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[408]
■
★分割自我復元★その408■ 「トラウマ掘りの報告事例」
by:
鈴木崩残
2014/11/25(Tue)09:30:51
Aさんからのご報告
引き続き、自我復元をしているAさんという方からの報告です。
前の、Kさんのも、無干さんのも、
そしてまた、朱いはがねさん、他、お姫ちゃん、マディアさん、Abyさん、その他、
現在、ブログが残っている人たちのブログは、
「読み物」ではありません。
私はエンタ性のあるなしで、公式ブログの判断をしているわけではありません。
前の投稿にも書きましたように、「自我復元」に取り組んでいる必死さが、
そこにあるかないか、と、
もう一つはその内容が他者にもたらす自覚のうながし、
という点をも重視しています。
復元ブログは、面白く書く必要もありませんし、
必死さを装う必要もありませんが、
ただし、必死さと、それが本人に変化を生じている、または
その可能性がある、というものしか残しません。
今後も、消えるブログはあると思います。
(相談の上という事もありますが)、基本的には、判断は私がします。
それではAさんからの報告内容です。
*********
崩残 様
お世話になっています。
ご無沙汰していました。
過去に報告した内容に関係した事も書いています。
よろしくお願いします。
自分がやりたいと思ったこと、自分のためにやることが
人前では出来ない。
利他的な行為、と周りの人たちが認めるような事でないと
堂々と動くことが出来ない。
たとえば綺麗な景色を見て写真を撮りたいな、と思っても素直にそれが出来ない。
変な例えだけれどまるで、他人の自転車を自分のモノのフリをして持ち去るような、
妙な後ろめたさ、悪いことをしている感じが拭えない。
それでわざとそう言うことをしてみるのだが、
どうしてもやってはいけない事をしているという罪悪感が付きまとう。
小学生の頃、女の子たちはよく誕生会を開いて友達を招待した。
私も時々招待されたが、プレゼントを買うお金を母に要求することは
酷く緊張する、避けたいことだった。
消え入りそうな気持ちでプレゼントを買うお金が欲しいと言うと母は怪訝そうな顔をした。
「…え、なんでそんな要求をするの?」という感じで。
そこに漠然とした非難のようなものはあっても、率直な非難や意地悪さは感じられないので、
母の何に反発してよいかも分からないし、自分がとっても悪いことをしているように感じていた。
ある友達の誕生会に招待された時、どうしてもプレゼント代が欲しいと言い出せなくて、
自分のお小遣いで買ったことがある。
当時のお小遣いは月500円で、その時300円手元にあった。
私は小学校前の文房具屋さんでノートと鉛筆2本と消しゴムを買って行った。
皆、綺麗にラッピングされたぬいぐるみや、小物や、
かわいいサンリオの文房具などをプレゼントしていて、
お誕生日の子はとっても嬉しそうに一つ一つを開けていた。
私のはプレゼントなんて言えない、ただの消耗品だ。
普通の文房具屋さんの袋にそのまま入っているだけ。
本当にみじめで、寂しい気持ちで誕生会に参加していた。
なぜあんなことにならなければならなかったんだろう。
どうして友達のプレゼントを買いたいと言ってはいけなかったんだろう。
友達が喜ぶ顔を想像しながら、プレゼントを選ぶなんて、本当はわくわくすることなのに、
それを悪いことのように感じて、こっそり買わなければいけないなんて。
母は私が楽しむ事を喜んでくれなかった。むしろいけない事のように振舞った。
友達と遊ぶことを快く思わなかったのもそうだ。
だから私は自分のしたいことを知られることに罪悪感を感じるのだ。
「なんでそんな要求をするの?」という母の雰囲気はとても曖昧だったけれど
それは「あなたは主張や要求をする立場にない」ということだ。
母はたまに私に「恥ずかしい」「みっともない」「みすぼらしい」などと言ったが
同時に「あなたは優しい子」「私に一番似ているって○○さんが言っていた」と褒めることもあった。
それは「優しい良い子という檻から出るな」
という命令であったし、「私も自分を押し殺して生きてきたのだから、
あなたも自分を殺して生きなければいけない」という強要だったのだ。
そういう事に気づかず、母が好きだった私は、「似ている」などと言われて喜んでいた。
私は母の思う通り、何も要求せず、やりたい事もしないし分からない、
大人しく檻の中におさまる人間になった。
その点、母は満足して死んでいったに違いない。
職場で、人の粗探しが好きな人がいる。
その人にミスを指摘されると、表向き従順にあやまる。
そして、教えてくれてありがとうございます、助かりました、ぐらいへつらう。
その人は優越感を感じていることがはっきり見て取れるのに
私は感謝しているかのように振舞う。
どこまでも隷属的で偽善的で自尊心をすっかり放棄している。
だけど最近、心の中では怒り狂っている自分に気づく。
「まだ踏みつぶそうとするのか。こんなに自分を圧縮して、押し潰して、
一切の自己主張を封殺して、周りを優先しているのに。」
というように。
自我復元を始めるまで、こういう自分の怒りにすら気づかずにいた。
「善良な人間」という檻に入れられていることも知らず、
自分は気遣いをする善良な人間だと、まるで長所のように思っていた。
