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★分割自我復元★その437■自我復元で回復する機能のひとつ■
by:
鈴木崩残
2015/02/19(Thu)08:16:48
>本文中と文末に少しですが追記しました。(2/20 7:32)
そこにあるものだけから学ぶ
●その昔、誰が言った言葉、あるいはその言葉の引用であった忘れたが、
全く何もない砂漠に一人になっても、そこで通用するものだけを
重視すること、
というものがあった。
すると、単純なことしか考えられない人は、
「生き延びるサバイバル技術」とすぐに思い込んでしまい=体育界系脳
「自分を支える思想や信仰」とすぐに思い込んでしまい=文系脳
「魔方陣さえあればいい」とすぐに思い込んでしまい=形を変えた体育界系脳
など、結局のところ、本質として残すべきものが分かっていないようである。
●ところで、
人間の大半が「気絶したまま生きている」ということに私が気づいたのは、
何かの本を読む前ではなく、自分と他者との比較によってであった。
ずっと前に書いたと思うが、私は中学からは、通学のために、
毎朝、墓地の中を約10〜15分歩く生活をしていた。
小学校へ通っていた道は、交通量の激しい何かと騒がしい道路であり、
また、学校の友達も通る道であり、
いうなれば、自分という「個」をまじまじと感じるような環境ではなかった。
●おそらくは、毒親の元で育ったり、または、学校でイジメなどに遭った人であれば、
泣きながら、とぼとぼと一人で家に帰るその路のうえで、
自分が一人っきりであることを、子供時代の早期に自覚したであろう。
が、それは、あまり良い意味での自我の発達ではない。
個の感覚(孤独性)と、孤独感(寂しさ)は全く別物だからである。
イジメや虐待や阻害を受けたらば、そこではぐくまれるのは、
「個の感覚」ではなくて、「孤独感」にすぎず、
それはその後その人が(自我を復元しないかぎりは)死ぬまで背負うことになる。
●さて、もう小学校の時の友達は一人もいないという変化の中で、
私がその後も、約15年ほど歩きつづけた、その墓地の道に、
私の原点のほとんどすべてがあった。
それまでは、小学生といういわば、群れの動物のような状態だったものが、
一種の、精神的な独り立ちに立つようなものであった。
一人で歩くその道で、何人かの老若男女とすれ違う。
聴こえるのは、風向きによっては、少し遠くにある目的駅の列車の音や、
駅構内のアナウンス、
それらが聴こえないときには、鳩や鳥のさえずりが聴こえる。
静かな、良い道だったと思う。
私はそこを、自分史の中では「哲学の道」と名づけている。
*********
人間というものは、毎日同じことをすることによって、
どんどんと麻痺して、無意識になってゆく場合と、
毎日同じことをすることによって、逆にふと疑問を持つことがある。
たとえば、皆さんが、毎日出勤したり仕事場にいけば、
そこでは、他人が食ってゆくために敷いたレールの上で、
ベルトコンベア式にやらねばならないことが発生して、ただそれに従う。
自営業であっても、完全に創作的な活動でもないかぎりは、
他人の要求に応じるケースが圧倒的に多い。
しかし、毎日、同じことをすることで、
そこに何も疑問を持たず、そこに順応することが人生の目的であると
大半の人が思い込む中で、
半分ぐらいの人は、「自分、いったい、何をしてるのだ?」と
気づくことも多いものである。
本当に、こんなことをしたくてしているのか?と。
しかたないからしているだけだと。
では、何がしかたないのか?
死ぬ理由がないのでしかたなく生きているが、
生きている理由も、そうたいして強固なものではないので、
しかたなく生きている、のではないかと。
実際そうなのであるが。
そういう問題から、逃げ切るために、娯楽や楽しみと
本人が感じるものを、拾い上げて、そこに集中している間のみ、
生きている感覚を、忘れていられるか、または思い出す、
ということを、延々と繰り返している。
●さて、私自身の話であるが、
毎日その道を歩くことになってから、わずか数日後だったと思う。
あるいは、本当は一ヶ月ぐらいだっただろうか。
私の中にいくつかの疑問が生じた。
■第一に、この私という感覚とは何か?
