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★分割自我復元★その525●重要記事【天上天下唯我独尊】と【 感情抑圧をした子供はなぜコミュニケーション障害になるか? 】●
by:
鈴木崩残
2015/11/08(Sun)11:08:04
感情の再定義
私は「喜怒哀楽」の「喜」と「楽」は、
現在の定義だと同じになってしまうと思う。
そこで「楽」は楽しみではなく「ほっとする安心感」とすべきと思う。
一般には「喜、怒、哀、楽、愛 (いとしみ)、憎 (にくしみ)」の6種である。
ただし「怒」と「憎」は違います。
怒りは良い。
だが憎は、ねちっこくてアウトです。
それは怒りが鬱積したものを「憎しみ」と言うのであるから。
怒りが「瞬間発火」のものだとすると、
憎悪は、ずっと、くすぶっている火種、つまり「恨み」である。
とりわけ、子供の頃に一切制圧をしてはならない感情は、
喜=楽しいぜ
怒=ムカつくぜ
哀=悲しいぜ
好=好きだぜ
楽=ほっとするぜ
この5つは、すべて抑圧せずに経験することです。
ただし、抑圧・我慢なしに、です。
実は、ここに「正しい恐れ」という意味で「恐」も
加えたいところですが、
あまりにも、その「恐怖」を毒親から受け続けた人たちが多いので、
あえて、はずします。
●毒親から頭ごなしに「あーするな、こうするな」と言われたら
子供は感情抑制をしてしまいます。
そして感情抑制した子供は、
実は、無意識的に、他者から信頼されなくなるのです。
とても重要かつ、深刻な問題で、
それは、頭ではなく、感情に関する仕組みなので、
この仕組みを今回は、説明しておきます。
*********
子供の時に、毒親からの、
躾とか、本や他人からの借り物の格言もどきとか、
くどくどとした説教や、恫喝、暴力によって、
「喜怒哀好楽」を、どれかひとつでも否定されて抑圧してしまうと
(たとえば「男は泣くな」とか、「我慢しろ」とかです)、
その子供が大人になると、理性的にとか、論理的に何かを語る際に、
どう隠してもその動機の中に「鬱積した感情」が出やすいのです。
●一方で、喜怒哀好楽を隠さないと、それを見る他人は安心します。
ただし、これは単に、何に対しても、怒っている人のことを
意味しいるのではないことに注意してください。
そういうのは、また別の病気ですから。
重要なのは「バランスがとれた感情」です。配分が肝です。
するとこの5つの感情が、わりと露骨に出る人に対しては、
その人は、とりあえず「感情」を言葉の中に隠して埋めることを
しない人と認識されます。
つまり、自分の中に抑圧して隠した感情が、その言葉を曇らせません。
感情が言葉の中に、ノイズとして紛れ込まず、感情は感情として出し、
言葉による説明は、それとはまた別に出力する、
という使い分けの出来る人に対しては
「言葉の中に、何か別のものを含ませているな、こいつは」、
とは他人から警戒されないわけです。
なので、「分かりやすい人」になります。
逆に、前述の5つの感情(喜怒哀好楽)を素直に出さないと分かりにくい人になる。
私は「分かりにくい女性」と「わかりにくい男性」は好きではありません。
なぜならば、彼らは、
さらに、もっと屈折した嫌な女や男になってしまうと、
他者から「わかりにくい」のは、一種の病理であるのに、
その「わかりにくさ」を自己防衛に悪用して、
「全く無価値な自尊心」を形成していることすらあるからです。
つまり、はたから見ればそれは、露骨に、
「ほら、わかりにくい、この私のことを、誰かかまってよ」
と言っているだけです。分かっていないのは、本人だけです。
つまり、
「こんな、わかりにくい、この私を理解できたら、
そういう人だけ、私を理解したすごい人だって、褒めてやるし、
こっちも、そっちを好きになってやるから」
とか、本気で、こういう傲慢なことを内心で思っているので、
こういうタチの悪い人は、
正常な人格を持つ人たちからは、一番、嫌われたり無視されます。
*********
もう一度いいますが、
分かりにくい人というのは基本的に他者から「警戒」されます。