どうしてこんなに奴隷人格に占拠されてしまったか考えていると、
やはり小学生の時、母にガン無視されたことを思い出す。
私は自分が歪んで、潰れて、まともな人間じゃないと子供の頃からなんとなく感じていて、
母のせいでそうなってしまったと感じ、その文句を書いた紙を
見つけられてしまった時だ。
あの時の恐ろしさは「生命線を握られている親に見捨てられそうになって
間接的に死を感じ、怯えた」というより、
その場で自分が消失していくような怖さだった。
母に何日か無視され続け
恐ろしさに耐えられなくなった私は、なにもかも捨てて母に無条件降伏して、
なんとか首の皮一枚でつながった。
そういう体験だったと思う。
誰かに不快に思われた、と感じた時、今でもこの時と似たような、
自分が消失していくような恐怖を感じている。
中略
子供のころ、私はトイレに行くのが怖かった。
大正時代に建てられた家の、黒光りする廊下と柱時計、
トイレの水を流したときの大きな音、
子供が夜中に一人で行くにはやっぱり怖かった。
たぶんミュンヘンオリンピックか札幌オリンピックの時、私が7歳のときのことだと思う。
やはり夜中にお手洗いに行きたくなった。
でも母を起こしては悪いと思い、怖々一人で行った。
次の日、昨日夜中にトイレに行って怖かったことを母に話したら
「来ればよかったのに。オリンピック見てたから起きてたのよ。」と言った。
たったそれだけの出来事。
でも私は子供部屋に戻り、本棚の陰の誰にも見つからないところで
声を殺して大泣きした。
せっかくお母さんが来てもいいって思ってくれてたのに!
頭をぼかぼか殴ったり、髪の毛をかきむしったり、じたばた地団駄踏んで
ぐちゃぐちゃになるまで泣いて自分を罵った。
その時は何故こんな事で自分が取り乱して大泣きしているのか、
分からなかったし、今までずっと不思議だった。
考えてみるとこの「来ればよかったのに」を
「あなたが来るのを待っていたのよ」と解釈したのだ。
母は別に待ってなどいなかったのに、
自分の願望がそう思わせたのだ。
もし行っていたら、お母さんは私を優しい笑顔で部屋に迎え入れてくれて、
一緒にオリンピックを見ながら話をしたり、選手を応援したり、
楽しいことがきっとあったはずなのに。
もう二度とない、最初で最後のチャンスだったのに、
それを気なんか遣ったばっかりに永久に失ってしまった、と思った。
小学生の頃まで、私はずっと、もっと母を近くに感じていたかったし、
ベタベタしたかったし、心を通わせたかった。
よく心の中では母の事を考えていた。
母が気が向いて買ってくれた人形に、こっそり母の名前をつけて、
ベッドに置いていた。
母は育児放棄もしなかったし、洗濯もしてくれたし、お弁当も作ってくれたし、
授業参観にも見に来てくれた。
だけどいくら考えても、
母が私といることを楽しいと思っている、と感じたことはない。
一緒に楽しんで何かをしたという記憶がない。
だから自分でも自覚していなかったけど、ずっと母を求めていて、
もう少しでその望みが叶うはずだった。
それなのにあっけなく逃してしまった、と思ったらとても平静を保っていられなくなり、
あんなに、頭がおかしくなったみたいに号泣したのだ。
2歳頃だと思う。
スキー場かどこか雪の積もっているところのベンチに座っている写真がある。
この時、私はここを歩いたらきっと滑って転ぶと分かっていて、
母にかまって欲しくて、わざと歩いて転び、抱き上げてもらった。
母は「あらあら」という感じで抱き上げてくれて、私はとても嬉しかったのを覚えている。
この頃はまだ妹もいなかったのに、母に「抱っこして」と素直に言えなかった。
そして抱っこしてもらうために計算までしていた。
この頃から私はもうまっすぐな自分らしさをなくしていたのだ。
私はずっと母に片思いしていたけど、結局かなわなかった。
私と母が普通の親子のように話せるようになったのは高校も卒業してからだ。
「親子とはこういう会話をするもの」という雛形をどこからか仕入れて
そのように振舞っていただけだ。
母は子供たちの中で一番私と話し易いと言っていたが、
私は母の前ではいつも母の望み通りの子でいたかったのだから当たり前で、
本当は、仲の良い親子でもなければ、心の通った親子でもなかった。
仲の良い親子の振りをして互に依存し合い、虚偽の安心感を得ていたに過ぎない。
今でも人と接する時、母への片思いの感覚が基本にある。
「自分は受け入れられない」という恐れがすべての言動の基本になっている。
だからいつでも相手の様子見をしながら、計算しながらでないと
動くことができない。
そして返って相手が私と距離を縮めようとすると、
どうして良いか分からなくなって怖くて
自分の方から距離をとって、遠ざかってしまう。
距離が近づけばきっと私を拒否する、と思っているのだ。
■「母の子供の頃の話」を「伯母たち」に聞くと
皆、「よく『H子(母)の机の中はきちんと整頓されているのに、
お前たちは散らかしっぱなしで、少しはH子を見習いなさい』と親から叱られた」と言う。
そして妹と比較されて不快だった、という雰囲気は伯母たちからは感じられない。
子供の頃、母はいじめや噂や攻撃をかわすために
物静かで従順で無害な人格になっていったのだと思う。
この人格は完全に母を支配していて、家族間でもそうだったのではないかと思う。
そういうかわいそうな境遇の母を祖母は不憫に思い、伯母たちを叱るという形で
母を慰めようとしていたのではないかと思う。