■第二に、何が、今、この世界を見ているのか?
■第三に、この現実と人々が呼んでいるものは何か?
■この思考とは何か?、その元となる記憶とは何か?
■この感覚とは何か?
このどれもが重要であり、その後、私はこの問題について、
9年間ほどは、集中的に考察し、悩むこととなった。
周囲を見ると、そこは小学校のときとはまた違う知人らだった。
中学から中高一貫の私立校に入ったために、
地元の生徒の集まりではなく、都内のあちこちから来た連中だったので、
個性も土地柄もずいぶんと違う個性があり、そうしたものを見るのは
楽しくもあった。
田舎社会と違って、すでに中学生の段階で、
狭い東京の中とはいえ、多国籍的というか、23区の違いだけでも、
かなり、それぞれが個性的なのである。
それはそうである。商店街や町のつくりが相当に違い、
東京都内には、それによる「文化的な違い」すらあるのだから。
こうしたことは県単位、同じ県内でもよくあることである。
だが、県単位の場合には、昔の藩の名残であろうか、
だいたい県単位で個性が画一化している。
一例として、長野県は、同じ長野県内でも、
他所の市区町村と、自分のところは違うという、
妙な縄張り意識があるようだが、外から見ていたら、全員同じようなものである。
しかし東京はそれとは違っていた。あきらかに地区別に違うのである。
という余談は、おいておいて、また墓地の道の話にしたい。
*********
通学のために駅に行くまでのその約12分間の徒歩の中で、
自分の身体の中に自分の意識があるように感じ、
また、逆にいうと、自分の身体は自分のものではないようにも感じ、
何よりも謎だったのは、
「現実であると感じている感覚を構成」しているものは
いったい何か?という問題だった。
この問題は、中学、高校、美大の3期にわたり、
私の脳裏から離れることは、一日たりともなかった。
●この世界で、何をすべきか、ということに
大半の人々は、疑うことなく思いをめぐらし、
一角の何者かになってやろうとか、誰かを見返してやろうとか、
早く親元から自立してやろうとか、あるいは、音楽でビックになってやろうとか、
または、偉そうに見える人間になってやろうとか、
あるいは、いい年になった大人たちであれば、
生活安定と趣味がその人の目指すすべてであったりと、
とにかく、「する」こと、と「なる」こと、がその人たちの思考の
ほとんどを埋め尽くしていた。
●そのことに13才ぐらいだった私が、違和感を持ったきっかけは、
自分が何者であるか、という最も根幹の部分も分からずに、
それで目的を設定したら、それは、夢遊病と変わりない、ということだった。
その人間の「夢遊病性」に、はじめて気づいたのは、
ほかならぬ、自分を見たときであった。
墓地は並木道で、約50本以上の木が両側に植わっている。
ふと、私は、
「次の、あの木にたどり着くまでは、歩いているという
その事実以外、一切意識しないようにしてみよう」
と思い立ったのである。
するととたんに、次のようなことが起きた。
あの数本先の木までは、何も考えずに、ただ歩くのだと、
今さっき自分で決意したにもかかわらず、
そこにたどり着くよりずっと前の木を通過した時点で、
私は、頭の中で、全く違うことを連想していたのである。
これは私にはショックだった。
私は、自分の意志した、こんな簡単なことすらも出来ない。
たった数十秒、何も考えずに歩くことすら出来ていない。
自分の脳裏に、ほぼ自動的に統制もとれないままに、
連想が浮かび、思考が開始され、
そして気づけば、
私は4本も5本もの木を、まったく見ていないままに歩いていた
ということに、その数十秒後に気づかされる。
つまり、私は、頭の中で、もんもんと、余計なことを考えて、
「外界の事実に対して、気絶しながら、歩いていたのだ」
という事実がつきつけられる。
●そういえば、このことを、私は今朝、つい先ほど、
朝のゴミを運んでいて、思い出したのであった。
ゴミを運んで集積場において戻ってくる、
ただそのことだけをすればいいのに、
こうした往復の中では、昔、あの学生の時はずいぶんとそのことで
悩んだな、と思い出していた。
ただ行って帰ってくるだけなのに、
思考というやつは、どこまで馬鹿でトロいのか、
