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「分割自我復元」
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[217]
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★分割自我復元★その217■ クリエーターは自殺したがる ■
by:
鈴木崩残
2013/05/23(Thu)06:23:29
「賢い死に方」の模索から20年が経過
●「あの時に、津波に溺れて死んだほうがマシだった」、
と思うような世界には生きたくない、と思うものの、
やがて、多くの人たちがそう思う世界が来ることを、
私は覚悟しなければならない。
こういう問題は、最終的には、
苦しみながら生きているのと、死ねるのと、どちらが「楽」なのか?
という問題に行き着くのである。
ひとつの「極論」ではあるが、唯物論者にとっては、
生死のどちらが「楽であるかどうか?」だけ、を基準にするならば、
死んだ方が、圧倒的に楽である事は、疑問の余地すらない。
ただしあくまでも「楽である事」が判断基準となるならばの話である。
しかし、もしも唯物論者が、生きていて「心踊る、楽しみが欲しい」、
「何か確実な確信の持てるものが欲しい」とか言い出すと、
それは「楽」であることとは相反する現象を引き連れてきてしまう。
また、それは自らの生が、「退屈である」あるいは「不安である」ので、
従って「究極的な楽である死」よりも、
「多少の苦があってもいいから、生を選択する」という意志表示となる。
*********
●さて、もしも「唯物論的な死」が、現実に「本当にあり得る」のであれば、
この世界は、かなり気楽なものに変貌していた筈だと私は思っている。
というのも、そうなれば、
生きているという錯覚自体が、自分で選択したのではなく、
生物の生殖行為によって偶発的に自分は生まれたということになるので、
そもそも、生きている事とその行為の「責任」は、本人にはないのである。
また、何をどうやって、悪業をつんで死んだとしても、
唯物論的な死には、それを罰する者もいないので、
どれだけの悲劇を他者の中に生み出して、
悪業をどけだけ積もうが、全く何も恐れることなく、気楽に死ねるのである。
逆に言うならば、
どれだけの偉業を成し遂げようが、
死ねばそれを感じる本人が消滅するので、本人に関係ないばかりか、
誰もそれを死後に評価もしないので、気楽なものである。
死後に、誰かを偉大だったと評価するとしたら、
その後も生きてゆく後世の人々だが、
その人々も、やがては死ぬ。
仮に歴史に残るとしても、地球上であれば、わずか数千年のみである。
●ただし、人類が宇宙の別の惑星や別の環境に移住し、
そこで生き延びるとなると、話は少し違ってくる。
その場合には、「いつか地球もなくなるのだから、すべて無意味だ」
という論理路線とは、異なる未来がたち現れてくる。
地球型の人類という種そのものが、銀河系または小宇宙の中から
完全に絶滅するまでは、何億年でも歴史は続く可能性がある。
●そういう意味では、たかが地球や太陽系が崩壊する日が来るから
といって、そう簡単に人類という物質的な存在が死ぬとは限らず、
わりと、ゴキブリのようにしぶとく生きてゆくことも十分にあり得る。
●そういうわけで、真性の唯物論者の場合には、死ねばおしまい、
という大前提が揺るがないと仮定した場合、
とりあえず、自殺したいと思わずに、毎日を過ごすための
「唯物論者的宗教」を自分で作り出す必要がある。
「宗教の定義」とは、私から見ると、
必ずしも、死後の世界や、宇宙を創造した何者かを想定する必要もない。
実際、仏教は、本来そうであったからである。
●一般には、「宗教」というカテゴリーは、
すぐに「死んだらどうなる話」や「誰が世界を何の目的で作ったか」
といった話が登場しなければならないと思い込んでいるが、
「宗教」の根幹的な定義を、
その実在が証明できようが出来まいが、そんなことには関係なく、
個人が、生きるのがつまらなくなったり、苦痛になって、
自殺をしないで済むような、
「自らを納得させられる口実」という、大きな枠で囲うと、
少し、その本質が理解しやすくなるだろう。
すなわち「思想」「倫理」もまた、「世界を定義する口実」として
機能するかぎりは、かなり宗教に「近い」のである。
否、宗教も、思想も、その根源は、人間の不安と不満から生まれたと
言わざるを得ない。
●しかも、大変に、残念なことだが、
この不安と不満は、
人類が物質的に外宇宙に移住しても止むことはなく、