またどの伯母もあまり、母と何かをした思い出というのを語らない。
決まってこの整理整頓が上手だったという話をする。
母をとても可愛がっていたことは以前から伺えたのだが、
母自身がある面ではぴったりと心を閉ざして自分を封印し、
物静かで従順で無害な人格で自分を覆い尽くしていたのだと思う。
だから母との印象的な思い出がなかったのかも知れない。
■父方の「祖父」について
先祖は***に暮らしていたが、祖父が東京に出てきた。
登山も好きで父は子供のころからよく登山に連れていってもらった。
家では短気で、嫉妬深く、よく祖母に暴力を振るい、
祖父が死んだとき祖母はほっとしたそうだ。
事業に失敗し、子供たちも借金の返済をしていた。
■父について
もともと******を経営していたが、
バブル崩壊で何億とも知れない借金を負った。
それが原因で、保証人になった父の弟一家は家を手放すことになった。
母の姉妹からも借金をしていたが、現在に至るまで返済していないようだ。
好戦的で***を訴えたりしていた。
不法就労していた東南アジア人が、
賃金を踏み倒されたまま強制送還されるのを知り、
雇用主から徴収してやっていた。
東日本大震災の時、まだ一般車両が通行止めだったとき
公安に誘導させて被災地に物資を搬送していた。
時々人の為に何かをすることがあったが、慈善行為というより、
好奇心とか、(変な正義感で)やりたくてやっているという感じだった。
山が好きで、特に****は自分の庭のように細部まで知り尽くしている。
77才の時、一人で****に登りに行ってしまった。
母とは職場結婚だったが、同じ登山好きということと、
母は大人しく服従的だったので、父は伴侶として理想的に思ったのかも知れない。
恐ろしい父だったが、子供たちに執拗に絡むということも、
決まった口癖というのもない。
ただし、苛虐的なところがある。
父が子供だった頃の話だ。
飼犬が言うことをきかないので、
棒で散々殴った結果、キャンキャン哭きながら逃げていった。
だけど一ヶ月ぐらいしたら、顔に傷跡のついたその犬が戻ってきた、
と愉快そうに話した事がある。
顔に怪我を負わせるくらい殴ったという話は、本当に怖かった。
それを楽しそうに話す父が理解できなかった。
10年ほど前、実家で飼っている犬が父に噛み付こうとしたことに怒り、
その犬を吊るして数時間放置したことがある。
私の母方の祖母が亡くなった時、
悲しみにくれている母を、とても冷たくあしらっていた。
葬儀で使った遺族用のリボンや小物を、
家に帰るなり母の前でドサッとゴミ箱に投込んでいた。
母はめそめそ泣きながら、それをこっそり拾ってどこかにしまっていた。
父は自分以外のものに、母の関心が行く事に酷く嫉妬している、
と私は感じた。
店で買い物をする時は必ず値切る。
店員が応じないと酷く高圧的な、脅しに近い態度になり、
それでもだめだと、店員の自尊心を最大限踏み躙るような、
侮辱的な態度をとって店を去る。
自分に服従しなかった店員への復讐。
父は、猫が嫌いだ。
実は怖いのでは、と父の様子を見ていて思う。
たぶん犬のように人間に服従せず、怖いもの知らずに見え、
コントロール下に置けないことが原因だと思う。
父は、かなり自分の好きなようにやっているように思えて、
祖父とそっくりな人生を歩んでいることから
やはり祖父から何らかの感染、洗脳があったのだと思う。
■父には小さいころからよくスキーや登山に連れて行かれた。
寒くて疲れて、立ち止まってしまうと、
父は「何時までもそこにいろ」と、どんどん行ってしまう。
こういう時、母も父に従うだけだった。
気の強い姉は、なにくそという感じでついて行く。
皆がずっと先に行ってしまって、自分だけが森の中に取り残されると
恐ろしくて、ただ歩き続けるしかなかった。
泣いて助けを呼んでもだめだという事は物心がつく頃にはわかっていた。
父はむしろ「抱っこして」などと言ったら絶対そうはさせなかった。
一年ほど前、所用で**に行った時、
広い海を見ていて「いいなあ、海が好きな人は」と思った。
あの広い海に自分を投げ出して海の一部みたいになれるなんて、すごく羨ましいと思った。
それではっとした。
私は海より山が好きだと思っていたけれど、そうではなかったんだ。
父は私が小学校2年の頃、****に山荘を買ったので、
毎週のように行ったし、山にも何度か登ったりした。
私はできれば一日中お絵かきをしていたかったけれど
父にはそんなことは言えない。
また「山なんてそんなに好きじゃない」とも言えない。
言えないというか思うこともできなかった。
当時は父にも逆らえなかったから、「山が好き」と思い込んでいた。
だから***は沢山の懐かしい思い出があるけど、
その懐かしさにとても不純なものを感じる。
とても嘘くさくて、リアリティーがない。
純粋に、ただ山を好きになれなかったことをすごく残念に思う。
父は子供たちの反骨精神を培いたくて色々経験させたけれど、
私は父に服従することしか学ばなかった。
■父は私が覇気がないこと、自分の意思がないこと、勉強が出来ないことを、
かなり不快に思っていたと思う。
子供のころから、私を見る冷たい目つきや、
ちょっとした言葉にそれは現れていた。
父は家でも外でもいつも正々堂々としていたので
そういう父に不快感や軽蔑心を抱かれて、とても怖かったし、
自分をダメ人間だと思っていた。
だけど父が不快に思う私の姿は、母が望んだ姿ではないか?