数条秒もしないうちに、
あっという間に、全く必要もないことを、考えているのである。
まさにそれ「気絶したまま歩いている」のと変わりない。
(気絶しているのが、いいことか、悪いことかは別問題として)
●では逆のことに自分を追い込むとどうなるかというと、
それは、一般に運動と呼ばれるものであったり、
全速力で走ることであったり、その他、注意力を集中しなければ
出来ないようなことを(武芸も含めて)、自分にやらせてみるわけであるが、
その注意力は全一的かというと、非常にかぎられた視界しか持たず、
悪くいえば、猿がマスターベーションに夢中になっているのと大差はないと結論した。
その集中力が社会的または記憶することにおいて何かを生み出すことは
当然にありえるとしても、
それが「生命感覚」に寄与することは決してないと。
その点で、いわゆる、冒険家とか、スタントマンとか、
危険なところに旅をするとか、スカイダイビングとか、
そういう方向は、生命感とは何かの答えを見つける領域ではないと
私は早々に、関心から除外した。
分かりやすいたとえは、皆さんが絶叫マシーンに乗ったらば、
振り回されている間、その一時的な刺激にあなたの関心が占領されて、
思考する余裕が一時的になくなった、
というだけであり、
ではそれは「充実した時間であったのか?」と自問すれば、
ただ、「ぶん回されていた時間」であったに過ぎないと言える。
あるいは関心が「強制的にある対象や感覚に固定されていた」
に過ぎない、ということである。
■しかし、私の問題は、ただ歩くという、その単純な行為の中に
十分に発生していた。
その後、数ヶ月すると、ただ歩くどころか、ただ座っていてさえも、
その疑問にひとつの決着がつくまで、私は10年以上、そのことに取り組んだ。
この意識とは何か?
この私とは何か?
この思考という奴は何者なのか?
この身体感覚は、何に由来するのか?
ありとあらゆるこれらの問題は、
そもそも生きる目的などというもの以前に、
生きているとは、そもそも「どういう状態のこと」を言うのか、
その謎を、自分一人で解かねばならない状況にあった。
●歩くどころか、座ってじっとしていてさえも、謎だらけであった。
なぜ、ここにいるのか、
というより、なぜ、ここにいると「感じているのか?」ということ。
そう感じさせている基本的な要因は何か、という問題である。
●その中で、とりわけ私が、これは正気ではないと断定したのが、
思考や記憶というものの「挙動不審さ」であった。
思考や記憶は、唯一、何かを「作る」場合には必要になる。
何かの習慣的な行為、たとえば、単純にいえば、
桑を振り下ろすことを覚えなければ、農作物も出来ない、といったぐあいである。
何かを自分で創造するか、または、
生活するうえで、必要な行為に直結するための記憶であるならば、
それは、使えるものであるが、
それは、動物でいえば、排泄したり、食べたり、餌を捕縛するという
その程度のことの延長で済むものである。
●ところが、ただ自分の部屋にじっと何時間も座っていてさえも、
私の頭の中を去来した思考はそういうものではない。
どうでもいい、昼間テレビで見た光景、
学校であったささいな出来事、
どこかの本に書いてあった一句、
勝手な想像、連想、そして、
自分で望んでもいないような思考が、
自分の思考を邪魔する形での雑念の去来。
たった10分間、音楽だけに、
ただ耳を傾けていることすら出来ていない。
私は中学生の終わりごろに、
人間の頭の中というのは、こんなもので出来ていることに愕然となった。
何かを他人に言われれば、あっというまにその思考内容に占領され、
何も言われなくとも、頭が独り言を言い始める。
これは狂気だと、私は断定した。
●だが、これが本当に狂気の状態であることを
私が認識したのは、社会へ出てからであり、
美大のころには、仲間や教員と、さんざんに芸術論を戦わせてもいたので、
そのころには、人間がそれほどまでに、眠りこけているものとは思わなかった。
●しかし、社会へ出てみると、そして就職などしてみると、
学生時代にあった一種の面白さは、ことごとく失われており、
そこに残っているのは、大人の中にある子供らしさではなく、
単なる大人の中の「幼児性」のみであった。
