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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
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[1134]
■
手裏剣術講座 【武術・武芸者の「そもそも論」】
by:
鈴木崩残
2012/09/26(Wed)08:08:12
本当の動機を自覚せずに武術をする人々
●特段、武術に限ったことではなく、何でも、
人間にはある事を始める「動機や理由や、きっかけ」というものがある。
この話題は、むしろ、隣の「桜の間」や「梅の間」に属するものであるが、
武術という世界にも、同じ「無自覚性」が蔓延しているので、書いてみることにした。
●たとえば、人は、「誰か」が「何か」をやっているのを見て、
それに憧れて、「その分野」に入ることがある。
一例としては1960年代に、欧米のロックバンドのギターを見て、
「かっこえーー!! おいら、ギタリストになる」と心に決めるなどである。
その結果、日本には沢山のロックギタリストが生まれたが、
傑出した個性を持つギタリストというのは、本当に少ない。
テクニックはそこそこ追いついていても、どうも魂が抜け落ちている。
●たとえば、最近、たまにNHKのロックギター講座を目にするのであるが、
かつては一世を風靡した日本のロックギタリストが、
中年になって、若い人達に、当時のエピソードを話す。
聞いていると、笑ってしまうような、なかなか面白い実話もあり、
確かに「そこそこ」面白いし、むろん実力も「そこそこ」ある。
●しかし、しょせんは、欧米人の文化に感化されて、
その真似事に夢中になっただけで、
では、現代、本場の人達をうならせるほどのギタリストは、
何人日本にいるのかとなると、
クラシック、ロック、スパニッシュギター、ジャズギターの世界を合わせても、
かなり少ないだろう。(私の主観的評価であるが)
●話は変わり、同じ日本人であっても、
たとえば、誰かの詩に打たれて、詩を書き始めたとか、
誰かの絵を見て、画家を目指したとか、
誰かの写真を見て、写真家になったとか、
「誰か」の「作品」を通じて「その分野」に進もうと考える人が多くいる。
野球選手の誰かを見て、「自分もああなりたい」と思って、
野球という世界をさまようなどである。
●ただし、世の中には、親がピアノをやっていたからとか、
学生時代に部活でやったからとか、友達がやっていたのに付き合ってとか、
かなり「成り行き」で、ある分野に進んでしまう人も多いので、
そういう、自主性の薄い人の話は、ここでは除外しておきます。
誰かの影響や、親の命令や、家庭環境や、その中での「なりゆきではなく」、
かなりの部分で、確実に「自分の意志」で、
その職業や分野に足を突っ込む場合に限る、ということです。
前述した、ロックギタリストになってやる、はそのひとつです。
●しかし、私はここにいつも疑問を感じます。
本当に、その人にとってはギダリストになることが正しかったのかと。
そもそも、ギターが本当に好きだったのか、
それとも、よくよく自分が惚れ込んだ感情部品を分解してみると、
「あのロックギターの、すべてがかっこいい」といっても、
その「すべて」の中には、
「ファッション」
「サウンド」
「そのアーティスト自身のしぐさ」
「コンサート会場の設定や客の雰囲気」
「歌詞や、それが発しているメッセージ」
「彼らが、めちゃくちゃ異性にもてているから」
このように、その「かっこいい」という印象を、さらに分解してゆくと、
結局のところ「音楽性そのもの」に純粋に惚れ込んだ、
というよりは、自らの複合的な好みに合致したということになる。
また、「観客の側で熱狂する」のが目的とした事なのか、
本当に「自分も演奏をすること」が、目的となるのかでも違ってくる。
●よく、恋愛に熱を上げてしまい、そのまま勢いや成り行きで、
結婚して失敗する人の多くが、
「惚れた」の「中身」を調べないことによることは明白なことである。
この点について(セックス技術と恋愛論)は、私の専門であるが、
もう十分に本で出版してあるので、ここでは省きます。
『正しい恋愛術』について。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?U1760
『性と恋愛の指南書』
↓
http://www.mumyouan.com/i3.html
●この何かに「惚れ込む」という点では、この問題は、恋愛とも似ており、
わりと無自覚に、特定の世界に飛び込んだまま、