私が中学生の頃、部活動でテニスをしていたとき、
母に「お父さんがあなたのこと、スポーツ選手らしい快活さがないって言ってたわよ」
と元気のなさを注意されたことがある。
その時私が抱いた不快感の意味が最近わかってきた。
「あなたがそれを言うのか」ということだ。
母は私から快活さを奪っておいて、
それがないと言って非難していたのだから。
大人しく従順で自己主張がなく、
同時に活発で反骨精神のある人間になどなれるはずがない。
報告は以上です。
掘り方がまだまだ甘くて
どうしても同じところをループしてなかなか進まないと感じるのですが一度報告させていただきました。
いえ、かなり、深部が、掘れていると思います。
*********
もうお一人からの報告です。
自分が馬鹿にされていると思っている人間、
理性より感情と口が先に立つような人間が、
頭ごなしに他人を否定しにかかる。
このようなタイプの人間に会うと母親の影が見えてしまう。
精神的に潰してやりたいと思ってしまう。
小学5、6年の頃だろうか。
私の反抗が始まってからの出来事だと思う。
母親が心臓が苦しいと言い、倒れ救急車で運ばれた。
私は泣きそうになりながらも何も出来ず、うろたえた。
焦りと不安で母親の側に行けず離れた所で様子を見ていた。
立ち回っていたのは祖母だった。
私は表面に心配を出せなかったと思う。
すでに敵視していた母親に弱みを見せたくなかった。
感情を抑え、ただうろたえていた私に対し
母親は失望と恨みを募らせた可能性がある。
この事件は、もしかしたら母と祖母の狂言だった可能性もある。
私の親へ対する気持ちを確認するために。
そうだとしたらそれは失敗に終わった。
泣いて母に心配する姿を見せなかったからだ。
内側では心配をしてはいたが…。
母の期待通りにはならなかったのかもしれない。
それが恨みとなったのか?
「よ〜し、覚えていろよ!」
この言葉は私の反抗に対して母がよく使っていたものだ。
子供の頃から家では母親に甘え、頼りきっていた。
いつも「お母ちゃん、お母ちゃん」と呼んでいた。
「お母さん」ではなかったのだ。
母から否定されることが多くなった頃、
自分にとって親は「召使い」であって欲しいと願っていたはずだ。
私の要求に応えるだけでいいのだ。
だから召使いが病で死んでは困るのだ。
母は、私が反抗ばかりで自分の言いなりにならないと分かると
せめて普通の人間でいて欲しいと願ったと思う。
人から尊敬されるような職業は諦めたと思う。
小学2年の時、学校で将来の職業は何になりたいかと聞かれ、
私はアントニオ猪木みたいなプロレス選手と答えた。
爆笑がクラス全体を覆った。
母親と学校に否定されまくった。
この頃から否定されることが強くなった。
否定が続いていく内に反抗が根を張り始めた。
邪魔な母だが、甘えの対象だった。
受験シーズンを迎え、模擬試験を受けるためにどこかの学校へ行った。
色々な学校から来た親と子供が並んでいた。
私は母が付いて来ていることがイヤだったので他の親たちの前で
「帰れ!」と何度も罵った。
母は呆れたように苦笑いをし周囲に冷静を装っていたが内心では
「よ〜し、覚えていろ」と思っていたはずだ。
他の親の前で恥をかかされたわけだから。
私への恨みは強まったはずだ。
子供から馬鹿にされる、ののしられる親。
これが父親にも伝わり、父親も馬鹿にされていると妄想したらしい。
ますます、親子間の断絶が強くなった。
父親は自分から何かを言うことができない。
臆病だ。
だから母を使い何かを私に言ってくる。
母にとって私は道具に過ぎない。
医者か政治家のようになる私にしか興味ない。
母にとって不健全な道を歩く私は、
親の金を使う寄生虫に過ぎなかった。
私は他人の前、友達の前、親戚の前で母をこき倒した。
私が親に屈しない姿を他人に見せつけてきた。
それで、母親の恨みは積もりに積もったようだ。
そして私が屈辱を受ける日々が始まったのかもしれない。
親と揉めた日々をさらに掘って見ました。
まだ、核心に行き着いているかは分かりませんが
気になる所を書きました。
******
今回の書の乾燥です。
崩残様、
書の作成ありがとうございました。
今回選んだ文字は全てトラウマ関連でしたが、
洞察の甘さから不適切な選択をしてしまいました。
「*」「*」はトラウマの核に辿り着くことを妨げている障害物
又は自分の甘さを取り除くという意味合いでした。
「**」「**」はその源泉を突き止めたいという意味でした。
頂いた「要」「観」を拝見した時に感じたことは「きれいな字」でした。
そして「要」はこんなにも良い字だったとは今まで思っていませんでした。
崩されていない文字がこれほどいいと思い、しっくりきたのは驚きでした。
