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「分割自我復元」
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[492]
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★分割自我復元★その492■自分を裏切らないという事の真意■
by:
鈴木崩残
2015/09/02(Wed)07:16:54
Abyさんへの私信
●死後に暗闇に放置されたときに、
もしも必要な問いがあるとしたら、「ここはどこだ?」
ということにAbyさんは全身全霊で気づいたと思います。
他人からの受け売りや、自分のものではない、ただの誰かの理想としてではなく、
心底、そう認識したと思います。
この「ここはどこだ」は死後に使われる道具となりますが、
今ここで生きている時には、この文言を少し変えるだけで良いのです。
それは、
「私はどこだ?」です。
*********
ひとつ前の投稿に少し補足をしておきます。
自分にもっとも近い自分が感じられる「位置はどこにある」となると、
(人によって高さの場所は違いますが)
たぶん、それは両目の奥にあり、
頭蓋骨の中心か、または脳の中心付近になると思います。
人または、その時々の場合によっては「胸」かもしれませんが、
もっとも見ている自分の「主体がいる」と感じられる場所にしてください。
【 注 意 】
>決して、この図を元にして、位置を決めないでください。
前回の投稿に記したように、あくまでも、
>「自分にもっとも近い位置」を自分で探すことによって
その結果として、いきつく所をその位置としてください。
●ただし頭蓋骨のてっぺんとか、頭頂点には決して探さないでください。
これは死人禅ではないからです。「目的」がまったく違います。
自我復元において、死人禅を利用禁止にした理由は、
それは自我復元に有益な作用をしないからです。
ですから、今ここを読んでいる人で、かつて私が自我復元の途中で
少しだけ死人禅をしてみてください、といった人は全員「やめて」ください。
●さて、では、自分の世界を見ている原点が脳の中心、
または頭蓋骨の中心あたりにあるだとすると、
妄想や、思考はどこにあるか?となりますが、
それは、すべて頭蓋骨の「内側あたり」に発生しているだけです。
↑上図でいえば、「紫色の球体の範囲内」です。
なぜならば、頭の頭皮の1cm外といえども
そこでは思考は存在していないからです。
思考ばかりか、普通のありふれた知覚すらも、
頭蓋骨の内側の脳の位置で「発生」しています。
常に、私たちは何か自分の方に向かってきたり、
人と話しているときには、外側にそれらがあると思い込んでいますが、
もっとも「現実に近い事実」は、
すべての事件は、頭蓋骨の内側で起きており、
それを見ているのは、そのさらに「中心の位置」からということです。
「現実感覚」が起きている場所がそこなのですから、
より現実に近い位置に、注意を払うのは当然のことです。
もっともそれが現実の「事実」だとしても、
そんなことを24時間認識していることはできないのですが、
ただし慣れてくると、他人とではなく外を「一人」で歩いているとき、
室内に一人でいるときには、
その中心位置(上図の中心の点)からの俯瞰が可能だと思います。
●たとえば、他人の話を聞くときには、
脳の中心あたりに自分そのものがいて、
相手の声は、その中心をとりかこむ球体に当たって、
球体の内部に響いている声といった感じで聞くこともできます。
脳の中の球体の部屋(直径約20センチ)の壁の内側に、
相手の声が響いているようなものです。
がらんとした頭の内部の部屋に、相手の声を響かせているだけで、
中心では、その言葉についての判断をせずに、ただそれを聞いているとします。
すると、自分の頭の中を、完全に相手の言葉の声で満たしていても、
つまり、相手の言葉(意思や思惑ではなく「声」)に占領させても、
それと中心とには距離ができています。
こうすると、相手の言葉を聴いて、それが自分に対する否定だと
すぐに、中心からどこかへ吹っ飛んでいってしまっていたものが、
罵倒されるその言葉を自分の頭蓋骨の内側に、そのまま反響させていても、
それを何かの校内放送であるかのように聞くことができます。
●そして、その同じ、頭蓋骨の内側の球体のような部屋の中に、
他人の言葉もあり、自分自身の妄想もあり、
普段の五感の知覚すらも、現実には、そこでおきているわけです。
事実、頭を切り落としたり、頭を強くぶつければ、知覚が途切れるのですから、
(死後は別としても)とりあえず生きている間は、
頭蓋骨の中に「全部の世界がある」という事実は変わりません。
私は脳生理学者のように意識が脳にあるとは言いませんし、
脳に精神があるとも言いませんが、
ただし、脳は、この世界とそうでない世界を繋ぐ重要な機械であることは確かです。
●何もかもが、そこ(頭蓋骨の内側の球体内)でおきているのですから、
私たち「現実感覚の本当の現場」とは頭蓋骨のその内側です。