さらには、死んで、異なる世界の肉体と契約しても止むことはない、
というのが、「私個人」の認識している宇宙である。
●私個人の宇宙観の話を元にすれば、
死ぬ時と、最もよく似ているのは、
「毎日の睡眠」あるいは「気絶」である。
死にたくなるほど、クソ面白くない一日を過ごした人であっても、
しこたま酒を煽って、夜床に入れば、とりあえずは、
睡眠は、その日の出来事を一時的に忘れさせてくれる。
翌日になって、精神的なムカつきと、二日酔いのムカつきの
ダブルパンチがやってくるまでの6時間ほどは、
意識を失って、楽になれる。
●しかし、残念なことに、睡眠というのは、
「睡眠を、快適に感じていた」という経験の記憶がないので、
目覚めたときに「いい眠りだったな」と思うのみで、
「いい眠り、そのもの」を、6時間経験できているわけではない。
*********
●余談となるが、
このことについて、私はとても印象的な経験を、
高校生のときにした。
それは一晩中、意識が起きていたという経験であった。
肉体は、間違いなく、完全に眠っていた。
夢は全く見なかった。
だが、私は眠ってはいなかった。
7時間という時間の経過をはっきりと記憶しており、
その7時間、私は、全く何も思考せず、
ただ、暗黒の空間を凝視することなく眺めているのみだった。
その翌朝、「目がさめた」と言い方は、完璧に間違っている。
目が覚めたのではなくて、肉体が活動を開始したといわねばならない。
なぜならば、その夜、一秒たりとも、私は眠らなかったのだから。
●その朝、肉体が起きたときの爽快感は、言葉には出来なかった。
それはほとんど、肉体が完全に、リセットされて、
すべての疲労が消え去り、生まれ変わったと、
大げさなことを言うに値するものだった。
大人になってから、人は、本当にすっきりとした爽快な睡眠を
経験することななく、かなり爽快な睡眠を経験できるのは、
主に子供時代に限られるはずである。
しかし私が高校生の時に経験した、その「完璧に目覚めたままの眠り」は、
子供が幼少期に経験する爽快な睡眠の、その十倍もの爽快感だった。
●おそらくは、あのような、
「覚醒したまま、しかも、全く無思考で、暗黒の中にいる、という睡眠」を、
経験したら、それだけで、人生の価値観の大半が吹っ飛んでしまう人が
ほとんどだろう。
普通であれば、その朝の経験は、私の登校という行為により、
駅まで歩き、満員電車に乗ることで、希釈されてしまっただろうが、
幸いにして、その日は休日であったので、
私は、その当時の私にとっては、奇妙に思えた、
その睡眠の余韻を味わうことが出来た。
おそらく半日ぐらいは、その余韻に浸っていたと思う。
●それと同じ「もの」を経験することになったのは、
それから、約15年以上経過してからのことだった。
それは死人禅の「闇の瞑想」において、短い時では、数十秒、
長い時で、数十分間、
あの夜と全く同じ、無限に続く、光一つない暗黒の中に、
全くの無思考状態で、ただ意識だけが、そこにある、
という経験であった。
その際、自分が座っているという実感はない。
どこにいるかも関心がなくなっている。
たぶん、生きているかどうかにも関心がない。
ごくかすかに、ほんの100分の1以下だが、
「全く思考がないな」という思考が頭を掠めそうになるものの、
次の瞬間には、その思考すら、消え去っている。
通常は、完全に意識が目覚めたままの状態で、
1分間か2分間、いかなる思考やイメージの断片も頭をよぎらない、
ということは、不可能とされているが、
これが何十分と、何の努力もなしに、続くのである。
自らそこから出ようと意志するか、
さもなければ、肉体の知覚に、何かの強い刺激が加わらないかぎりは、
そこからずっと出てくることはないだろう。
●しかし、私は、その意識ある無思考、無感覚の状態を、
「安らぎ」とは決して呼ばない。
なぜならば、そこにあるのは、「安らぎ」ではないからだ。
それは、「安らぎ」ではない。
「絶対的」なまでの「静寂」であるからだ。
●「安らぎ」と「静寂」とでは、天と地ほどに違う。
これを理解しやすくするには、
「安らぎ」というのは、その安らぎの前提として「安らげない」
という落ち着きのなさを絶対に必要とする。
つまり、人が「安らぎ」を「感じる」という現象は、
その前提に、その真逆のものを必要とする。
放尿の我慢と、その排尿感のようなものであるし、
空腹時の食事による安堵、あるいは「性」の放出の後のようなものだ。
●ところが、「静けさ」は「安らぎ」とは全く異なり、
それが存在するための「前提」の舞台を全く必要とはしない。
(一般的な静けさの感覚と区別するために)「その静けさ」
とあえて言うが、