というのもここ何年間の自分の筆跡、
特に文章を書く時のものがわざと作ってしまってるものが多かったからです。
故意に癖を強調し、丸みをつけ右に流れるようにしてしまう、
ややお洒落に見せようとしてしまうのです。
「*」を書かれている時に右に流れるのを見て、
自分がかっこつけで書いてる字のようにも見えました。
自然の癖を越えて何事も強調し過ぎてしまうこと、
心の癖に改めて気付かされました。
未だに自分はしっかりした土台があって崩す形ではなく、
土台が崩れたままで生きているということだと思います。
書を頂いた直後に気になる夢を二つ見ました。
>以下、割愛
次は、ブログを書いていた黒丸さんですが、
私信のやりとりの一部です。
黄色部分は、メール中の私(崩残)の部分です。
↓
> 出来ない子供のままにして、最後に、やっぱり自分がいなければな、
> と毒父親はあなたに言いたいわけです。
まさしく、父親は、この性質だと思えました。
> そうやって、どうすれば良いかを探るよりも、
>「やめてしまえ」と相手を馬鹿にするほうが楽だからです。
両親の言動からこの性質を見ました。
「やめてしまえ」とは言いませんでしたが、
**に頼め、お前では解決できない。
と、結果的に私のコミュニケーション能力を削ぐという点で、
同じような状況になっていました。
しかし、
> しかしそれを受けてやめてしまうと、
> 結局は、自分で自分を馬鹿にしてしまい、
> 毒親の思惑どおり、「上手く行かない」ままに放置されます。
中略
自我復元ブログを始めた動機は、ほとんどの場合、
別の場所で発生している不満の希釈の為という動機が、
影響していると思いました。
また、ブログ以外でも私が何かに関心を持つ時も、
その時に感じている不満から意識を逸らせることが、
本当の目的の場合が多いと思いました。
目的が関心を持った分野の体験ではなく、
不満から目を逸らせる為なので、
内容が中途半端になってゆくのだと思いました。
>「おれは、これこれこんなふうに、きちんとやったさ。
>だから、悪いのはあいつだ。」
> 父親はそういう感じではありませんでしたか?
この感じは父にもあります。
自分のやったことは肯定して、上手く行かなかったことは
他人や会社のせいにする性質はあります。
また、ご近所さんや親戚に対して、私をだしに使おうとした動機からは、
「おれは、これこれこんなふうに、きちんとやったさ。
だから、私は間違っていない、みじめでないのだ。」
という思いもあるのだと感じました。
昨日の電話の際、
「専門大学に行っていなくてもこれぐらいのことは出来るのだ。」
というセリフから、父親には学歴などのコンプレックスから来ているように見えました。
求めている成果は、結局は、
「私の考えは正しいのだ。」という思いだけなのだと思えました。
書き出した「父の多趣味なるものと、その成果(のようなもの)」をみていると、
選んだ趣味は、それぞれ「他者と関わらずに済む性質」があるように思えました。
> つまり、ひとつのことを学習して、ある程度、
> 社会的、または経済的に、使い物になるところまで実力をつける、
> という力を毒親は小さいころから、子供から奪うというのが上等手段です。
> 子供が得てゆく、実力というのが毒親がもっとも恐れるもので、
> 実力をつけたら子供にケチや文句をつけられないからです。
> そういう点では、それをそがれた形跡がむろんあるのですが、
> それを削ぐ方法のひとつが、
> コミュニケーション障害を子供に植え付けることです。
>それがもたらしたものは、リアルの世界での他者との交流の疎外です。
復元をする前は、「本心を隠して、体裁をとる。」ということで
他者と交流することがコミュニケーションだと、疑いもせず思っていました。
交流の疎外は発生しているのに、その事に気が付いていない状態でした。
> 一方で、メールにおいても、
> こちらに対して(おそらくは誰に対しても)、必要な説明がなかったり、
> また、きちんと、相手に、実際のところはどうかなどの確認をとらずに、
> 妄想の中で相手の考えを推測してしまったり、と、
> ネットやメールを通じても、コミュニケーションに障害をきたしていると私は感じました。
> また、相手に質問するというのも黒丸さんは非常に下手です。
復元を始めて、これまで当たり前だった、
「本心を隠して、体裁をとる。」自身への裏切り行為だと知ることができましたが、
知っただけで、使えていないことが自覚できました。
> それも結局のところは、初期に植えつけられた、
>「相手(父親)に振り回されないように、
> 閉じる、妄想する、現実は見ない、理由をあとから、すり合わせる、
