とした「違い」が体験できるようになっています。
だからこそ、ねんがら年中、実力もないのに虚勢を張ったり、
言葉だけが「自分は〜〜せねばならない」と言っているのではなく、
その人の、「存在の全体」が、「強烈さ」を持っている、
そういう状態の人でないと、
「中心をさぐり、中心に休む技法」は、それが持つ力を発揮できません。
●その点でいえば、なぜ、それが効果的にその人に作用する人と、
作用しない人がいるかを、理解できるはずです。
お姫ちゃん、強烈ですよね。
マディアさん、強烈ですよね。
あびさん、強烈ですよね。
朱いはがねさん、強烈ですよね。
基幹房さん、強烈ですよね。
方向性が危なっかしかったりするところは、まだまだあっても、
無干さんも、エムさんも、ある意味で、強烈ですよね。
問題は、感情が強烈であるとか、行動的であるとか、
そういう見かけ上のことではなくて、「真剣さ」、がありますよね。
まだ、それが、ようやく芽吹いた段階だとはいえ、
十記丸さん、垂鶴さんも、向かっているところはブレていないです。
これがまず基礎としてある人には、「中心を探り、中心で休む」という技法は、
それによって何かのスイッチが入った瞬間に、
突如として、状況や状態が変わります。また、それに気づきます。
なんとなく、とか、復元の報告のために捏造したり、
自分の経験を、自己暗示的に誇張したものではなくて、
あきらかに、それは、「ただでは済まない」作用をします。
●だから、これは
「中心」という「瞑想の効果を確認する」のが目的なのではなくて、
それによって、トラウマ掘りや、AC人格の抹殺や放棄、
関心地図や、知覚や、認識に、どういう変化が起きるか、
それこそが、私が見ているところなのです。
*********
この世界で、人間がやることの、大半は、
AC人格に基づいていることが多い。
だから、やることの大半は、
それが上手くいかなかったときに、「犬死」に終わることも多い。
本当に、ただの無駄。ただの犬死。
それは、動機が、AC人格なのだから、当たり前です。
失敗したら、ただの犬死です。
●ただ、トラウマ掘り、AC人格との格闘、
これだけは、仮に、途中で挫折したとしても、
犬死だけにはなりません。
むろん、それに甘んじて、
「どうせ、私には無理だったんだ。どうでもいいや。」
となる人も沢山これからも出るでしょうが、
それでも、掘ったか、掘らないか次第では、犬死にはなりません。
掘っている動機が、他者承認、掘れているのを見てよ、偉いでしょ?
これなら合格ですか?のAC人人格では、どうしようもない。
掘っている動機が、
自慢や、他者への見下しや、競争心、それでは、どうにもならない。
しかし、その、どうにもならない、不純な動機によってでさえも、
トラウマ掘りや、AC人格の抹殺の意志というものは、
犬死にはならない。
なぜならば、
過去というものは、誤魔化すことは出来ないから。
現実に起きたことは、
記憶を摩り替えることや、わざと見ないことは出来ても、
そこには「物的証拠」があるのですから。
その「毒親の犯罪の証拠」が詰まった自分の記憶を開こうとしたこと、
それをしたことがあれば、
その後、その人が、死ぬまでの間に、
いつか、どこかで、それを洗いざらい、調べないことには、
何をしても、どうにもならない時が来ることがあります。
だから、トラウマ堀の、動機や、やり方そのものが、
AC人格のそれで、大間違い人は、何人もいました。
しかしそれでも、
それを放置したら、どうなるか、
それぐらいのことは、認識したはずです。
だから、犬死だけにはなりません。
たとえ、無気力さと無関心さの中に落ち込んでも、
諦めないことです。
無駄にはならない。
犬死だけはしなくて済む。
これを、はかなく、弱々しい、
ワラ、一本のような、かすかな希望にしてもいいです。
それでも、諦めないことです。
掘り続けることです。
>自我復元は、毒親を知ることから始まり、
>毒親を知ることの連続の末、毒親を知ることで終わる。
>これ以外、あってはならない。
>なぜなら、私がここで何をしてきたのか、
>そして何を完了させようと治療を続けてきたのかというと、
>「解毒」
>これ以上でも、これ以下でも、これ以外でもない。
あびさんの結語である。
私が追記するならば、
自我復元とは、毒親に殺された自分を、そのまま見殺しにするか、
それとも、毒親に殺された自分に、奇跡の復活劇を、自分の手で実現するか、
もしも、これが、そういう「ゲーム」だとしたら、
救出するゲームにする、と決意するほうが、
一生をかけてもする価値のある、アドベンチャーに決まっている。
毒親の呪縛に負け続けて、自覚、無自覚に関らず、奴隷になる、
そんなことは、たとえゲームとしてすらも、面白いわけがない。
あなたは、そんな映画や、ゲームやアニメを、楽しめますか?
そんな奴隷になるだけの展開になるゲームが、楽しめないんだったら、
そんなことを、自分の中に、いつまでも見続けたり、自分に強いるのはやめて、
「自己救出ゲーム」をするのが、面白いに決まっている。
そのほうが、本気になれるに決まっている。
つらいし、困難に決まっている(それだから冒険なのだから)
そして、自己救出ゲームのほうが、やりがいがあるに決まっている。
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