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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
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手裏剣術講座【時代劇風の打剣と抜刀】
by:
鈴木崩残
2015/06/01(Mon)13:37:08
>6/3更新・「正座」について後半部に、追記しました。
時代劇アクションでしか
やってはならない「座打ち」と抜刀
●真面目腐った研究が、前回の投稿で、ようやく全部終わりましたので、
一気に、ふざけた打剣をします。
これらの「打剣からの抜刀」は、あくまでもアクションですので、
時代劇の中など以外では、絶対にやってはなりません。
座打ちの姿勢となるのは、9つの「座陣」で、
どの姿勢からでも、座打ちから抜刀へは、問題なくスムーズに動けます。
●この最後の「悪党の またぎ抜き」は、あるかどうかは知りませんが、
てっとり速く抜けるのは、これしか思いつきませんでした。
●あぐらも含めて、この「9つの座陣」での打ち方は、
ずっと昔に、どれも全部やったのですが、
「スポーツ的な剣速」でも良いならば、4間からは刺さったはずです。
久しぶりなので腕が落ちているかもしれませんが、今度、やってみます。
その中でもとりわけ強い打剣が出来る座陣があれば、
それが「近距離でも使える姿勢」ということにもなるからです。
こうした「併用芸」を、絶対に人前で
「演武」などと称してやってはならない理由は
「卑怯すぎて、武人失格」だからです
相手に「手裏剣を投げつけて襲う」などという、こんな卑怯かつ「下劣な技」は、
真性の剣士たるものは、絶対に他人様の前で演武など行ってはなりません。
剣士は刀だけで勝負をすべきです。
というより、刀を携帯するのであれば、「演武」は「刀だけ」ですべきです。
>ちゃんと刀を持ちながらにして、刀とは別の物体を「手裏剣に打つ」などというのは、
>剣に未熟な「弱者」や、追い詰められた者が、苦し紛れにすることです。
とあるエッセイにも、こうある通りで、これが正論です。
↓
>>武士道では正々堂々と一騎打ちで戦うのが武士であり、
>>相手が攻撃できない距離から一方的に攻撃できる飛び道具は、
>>卑怯な道具と考えられた。
>>ただ、弓矢のみは古来より流鏑馬など神事で用いられるため、
>>飛び道具の中では例外とされた。
>>手裏剣は「邪道の技」と位置づけられ、
>>江戸市中では道場を構えることは許されなかったらしい。
>>ただ、江戸以外では道場を構えることはできた。
>◆そもそも、刀と手裏剣を併用して、それを公然と演武するなどは
>「武人として失格」である上に、
既にここ数回の投稿で私が指摘しているように、
>「刀法+手裏剣術」という「ミックスした見せもの芸」でしか、
>アピールや自己主張ができないのでは「駄目」なわけです。
それでは、二つが混ざってしまうせいで、
どちらの至らない不出来さも目立たないように誤魔化せてしまいます。
しかし、他人様の前で演武するからには、
少なくとも、どちらか「片方の武道のみの演武」だけ、となっても、
プロフェッショナルでなければなりません。
他人様に教える立場にいる者は、なおさらです。
そして、そもそも、それでも「手裏剣術をしています」というのであれば、
武人としての品格、そして「技としての品格」を落とさないように、
他の武術とは分けて、「直打法手裏剣術のみ」を披露すべきです。
******************
●さて、私は、その「直打法手裏剣術」を「遊戯」として楽しんでいるのであり、
その中にあっては、今回のような、
こうしたアクション(殺陣のようなもの)でも遊びます。
以前に「荒野の七人」のアンダーハンドスローのナイフ投げが、