> 無視する、時間や睡眠に解決させたい」 などが形をかえたものだと思います。
> しかし、実際には、感情的になったり、嫌だと拒否したり、
> そうしたことを当事者の相手とぶつけ合っていかないと
> コミュニケーションは成立しませんし、自分自身の意思もわかりません。
> その点での問題を、私は黒丸さんにかなり感じています。
自分自身の意思を確かめる前に、
相手の意向に沿うべく方向修正することが、
私のやるべきことだ、私の意志だとしていました。
上の文章を書いていて我ながら、
「その行動の何処に自主性があるのだ?」と思いました。
選択の後、自分の意思は後から出てくるのですが、タイミングを逃しているので、
不満がある場合は、関心事探しや、妄想、睡眠で
不満を希釈しにかかるというループになっています。
> ではどうしたらいいかとなると、
> それは、何よりもまずは、親を相手に、次に職場や知人に対して、
> これまでのAC人格の動機による振る舞いを自分に許さないということを
> 積み重ねて、軌道を変えることしかないのです。
方向修正の助言ありがとうございます。
実践していきます。でなければ、根本を変えられないと思います。
***************************
■最後に、無干さんからのメールですが、
大幅に割愛させていただいた上で、少しだけですが、掲載します。
『****な顔』という容姿に対するコンプレックス
友人としゃべっていて、
いつも、話がその方向に向くのではないかと、私は内心ビクビクしていました。
「頼むからその話題に向かわないで欲しい」、と祈るような想いでした。
上級生の高圧的な態度に抗って、こちらが自分の意見を主張すると、
「ふんっ、お前顔が****な、くせにっ」
とおどけて冗談のフリをしながらも鼻でせせら笑われ、
尚一層抑えつけてきました。
そうすると、私は、言葉に詰まってしまいました。
それは事実だから言い返せません。
それは自分の立場を有利に展開させるために
他人の身体的特徴あげつらって貶めるという幼稚な戦術なのですが、
私はただうろたえるのみでした。
今でも、この年になっても、毎日その呪縛に苛まれています。
その度に、私は、針の筵に座っているようでいたたまれなくなります。
この世界では、不細工は色気づいちゃあいけないことになっているのです。
不細工が発情した絵それ自体が他人様を不快にし、他人様に迷惑かけてしまう、
そういうことになっているのです。
「だから、新しいことを始めろって言ったって、この顔じゃあなあ」
そうやって、自分自身で、いつもブレーキをかけてしまいます。
ブレーキをかけるのは、私の中のAC人格であることはわかっているのです。
でも、顔は変えられない。
いったいどうすればいいんだ?
どこから手をつけたらいいのか、
どうやってこのトラウマに斬り込んでいったらいいのか、
わかりませんでした。
反射的にぐわっと一気に燃え上がる、自分に対する嫌悪感。
顔のことになると、顔の皮膚面積すべてが敏感になり、
その身体感覚のせいでなお一層、顔を意識させられてしまい、
自意識過剰になって、奈落まで落ち込んでしまうのです。
とは言いながらも、その一方で、
ルックスを褒められたりした数少ない経験を、
書き連ねるほどに、私はちゃんと記憶に大切にしまっていて、
矛盾しているのですが、
私はそれを、その数少ない体験を成功体験として、
自分はモテる、ルックスは人並みより上だと、思い上がるための根拠、証とし、
自分を焚きつけモチベーションを高めるために、
他の男に比べたらまあイケていると思い込むために、
その記憶を使っていました。
私は、劣等感と優越感との両極のはざまを、ぶれまくっていました。
『顔の事を指摘され揶揄されることへの怯え』と
『俺はイケているといううぬぼれ』、
怯えとうぬぼれ、いつもこの二つの想いが、
自分を貶めては持ち上げる二つの相反する想いが、
私の中で交錯していて反駁し合うのですが、
結局は、
『顔が不細工だ』という想いが勝って私の意識を制圧してしまい、
積極的な行動に出れずじまいとなるのでした。
私は顔ばかり意識して、
いったいこの人生のどれだけの時間をムダにしたことでしょう。
いったいどれだけの、人生を謳歌する機会を自ら潰したことでしょう。
「顔に問題があるから、何をするにしても、踏み出すことができないのだ」
という言い訳をしてしまいます。
【前提が崩れる】
最初Kさんの自己分析を読んだとき、
おっしゃっている意味がわかりませんでした。
「醜いから劣等感を持つ、当然の話じゃないか、
この方は何が言いたいのだろう?」
でも、Kさんの文章には、
私の顔のコンプレックスに関わる重大なヒントが示されているような気がして、
