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★分割自我復元★その597●『意識を変容させる病の条件』●
by:
鈴木崩残
2016/04/10(Sun)08:41:50
意識を変容させ得る病を
準備する事は難しい
■今回の入院中の経験で、核になるものがこれであったので、
もう少し、考察と整理をしておくことにした。
ただし、こうしたことを意図的に(計画して/意図的に)体験することが
難しい理由を書いておく。
■まず、必要とされる苦痛の種類に制限がある点が難関となる。
たとえば、骨折やその他の物理的な苦痛(暑さや寒さ)といったものは、
極端にならないと、全身および脳にダメージがない。
つまり、局部的な怪我などは、痛感としては痛いかもしれないが、
脳とは距離感がある。
つまり、痛みと戦う脳は、まだ健在なままになることが多い。
しかし、炎症系の病、
たとえば、肺炎や、
化膿によって発熱する、
毒物による中毒症状、
こうした症状は、その結果として、
「めまいなどで、歩けなくなる」
「吐き気に見舞われる(実際に嘔吐する)」
「痛みが和らがず、ろくに睡眠が取れない」
といった症状を人間に引き起こす。
これがもたらすものは、脳がかく乱されるために、
日ごろ生活で自分をコントロールと思っていた、主体の意識を朦朧とさせ、
その主体そのものにダメージを与える。
一向に、和らがない痛みや、
這うようにしか歩けなくなる、そうした自分の症状に対して、
徹底的な「無力感」を経験することになる。
痛みや苦痛以外には、知覚や意志に、何も入り込まない、
という状態から出られない状態が、
少なくとも、3日から7日ぐらい続くと、
その間に、次々と駆逐されてゆく「虚構の世界」というものがある。
(その駆逐のもたらす認識は、「日常とは妄想に過ぎない」ということ)
■ところで、桜の間にも書き記したように、去年2015年に、
私がよく考えていたのは、
「そもそも、生きているとは、どういうことを意味するのか?」であった。
そのひとつの結論は、単純なことだったが、
「死ぬとなくなる」が、
「生きている時には、あるもの」として確かなものだったのは、
「息をしていること」と、
「重力の感覚や平衡感覚」というものだった。
それゆえに、病が悪化してきて、
その息(呼吸)と、平衡感覚に、異常が生ずるというのは、
いわば、生きている状態のもっとも根幹に異変が起きることである。
今回、入院中の半分ほど、私は酸素チューブをはずすことを許されなかった。
血中の酸素濃度が低すぎたらしい。
そして実際に、家にいた、最初の5日間の最悪の症状のときも、
呼吸も苦しかった。
●この、脳や意識を直撃されて、めまいで歩けず、吐いたり、
息が苦しくなる病というのは、それ自体は、別に珍しくも何ともない。
皆さんが、誰でも経験してるものである。
普通の風邪であっても、
何も薬を飲まず、放置しておけば、悪化し、
時には、死ぬほどのところまで行けるものであるし、
あるいは、そのまま寝ていたら、治ってしまうかもしれない。
肺炎であれば、何もせずに放置すれば、悪化して死ぬか、
または、体のどこかに、重い後遺症を引き起こすことにもなる。
■なので、もしも、
その後身体がダメージを受けるというリスクを覚悟で、
私が言うところの、
「病の持つ効能(意識変容効果)」を「試したい」のであれば、
風邪や肺炎になったときに、わざと治さずに、
薬を飲まずに放置すれば、何らかの悪化をするとは思うが、
そのまま、その意識変容するゾーンへ必ず移行できるという保障は、
全く何もありません。
寝ていたら直ってしまう(残念な結果となる)ことも多いだろう。
あるいは、ただただ、苦しんで終わるだけで、
臓器のどこかを壊して、その後、その持病を持ってしまうか、
そのまま悪化して単に死んでしまうか、ということもありえる。
ちょうどよい強さの苦痛が、
絶えることなく数日間、そのレベルが一定に維持されるように
わざとコントロールすることなどは、とても難しいだろうと私は思った。
■少し前の投稿で書いたように、
その苦痛は、自分を自殺に追い込んではならず、
また、痛みによる気絶が頻発するようでは、強すぎるからである。
苦しむだけ苦んで、しかし、死にはしない。
死ねる見込みも、なさそうだが、
気絶や鎮痛剤によって、その痛みから逃げることもままならない。
この苦痛の「力加減」を、数日間、維持することは、
それをもしも、意図的にしようとすると、非常に難しいものになる。
■あびさんの場合には、自宅で一人で耐えていたために、
そうした事態に陥ったということが、あるだろう。
私の場合には、もとより、今回のような経験をする気は、さらさらなく、
当然に、最初から、悪化など望んでもいなかったので、
病院に運び込まれた段階で、
「これで、ひとまず鎮痛剤で苦痛ぐらいは軽減されるだろう」と、
ひと安心したのである。
その時点では、私は、さっさと治そう、という気であった。
ところが、そこが誤算となり、鎮痛剤や解熱剤が効かずに、
痛みがひどくなる数日間があったために、
結果として、今回のような経験を出来たのであり、あくまでも、
それは、不幸中の幸いだったと言える。
たまたま、運が良かったのである。