そもそもの最初の動機は、何であったのかを自覚することもなく、
そのまま死ぬ人も多く、
あとで、
「しまった!! 私は、あんな事で時間を無駄にする為に、人間をやっていたんじゃない」
と、死ぬ間際になって、あるいは、死後になってから後悔しかねないので、
この話をすることにしました。
●ここは「松の間」なので、仮に、武術という世界に枠を設定してみると、
たとえば、手裏剣術の場合には、私は相手が師範であっても、一生徒であっても、
必ず、手裏剣をはじめた「理由やきっかけ」を聞きます。
(ただし、私が、多少なりとも、その相手に関心を持った場合にしか、
この質問を相手に尋ねることはしません。)
「きっかけ」というのは、「成り行きはどうだった」という話ですが、
「理由」というのは、本人の中の動機、つまりは「目的」です。
目的が明確にあった人もいれば、
目的が恐ろしく曖昧な人もいました。
目的が、ご都合主義で、ころころ変る人もいました。
●今までに、会ったり交流した沢山の人達をみると、そこには、
浅い動機もあれば、多少の深い動機もありと、いろいろですが、
何かこの人、目的と手段が違うな、という人も、かなり多かったです。
手裏剣の世界だけではなく、そもそも、武術の世界を選んだのは、
むろん、それぞれの人の「自由」ではあるが、
その「手段が間違いではなかったか?」と思う人たちです。
●「自由ではあるが、間違い」というのは、この世界に確実にあります。
たとえば、
その人が、ボートに乗った目的が、対岸に到達することだったのに、
途中で魚を釣りはじめて、結果、ボートの上でバランスを崩せば、
ボートは沈没します。
何をするのも自由ですが、
「対岸に到達する」という本人が最初に設定した目的を忘れて、
大物の魚を取ろうとして失敗し、ボートが沈没したら、
それは「本人の目的にとっては、明確な間違い」と「失敗」です。
●話はまた、芸術の話になりますが、
「岡本太郎」に憧れて、「画家」になろうとした人がいたとします。
しかし、その人は、本当に、自己表現の方法として、
「画家」を選ぶべきだったのでしょうか?
たまたま、岡本太郎が画家として活躍した面があるだけですので、
本当は、その人は、岡本太郎の「絵」を好きになり、
それ故に、「画家」を目指したとしても、それでいいのでしょうか?
●ご存知のように、岡本太郎は、画家であり、写真家であり、
考古学研究をし、大阪万博の太陽の塔を作ったアーティストであり、
そして何よりも、執筆家です。
だから、岡本太郎の死後、氏の本が多く出版されてからは、
岡本太郎のような「本」を書きたいと思った人もいるかもしれません。
すると、岡本太郎に衝撃を受けて「画家」を目指したその人は、
本当に「画家」という道でよかったのでしょうか?
その人にとっては、岡本太郎の「何がその人を打ったのか」が問題です。
●もしも、岡本太郎の、反逆的な生き様に打たれたのだとしたら、
その人が憧れたのは、「絵」ではありませんので画家になるべきではないです。
むろん、岡本画伯の絵を通じてショックを受けたのかもしれませんが、
だからといって、「よし、俺には絵しかない」で正しい選択なのでしょうか?
もしもアーティストの生き様に惚れたのであれば、
その人にとっての自己表現は、
何もそのアーティストと「同じ分野」である必要はありません。
岡本太郎の生き様と、絵に感動した人が、自分独自の試行錯誤によって、
工業デザインを極めてもいいのですし、料理家になってもいいのです。
つまり、ある分野を「やりたい」と思い立って、やる場合に、
本当の目的が何であるのかを自覚しないと、手段を取り違えることが多々あります。
●たとえば、この松の間を読んでいるのは、ほとんどが男で、
女性はいないでしょうが、女性が、「金子みすず」の詩に感動したとします。
それでその女性も、「この詩が、私を打ったから、私も詩人になる」
となってしまったとしたら、それは疑問の余地が残ります。
金子みすずの詩は、彼女自身の生き様と境遇から出てきたものですから、
もしも、詩を通じて、金子みすずの心に触れたのであれば、
その人がなりたいのは「金子みすず」の「本質的な生」のはずです。
それとも、ただ表面的に感じる、彼女の詩の「表現の奇抜さ」や、
その言葉のトリッキーさに魅了されただけでしょうか。
●しかし、その女性が、現実に金子みすずのようになろうとしたら、
金子みすずが、浮気者の旦那から、梅毒を移され、ボロボロになって
最後には自殺したという事実も、トレースする必要がありますが、
誰にも、その人生をトレースすることなどできません。
つまり、何かに打たれるときに、
ほんのその表面に打たれるのか、