これはただ事ではないと思いました。
もしかしたら、これで私の人生は大きく舵を切ることができるかもしれない、
と思いました。
プリントアウトして何度も何度も繰り返し読みました。
そして、やっとその糸口が見えて参りました。
どうやら私は、強い催眠状態に罹っているようです。
Kさんの文章を、一区切りずつ、自分なりにかみ砕いていくうちに、
私は致命的なトラップに嵌められていることに気づきました。
『容姿を理由にした洗脳』
兄弟のミノルの悪巧み、トラウマ植えつけの手口は、
→ 容姿の醜い者は劣っている、容姿の美しい者は優っている。
だから → 劣っている者は優っているものに使われるのは当然、
醜い者は裏方となるのは当然だ。
私は、このミノルの催眠術にまんまとハマってしまっていました。
自分の方から、『おじろく・おばさ』のポジションに収まって、
『おじろく・おばさ』顔になってしまっていたのでした。
まぬけ顔。
自分でものごとを考えず、主人の判断を請うまぬけ顔です。
私は、私の方から、
ミノルの価値観、ミノルワールドから抜け出さないで、じっとしています。
『顔が醜い → 劣っている』
ミノルの子分、ミノルの家畜というポジションにはめ込まれ、
そのポジションに幽閉されて、抜け出せないでいます。
前回のメールで、崩残様からアドバイスを戴いた、
自我率上昇に伴っての『新しいことを挑戦する』件にしても、
一番影響しているのが、この心理的ブレーキ、
醜い容姿に係る被害妄想なのです。
そこで「****に通ってみようかな」とも思います。
しかし、そこでもまた、
バカにされる。ニヤニヤと嘲笑われる。
身の程知らずだと、汚物扱いされる。吊し上げを食らう。
怖い、それが怖いのです。
私は、いつも周りの反応を窺っています。
顔の造作を他人から揶揄される
→ 顔の神経が十倍くらい敏感になる
→ 化け物、奇形、劣等感を意識せざるを得ない
→ 自動的反射的に劣等を意識して落ち込む
→ 同時にこの造作を忌み嫌う、自己嫌悪
→ 自分の方から劣等のカテゴリーに収まる
そして、
→ 特別意識の発動
この苦しみは同じ顔を持っている者にしかわからない。
わかる訳がない。俺はお前らとは違う、特別なんだ。
(似非神秘体験がそれを補強します)
→ 逆恨み 俺が常日頃気にしとることに触れやがって、この野郎っ。
俺だってなりたくてこんな醜い顔になったわけじゃない、
できれば変えたい。
でも変えることができない。諦めるしかない。
「相手の立場を思いやれないお前がバカなんだよ、クズ」
【なぜ私はここまで神経質に、
顔のことを気にするようになったのか?】
『私はミノルとは対等でない』という刷り込み。
『私は父とは対等でない』という刷り込み。
『私は母とは対等でない』という刷り込み。
これが彼らが仕組んだトリックの真骨頂だったのではないかと思います。
『お前とミノルとは対等ではない』という事実のねじ曲げがまずあって、
「お前よりもミノルの方がヒエラルヒーのうちランクが上だ」
というねじ曲げられた事実の(私への)刷り込みがまずあって、
次に、私より優位である(と私が思いこまされている)ミノルから、
私の身体的特徴、容姿に関わるあからさまな指摘、侮蔑、からかいが行われ、
私はトラウマを負った。
この二段階の刺激投与によって、
母は母なりに、父は父なりに、
彼らそれぞれは、支配したいターゲットである私の意識に、
『容姿の欠点は、すなわち、劣等位である
(だからミノルに服従しなければならない)』、
という条件反射を植えつけることに成功したのだと思います。
否、仮に彼らが意図的にやったのではないにせよ、
彼らの『お前とミノルとは対等ではない』という刷り込みが原因で、
私は、顔が醜い = 劣等位である
という妄想の罠から抜け出せなくなっています。
ある集団に属したとき、それはどこが品がないのか、当時の私には、
的確な言葉に落とし込んで指摘することはできなかったけれども、
やっとわかりました。
Kさんの文章のおかげで、言葉に落とすことができました。
当時の私が言いたかったことは、
そこには『対等性』がまるで欠落していたということなのでした。
あの社会では、『対等性』を匂わすことすらもタブーでした。
『人よりもかすめ取るのが素早い者』が賞賛される社会。
優越性のみがクローズアップされ続ける社会。
それはすなわち、
劣等感を植えつけられた家畜が量産され続ける社会なのでした。
そこには、自分の生まれ育った家庭でお馴染みだった、その相似形の、
卑劣で品のない主人と家畜、主人と奴隷のヒエラルヒーの構図が、
さも立派そうに装飾されてあぐらをかいていました。
優越感と劣等感、その両極しか存在しない社会でした。
いいえ、ちがいます!
