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[645]
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★雑記/NO.645 【 『 「死の神 」 』 】
by:
鈴木崩残
2016/11/12(Sat)20:45:29
「死 の 神」
人間を58年やっていて、
今日、ようやく次回に、自分がなりたいものが分かった。
自分がなりたいものとは、今回、肉体から離れて、
次に自分がなりたいもの、ということで、
それは、人間の肉体としてではなく。
それがようやく決まった。
実は、次に肉体を持たない存在としてなりたい「それ」は、
ずっと以前にも、少し似たようなことをやったことはあったのだけど、
昔の時とは、また違う形にしたいと思っている。
*********
人は肉体として生きて、生計を立てたり、いろいろな趣味を持ったり、
いろいろな事に巻き込まれてゆく中で、
そうした生活人という一面とは別に、別の身体がここで生きている役目とか、
意味のようなものを自分に課していたり、イメージしている場合がある。
誰もがすべてそうなのかは、私には分からないが、
人には、外見上の人間として生きているのと同時に、
別の身体は、夢の中やその他の次元で、その人の得意な、または好む、
何かの「仕事(別の世界でのパートみたいなものも含めて)」を、
していることがあると思っている。
私が、もしも肉体を離れたら、次はこれをしようと、
58年の最後にきて、ようやく決定することの出来た、
この世界とは生存の方法は違うが、人間にかかわる仕事、
それは、
『 死 の 神 』
*********
「死神(しにがみ)」というのは、死期が訪れた者のところにきて、
その者の生を、かっさらってゆくものだと仮に定義すると、
この「死の神」というのは、死を「実現する」神である。
死にたいと思っている人の、死を実現する仕事。
依頼者は人間または、
自分は死にたいという思考をする機能のある生き物である。
*********
人は、さまざまな理由と状況の中にあって、時々、または頻繁に、
死にたいと望むことがある。
その死を、自死という形ではなく、「自然死」という形で、
依頼者に届けるのが、死の神の仕事である。
わざわざ服毒したり、首を吊ったり、どこかから飛び込まなくとも、
ある日、楽に、死が訪れるように手配をするのが死の神の仕事である。
*********
とは言っても、死の神は、
依頼者が、どういう理由で死にたいのか?ということに、
いちいち、なんくせをつけることはしない。
死んだらいかん、などと説教をこくことはない。
モラルに反するとか、その理由では駄目だとか、契約と違うとか、
霊界修行を投げ出すなとか、そういうチープな倫理問題は持ち出さないで、
依頼者の死の願望を、懇切丁寧にサポートするのである。
*********
また、死に方も何種類か用意されているので、
依頼者と死の神とが、よく相談して、決めることになる。
死の選択肢は、いくつかある。
取り返しのつかない死ばかりではないのである。
1/たとえば、いったん死ぬが臨死体験までして帰ってくるコース。
死んでからやり残したことに気づく可能性がある場合には便利である。
2/死んでから、しばらく個室にこもって自分の人生がどうだったかを
観察したり次の計画を練るための死のコース。
3/なりたいものがあったのに、今回の環境ではなれないと諦めて、
早々に死んで、もっと自分の望みを実現しやすい環境と肉体に、
生まれるための死というコース。
いろいろとあるので、依頼者は、死の神と十分に相談を重ねて、選ぶことが出来る。
なので、もう限界だ、もう無理だ、もう耐え切れないという
そういう心身の苦がないと、依頼を出来ないというのではなく、
軽い気持ちで、死んでしまいたいと望んだとしても、
それなりに、死の神は、対応や相談をしてくれるのである。
依頼者に対して、「そんな理由で死を望んだら、いかんよ」、
などという野暮なことは一切言ってはならないのが、死の神の掟でもある。
どんな理由でもいいのである。
(ここで、ちょっとだけネタばらしをすると、死の神の仕事の一つが、
「生き物が死にたくなる理由」についての現地調査を含むのである)
*********
自分の死を望む依頼者がいれば、それに応じる「死の神」という仕事、
この役目を、私はずっとしたかったのだと自覚できた。
何も、敷居の高い死、たとえば哲学的な死や、存在からの解脱みたいな死、
ばかりを条件とするのではなく、
どんな老若男女であっても、たとえ子供であっても、
その者が、死を望んだらば、死の神は、相談員となり、
どういう死に方が望みなのか、いつが死ぬ日としていいか、
そして、しばらく生まれない形のままがいいか、
すぐに次を選びたいかなどを選ぶことが出来る。
もしも死の途中で、
何かの問題点を自分に発見したり感じたらば生き返るという、
「取り返しのつく死」も用意されていれば、万全である。
多くの人は、このコースを選ぶことだろう。
*********
世界中には、生きていたいのに死んでしまう沢山の人たちがいる一方で、
もう生きていたくないのに、生きねばならないと思っていたり、
または環境が死ぬことを許さないという、生き地獄の中にいる人たちが沢山いる。
そうした人たちを、緊急的な処置であったとしても、
なんとか楽に出来る方法はないのか?