あの速度で現実に可能かどうかを検証したようにです。
↓
https://www.youtube.com/watch?v=Hyi3fYVUWyg
■「荒野の七人」のナイフ投げを、ここまで厳密に検証して、
しかも実演した人は、世界中のどこにもいないはずだと思います。
私個人は、自分のこの動画が、大好きです。
結果としては、
>「銃を抜く事に関して素人の相手」ならば、
>「物凄く練習をすれば、下手の反転打の方が銃を撃つより早く到達する」
「という可能性が出てくる」というものでした。距離は4間においてです。
これらも、あくまでも「投剣術」の「可能性の追求」なのです。
■今回は、
刀の携帯をした座打ちは、「投剣の邪魔になるか否か?」が検証対象でしたが、
「全く邪魔にならずに打剣できて、しかも刀も速く抜ける」
という結論が、もう出ましたので、これは、これまでとします。
なお、次の投稿では、確認の為にこれを、
「2間半と2間の距離」でテストしています。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?M1213
◆また「武術」だの「文化」だの「精神の練磨だの」の理由付けは、
私の臭覚にとっては、悪臭の口臭が漂うもので、うざいので関係ありません。
***************************
■ちなみに、とにかく「江戸時代」というのは、「変な時代」です。
「ちょんまげ」だの「正座」だのと。
泰平の世になり、暇人と、口先だけの人間たちが増えたせいか、
芸能や文化が発達したと同時に、
ある程度「へんてこな習慣」も生まれたようです。
「直打法手裏剣術」もその一つなのでしょう。
武術などというよりは暇人の「遊戯」だったのかもしれません。
ところで、正座と茶の歴史について、面白い記事がありました。
↓
http://www.seizajsa.com/work/easyseiza/17.html
いやがらせと統制目的から始まった
正座と、直打法手裏剣術との違い
●正座の歴史については、
>>「江戸場内では刃傷沙汰がときどき起きていました。
>>そのため、刃傷沙汰を防止する意味も含めて、足がしびれ、刀が抜きづらく、
>>機敏な動作に支障をきたす作法が注目されるようになりました。
>>やがて、将軍に拝謁するときには、動きづらい長袴を礼装にして、
>>正座をとらせるようになったといわれています」
という説があるように、あきらかな政治的な「いじめ」「制圧」を
動機として始まっているようです。
さらには、
>>「武士たちにとって、作法は精神的拠り所の一つだったと考えられます。
>>とりわけ江戸時代も後期になって「武士と町人の経済力が逆転」すると、
>>武士は作法を重視するようになります。
>>庶民がまねることのできないような洗練された振る舞いや教養、作法を
>>武士は身につけていったのです」
>>なんだか、半分意地になっているように聞こえるのは私だけだろうか。
>>だが、意地にもなるだろう。
>>上流階級の姿勢が庶民の日常の姿勢に取り入れられてしまったのだから。
>>確かにそうなると、「もっとカッコよく正座してやるんだから!」となってくるのだろう。
>>なんとも「分かりやすい流れ」である。
とあるように、
しみったれた「虚栄心」「意固地」もここに関与している。
*********
●このような、「物事が始まった、いきさつ」というものを私は重要視しています。
これは、私の仕事の大半を占める部分が「カウンセリング」であることも理由です。
カウンセリングというのは、相談者のもっとも古い記憶(2歳、3歳まで)を探り、
そもそも、なぜ大人になって、そうした考えにとびついたり、
そうした性格になったり、そうした言動をするようになったのか、
ということを本人自身に探らせます。
すると多くのものは本人が大人になって、