動いている肉体は外界に属していても、
すべての知覚と、すべての思考は、それ以外のどこにもありません。
ここでは体外離脱や臨死体験は問題とはしていません。
●要点は、もしもこの世界に生きていて、閉塞的に思うのであれば、
より閉塞的な内側へ向かったほうが効率がいいということです。
そして、その内部の中央部の位置に、自分に起きる思考や連想や知覚を
見ている意識としての自分の主体があるわけですが、
(ここでは仮に主体と言っておきます。もっと正確に表現しようとすると、
ややこしくなるからです。)
●今回、掲示板に書いた事の要点は、
それを漠然とした抽象的な「中心」とか「内側」という言葉から
イメージするのではなく、
「現実感のある位置そのもの」として、
その場所を見つけて、自分の意識の位置を決めてくださいということです。
それは、あたかも眼球または額の位置から、内部に向かって、
「後ろに少し引いた」場所にあると思います。
後ろに行き過ぎると後頭部ですから、そこまでは後ろに引きません。
●一人でいるときに、その位置が自分の意識を置く位置としてみて
何かわかろうとか、何かしようとせずに、休んでみてください。
他人にまったく関わらない時、もっとも落ち着ける時に、それをまず、
最低でも一週間から2週間続けてください。
一日に10分でかまいません。ただし、毎日です。
ちょっとやって、何かをわかったような気に決してならないことです。
この状態は、やればやるほど変化をするからです。
何かをつかんだと思った瞬間に、それ以後続く大切なプロセスを
台無しにしてしまうからです。
●数週間(約一ヶ月)ほどして、それに十分に慣れたらば、
仕事場や、家庭での生活や、あるいは一人でいるときの妄想によって、
相手の言葉や感情に巻き込まれたり、
または、自分ひとりだけなのに、
思考の連想によって自分を見失いそうになったときには、
その意識をおいた頭の中心へと戻るようにしてみてください。
その位置に戻れば、
すべては、その中心の周囲の脳内の球体の内部で起きていることが実感できます。
しかも、その中心からほんの数センチの範囲の頭の中に、
少なくとも、「自分にとっての」全世界があるだけなのですから。
●仮に、他人と他人が手や体を触れ合ったとしても、
その情報はお互いのその頭の中にあり、
それをそれぞれの中心から見ていることになります。
仮に相手のオーラや気を感じたとしても、
感じた最終的な情報が踊りまわっている場所は、自分の頭の中にしかありません。
思考というものは、実際には、外に出て、あっちこっちに飛んでおらず、
それが存在できる場所は、自分の頭の中だけです。
その頭のさらに中心部に自分の中心たる意識があるのですから、
私たちは、その中心から、たった数センチの半径の世界に飛び回る思考を、
どうにかできればいいだけです。
●すべての全世界が、自分から遠いところにあるのではなく、
他人すらも、本当は自分の数メートル先にいるのではなく、
こんなに近いところ(自分の頭蓋骨の内側)にあるのですから、
さらにその内側の部屋の中心部から認識するならば、
どんなものでも俯瞰できるはずなのです。
ですから、これを、やってみてください。
●基本は、まずその位置で「休みを取ること」です。
そこが自分にとっては落ち着く「という感覚の把握」からです。
他人のいるところや、外で応用するのは、
完全に自分ひとりのときに納得できるまで十分にやった、
そのあとにしてください。
すぐに応用しようとはしないでください。
●何でも、すぐに応用しようとするのは、AC人格ですから。
なぜならば、何かをすぐに他者との関係で試そうとする、というのは、
「AC人格の自己承認」欲求にほかならないからです。
「どうだ、自分にはできるんだ」とか、
「こんなことぐらい、わかっている、知っている」とか、
「これを武器にして、親や他人に影響されないようにしてやる」とか、
はなから、好戦的な姿勢や、自賛姿勢になるのがAC人格なのですから。
力試しをするのではなくて「休む」ことが大原則です。
別のことに応用したがる魂胆があっては、休息になりません。
●脳内の球体内だけに戻っても、そこはまさに自分の世界のすべてが
起きているところですから、落ち着けないのです。
しかし、その膨大な妄想や思考や強迫観念の渦中にあって、
かつ、そのもっとも中心部の位置を定めることができれば、
そこを自分が常に戻る場所とできます。
私は少し前の投稿で、死後に各自が、「遮断した休息所」を作ることを
考えていました。
ゆくゆくは、この方法は、そこへも通じてゆきます。
なぜならば、死後に、肉体から離れるとしたら、
この脳内の球体とその中心だけが、離脱して残るからです。
それまでに主観的な思考として、この球体内部に投影していた、
関心や思考の癖は、次の契約をするまでは、死後に、しばらく残ります。
*********
ここからは私信ではありません。
●この方法を、前回の投稿で「数名だけ」としたのは、
「覚悟」がいるからです。
「ちょっと試して様子をみてみよう」といった状態で始めても
まったく意味がないからです。