ひとことにいえば、つまらなさそうに、しかたなく生きている人たちの集団に、
私はそれから十数年間、出会い続けることになったのである。
ただし私生活では、そうではない多分野の人たちとも多く接した。
●そして、私は常に根幹的な問題に何度も振り戻された。
私が生きている感覚を逃さずに、
意識を明確にして、生きているといえるのは、
いったい、24時間のうち、何秒間なのか?と。
それほどに、人間の頭というものは、
そこで生じている、それだけでも膨大な情報量のある五感の感覚を
見ることもせずに、
生活の大半が、頭の中の連想、妄想、言葉、
しかも、同じようなことばかり、
それが壊れた機械のように繰り返されているという現実を見ていた。
●最初は、私自身におけるその異常さだけが意識されていたが、
社会に出るようになってからは、なんと、ほとんどの他人が
全員、同じ病理に陥っていることをまざまざと見ることになった。
たとえば、
何も話す必要もない静かな時間をすごせばいいものを、
会話がなくなると、目と身体に落ち着きがなくなり、
何かしら、無理に話し始めてしまう人たち。
沈黙や静けさに耐えられない、「何か」が、とても弱い人たち。
●私はその沈黙と静けさの中こそに、
何があるのか、それは何であるのか、
その中から、
思考、感覚、その他をそぎ落としていったらば、
何が最後には残るのか、そういうことにのみ興味があった。
●しかし世間の人々は、まるで小鳥のように、
ひっきりなしに、言葉をさえずっており、
また逆に、沈黙したとしても、それは、制圧、我慢、
あるいは、ただいっとき、息を無理にとめているような不自然なゆがんだもの、
そんなものばかりであった。
また、ある者は、口を閉じて沈黙を装っているだけで、
どう見ても、その者の脳内は、ひっきりなしに、おしゃべりを続けており、
しかも、そのことに本人は無自覚で、
自分は何も考えていないと勘違いをしている始末。
そんな様子の他人ばかりしか、私は見たことがなかった。
●私も含めて、子供のときに、誰もが、すでにそうであったわけで、
そもそも、生きているということは、
「無からのスタート」ではない。
幼少期であっても、すでに思考があり、記憶があり、余計な考えがあり、
かつまた、そうしている間にも、私たちの五感は、
絶え間なく、今現実に、この瞬間の中で、
身体が何かを感知しているかの情報を伝えてきている。
●すでに書いたように、
思考が頭の大半を占めてしまっているならば、
それは、その人の年齢に関係なく、
その妄想をしている間は、
その人はある意味では「生きてはいない」という結論になった。
むろん当時は、私自身も含めてである。
●たったの数歩、歩くうちに、
自分が歩いてきた道にあった物すら見てもいないし、
記憶もしていないし、意識がどこかに吹っ飛んでいるのである。
いったい、何をしていたのかというと、
明晰な思考であれ、漠然とした思考であれ、
その間は、「思考の中に引きこもっている」のである。
●今でこそ、こうしてここ何年か、自我復元をしている人たちと
メールで親しく接するようになったからこそ、
子供が幼少期に、感情や感覚の鋭敏さを失ってしまう最大の元凶が、
子供の中に、親が「思考法」を叩き込んだことであり、
無力な子供は、その思考に取り付かれてしまい、
結果として、目前にある世界の奇妙さも、美しさも、楽しさも、
すべてから目と耳を閉じてしまったということだった。
●こうしたことも関係して、
私は、自我復元という領域に、ある程度の関心を向けています。
(まだ、今のところは、ですが)
AC人格のことを多くの自我復元とトラウマ分析をしてきた実習者の人たちは、
「全く食えない妄想である」
「全く役に立たない」と看破したはずです。
しかし同時にそれは、
どれだけ、生命感を失わせたことか、それを思うと、
今まで生きてこなかった分を、
復元者の人には、少しでも生きてほしいと思いますし、
実際、そのようになってきた人たちが、本当に増えてきました。
実は、生きるというのは、
「その場にいる」ということから始まるのであり、
器用に生きるだの、不器用に生きるだの、
知っているだの、知らないだの、そんなことは関係ありません。
その人は、今、そこに本当にいるのか?