これがコミュニケーション障害のはじまりだからです。
その人の、書いたりしゃべる内容が分かりにくいからではなく、
「感情」が分かりにくい場合のことです。
これは動物同士の交流としては、致命的なのです。
いわんや、それを、他人の抑圧された感情などを、別の他人に察しろ、
という方が無理な話です。
理解されないのは、本人が悪いのです。
悪いというより、どこかに故障があるということです。
ただし、そうなった原因の元は、
その親、そしてまたその親と、代々連鎖している事は、
いまさら言うまでもありません。
こうして、毒親は、「自分自身がそうであった」ように、
子供の事を、
「他者との交流が出来ない人格」に仕立て上げてしまうのです。
それが結果として、
子供の自立を阻みたい毒親にとっては都合がいいからです。
つまり、その毒親の手口とは、
>子供が「喜怒哀好楽」を出すと、叱ったり馬鹿にすると、
>5つの感情が、その捌け口を失います。
すると、その感情は、
その人の発する「言葉や態度」に混ざって化けてしまい、
結果として、誰にでも分かる異臭を発します。
すると、抑圧された、怒りや、恨みや、悲しみの感情は、ストレートにではなく、
陰湿な嫌味や、陰湿な態度に発展して、表現されます。
また素直に喜んだりしなかったものは、ひきつった笑い顔になってしまいます。
こうして、その子供は、大人になっても、
この基本的な他者との交流能力を失いします。
だから毒親が子供の幼児期に、まず子供から奪い去るのは
「コミュニケーション能力」です。
1/「喜怒哀好楽」の5つの感情を制圧する事は、
2/結果として「他者に信じてもらえない態度」として現れ、
3/その子供は孤立して、孤独感、孤立感によって、無力になり、
4/結果として、調教したその毒親だけを頼るしかなくなり、
こうして、全く無自覚な「依存症」が出来上がります。
そういう依存症は、仮に経済的に親から独立したところで、
毒親とまさにそっくりの人格として生きてゆくことになります。
*********
●だからといって、それまで自分の感情を抑圧し続けた人が、
これからは、感情を抑圧しないぞ、などと、
一夜漬けの、おぼつかない、慣れない様子で、
「私は**が嫌い」とか、「私は**を恨んでいる」とか、
「私は**なんか信じない」「**はしないと決めた」とか、
言い出しても そんなんじゃ、ゼロ点なのです。
学校の「お勉強」や「テスト」じゃないんですから。
毒親に殺された自分の純な感情の救出にかかるならば、
命がけでないと無理なのです。
それは、一度親に殺されたのですから、まぎれもなく、
人の「生き死に」の、かかった問題なのです。
それがどれだけ命がけであるのか、
それは、復元ブログの人たちの記録を見れば、異論は一切ないはずです。
*********
分かりやすい事例として、
たとえば職場などで男女、特に女性に多いのですが、
「あたし、あいつ嫌い、あいつは好き」とかはっきり言う女性は、
嫌われることはあっても、警戒はされません。
警戒されないとは、誰かがその人を好きか嫌いかの問題ではなくて
「相手にどう接するかの判断を決めやすい」ので、
他人にとっては安心感があるのです。
>あなたに関わる相手の人が、
>あなたに対するスタンスを決めやすくする
これこそがコミュニケーションの基本である。
「私、猫なので、ネズミや鳥のあなたを襲いますよ」とか
「私、マルハナ蜂ですから、私を攻撃しないかぎりは、刺しません」とか、
「ここ、私のテリトリーなので、入ったら許しませんよ」とか、
そこには、関わる双方が「境界」を決めるルールが自然界にはあります。
つまり、他者がスタンスを決めやすいように、
感情抑圧をしないためには、
「言葉で、くどくど自分を説明する」ようなことによってではなく、
善悪や常識に関係なく、自分の感情を出して好き嫌いをはっきりすることです。
たとえそれに相手が勝手な誤認をしても良いのです。
*********
一方で、相手が貴方にどういうスタンスを取ったらいいのかを、
意図的に分かり難く、わざとごまかすタイプの子供が大人になるケースでは、