「その静けさ」は、それまで騒音や雑音があり、
それが静かになったときの感覚ではなく、
また、今まで耳が聞こえていた人間が突然に耳が全く聞こえなくなった、
というのとも異なる。
●まるで世界は、そのはじまりの最初から、
ただの一度も、
音もせず、
光もなく、
思考も記憶もイメージもなく、
全く何もなく、
闇という映像すらもなかったかのようであり、
しかし意識はある。
むろん、意識だけがあり、思考はないので、
その絶対的なまでの静寂さに対して、
退屈や苦痛を感じる主体もない。
●だから、それは「安らぎ」でも「安息」でもない。
そんな汚れた言葉を、私は、それに当てはめたくない。
それは、人がそれを恐れようが、賞賛しようが、
そんなことには、おかまいなしに、
絶対的なまでに、静寂でありつづける、
「ただの永劫の静寂」である。
それは根拠が前提がなく、それ自体が原因であり結果であり、
それで、完結しているからである。
●ただし、この経験をした者は、まともな全自我の者の場合には、
それを「大変な経験をした」とは思わない。
希釈自我の者に限って、
「あの静けさをもう一度だけ」と渇望して、
その後の一生を、台無しにする者も多いが、
まともな全自我の人間であれば、その絶対的なまでの静寂は、
記憶そのものには、それほど刻まれることがない。
ただし、それは、根幹的な領域に意識が回帰した経験となるので、
その後の人生には、多大な影響を及ぼすことは否めない。
また、
この絶対的な闇の静寂の「断片的経験だけ」では、
「生の充足は完了しない」ということは、
死人禅の解説で述べられている通りである。
●その絶対的なまでの静寂の中で死ねるのであれば、問題はないが、
ようはその静寂とは相反する生活を、
その後も続けなければならない事によって、多くの心的問題が発生するのである。
(特に、人間の場合、そして希釈自我の場合には。)
*********
●話が、だいぶ、横道に逸れてしまったようだ。
眠りが死に似ている、死は、眠りや気絶に似ている、
というのが、今回の話の本筋であった。
意識を失うことで、直前までの疲労や苦痛を忘却することで、
数時間だけ、心身を休める、というのが睡眠であるし、
もしも、自白を迫る拷問などを受けている場合には、苦痛のあまり気絶してしまい、
水をぶっかけられて、気絶から覚めるまでの数十秒だけ、
その者は、その苦痛から現実回避をすることが出来る。
●しかし、睡眠も気絶も、身体が死ぬまでは終わることはない。
翌日になれば、昨日の「続編」が続き、本格的に身体が死ぬまで、
あなたの作り出す連続ドラマは、終わらない。
その、連続の朝ドラは、60年生きる人間であれば、
全、21900回続く、連ドラということになる。
*********
●さて、自分や人間全体が、
生きたり、死んだりする、「その意味や理由」について、
たいして、自問したり、あるいは状況を調べたりもせずに、
とりあえずは、今日や明日という日を、食って生きてゆくため、
とりあえずは、自殺の衝動にかられないため、
このために、多くの人々が、
無神論、有神論、一神教、多神教、そして唯物論をも含む、
思想、宗教などを、個人的に構築しようとし、
または集団的に構築する事で、個人の支えとしようと悪あがきをする。
この悪あがきの「悪癖」は、地球人類に固有の病理ではなく、
わりと、全宇宙の「脳を持つ生物たち」に蔓延している神経症なので、
この点では、地球人であることを恥じる必要はありませんし、
あまり、自虐的にならないで下さい。
そもそも、自虐的になる程度で、気が治まる問題など、
たいした問題ではないのですから。
自虐的になっても、全く解決も緩和もされない苦痛や、
根幹的な、「エラー」が、私が無明庵で扱っているテーマです。
皆さんにとっては、無明庵に関心を持つということは、
いかなる意味でも、「気軽な娯楽」には、なり得ず、
趣味の精神世界情報探訪には、なり得えません。
あなたの精神にとっては、
「覚悟を決めて、棺おけに入るか、
それとも、
はいずって、これからも、愚痴を言いながら、未来を生きるか、
どっちにするか、決めろと、
あなた自身の声から迫られることとなります。
自虐史観、あるいは自己嫌悪でも、罪滅ぼしの意識や、贖罪でも、
全く何も解決できない、この上もなく、厄介な問題を、ここでは学んでおり、
それに直面してゆくことが、当庵に関わることなのだと、
覚悟をしておいてください。
●私個人の、死生観によれば、
死ぬのは、ほんの一時の「睡眠や気絶」に酷似している。
だが、この壮大な悪夢は、終わらない。
自分一人が死んで、その神経信号が作り出してきた幻想が消えて、
それで万事が解決するのであれば、