死によって回避したいこと、回避できることがあれば、
それがどんなに、わがままであっても、贅沢であっても、身勝手であっても、
死を提供するというサービスがあるべきだと私は思うのである。
たとえば、労働意欲がないから死にたい、とか
引きこもって何もしたくないから死にたい、とか、
いじめれるから死にたい、とか、
どんな理由であっても、その理由は問わない。
問われるのは、死にたくなった理由の正当性ではなくて、
依頼者に自分の死に対する「迷いがないかどうか」だけである。
さらには、仮に迷いがあったとしても、
途中で引き返せる死も用意されているという徹底したサービスぶりである。
*********
無明庵というサイトは発足当時に、
「性と死のホームページ」と名づけられた。
また著作類の中でも、死という扉が持つ、利点や欠点、
それに肉体の死なのか、精神の死なのかとか、
死というものは美しいものにもなり得るという話、
また、逆に、万物は、死を回避するだけの目的しか持たず、
幸福や、面白さを求めたり、退屈を回避するのも、
結局は、生存のためであろうという絶望的な宇宙観もある。
*********
しかし、依頼者の死にたい理由や、死にたい本気度がどうあれ、
親身に依頼者の相談に乗り、依頼者が望むような死を依頼者に提供する、
そういう仕事なら、私は、地球時間で、数百年ぐらいは、
ぜひともやりたいと思ったのである。
いろいろな理由で、辛いと感じている人に、
もっと、死が身近で手軽なものになることを私は望んでいる。
世の中全体が自暴自棄になって誰もが死にやすくなる、というのではなくて、
平和な平素から、常に死にやすい空気があるという意味です。
*********
たぶん、近未来のある時期には、成人になると、誰もが平等に、
自死するための薬品のアンプルを渡されるとか、
病院で薬品による自殺を選択する権利が普通に与えられる時代もあるかもしれない。
しかしそうした物理的な自殺の自由化された社会を望むのではなく、
また、いちいち自分で面倒な自殺の手順を踏むのでもなく、
お気軽に死の神と相談して、契約することで、
依頼者に、自然死が訪れるように手配できたら、
さぞかし、素敵な世の中になると思ったのである。
ただし望んで実現できるのは、自分の死のみであり、
他者の死を依頼出来ないことは言うまでもない。
生命、そして人は、
自分が好きなことをしても、食べられなくなったり、
自分が好きなことを失って食べられなくなったら、
「そうなったら、生きていなくてもいいんですよ」という世界は、
とても、優しい世界だと思うのである。
*********
辛いことが蔓延すると、人または人ではない存在たちが、
生きていることの苦痛を、なんとか少しでも楽にしようとして、
いろいろな仕組みや、ルールを作ってきたのだということを、
博士君の死の数日前に現れた、あの大きな猫から私は感じた。
そのように、生きるのか辛い、または面倒くさい、投げ出したい、
そう思ったときに、今よりも、ずっと死が身近にあり、
しかも、自殺の決意や、その手間をかけずとも、
子供から老人まで、誰もが、死の神と相談して、死に方を選び、
ほんとうに、その時期の死でよいか、その死に方で良いかを確認し、
依頼者が内容に同意した上で、それを実現する。
もしもそれが、現行の地球での誕生ルールに抵触するのであれば、
ルールを一部改正するように申請するか、
さもなければ、惑星法では違法でも、そうした地下組織をつくりたい。
そもそも、この「死の神」の存在が、世の中に広く知られてしまうと、
債務をかかえた人々が「死にたいのでお願いします」と殺到しかねないので、
ごくごく、一部の人たちの間で、
都市伝説程度の、いかがわしいものとして、知られているのが望ましいだろう。
*********
個々人に、生存する目的や楽しさや、意欲があっての生存というものが自然であるのに、
とにかくまず生存能力を強制される社会になったのは、一体いつからなのか?