その者の両親のどちらか又は片方が、
非常に「臆病」で対人関係が正常でない人間であった事を意味します。
そうすると、その人の行動原理の、主たる動機は、
その毒親の洗脳した通りに、ご丁寧に「感情を隠す事」になります。
感情を出せない、又は出さないように毒親に調教されたり、
感情を出すと頭ごなしに、恥ずかしいことだと、親から否定される、
そういう中で育った子供は、
大人になっても、
他者に、「この人は、わかりにくい」という不安を与え、
結果として関心すら向けられなくなります。
●しかし、感情を決して低いものと見てはなりません。
感情喪失の子供は、動物たちからさえも無視されます。
ペットの猫や犬が、あなたに、なついているからといって、
それは、動物に警戒されていないことでは全くありません。
そういうことは、野良や野生で試さないと意味が全然ありません。
他の生物とのコンタクトというものは、
頭の中でいくら言葉を言ったり、イメージをしても伝わりません。
彼らに伝わるのは、唯一、「本気」のみです。
薄い感情や、漠然として、曖昧な思考内容は、動物に理解されません。
というより、そもそも、
そんな「曖昧な思考や、イメージ映像や、意志」などだったら、
たとえテレパシーが出来てさえも、それは人間の他人にすら理解されなませんから
*********
さて、そうした感情抑圧により、
他者から無視されたり、又は他者に不安を与えてしまう、
その子供の本心の声は、
「自分の存在を認めてくれ」となります。
そして最悪の場合には、意図的に、または無意識に、
分かりにく態度をすること、またはそうした態度しか出来ない事によって、
「相手に嫌悪感と不安を与える事」によって、
他人(=親)に自分を見てもらおうとする、
というより屈折した病になります。
これが悪化すると、ストーカーや、犯罪者になります。
**************************
★そんなわけで、その「感情」を取り戻した方の報告の一部抜粋からです。
むろん、単に感情を取り戻したのではなく、
原主体が、この方の人生を、仕切りはじめたわけですが。
↓
報告より
***************************
崩残 様
いつもお世話になっております。基幹房です。
じっくりと腰を据えて、自分の心境を確認しながら、
噛みしめながら、書きたかったので、
本日(土曜日)の夜中になって、今、書いている所です。
最近の報告においては、何度も書いてきました。
でも、また書かせて頂きます。
「楽しくて、充実している」
「生きているのって、こんなにも楽しかったのか」
言葉にすると、こういうことになりますが、
自然と心の底から、そう思えます。そう感じます。
そして、そのように思える、感じられるようになった自分が
嬉しくて嬉しくてしょうがないです。
また、私の場合、元々、泣き上戸というか、ドラマや映画等を見ても、
ちょっとしたことで涙がうるうるとしやすい方でしたが、
最近は、本当に、泣き上戸になってしまいました。
ここ最近、ほぼ毎日、生きているのが楽しくて、嬉しくて、
歩いている時、電車に乗っている時、家にいる時、
または、仕事をしている時においてさえも、
どうしようもなく涙が出てきてしょうがない時が、何度もありました。
今日は、特にひどかったです。
いやいや、嬉し過ぎて、泣いていることが多かったです。
今日は、やっておきたい雑用が色々とありました。
午前中は、
中略
このように、特別なことは何もしておりません。
多くの人達が、日常にすることであり、私自身も
以前からやってきたことでした。
何か特別に嬉しかったことや楽しかった事があったわけではありません。
ありきたりの事をやっただけです。
でも、今の私にとっては、
その一つ一つの行動、
その一つ一つの思考、
その一つ一つの感情等、
つまり、私自身の内外で生ずる出来事等が、
とても新鮮で刺激的に感じ、感動を覚えました。
そのたびに、嬉しくて楽しくて、
自然と涙が出てきて止まりませんでした。
いつもは、夜に寝る前、つまり、一日の終わりに、日記を書くのですが、