生粋の「無神論者」であるこの私も「唯物論者」になっていたであろう。
だが、どうやら、生きているという錯覚が起きる、この神経信号は、
どういうわけか、脳が死んでも終わらない。
しかも、何かの善意から、誰かが、
そうした「継続するドラマの舞台」を用意したわけではない。
「生きていると錯覚を感じている生物が、
労働力(作物または家畜)として、働かなくなったり、
作物として育たないまでに腐ったりしてしまうと、困る。」
「と思っている」、どこかの連中によって、
繰り返し、人々は、悪夢を経験させられ、
それによって、生ずる感情を、薬用原料として、搾取されている。
これが、私の、現在のこの地球に対する現実認識の「一部」である。
●ただし、この地球の人類を、発電機のように酷使する産業は、
宇宙全体にまでには普及はしておらず、
また、かなり太古の地球では、このような不正事件は起きていなかった。
つまり、他の宇宙や、他の過去の時代の地球では、
その産業の犠牲になっていない種族も多くいるということである。
*********
●ところで、今朝、この文を突然に書こうと思って、
キーを打ち始めたきっかけは、
トイレで「大」を排泄し終わった、その瞬間からであった。
排泄したとき、私はすっきりしたと同時に、
朝は、私は、空腹を感じない。
私は、夜8:00頃に夕食を食べた場合には、
朝起きて、運動をするしないに関係なく、
次の空腹が来るのは、午前11から正午ごろである。
よって、朝トイレで、私は空腹感を感じない。
●その空腹感も、喉の渇きも感じていない自分をふと感じて、
次の瞬間、こう思ったのである。
「生物は、このように、
そもそも、空腹にならねば、食べ物のことなど考えもしない。
このまま空腹というものが、一生やってこないならば、
面倒なことが減り、私はのんびりできる。
否、そもそも、空腹が起きる事自体が、きわめて不自然だ。
なぜ、空腹になっては、食ってそれを静まらせないといけないのか。
この仕組み自体が、不要である。
新陳代謝に類するものは、確かに過去の地球外の生でも経験したが、
そもそも、私は、食べるという事が、どういうことかすらも、
かつては、知らなかったではないか?」
ということを、この上もなく、「現実」として実感したために、
今、私はこれを書いている。
●ここで人間をやっていてさえも、
空腹を感じない時間には、万事が、落ち着いたものだ。
実際、人は、自分が、病気やケガをするまでは、
病気や怪我のことなど、全く考えもせずに、毎日を生きている。
人間が、悩んだり、考え始めるのは、
常に自分に問題(苦痛や心配事)が起きてからだ。
そして、これらの問題の、「形而下的な根幹」は、
「餓え」と「排泄」の欲求感覚である。
餓えと、渇きを、まず苦痛と感じ、
排泄の欲求を、苦痛と感じ、
外傷による傷を、苦痛と感じ、
内科的疾患を、苦痛と感じ、
性欲を苦痛と感じ、
運動を過度にすれば、苦痛と感じ、
運動をしなさ過ぎることによる不具合をも、苦痛と感じ、
肉体だけでも、人間とそれ以外のすべての生物らが、
漏れなく、これらの苦痛を毎日、感じ続けている、というのに、
その上さらに、地球の人類には、
形而上的な「心理苦」を発生させるのに絶好の装置である「脳」が装備されている。
●しかも、地球人類の、脳が作り出したもの(アイディア)のうち、
人々の日々の生活の苦痛を軽減したり、無くしたものはごくわずかで、
その有用な発想の量と質と「比較」すると、苦痛の方がはるかに勝る。
すなわち、人間の脳が作り出した、
心配、妄想、妄信、劣等感、恐怖、一時の快楽、幻覚、自己陶酔、
不毛感、軋轢、葛藤、恨み、楽しみ、笑い、屈辱、軽蔑、自殺願望、
の方が、生活に有用な発想よりも、遥かに量と質において、大量であった。
●この事実からしても、どうやら、
いわゆる、地球の人類型の脳と、希釈自我の精神構造を持つ生物は、
どこぞかの神々や、どこぞかの霊に愛でられたり、
その愚行を「まだ子供だから、したかないわね」と許されるほどに、
かわいい存在などではないようだ。
そうではなく、徹底的なまでに、
「動物と植物」では、まだまだ搾り出すのが、足りなかった、
「苦痛の感覚」を量産するために、
人間個人の脳と、人間という種を、
まるごと「苦痛の百貨店」にしようとした結果が、今日の地球であった、
というのが、私の持論の「御伽噺」です。
●これに反論のある人は、
ムキになってまで、これに異論を唱えているような時間は、
あなたの人生の時間として、もったいないですから、
もっと、その人が、信じると「気が楽になれる」ような、
別の「既成の御伽噺」を選び取り、
「あー、自分は(たぶん)正しく生きているんだ」、