むろん、食べて、生殖して、寝て、捕食する、これだけでも、
十分な楽しみを感じることが出来る時期もあった。
また、とりあえずは、生存の努力と葛藤をしているうちに、
その中に、ふと楽しみや、こだわってみる目的に出来そうなものを、
発見することもむろん多いものだ。
しかし、地球でも、あるいは遥かに遠い天体においても、
生存をしていたくないと感じるような時期が来たり、
そう感じるような理由に取り囲まれることは、いつでも起き得る事であうる。
それが個人や種族に起きないようにと、必死の「変化努力」を続けるとしたら、
何かそれは、「生の奴隷」のように見えてすらくるのである。
もっとも、生存にうんざりしたら、しばらく「仮死状態」にしてもらう
という便利なサービスや、
「契約制の冬眠」とかは、他の世界では既にありそうである。
*********
古い時代にも、最近でも、無明庵の読者の人たちに、
「今までに、死にたいと思った時がありましたか?どういう理由でしたか」
というアンケートをとったときに、
ある人は青年期に、死ぬ場所を求めて自転車で山をさ迷った、
という話を聞いたこともあり、
ある女性は、車がスリップ事故を起こしたときに、
ようやくこれで死ねる、とその時に安堵した、という話をしていた。
また、いろいろな人たちが、いろいろな理由から、
もう死にたいと思い、自殺という形にまで歩を進めたことすらある、
という事が、そのアンケートからも分かった。
他ならぬ、私もそうであったし。
だから、死にたいと切に思う人の、その理由について他人がそれを
それで死ぬのは正しいとか、その理由では間違いだとか言う必要はなく、
死の神と本人とが相談をし、契約をする。
そこでは、「まだ若くて、人生経験が足りないから駄目だ」、
とか言われることもなく「そんな理由では死ねない」という説教もない。
死の神は、とにかく親切に、依頼者が楽になる死の形を提供しようとする。
そんな情景を私は微笑ましく感じて好きになれるし、
肉体の無い世界では、そんな仕事をしたい。
(肉体のある世界でこれをすると「死の拝み屋」になるわけだが、
もしもバレたら保険会社に抹殺されそうになる事は間違いあるまい。)
そうは言っても、生まれるたびに、
何度も何度も、まだ幼いうち、若いうちに死を注文する魂がいると、
「君、ギブアップするのが、毎回、早すぎないかい?」
とか言われてしまう者もいそうである。
*********
それで、実は、ふと、ある事に気づいた。
私は、2年前の2014年に、この「死の神」という仕事の形を、
模索していたのではないかと。
今回死んだら、将来、自分がやりたい非人間としての仕事を、
少しずつ、模索していたのではないかと。
ただし、それは、今のところは、失敗しているようだ。
*********
2014年から2015年にかけて、3度にわたり、
「やんわりとした死の勧告」を受けた、
という話は、前に、この桜の間にも書きました。
また最後には、死のボタンまでもが脳裏に鮮明に登場したことも。
あれは、未来の時間から、または別の世界の私が、
自分自身を依頼者に見立てて、死の契約を試行錯誤していたのではないか、
ふと今朝、そう思うようになった。
「死期と死因について、以上の条件で同意できましたら、
この承諾ボタンを押してくださいね」と、
あっちがわから、こっちがわの自分に言っていたわけである。
しかし、まだこの「注文型の自然死」は、上手くいっていない。
もっとも、死の承諾ボタンを、特に今それを押す理由がないとして、
あの時に、私が押さなかったせいもあるのだが。