今日は、お昼ご飯を食べる前に少し書きました。
午前中は、**に行って、買い物に行って、
電車に乗って家に帰ってくるまで、色々と思い、色々と感じ、
そして、感動して涙を流すことが多かったので、
忘れないうちに、書き留めて置きたかったからです。
その日記には、次のように書きました。
思いついたままに書いた文章ですので、文章になっておらず、
分かりにくい所もありますが、そのまま掲載します。
*********
今日は、休み、やはり、休みの日はいい。
最近は、仕事の日も楽しく充実しているが、休みの日はもっといい。
仕事は、何かと時間などが拘束され、
自分の自由にならない部分がかなりあるが、
休みの日は、全て自分の自由にできる。
今日は、こうしよう、ああしようとやりたい事等を
自分の好きな時間にできる。
だから、よけいに楽しく充実している。
今日は、まだ午前中だが、書きたくなったので、日記をもう書いているが、
今朝7時15分頃に家を出て、8時頃に駅に着いて、
モーニングを食べ、**に行って、買い物をして帰ってきた。
特に、何か特別な事をしていたわけではない。
まあ、単なる雑用と言えば、雑用でしかないが。
もう本当に、言葉では言い尽くせないほど、楽しく充実していた。
生きている。
ああ生きている。
感動で嬉しくて涙が出てくる。
他人見られると格好悪いが、出てくる。
最近、さらに泣き上戸になった。
こうして生きていることが嬉しくて、涙することが多い。
それで、今日、ふと思った事がある。
・順調と言うが、本当は、心の中、精神状態が順調かどうかが大切だ。
今までは、外の現象が順調かどうかばかり意識が行っていたが、そうではなく、
周りは嵐が吹こうと(実際は、嫌だが)、色々と問題があろうがなかろうが、
上手くいこうがいくまいが、
自分の心の中が順調であるかどうかだ。
・未来、現在、過去とあるけれど、未来も過去も現在という一点、
もっと言えば、今のこの一瞬に集約、凝縮されると感じた。
物理的には、頭の中の中心に感じる。
だから、未来も過去もなく、今のこの一瞬しかないし、
これから全てが始まり、帰るべき、戻るべき地点と感じた。
今、この一瞬しかなく、ここに意識を置いて、これが変わらない限り、
未来も過去もへったくれもなく、
今のこの瞬間の思考や感情が変わらなければ、何も始められないし、
何も変わらないと思った。
だから、今、この瞬間が楽しく充実しているから、
過去も未来も、そうなると感じた。
今まで幸せになりたいと、ずっと思ってきたが、
今が、幸せであればいいし、
今、幸せでないと未来も過去もそうではない。
未来に幸せがあるとか、幸せになるとかではない。
幸せになる為に、未来に幸せになる為に頑張ってきたが、
そうではなく、今、この一瞬に幸せそのものにならなければ、
その先の未来も、その前の過去も不幸になってしまう。
今、この瞬間に幸せそのものであること。
そういう心の状態でいられること。
これが順調と言えるし、
そういう事が自然と思える、感じられる自分になれたこと。
これほど嬉しい事はないし、幸せな事はない。
中略
その後、帰りの電車に乗りました。
電車に乗っている途中、少し気になったので、桜の間を見ました。下記の投稿です。
[523]■ ★分割自我復元★その53●【 雑記(いや「記憶商品」か) 】●
午前中に一度、読ませて頂いていたのですが、文章が追記されていました。
その中にありました、下記の文章です。
>●あぁ、そういう意味では、
>基幹房さん、
>やっぱし、もう、前のAC人格は、死んでいるかもしれないな。
>だって、昔に私が知っていた、あの人、
>もう、どこにも、いないんですもん。
もう涙が止めどなく流れ、止まりませんでした。
電車の中では、人目もあり、
「これは、ちょっとまずいな」と思いましたが、
そのまま身体に任せました。
その時は、ただ嬉しく、共感を覚え、泣いていました。
後で、冷静になってから、
その時に私に起こっていた事、感じていた事を振り返りました。
崩残さんから言われたから嬉しかったのか。
いや、違う。