自己決定したのだと思い込んでいただけで、
いわゆる毒親から、強要や洗脳されたり、押し付けられたものであったことに
気づく事例が大半を占めています。
「わかりにくい」洗脳の事例は、
「父親によって不幸そうな状態になっている母親の顔色を伺う子供、
母親を介して父親に反発しただけで、
母親の悪い性格に迎合してしまった子供」の「その後の挙動」などです。
●そして、これは、個人史のみならず、歴史とか「文化」においても同じです。
そうした意味で、この「正座」もまた、私がよく言う、
「湧き上がるような創造性が、輝きを放つ」といった歴史ではなく、
ただの「統治」が目的だったということになります。
そこに、さらに、武士の意地や見栄までも関与してしまい、
目も当てられないような結末になったわけです。
ただ、たまたま、生活習慣にそれが取り込まれたというだけで、
それが「正しいもの」と思い込んでしまうのが、煩悩のなんたるかです。
つまりは、「他人の目や社会からの評価」に、しがみつく性根である。
これをカウンセリングの世界では、「他者承認への飢え」と言います。
●さて、そうしてみると、正座というものは、もともとは、
逆らう可能性のある相手の「戦闘力を削ぐため」に開発されたわけです。
これは、かなり「毒親の手口」と似ています。
躾、恫喝や、暴力や、言葉による恐喝で、子供の牙を抜いておく方法です。
だから「正座は、学校その他で、処罰(おしおき)ともダブる」のでしょう。
●しかし、とうぜん、あらゆる武器術は、
政治的な統制、治安上の命令などされない「それ以前の時代」にあっては、
正座などとは「無縁」であったわけです。
それが、のちに武道の作法の中に取り込まれたわけですが、
すると今度は、その正座からでも攻撃できるように工夫を始めて、
「おいらは、お前ら庶民とは違うんだぜ」と、馬鹿な事をやってしまいます。
ここで非常に私が重要視するのは、
>「もともとの動機、原因が不純なものであり、
>それを原因として、その後に発展したものは、すべて不純である」
という動かしがたい「大原則」です。
>もともとが不幸から生まれたものは、不幸しか作りださない。
>克服とは幻想・妄想の産物であり、
>事の発端を、明らかになるまで自分で解明して、
>深く理解する以外には、自由(身軽)になる道は決してない。
●これは、カウンセリングにおいても頻繁にある事例であり、
たとえば、横暴な父親、または馬鹿な母親に育てられてた場合には、
>「親からの経済的、肉体的、精神的な被害を受けたり、いじめられた、その結果、
>それに対抗しようとして、その後に本人が起こした行動は、
>すべて、本人を強くすることはなく、歪んだ精神状態のまま成人し、
>そのまま、その性癖を引きずったまま生きる」
という大原則です。
物事は、すべて「原因」までさかのぼって、そのときの感情と思考を、
すべて再現して精査して自分で「解明」して理解しないとならず、
それをせずに、
「あのときの苦境を、その後の自分は努力で超えたのだ」と思い込んでいても、
ずっと両足を鎖でつながれた状態にあることに気づきません。
それは普通に歩いているときには目立ちませんが、
ひとたび、走ったり、何かの行動を起こすときに、足が重くなり、
思考力が低下し、躓いて倒れてしまいます。
多くの場合には、
「ここぞ」という一番肝心な岐路で、すっころんでしまいます。
(これが毒親が仕込んだ「決して成功しない子供」だからです)
*********
●こうしたことに鑑みるならば、
「正座」は、一種の「イジメ」から始まり、
そして、武士の正座は、「見栄」からはじまり、
あるいは、「教育」と称してはじまった、
実に、「よろしくないもの」となります。
***************************
●では、この「正座」の部分を「直打法手裏剣術」と置き換えてみると
どうでしょうか?