意識が変容してしまうような、微妙な領域の「苦痛」に踏みこむのに必要なのは、
分かりやすくまとめると、
その痛みを意識している主体を、
徹底的な無力感に突き落とすほどの、
下がらない発熱、
全身の脱力、
痛みの増加、
めまい、吐き気、平衡感覚の喪失など。
これらを引き起こせる病は、
ありきたりなものでは、風邪や、肺炎。
その他、いろいろな身体内部の「炎症」による全身のダメージ。
毒劇物による中毒や、化膿によって炎症の影響が血液中から全身へ回る。
何かの内臓疾患、そして脳障害、などだろう。
なので、必要な病の種類は、ありきたりなものなのだから、
世の中のどこにでも生じ得るだろう、と思いきや、
その苦痛を、一定の強さのまま「上手く継続させよう」とすると、
難しくなるのである。
******************
■おかしなもので、人間でも、他の生き物でも、
常に「苦痛」というものは、確実に「快感」よりも勝っている。
苦痛は、何時間も、何日も、続く。
何のバックアップもなしに、それは勝手に、何時間も何日も続く。
苦痛、特に「身体の感覚に起因する苦」は、
一生の間で、延べにしたら、何千時間も、何万時間もあるかもしれない。
夏の熱帯夜だって、長く続けば、苦痛である。
怪我だけではなく、
かゆみだって、長く続くと精神的に参るものだ。
空腹も続く。
悪寒も続く。
痛みも続く。
吐き気も続く。
めまいも続く。
とにかく、苦痛というのは、
楽々と、何時間も、何日も、続いてゆく。
■では、皆さんに尋ねますが、
皆さんが、これまで経験した、「身体的な、強い苦痛」は、
絶対的なまでに、「安定」していて、
本人の気の持ち方などに、全く関係なく、
何時間も、何日も発生し続けるのに、
なぜ、そういう「快感」または「幸福」がないのか?
そのことをどうして、
不自然で、理不尽で、不公平に思わないか?ということです。
●病気だと、何時間も、何日も、何週間も、
ときには、何ヶ月も、苦痛にさらされることがあるのに、
幸福や、快感ときたら、ほとんどすべてのものが、
一瞬か、数秒か、せいぜい数時間。
あー、幸福だなと、あるいは、気持ちの良い日だ、気持ちのよい場所だなと、
そう感じるのは、いったい、何秒、何分なのだろうか?
さまざまな種類の苦痛ときたら、絶対的なまでに、
安定して存在し、意識を支配するまでに強く、確実なものであるのに、
その反対側にあるべき、快楽や幸福が知覚されて、存在できる時間の、
なんと短く、弱いことか。
この現実を凝視すれば、
なぜ、五感の感覚、とりわけ、苦痛の感覚を、
ここまで重く、現実感を伴って、安定しているように感じる世界を、
遠い昔に、何者かが作り出したのか、その理由もかいま見えてくるのである。
ところが、逆に、
その苦痛の世界が、それ単体のみとして存在し、知覚され続け、
主体が耐えうる限界を超えるような強さの苦痛になると、
その苦痛以外の全対象物との自己同化が、吹き飛ばされて、
ほとんど何も残らない、という殲滅効果も、そこには内在している。
いずれにしても、幸福だの、快感だの、安心感だのを、
あいまいな期待を投影したままで、欲しがっているよりも、
「苦痛とは何であるのか?」
もう少し、正確にいうと、
「苦痛として知覚される現象はなぜ存在するのか?」
この根幹を問い、その仕組みの一端でも、
(他人の言ったことを鵜呑みにする無知な状態から脱して)、
自分の目で解明しないとなるまい。
そういう意味でも、生命を知る、あるいは生命に対する知とは、
「苦とは何であるのか?」を知ることに尽きる。
それ以前に、
生存または存在というものが、
そもそも、苦そのものであるという認識に至る、
そういう者が極端に少ないのがここの現実なのである。
たいした苦も経験せず、
たいした快も経験しない。
それを、家畜的生存状態と呼ぶ。
それは安定ではなく、単なる麻痺。
*********
一方で、
強烈かつ、その痛みが持続する苦痛というものは、
下手クソな、内省や瞑想や自己分析などをせずとも、
短期間のうちに、
自分が、それと知らずに、気づかないうちに、
自己同化していたものとの接続を切断する、
という効果を持つ。
この宇宙のどこかに、
悟りによる救いや、
存在の意味や、
生存の価値があるに違いないという
もっとも病的で始末の悪い、これらの妄想を殲滅するのに、
これほど便利なものもない。
だから、何人もの者たちが、これを利用した。
この単純かつ、明晰で、
最も安定した現実の一つである「身体的苦痛」を、
この世界と自分を繋ぐ糸を切断する手段として使ったのである。
それゆえに、
自分が得たと思い込んでいた悟りすらも、
完全なまでに、無意味になるほどの、
食中毒の中で死んだ彼は、理想的な死に方をしたことになる。
もっとも、彼がもしも、
40歳か、せいぜい50歳ごろの時期に死んだならば、
そのような死に方は、必要なかったのだろうが、
彼は、長生きをしすぎたのだ。
あちこちで、余計な事もしゃべりすぎた。
ろくでもない信者が数百人も金魚の糞のようについてまわった。
そんな状態で、80年も生きたら、
この世界を本当に去るためには、
最後に、そぎ落とさねばならない「ゴミ」も増えてしまうのである。
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