自分自身でも、そう感じていたからです。
まだまだ問題だらけで、
これからも一つ一つ解決していく必要がありますが、
明らかに、以前とは違う自分の姿がありました。
10月13日から、新しい仕事が始まると言う事で、
自分がなりたい人格をイメージして、仕事に臨みました。
新しい仕事が始まって、もう一か月が経とうとしていますが、
十分な成果を上げていました。
特に思考・感情面において、
以前とは、まったく違う自分の姿がありました。
これからも、もっともっと充実して生きていきたい。
そのためにこそ、今、地球にいる。
こんな経験をできるなんて、なんて幸せなんだろうと思う。
しんどい、苦しい、楽しい、色々とあるが、
これからもそれらを存分に味わい、生きて死んでいきたい。
いや、絶対にそうなる。
そして、死んだ時には、胸を張って、
「役人だかなんか知らんが」、と言えるようになりたいし、なれると思う。
いつも、泣いたり、笑ったり、落ち込んだり、
嬉しくなったりと色々とある私だけれども、この今の私(肉体ではない)で、
これからも生きていきたい。
自分に対しても、これからもよろしくお願いします。
さあ、これから、午後が始まるぞ。
以上が日記からの掲載でした。
*********
以前の私であれば、
何度も何度もトライ&エラーの繰り返しを行い、
その中で、上手くいかない事が出るたびに、意気消沈し、
モチベーションが下がり、だんだんとやる気がなくなってきて、
しまいには、仕事をやることが嫌になってしまっていました。
でも、人生も同じなんですよね。
小さな事から、大きな事まで、トライ&エラーの繰り返しなんですね。
そうしていく事によって、物であれば、
よりよい物できていくのが当たり前であるし、
自分の経験においても、失敗を繰り返し、よりよい成功へと繋がっていくのです。
特に、新しい事を始めたりする場合は、失敗と言うか、
最初から上手くいかないのは、当たり前、上手くいくと思う方がおかしいわけです。
この至極当たり前の事を、
以前のAC人格の私は、まったく分かっていなかった。
成功する、上手く行くのが、良くて、
失敗するのは、悪いことだと思い込んでいました。
そして、いつも、失敗を恐れ、不安感いっぱいで、
失敗を避ける為、余計な事をしでかし、その結果、失敗してしまう。
しかし、ある時、私は、それは明らかにおかしいと気づきました。
でも、気づいただけでは、今まで何十年と培ってきた悪癖は治るはずもありません。
いや、そもそも、間違った考えをしているAC人格の悪癖を、
どう修正した所で、どうしようもない事は、明らかでした。
それで、AC人格を抹殺するべく、
新しい人格を形成するにあたっては、基本部分として、
問題があろうとなかろうと、成功しようと失敗しようとも、
常に現実を直視し、問題解決を図っていく姿をイメージしました。
そして、その新しい人格で仕事に臨もう、生きていこうと決心・覚悟しました。
その結果として、上手く行かなかった場合は、
感情面において、当然、落ち込みますし、やる気をなくしたりしますが、
思考面においては、何が問題だったのか、
何が原因なのかを積極的に探ろうとしています。
そして、それに連動してか、一時的に落ち込んでいた感情面においても、
またやる気が起きてきています。
感情と思考が違っていて、
一時的に矛盾したようになったとしても、感情は感情として生かし、
思考は思考として生かそうとしているので、
結果的に、うまく統制が取れているようです。
どのような感情であろうと、その時に認め、出して上げることが、
とても重要なことであると、経験を通して感じます。
だから、楽しい、嬉しいという感情だけではなく、
苦しい、しんどい、悲しいというような感情についても、
同じように十分に認め、味わうようにしています。
もっと分かり易く言うと、
子供のように、大いに笑い、大いに喜び、大いに悲しみ、大いに怒る
というような感じです。
一応、社会に出ている大人なので、
あくまで、心の中だけで、そのようにしています。
このように、以前の自分では、考えられないような姿が確認できています。