と、他人の思想で、あなたの気を、少しだけ楽にしてもらい、
今日も、会社や、家庭や、学校で、
今日一日の生活に、耐えて、生きてください。
●ただし、ここにいる私は、
人間が「それを信じることによって、楽になるかどうか」ではなく、
現存する問題(生物の苦痛)を解決するのに必要となり、
問題を「実際に解決」できることに繋がる「事実認識」以外を、
当庵で提供しようとは、全く思っていません。
●希釈自我というものの歴史の痕跡、
それ以前にもあった、Loosh産業の発端、
こうしたことは、「原発情報」と同じであり、
「問題はない、と報道されていても、
放射性物質を食えば、あとで苦しむぞ」と私は言っているのと同じであり、
私は、現実に今起きていること、現実にこれまで地球上で起きてきた事を、
明るみにしようとしています。
「宗教信仰や、瞑想は、安全で無害」という安全神話や、
「人の魂は本来は汚染されていないから学習して進化する」というデマや、
「分割自我は、食べても安全です」という詐欺や、
そういうことに、加担している、
地球の、一切の、精神世界の人々を、
私は、「無知な加害者たち」と酷評します。
●ちなみに「分割自我復元理論」にも書きましたし、
桜の間の「過去ログ」にもありますが、
ロクでもない「創造主を自称する詐欺師ら」が、
宇宙では、あちこちで、乱舞しているので、
私は、完全なまでの「無神論者」ですが、「唯物論者」ではありません。
●そういうわけで、
無理に、オチとタイトルをこじつけますと、
無明庵というのは、ずっと、
「最善の状態で死ぬには、どうしたらいいか?」を課題としてきており、
「生き方をどうするかの問題」は、そのための二次的なもの、
というスタンスであることでは、1997年から一環して変りません。
死後の世界などないと、100%「断定」できたり、
または、死後の世界に生きても、それ以後は「たぶん苦痛はないだろう」、
といった、「都合の良い考え方」が出来るのであれば、
そういう人たちは、ある意味で幸せです。
(「本気」で、そう思えるならばの話ですが)
しかし、この部分が、もしも「不確定」であると、
実際の死に際しては、相応の「不安が発生」しますが、
それでも、「死ねば終わり」と信じる人たちは、
死ぬまでの、そのほんの数十秒だけ、少しだけ「我慢」をすればいいだけです。
●しかし、死んでも、
まだ「連続ドラマが終わらないと信じる人たち」のうち、
一般的な、輪廻転生を信じたがる人々ではなく、
現在、「自我復元」をしており、
これからそれを完了させようとしている人たちは、
その「連続ドラマ」の「シナリオを変更する手続き」を、
あなたが、死んだあとに、
どうか、意識を失わず、
交渉者に騙されずに、行ってください。
あ、
つまり、
私のやっていることは、
監査という公務の部分をどけると、
どうやら、非番の時のアルバイトとして、
詐欺の被害者らの救済活動のようです。
★最後に、・・・・
「銀河ヒッチハイクガイド」ふうの、口調なりますが、
フォード曰く
『アーサー、君は、
この宇宙で、一番自殺者の多い職業を、知っているかい?』
アーサー
『ヴォゴン族の詩の朗読を、聴かされる職務の人たちじゃないのかな』
フォード
『いいや。
自殺率のトップは、クリエーターたちだよ。
彼らは最初の20万年は、
自分たちが、何でも作り出せることに酔いしれる。
しかし、経過時間が、25万年ぐらいになってくると、
どうして、頭を絞って、毎日、こんな事をしてなけりゃらならん、
そもそも、自分がどうしてこんな宇宙を創ってまで、
生存を続けなければならないのか、納得出来ない。
それに、そもそも、俺が作った、あんな出来損ないの生物たちを、
いつまで俺は、奴らの生活の面倒を見なけりゃならんのさ?
いっそ、やつら(全生物)も、あれ(全銀河系)も、そして自分も、
ぶっ壊して、もう、おしまいにしたいよな。
と、なるわけさ。
だから、クリエーターたちは、
一種の、一家心中を、もくろんでいるんだが、
それが、技術的に難しいというのが、結論なのさ。
でも、彼らは永久に死ねないので、
彼らの、その叶わぬ自殺願望は、どんどん濃縮されて、
マーヴィンのような、
自虐型のロボットを製造する際に、重要なチップになっているよ』
******************
●今回の内容に関連する投稿として、以下もご参照ください。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?S207
________________________________
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