それとも、その人がいるのは、その人の脳内の妄想の中なのか?
私はこの人生の中で、前者に出会ったことは本当に少なく稀です。
今も、砂手を除いては、
そこに、本人が「現存」しているような人は誰もいません。
そこにあるのは、その人自身か維持しようとしている自己イメージと、
妄想自己、または他者への妄想のみです。
●この問題を経験的に私が解決ないしは、理解してゆくことが出来た
そのもっとも良い経験が、
恋愛とセックスを異なる女性と、この生涯に、7度ほどしたことでした。
つまり、自己妄想では通用しない他者、かならず対立することになる他者、
そこにいるのは、明晰な意識なのか、その人の妄想なのか、
そしてむろん、自分も、その場にきちんと生命として現存しているのか、
それとも、相手の中に何かを投影してはいないか?
こうしたことを実地に経験し、考え、経験し、考察を繰りかえすのに、
恋愛というものは、非常に役立ちました。
普通の対人関係以上に、踏み込んだところまで、
感覚、思考、主義、といった点において、
「異質なもの」にどう対処するかを学べるわけですから。
セックスのおける身体の感覚ひとつとっても、
女性はそれぞれに、一人ひとりが、それまでの経験によって
性感の連鎖経路が、かなり違います。
●もっとも、私が見ていると大半の人たちは、学ぶためではなく、
相手を自己満足のためにどう利用できるかにしか興味がないようです。
あるいは、共存、共生に同意するという形での、利害関係の発生など。
私がお付き合いした7人のうち、4人は、全く緊張感や、利害関係なく、
ただ互いが気に入って、自然に終わりくるまで付き合うものとなり、
残る3名は、あきらかな、利害関係の強要のようなものが相手の中にありました。
●さて、横道から、本題に戻りますが、
私が経験した、まだ平和だった時代にあってすらも、
すでに、「無用な思考汚染」をほとんどの人が受けていたのですから、
今この瞬間に、そこにしっかりと存在して生きていることを感じ取る、
という部分を、極度に「劣化させる」ものが、
時代とともに増え続け、それは、
ゲーム、ギャンブル、ネット、読書、おしゃべり、テレビ、ラジオ、
その他です。
つまり、私が、常に「必要最低限にするように」と言ってきたものです。
最近では、「実用」目的や、ビジネス目的以外で携帯を手放さないなどは、
もはや、私から見れば、「精神病」です。
●あなたが、死んだときに、
「あなたは、生きてきて、
毎日の一日の大半に、何をしていましたか?」
とでも、誰かに問われたら、
いったい、何と答えるのでしょうか?
「いや、私は自分なりに必死に生きて、働いて、いろいろ考えもして・・」
と、いくら言っても、
あなたの姿と、頭の中で考えていたことを、
「映像」としてそこで再生されて
「ずいぶん、今、あなたがご自分で言ったことと、違うことを、
あなたはしていましたが、ご自分で見てそう思いませんか?・・・」
と、いわれたら、どう言い訳をいうつもりなのでしょうか?