そして、日記ですが、ここ最近、次のような文章を、毎日書いていました。
日記を本格的に書き始めたのは、9月9日からですが、
一冊目のノートが終わり、11月3日から、2冊目のノートに入っています。
その日から、今まで書かなかったようなことを書き始めました。
ノートが新しくなっって、
自分の中で何かが切り替わったのかもしれませんが。
下記に日付ごとに抜粋します。
*********
11月3日の日記
生きながら自殺する。今までの自分はもういらない。殺す。自殺する。
11月4日の日記
****→死あるのみ。(自分の名前を書いて、その上に×をした)
死ね。****(自分の名前を書いて、その上に×をした)
こんな毒父毒母由来の名前、AC人格はいらない。
11月5日の日記
****は死んだ。(自分の名前を書いて、その上に×をした)
11月6日の日記
やはり、****はいらない。(自分の名前を書いて、その上に×をした)
日記を書く時は、一日を振り返って、思った事、感じた事に、
何の制限もなく書いているのですが、
このような事も、自分の心の中から出てきたものを、
(よしあしを考えず、躊躇せずに)、そのまま書いていました。
もう本当に、毒親由来の、
あのAC人格である、この****はいらないと、
心の底から思いました。
そして、これからは「基幹房」として生きて、死んでいこうと思いました。
親の話が出てきたので、それについて書きますと、
いつからそう思ったのか、覚えていないのですが、ある時から、
両親の事について、自分の心の中で思う場合も、知人に話す場合も、
彼らの事を、次のように呼ぶようになっていました。
『かって、私の親だった人達』
中略
冒頭にも書きましたが、最近、嬉しくて泣くことが多かった。
特に今日においては、
今、この瞬間を味わい、楽しめるような自分の姿が確認でき、
とても感動して泣きました。
振り返れば、新しい人格をイメージして仕事に臨む際、
次のように思っていました。
問題があった時がチャンス。特に体調が悪くなった時がチャンス。
チャンスとは、AC人格を抹殺するチャンスです。
なぜなら、私の場合、体調が悪くなったり、
身体の具合が悪くなった時に、
AC人格にやられてしまうことが多かったからです。
何度も何度も、これで失敗して、
もう本当に悔しい思いをしてきました。
そういう意味では、チャンスではなく、
また、AC人格にやられる最大の危機でもありました。
でも、危機の裏返しはチャンスでもある。
AC人格としても、私が最も弱った時を狙えば、
私をやっつけられると思っていることは間違いない。
私にとっては危機でも、AC人格にとっては、最大のチャンスでもある。
だからこそ、その時に、私が負けなければ、AC人格をぶっ潰せる。
このように思い、仕事に臨み、日々生きていました。
私の場合、元々、それほど、身体が丈夫ではなく、体力もないので、
仕事で残業が続くと、体調を崩して、身体の具合が悪くなるい事が多いです。
その為、普段から、身体にはとても気を遣っているのですが、
仕事上、なかなかそうもいかないです。
仕事には、納期もあり、多少、無理をせざるを得ない事もあるからです。
かくして、チャンスは到来しました。
残業が続き、11月に入った頃から、だんだんと体調を崩してきました。
そうなると、今までの私の場合、必ずと言っていいほど、仕事を休んでいました。
体調を崩したのだから、仕事を休んで、身体を回復させるのは、
至極当然なことであるように見えます。
しかし、私の場合、その根本が問題で、身体がしんどい、辛い、
だから、仕事もしんどい、嫌だというような思考になってしまっていました。
要は、逃げていただけでした。
AC人格の思うがままに、やられていました。
しかし、今回は、違いました。
それが顕著に表れたのは、11月5日でした。
それまでも、毎朝、体調が悪く、
「しんどいなあ」と思う日々が続いていたのですが、
この日は、最も体調が悪かったです。
11月5日の日記を掲載します。
今朝、もう最悪にしんどかった。正直、仕事も休みたかった。