中には、そうでない人は居たはずなのです。
ですが、私には、そういう人を見つけることができなかったのです。
私自身が催眠術に罹っていたから。
自分と同じ催眠術に罹っている者ばかりとしか干渉し合わなかったのです。
しかしながら、私の中では、
あまりの人としての俗っぽさに失望する一方で、
その気味の悪いその社会に違和感を感じず、
否、「オレ様の出番じゃ」としゃしゃり出て得意がる自分がいたのでした。
なぜかと申しますと、
自分が幼少の頃から過ごしてきた家庭という監獄と、システムが同じでしたから。
そういう監獄での処世術には慣れていますから、
嫌で嫌でたまらない一方で、
「ここだったら、今までのやり方を踏襲するだけでいい、楽できる、安泰だ」
と私の中のAC人格は見きって安堵したのでした。
『対等であってはならない』
それが私の生まれ育った家の、
母方にしても、父方にしても、金科玉条でした。
Kさんから優越性と劣等性のはざまという命題といただいて、
やっと彼らの毒性の本質が見えてきたような気がします。
あの家では、母方にしても、父方にしても、彼らの家では、
『対等』という概念は地雷でした。
容姿が醜い
それは、即「人として、個として、劣っている」ということを
決して意味しません。
ところが、容姿が醜い、すなわち、劣っている、
よって、絶対服従、家畜の地位に留まらなければならない。
と彼らは決めつけていました。
これこそが、幼児の私の事実認識を歪めさせるトリック、悪意なのでした。
父と母は共に、『親子間の対等性』を決して許しませんでした。
断固として許しませんでした。
どんなに柔やかな態度をしていても、譲歩するフリをしていても、
子が親に対して対等な立場であることを認めてもらおうとするとき、
それだけは絶対に許しませんでした。
容姿が醜い、のは、何かの分野では不向きであることは間違いない。
容姿が醜いと美男役の俳優やファッションモデルにはなれないだろう、
自明である。
だが、人として、総合的に劣っている、ということにはならない。
彼らの諭す、そのレトリックには、いつも優位と劣位しかないのでした。
『対等』が抜け落ちているのでした。
それを意図的にやっていたのだと思います。
そして、Kさんが看破されていらっしゃったのは、
まったくそのとおりだと私も思うのですが、
自分が劣っていると思うからこそ、
妄想の中で優位性を得たがるのです。
つまり、妄想の中で、相手を侮蔑することによって、
相手に対する優越感に浸ろうとするのでした。
『自分が相手よりも全面的に劣っているという惨めな感情』
が発動することさえなければ、
妄想の中でことさらに自分を過大評価してみたり
いきがったりすることもないのです。
劣等感は優越感を誘発し、優越感は劣等感を誘発します。
そして、想いの振り子は、優越と劣等の両極をいったりきたりし続けます。
安らぎの原点、『対等』という位置があるという真実を、
彼らは決して教えようとしませんでした。
それは、知らないからではありません、
知っていてわざと教えなかったのです。
だから、卑劣なのです。
母にせよ、父にせよ、その事実を子供に教えると、
自分たちが美味しい思いをしている、
『劣等の犠牲者の上にのみ成立する、優越という甘露』
にありつけなくなるからです。
母は被害者ぶります。
あるいは、わざとじゃない、
過失傷害だから情状酌量の余地があると主張します。
ですが、母は、
ミノルと私が『対等位』であるという事実を決して明かしませんでした。
カズオが大学生のとき、投身自殺を図ってさえも、
死という最後の切り札を切り、
自分のことを一人の人間として『対等に扱え』と詰め寄り抗議してさえも、
母は、成人に達したカズオが親に対して『対等位』になることを許しませんでした。
自分の優位性を確保することばかりに腐心し、
カズオに劣等の地位に留まらせるように、劣等感のままで居続けるように、
精神を病んだ欝状態のままでいるように、
カズオを精神的に自分の傍に拘束し、軟禁したのでした。
妹のヨシコ(仮名)が睡眠薬を飲んで自殺を図ったときでさえも、
ヨシコが錯乱状態になったとき、
ミノルがそのヨシコをボコボコにして自家用車に投げ入れて、
そのときヨシコの顔はみるみるうちに倍にも膨れあがったと母は言いますが、
口封じのために、キチガイ病院に連れて行って
ヨシコを鉄格子の中にぶち込もうとしたとき、
別居していたミノルに電話して、わざわざ呼び寄せたの張本人は「母」なのです。
ヨシコが死を以て、母の真意を問うたときでさえも、
母に対して捨て身で『対等な立場』になろうとしたときでさえも、
あの母は、ヨシコに『対等位』を許しませんでした。
わが娘が死を突きつけてきて、
取り戻したいと訴えてきた『対等位』の権利を、
母は「ミノルという暴力装置」を悪用して、鎮圧させたのでした。
そして、母は、父は、
「私が、親に対して、兄に対して『対等位』である」という事実に
気づかないようにさせるために、
ミノルという刺客を通じて、ミノル経由で私に『劣等』を植えつけさせました。
ミノルに対して、無干は『劣等位』でありつづけるのが当然であるということ、
すなわち、ミノルがヒエラルヒーのうちの優位のポジションにあって、
無干は劣等位のポジションにあって、
それがしごく当然であると私に思いこませること。
そうさせることが、彼らにとって都合が良かった。
自分の意識の中で、容姿が劣るということは、
即、人としての劣等位に甘んじなければならない、
誰か自分以外のための裏方に徹しなければならない、
『おじろく・おばさ』に徹しなければならない
と自らをそのポジションに私は自分で固定させてしまったのでした。
最後になりましたが、
Kさんの自己分析をご紹介いただき、
おかげさまで、私の**年間もの長い間、最も触れたくなかった部分に
メスを入れることができました。
これまで誰にも言えなかった、私の中の最もデリケートな問題だったのですが、
今回、Kさんから勇気をいただいて、ここまで踏み込むことが出来て、
こうやって崩残様にご報告することができました。
Kさんの自己分析をご紹介戴いた崩残様に感謝申し上げますとともに、
そして、なによりも、
あの文章を生み出されたKさんご自身のご努力に
深い敬意と感謝を申し上げます。
「Kさん、ほんとうにありがとうございました。
やっと私も、本当の意味で変われそうです。
そのきっかけを貴方様から戴きました。
深く感謝しています」
と、差し支えなければ、ご本人様にどうぞお伝えくださいませ。
引き続き自我復元に励みます。
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