●そういえば、まだ20代で社会に出たてのころですが、
自分よりも十も二十も年上の人間が、何かの話をしてきたときに、
それが、あまりも、くだらないと思ったときに、
よく私はこう言いました。
「そんなに、一生懸命、面白い話を、披露しなくていいですから、
何か、役に立つ話はないですか?」
たいていの場合に、相手は一瞬、不快そうな顔をします。
その直後、相手の頭の中では、
「私だって、役立つことぐらい知っているに決まっている」
と、彼らは自身の「脳内検索」をしはじめます。
しかし、そうして、捻り出されて、出てきたものは、
その人に役立つのかもしれませんが、
特段の「普遍性」はありませんし、私個人との共通性もありません。
●つまり、人は何の為に、膨大な無駄なおしゃべりをしているかといえば、
結局は、落ち着きのなさから、目をそらすためでした。
別に、黙りこくって、
哲学的なふり、瞑想でもしているフリをしていろということではありません。
そもそも、ほとんど人は、そこに「いない」のです。
そこにいるのは、偶発的に組み合わさった記憶から生まれる
(そのほとんどが実用性のない)思考と、好みと、
あとは、大きな要因のひとつは、日々の「習 慣」 というものです。
●人間の大半が、記憶再生と思考の「暴走状態」にある、
という点でいえば、AC人格の人と、AC人格率の低い人との間に
「基本的」には、大きな違いはありません。
ただ、AC人格者のそれは、本人をも不快にし、他者をも不幸にする
という結末を生む因子を、毒親から仕込まれたわけですが、
AC人格率の少ない人の場合に、
他人を幸福にするか?というと、必ずしも、そういうことはありません。
単に、不快や迷惑を及ぼすことが「少ない」というのみです。
あとは、必要な時にだけ、必要なこと最低限しますが、
AC人格のように、必要もない時に、必要もない余計なことを、
しゃしゃり出てまではしません。
思考暴走が少ないか、ほとんどない人の場合には、
何かをすべき「タイミング」の捉え方が、通常とは違います。
余計な思考がないために、今だというタイミングを確実に見る感覚が
動物並みに、優れているわけです。
>********* 以下は追記
前回の投稿で、私が「関心地図」のことを取り上げた理由もここにあります。
自動的に関心や思考の連想が生じてしまう原因となる、
刺激や情報を、一時的にでも遮断しないかぎりは、
そもそも、存在すらしていないような状態に皆さんはいるからです。
>>「部屋を暗く」して、「目を閉じる」こと。自分の関心の方向を監視する。
>>目を開けて書き出すのは、単純な「単語」のようなもののみ。
>>そしてまた目を閉じて、自分の「関心の行方を監視」する。
>自分の「関心のベクトル」の動きとの自己同化を避けられれば、
>自分の思考との自己同化も避けられる、というのがその基本原理です。
●私が自我復元ブログにおいて、
他者が見ても、とても激しく、そして強い意志と決意をもって、
何ひとつも、いい加減な姿勢なく、
トラウマとAC人格を掘り進めた人、
または現在、掘り進めている人のみを評価し、
それ以外を、復元ブログの表舞台から消し去った最大の理由は、
トラウマ掘りと、AC人格の自己分析という、
その強烈な客体化の作業それ自体こそが、
自己同化を、少しずつ剥がしてゆくことに「直接的に連結する」からです。
その題材として、自分自身に「本当に現実にかかわっていること」、
そして、それに連なる「その人自身の過去の経験」ほど重要な題材はありません。
だから、私はトラウマが掘れない人はまず、
「不快年表」から書くように言ってきました。
●リアリティーのない精神世界の戯言の中を、妄想で、ぐるぐるするのではなく、
現実にあなたに起きている不快には、必ず現実的な原因と理由があります。
それがどんなに馬鹿馬鹿しく、低劣だ、醜いと思っても、
その感情または思考があなたを不快にしているのであれば、
自分の中にあるのに、その正体の分からないものに、振り回されることも不快なはずです。
マディアさんが、
>「自分の心の中に、
> 把握していないことが一つもないようにしたい。」
と書いた意味も、そこにあります。
●だから、
「掘っている、この今の自分も、AC人格なのではないか。
ならば、それも見て掘って、突き止めてやる!」と、
そう存分に悩み抜き、しかし、絶対にあきらめずに、それを続けることが、
「AC人格との自己同化」から、あなたを引き剥がします。
_______
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