準備と覚悟のできた人と、なんとなくやってみようとした人とでは、
数ヵ月後には、「雲泥の差」が出ます。
生活や心境の退屈をしのぐために、「変化」を求めて行ったり、
何かの「救い」を求めて行っても無意味なのです。
だから自分に「覚悟」があるかを自問してからやってください。
●そういう意味では、私から見て、覚悟を決められるのは、
Abyさん、朱いはがねさん、マディアさん、お姫ちゃん、だけです。
その他の人たちは、全自我にどれだけ近くとも、
その覚悟の有無は、私には、「わかりません」。
覚悟がないとは、私は断定はしていません。
ただ、私にわかるのは、
前述の4名は「準備はできている」ということだけです。
この人たちは、自分はそれをする段階なのかどうかを「悩む」必要はありません。
単に覚悟を決めればいいだけです。
ちょうど、それは、コーチが見ていて、
「あなたは、出来ますから、あとは、自分で決心しても
やるかやらないかだけです」
と言うのに似ています。
●しかし、基礎や準備が出来ているのかいないのかがはっきりしない人たちには、
私は、やってみてください、とは無責任に言えませんから。
だから、その他の人が準備が整ったかどうかは、私には「わかりません」。
●とにかく、
「自己解明していないトラウマやAC人格」があるかぎりは、
この方法には、意味がないのです。
また、何かの効果をちょっと感じただけで、
これでいいんだ、「これにしがみついてやる」、
とやってしまう人たちは、それによって、
「自分にはAC人格はないんだ、と思い込みがるAC人格」に、
加担する餌を与えて、時間を無駄にするだけに終わります。
●精神世界というものの中で、
なんでも、ちょっとだけ試しては、やめてしまえる、
という自由を与えられていたことの「弊害」がここにあります。
あなた自身が、軽く扱うものは、
その対象物や方法論から、あなたも軽々しくあしらわれる、
というだけのことです。
だから、古今東西の、本当のすべての秘教や、メソッドというのは、
本来はどれも「命がけ」であったのです。
「ちょっとやってみましたが」は、許されない世界なのです。
誰かが誰かを「許さない」のではなく、法則として成立しないのです。
あなたが方法論を舐めた姿勢で扱うならば、
あなた自身が人生そのものから舐められるのは当然なのです。
覚悟を決めて、命がけで、徹底的に何かをする、ということ。
この基礎が、ここぞ重要であるという事においても出来ないからこそ、
何人もの人たちが、今、自我復元をしているのですから。
●文中に書いた4名は、ただの一度として、
舐めた姿勢で自我復元をしていませんでした。
それは私が言うに及ばず、誰が見ても、
その人たちのブログが放つものには、明らかな差異があります。
この人たちには、「停滞などした覚えがない」からです。
怠惰に自我復元やトラウマ掘りを休んでしまった、
などいうものは、この4人にはありません。
だから覚悟は、各自で自問すればいいことですが
私から言えるのは、その人たちは「準備は整っている」ということです。
●このようにいうと、名前の挙がらなかった人たちは、
AC人格の挙動としては、
「いや、自分だって、やってみる権利はあるはずだ」
「トラウマ掘りや、自我復元や、AC人格解除とは別のものと書いてあるじゃないか」
「これぐらい、知っているということを自分で証明してやる」
と思考してしまい、崖っぷちで命がけにやるのではなくて、
「試しに」やってみることになります。
●それは仕方ないことですから、覚悟のない人がやることを私は止めません。
その「自問」のために、個別のメールではなく公開の形でここに書いたのですから。
ただし、自己判断でやるからには、
「十分に悩み抜いてから」にしてください。
私は、それによってどういう作用が起きるか、
そして、
やり方によっては、
どういう不具合や、不快感や、不安が生ずる可能性があるかについて、
私は、一切説明をしません。
なので、あとになって、文句や、不平や、屁理屈、
あるいはそれとは真逆の賞賛や、評価を言うとしたら、
その人たちは、この方法の意味を全く理解していませんから。
●私はすでに、前回の投稿でも、条件をつけています。
それを守れなかったら、その時点で、即座に「失格」なのです。
その条件とは、今回私が書いた意識の「位置」ということについて、
>ただの一言も、他者に話してはならず、説明してならず、
>話題にすらしてはならず、
>自分用のメモすらも、とってもならず、
>自分に向けてあれ、他者に向けてであれ、決して文字に書いてもならず、
ただ、毎日10分以上、その位置で 休む ということです。
なぜならば、
これは、私に報告をするために行うことではなく、
ブログに書くために行うことではなく、
また、他人への他者承認のために行うことではなく、
AC人格が、自分は大丈夫なんだとか、
自分には、こんなものはもう必要ないとか、
そうした「AC人格の自己承認」のために行うことでもないからです。
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