けれど、それでも、仕事に行きたいと思った。自然にそう思えた。
今の仕事は、ちゃんと最後まで責任を持ってやりたい。
***、***の調子が悪い、寝ていない。もう最悪だった。
でも、行きたかった。仕事に行って良かった。
今日も、1日、遅くまで大変だったが、予定通り、作業をやり終えた。
この体調が悪い状態であっても、それに振り回されなかった。
今の自分は、ちょっと残業が続けば、すぐに体調が、ボロボロになる。
それでも、それに振り回されない。
何があろうと問題があろうと、やるべきことは同じだ。
目の前の事を逃げずにやっていく事。
これから先も、今の自分で生きていきたいか。
今の身体ではなく、今の意識で、
これからも生き、死に、ずっと一緒にやっていきたいか。
「****は、いらない」(自分の名前を書いて、その上に×をした)
「基幹房」として生きていく。
中略
今の基幹房と共に歩んでいこう。この先何があっても。
色々な事が、きっとあるだろう。
でも、何があろうがなかろうが、楽しくあろうが、苦しくあろうが、
今を、目の前の事を十分に生きていく。
今の自分と生きていく。これから先も。
「****は死んだ」(自分の名前を書いて、その上に×をした)
このように、今の自分と生きていこう、そう決心した日でした。
色々と書いてきましたが、今、最も感じている事です。
以上で、今回の報告を終わりたいと思います。
では、またメールさせて頂きたいと思います。
敬具
***************************
●むろん、仮に、全自我になったとしても、
誰しもが、基幹房さんのような生き方、感じ方になるわけではありません。
それぞれの人ごとに違いがあります。
それは、それぞれの人が、それまでに抑圧してきたものに対する
バランスのとり方というものがあるからです。
しかし、一方で、あびさんと、基幹房さんには「共通項」もあります。
見ている視点に、そして二人が見ている世界には、確実な共通性があります。
それは、もう、あえて繰り返し書く必要もないことだと思います。
この全自我の生を、心行くまで味わうこと、
それが、本来は、この惑星に生きる人々にとって、
遠い過去には、それが当たり前だった時期があります。
(全時代を通じてではありませんが)
まずそれを生きたあとでならば、
別の世界を「自然に」求める時期が来ると思います。
そう「しなければならない」とか、
そうするほうが「他人より偉そうに見えるからする」とか、ではなくてです。
●基幹房さんのこうした状態を、
心理学または精神医学では、単なる躁状態と呼ぶかもしれませんし、
精神世界に、頭だけを突っ込んだ人たちは、
「ただのポジティヴ思考」で、どうせ、元に戻るのさ、
と冷笑する、本当に最低の、性格の悪い者もいると思います。
しかし私は、人間の意識の変容について、
いくつかの種類と、いくつかの段階を、これまでに見てきて、
特に、この「2010年」以後から開始した、
自我率の修復と、AC問題について把握してからは、
その個々人が立脚している「前提」次第では、
全く効力の出ない瞑想法や、修行法、
ないしは、方法論や体系というものが、明確に分かるようになりました。
しかし、もっとも瑣末で、人間的で、馬鹿げたことだと思う事の中に、
つまりは、もっとも苦痛を感じる根幹部分の奥にこそ、
もっとも、重要な宝石の原石があるということです。
これは、私自身は、幾度も体験してきたことですが、
そうした核心に至ると、何かのきっかけで、
それまでと同じ状態に戻るような一時的な変化とは、全く次元が違います。
それは、もう、決して、元には戻りません。
いつもと同じ日は、二度とやってきません。
どんな意識状態も、その状況に応じた「変化」はすると思いますが。
根幹部分、つまり、その「基幹」は、揺らがないものとなります。
相対性というものを、十分に経験しつくしてこそ、
非相対性(ある範囲内における絶対性)というものを、
体験する時が、訪れます。
それまでは、絶対的な確信というものは、本人の中に決して起きません。
この確信というものは、
絶対的だと、感じたり、そう自分で思う、ということではなく、