元来は、「正座ではない」つまり「正刺」などせず、
進退窮まって「投げつけ」たり、
または奇襲や、なりふり構わぬ戦法として「物を敵に打つ」という、
「武器の投擲」があったであろう事ならば、容易に察しがつきます。
●ところが、だからといって、そのために、
毎日、裏山で、刀を投げて刺す練習をしている武士などいるはずもありません。
戦の時代にあっては、そんな「ド暇な武士」など、まったくあり得ないことです。
また貴重な刀を、練習の為になど、投げることもしません。
(実際の現場で、いたしかたなくなって、打ち付けるのみです)
●しかし、殿様でも、庶民でも、「暇人」が増えるようになると、
「この短刀を、うまいこと投げて、高い確率で刺せるようにならないか?」
などということを、裏山で、おっ始める人間が出てくるというわけです。
>「直打法手裏剣術」の発祥というものは、実用性や必要性から生まれた
>「投げつけ、打ちつけの投擲」とは、「系列」が違います。
生まれた「系列が違う」のに、ただ「どちらも手で投げるから同じだ」、
などと、思慮のない人たちが思い込んでしまっただけなのです。
●さまざまな、他の武器術は「必要性のもとに」に発生したわけですが、
唯一「直打法手裏剣術」だけは、
「ちょっとした、曲芸的な技」への興味、好奇心から、
数少ない者が、「それぞれの事情や理由」で始めたものであり、
(相手の目さえ潰せばいいんじゃないか?と脳内妄想したり)
その結果として、結局は熟達した者も「少数」で、
ゆえに、実戦では、たまの「まぐれ勝ち」以外には、「実績」がなく、
たいして使い物にならない事も明らかになり、
>「武術史の隅っこ」に追いやられた、というのが現実の姿なのです。
さらには、現代にあっては、
秘武器・隠し武器並みに、その稽古人数が少ないものとなっています。
●この系列は、他の武器が「自然なあぐら」であるのに対して、
人工的に作られた有用性のあまりない「正座」とも似ているのです。
わざわざ投げにくい「直打法」などという制限まであるからです。
しかし、それが正座とは「まったく異なる点」は、
正座は「押し付けられたもので、一種の虐待から始まった」のに対して、
「直打法手裏剣術」は、殿様でも庶民でも、どちらにしても、
暇人や、「剣だけでは勝てない弱者」(それこそ、あだ討ちする側)が、
「曲芸的な攻撃法」として、着手した可能性が高い点です。
つまり、「他の多数の武器」と並べたときに、
血肉を斬り合って、命をかけて使ったのが、さまざまな武器の発祥であり、
その使用にあたっての動機や原因だったのに対して、
>直打法手裏剣術は、どう考えても「緊急性」や「有用性」よりも、
>「曲芸性」が強いことから、もとからして、半ば「暇人の遊戯」であり、
>たまたまその中に、それを技に使ってやろうなどとしたものが
>ごくわずかにいただけであるわけです。
これが、私が少し前に、
>直打法手裏剣術の演武の風景は、
>「リアリティーが薄い」=(どこかフィクションに見える)と述べた理由です。
●しかし逆に言うと、歴史的に最も「血塗られていない武器」であり、
また人が「いじめられたり」「お上からの命令」で始まったような「正座」とは違い、
個人の「好奇心」または「凝り性の一種」から始まったという点で、
他のすべての武器よりも、ずっとその動機と発祥が、
「健全」「健康的」なものだと私は思っています。
つまりそれは、一種の、湧き上がるような「好奇心」から生まれたもので、
>人殺しや「統制のための教育目的」が、その「種子」ではなかったということです。
●「正座と武士」についての参考リンク
↓
http://www.seizajsa.com/work/easyseiza/18.html
「手裏剣は伝統古武術とは呼べない」
と、私は2010年に、きっぱりと言っているのである
↓
http://www.mumyouan.com/k/?M1088
■しかも、伝統性を持たないのみならず、
反転打、回転打、「打ち付け技」ならばまだしも、
直打法に、安定的した「実用性」「戦闘性」を持たせるのは、
極めて「難しい」のである。
●その、困難な「難題」に取り組んでみて、
ぎりぎりにまで論理的、かつ単純化して、編み出した「歩法と打法」が、
今回の「DVD−2」に収録した「武術手裏剣」です。
対人戦では、
「こいつは右足を前に踏み込んだ時にしか、打剣してこないな」とか、
「こいつは左足を前に踏み込んだ時にしか、打剣してこないな」とか、
「こいつは、順体でしか、打剣できないな」とか、
「こいつは、逆対でしか、打剣できないな」などと、
敵に読まれてしまうことは、絶対に許されません。
ですから、どの足や構えの姿勢、どのタイミングで打つかは、
相手にまったく分からないようにしました。
しかも実戦では、刀が上に動いた時に打つなどとは限りません。
勝てるかどうかは、その時の対戦者らが持つ「相対的な実力差」によりますが、
「負ける可能性の極めて低い術理」なのです。
______________________________
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