もしも、この死の神の仕事が、上手く行く、めどがたったらば、
私は、誰もが本心では望んでいる、この「死の神」のサービスを、
私の死後の仕事にして、
皆さんが、心の中で助けを求めたときには、
それに応じて、自然死をサービスしたいと思っている。
なぜならば、私自身が、この人生で、
幾度となく「もう死にたい」と心の中で悲鳴をあげたことがあるのだが、
死にたいと思うのは、
そう思う本人が弱いとか、人として失格なのではなくて、
そもそも、死にたいと思わせるような世界に問題があると、
私は思っているわけである。
(死にたいと思うことの出来る「脳の仕組み」の方にこそ問題がある、
とする見解もよくあるのだが。)
「死ぬな、とにかく生きろ」が、あまりにも行き過ぎたことへのバランスとして、
「もっと頻繁に、気軽に死んで良いですよ。その自然死のサポートをします」
なんてのは、いい仕事だと思う。
ところで、私はうっかり、
死にたくなるような世界は問題があると書いてしまったが、
そもそも、異常こそが存在のデフォルトなので、
問題があるのは異常でも何でもなく、
そういう「煉獄」がこの宇宙なのだろうと思っている。
そうであるからこそ、
どこの世界で知覚という形を経験するのであれ、
少しでも、自分や仲間の苦痛を軽減したいと思うのは、生き物の心情だと思う。
ところで、相当に本気で、死にたいと思っていても、
自殺するのにも、決意や準備や手段に、ひと手間がかかる場合が多いものだ。
だから、多くの人たちは、
「死にたい時には、眠ったままで、そのまま、死ねたらいいのに」
とか贅沢なことを願うものだが、
その贅沢を実現するのも、死の神の仕事である。
ただし、他人の車に跳ねられるとか、他人に殺されるとか、
そういう他者の運命を巻き込むような事故死は、注文は出来ない。
注文者のほとんどは、他人に迷惑にならない頓死を希望する事が多い。
そんなに死にたかったら、人は自分で自殺すればいいではないか?
と言う声は多いだろうが、
病床などにいて、自分で死ねない人も多いのであるし、
何よりも自然死という形がいいのは、
事件性がなく、見た目が悪くないとか、何かとあれこれ詮索されない、
など「面倒な事が起きない」という、非常に大きな利点がある。
自死を「事故死に見せかける」のは難しくはなくとも、
自死を「自然死に見せかける」のは人間にとっては至難の業である。
なので「自分の死の注文」が、
ピザの宅配なみに「気軽に」出来たらば、相当数の人が利用するだろう。
■それにしても、今回の投稿内容というのは、
どこからどう見ても、いかにも、
ドーパミン欠乏症候群の中から発せられる性質のコンテンツだと思った。
認知症の一歩手前といったところ。
なので、いつまでこういう意志を継続できるかも不明である。
すぐに、気が変わるかもしれない。
*********
最後に、笑い話(ジョーク)であるが、
むかーし、これに似た契約が取り交わされた時に、
その依頼者に向かって、こう言った。
「12月24日の夜、あなたは、眠ると、そのまま死ねますので、
どうぞ、ご安心ください。痛かったり苦しかったりはしません」
しかし、その者は、死なずに、12月の25日も生きてしまっていた。
その者は、
12月の24日の夜に死ねると聞いて、興奮してしまい、
眠ることが出来なかったのである。
眠ったままで死にたい、という契約の場合には、
眠らないと死ねないのである。
*********
★
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