それとも、もっと奥にある本質に打たれたのかで、
打たれた側は、安易に、「じゃー私も詩人に」とは、
決して、なってはならないケースもあります。
●「ロックギターに衝撃を受けた」、
しかし「自分はギターではなくても、自分自身の表現方法を見つける」
という姿勢がそれです。
本当は、何に打たれたり、憧れたりしたのか、
そして、何がしたかったのかを思い出さないと、
目的と手段に大きなズレと自己矛盾を起こすことがたびたびあります。
武術の世界でも同じです。
●たとえば、前述したように、手裏剣に限らず、
武術という枠でも、「そもそも、それを始めた、きっかけ」を
私は、必ず尋ねます。
今までに見てきた武術家に尋ねると、武術をはじめた動機には、
だいたい次のようなものがありました。
■いじめられて、くやしくて、強くなりたかったから。
■実家の家族の誰かが、武術を自分に教えたから。
■映画やドラマで見て、かっこいいと思ったから。
■武勇伝や、歴史書を読んで、スタイルや生き様に憧れたから。
■思いっきり脳内フィクションであるアニメを見たから。
■本に書かれていたから、興味を持った。
■さらには、わりと多いのは、物品、美術品、あるいは、
時代劇の影響としての「日本刀」に憧れて、
実際の扱い方は、そのあとに会得したという人。
■護身のため。
このほかにも、もっといろいろな動機が武術をはじめたきっかけとしてある。
●たとえば、私は、「弱かったのがくやしくて、武術をはじめた」
というのは、子供時代の動機として、間違っていないと思います。
子供にとっては、当時、合法的にケンカに勝つには、
スポーツ化した武術がもってこいだったからです。
これが、小学生同士のナイフでの殺し合いになったら、
別の武術が必要になってしまいますが、取っ組み合いと殴り合いならば、
手加減を加えた武術(武道)で十分です。
●そして、テレビや映画に憧れても、間違いではありません。
ただし、その到達するところは、あくまでもエンターテイメントである必要があり、
途中から、師匠に吹き込まれた、武術論などに走ってはなりません。
そういう場合には、武術道場ではなく、殺陣の教室や、
アクションスクールにいけば「かっこよく」という目的は果たせます。
武術の世界では、とかく、
「強くなる」ことと「かっこよく」が、途中で混同されたり、
無自覚のうちに、入れ替わってしまうことがあります。
●もしも自分の「身体表現」において、かっこくなりたいのでしたらば、
1/ 敵を倒すというフィクションをしたいならアクションを選び、
2/ 別の角度からは、一流のダンサーを目指してもいいのです。
3/ ファッションモデルや、タレントになってもいいのですから。
●また、武術の場合には、そこに、へんてこな精神論が加わると、
心の鍛錬と称する、武術とは、ほど遠い教えが混入されたりします。
礼儀や行儀を習うなら、「作法」の教室がちゃんとあります。
もっもとも、武士道のように武術の中に、
作法の所作が包含されているケースもあります。
●また、一言に、フィクションの時代劇に憧れてといっても、
時代が幕末のヒーローか、戦国時代の武将か、江戸時代の侍か、
それとも、もっと前の、神代の時代なのかの違いによっては、
本人がなりたい憧れのもの、と、
その、やりたいことの絵柄のヴィジョンには違いが出てきます。
●始めた動機は、どんなに馬鹿げていてもかまわない、と私は思います。
強くならねばならなかったという、切迫した境遇からでもいいですし、
ただのミーハーな、カッコよくなりたいという動機でもかまいません。
それが、私が言った、目的とする「対岸」のことです。
●しかし、正式な武術を習って、見た目の動きが、かっこよくなりたかった、
というのが出発点であったならば、
実際の実用的な殺人技を教えている道場へは行くべきではありません。
●また、とにかく、刀で畳をぶった斬りたいのでしたら、
それに必要な基礎は作ったうえで、それを重視しているところや、
それを専門的にやっているようなところを選べばいいのです。
●もしも、剣道では物足りず、もう少し、原型にあった剣術の、
立会い稽古をしたいのでしたらば、それを教えているところへ行けばいいのです。
●自分は、最初に何をしたかったのかは、常に思い出す必要があります。
その動機が、高尚であることなど、ほとんどないですので、
実に、くだらない動機でも、全くいいのです。
ただし、その「対岸の目的地」だったものから「手段の選択」がずれていないか、
船をちゃんと、対岸に向けて、漕いでいるのか、
あるいは、自分で、その目的地を、途中で変えた場合は、
なぜ変えたか??
変えたのは、自分の考えでか?、それとも他人に感化されてなのか??