絶対性の一部が、そこで「産声を上げます」から、
その体験を「対象物として認識するのではありません。」
それ自体に「なってしまう事」です。
自我復元で言えば、原主体そのものに、なってしまうことです。
また、それは、「体験」であって、
どこからか仕入れた、それらしい言葉だけの、ただの知識ではありません。
今回の基幹房さんの報告のそれは、
全自我の原主体が、本来持つ性質を、かなり顕在化させています。
それは「自我の本来の状態」であって、
中途半端な説明がされるような、
いわゆる、無我だのなんだのの問題ではありません。
そして、何かを体験をしても、
なおも、疑い、自問し、精査し、確認する、そういう姿勢を、
基幹房さんにも、朱いはがねさんにも、あびさんにも、
見ることが出来るはずです。
まず女性二人が飛躍していった後であるので、
そこでねバランスというものが発生するのかは、わかりませんが、
男性の、自我修復完了者が、ここのところ、続きましたね。
天上天下唯我独尊
「天上天下唯我独尊を誤解していませんか?」とか書いている、
そういう者に限って、
最も誤解している解説をしてるので、私は本当にいつも呆れます。
それは、その「言葉のとおり」で何ひとつも間違っていないのです。
その正意とは、
「ボク今までと違ってこれから、ちと自我を持つから、よろしくな。
7つの部品を揃えて、天地の間で苦を経験してみますから」
釈迦は生まれた時に、そう言っているということの象徴です。
だから、この手の宗教神話に対する、
信者たちの「身勝手な解釈」は、見ていて本当に愚かしい。
彼(釈迦)は、生来悟っていたのではなく、
そこには、35年もの濃縮された歳月がかかっているのである。
彼は生まれた時には、まぎれもなく「精神的には凡夫」なのである。
というより、計画的に、
世界中に「自分一人しかいないような孤立感覚」を、これから経験するぞ、
と宣言しているだけの事。
7歩とは、7層身体を持った事の「象徴」にすぎません。
彼が、「上下に、左右それぞれの指を指した」のは、
「二つの次元の「中間」に下りましたのでよろしく〜」という意味です。
彼が経験したのは、
「それまでの彼のいた世界」には、決して存在しなかった(意識されなかった)
「生死の区別と 老と病」という「非・平均的状態」です。
彼はそれを経験し、それを超える経験をしたくて、
志願して地球に来たのだから、そこで何が起ころうが、自業自得です。
あのブッダのこと(エピソード)だからって、
何でもかんでも、「悪い意味ではない」とか解釈して、
自分たちの脳内神話の中で、勝手な偶像を作るのはやめたほうがいいです。
たとえば、
「ブッダが、最も人らしい普通の亡くなり方をするというところに、
その本質がよく表現されている」
とかいう論説を言う人もいますが、
ならば、「誕生の時だって、最も人らしい普通の生まれ方をする」
そういうものなのです。
なぜならば、「円環の最初と最後」というものは、常に相似形ですから。
だから、彼は、紛れもなく、自分で望んで、
精神的には全くの凡夫として生まれ、
どうなるかは、きわどかったはずです。
そういう「結果の分からないチャレンジ」でないと、
この地球でやる意味がないのです。
そして、その最期に、
彼が、この地球という世界で最後に感じた苦痛は、
食中毒だけで済んだようです。
どこかの国の「干物」の偶像みたいに、
磔とかにならないで、ホントに良かったですね、と言いたいです。
でも、いやいや、
磔などより、その苦痛は、ずっと、深く、そして長引いた、
という考え方も出来ます。
失血して気が遠くなるのと、下痢と吐き気が止まらない。
この二つを比較すると、
後者だって、冗談じゃないぞ、というような、壮絶な死に方です。
だから、
ブッダは、全人類の、みなさんの「腹痛」を背負って、
「最後の一人の腹痛」まで、救済しようとしたのかもしれませんよ。
下痢止めには、「シャカフェルミン」が効くと思います。
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