こうした「自問」が常に必要です。
●そうしないと、かなり言っていることとやっていることが、
めちゃくちゃな、勘違い系の武術家、あるいは芸術家が、
この世の中に放り出されて、混乱を招く結果となります。
前述した、特定の武術や、武芸(私の手裏剣はここに入る)を、
はじめた動機のうち、
>>■いじめられて、くやしくて、強くなりたかったから。
これは、セーフです。
望んだ通りに、強くなればいいのですが、ただし、
ただ、当初の目的は、ストリートファイトでの強さだったはずですから、
もしも、後になって「K1グランプリ」で優勝を目指す、とかになってしまうと、
ちょっと目的が違ってくるので、注意が必要です。
その時点で、本人のキャパシティーと動機をオーバーしていますので。
>>■実家の家族が、武術を自分に教えたから。
これは、かなりアウトです。本人の本当の意志は不明だからです。
>>■映画やドラマで見て、かっこいいと思ったから。
これもセーフですが、
かっこよさの追求を最後まで貫く必要があります。
>>■武勇伝や、歴史書を読んで、生活スタイルや生き様に憧れたから。
これは、アウトです。
惚れたのが彼らの「生き様」ならば、武器や武術など必要ありません。
>>■思いっきり脳内フィクションの、アニメを見たから。
実際に出来ることと、出来ないことを、きちんと、わきまえているならば、
アクションスターか、漫画家としての人生を、最後まで貫けばいい。
>>■本にかかれていたから興味を持った。
これはアウトの可能性が増える。
それが何の内容の本であって、その中の、
何に対して本人が興味を持ったかにも拠るところが、かなり大きいので、
一概には言えないが。
>>■さらには、わりと多いのは、美術品、あるいは時代劇の影響としての日本刀に憧れて、
>>日本刀を購入し、実際の扱い方は、そのあとに会得したという人。
これは、刀の造形美に打たれたのであれば、
美術品や守り刀として最後まで、鑑賞者のままがいいと私個人は思う。
しかし、もしも、殺人用の武器としての日本刀に憧れたのであれば、
その性能を徹底的に極めようとする鍛冶職人か、または剣術家になればいい。
>>■護身のため
これは完全にアウトであり、「現代」では、それは武術の「誤用」です。
防犯、護身は、武術によらず、大局的な「総合的な意味」での、
防犯システムによるべきです。
つまり、ただ護身道具や、防犯カメラをそろえればいいのではなく、
本当の犯罪を抑止するには、法律の範囲内で何が効率的かを考え抜いた、
「総合的な社会システム」こそが護身や自衛の定義である。
また、実際に事件が起きた場合の対処も、
相手が酔っ払いや薬物中毒ではないかぎりは、
あくまでも頭脳的な「心理戦」と最小限の実力で処理すべきである。
●このように、本来目指しているものと、手段としての武術が
明らかにズレている場合も多い。
たとえば、武術道場であった「家の後を継ぐために、やっていた」、となると、
その子供が、本当に武術が好きだったのか、
それとも、無理やり、教育されて叩き込まれていくうちに、
自覚がないままに、それが生活の中で、当たり前になっていて、
いい大人になって、よくよく内省したら、
武術の稽古なんか、本当は、大嫌いだった、
あんな親や家族は、ぶっ殺してやりたかった、死んで欲しかった。
どうして、あの親は僕に優しくしてくれなかったんだよ、
などいう本音を、ずっと隠したまま、大人になった場合も多くある。
次の事例は、武術道場に育った子供の、その後の経年変化ではありませんが、
よくある「虐待の連鎖」の一例です。
次の文中にある、
「トラウマの掘り起こし」から以降が、その部分です。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?S122
また、次の事例のように、他の兄弟と比べられて「おだてられた場合」も、
いわゆるACの子供になります。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?S123
武術家で、お子さんを持っている者は、この二つの事例には十分に注意すべきですが、
たぶん、もう「手遅れ」だと思います。
●また逆に、家庭や学校で、冴えず、何をしても駄目だった人間が、
たまたま、武術や、スポーツや、絵や、詩や、音楽で、
先生や親に、何かの時に、褒められた。だからやる、となると、
これは、その本当の目的は、「自分を認めて欲しいよ」であって、
その各スポーツや芸術の分野は、そのための手段と化してしまっている。
「認めて欲しい」のならば、「他にいくらでも方法はあった」ということなり、
そこで手段を間違えているケースもかなり多い。
つまり、
親や友達に、自分を認めてもらいたいから、野球をやる少年と、
テレビで見た選手や、プレイに憧れてやる少年、
星一徹に育てられて、強引に、やらされた少年、
いろいろやっているうちに、自分自身が、考え抜いて野球に行き着いた少年、
たまたま、付き合いで入った少年野球にいて、それを好きになったので、
大して考えもせずに、そのまま、ずるずると野球にのめりこんだ少年、
この五者では、その出発点の動機も、最後の目的地も、全く異なるのである。
●何かをするようになった、その原因にあったものは、
たとえ、その後に、その目的が変ったにしても、そのまま変らないにしても、
常に、深い部分の動機まで、自分自身で把握しておくことが重要である。
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