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[563]
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★分割自我復元★その563●【宿題の回答例】●
by:
鈴木崩残
2016/01/04(Mon)18:08:24
新春の宿題の回答例
●まずは、ちょっとしたジョークで楽しんでください。
多少のアレンジをしてあるものも、ありますが、
私のオリジナルではありません。
『省エネ』
喪主 「これですか新しい 省エネ霊柩車 というのは」
葬儀屋 「はい。さようでございます」
喪主 「どこが、今までと違うんですか?」
葬儀屋 「はい。ホトケさまを焼きながら、そのエネルギーで走るんです」
*********
「カルマの法則」
教祖
「狐を狩る者は、来世で狐になり猟師に殺され、
熊を狩る者は、来世では、熊となって、猟師に狩られる。
だから無益な殺生をやめなさい」
猟師
「本当なんですか?」
教祖
「解脱した私が言うのだから、本当だ」
すると、猟師は、即座に教祖を撃ち殺した。
猟師
「やったぜ、これで来世は、教祖様だ」
*********
安倍がCMに出演する事になった。
高いビルの屋上で大空を指差すシーンの撮影が終わると、
監督が言った
「総理、では、ここから下に飛び降りてください」
安倍
「君、なに言ってるんだ! そんな事したら死ぬじゃないか!」
監督
「ご心配なく。 ラストシーンですから」
*********
測定員
「あの鈴木さん。申し込み用紙の、今回の依頼品の品名が、
”鳥人”の肉って書いてあるんですが、これ何かの誤字ですか?」
鈴木
「いえ、それで間違いないです」
測定員
「そんな生き物が、いるわけないじゃないですか!」
鈴木
「鳥肉と人肉が半々です」
******************
教会で、説教をしている、牧師が言った。
「あの世では、お金は大事ではない。
なぜならば、あちらには、お金がないのだから」
すると、誰かが、ささやくのが聞こえた。
「今の聞いた、ママ?
ぼくたち、もう天国にいるんだよ」
******************
これを読んで、思ったことをありったけ書くというのが宿題でした。
■Nさん
それでは本日いただきました宿題を私なりに考えましたので、
報告させていただきます。
最初に直感的に感じたことは、
誘導されるとおりこの親子が清貧の美徳で
お金がない暮らしをしているけれど、
心の美しい子供に育っているというものだった。
よく読んであれこれ考えだした。
あの世=天国と勝手に決め付けている。
この親子が貧乏であると決め付けている。
そして牧師は良い人であろうという思い込み。
一つ一つ考えるとこの文章からは何も説明がされていない。
例えばこの牧師が、
皆からお金を巻き上げるために説教をしている悪徳牧師かもしれない。
実は別の理由でお金を必要としているのかもしれない。
教会の経営者自体がそうなのかもしれずこういう話をしたあとの奉納金?
お布施が、いつもよりも多く集まることを経験的に感じていて
牧師は単なる雇われで、今日はこの話をして欲しいと依頼されているだけ、
話をしている本人すらそのことに無自覚なのかもしれないといった可能性。
ささやいた子供は実は大富豪の息子で、
あの世≠天国だと思っている。
あの世=お金がなく苦しい
逆にお金があって幸せな私たちは、今天国にいるんだ、と考えたのかもしれない。
簡単に私は騙される。
騙してすらいない勝手に私自身でストーリーを決め付けている。
お金は大切なものではあるし沢山欲しいと思っている。
お金には価値があってその価値はたくさんあったほうがよいと思っている。
天国ではその価値観から開放された世界であった欲しいと思っている。
そもそも天国と聞いて素晴らしい世界を想像してしまうとも思っている。
ささやき声が聞こえた、そのささやきの主が生きているのかどうか、
この牧師の話に対してのコメントなのかどうかすらわからない。
感じたことを考えようとした。
最初はお金がなくて貧しい暮らしをしている親子が
牧師の話を聞いて、お金がない僕たち本当は天国にいるんだと囁いた
素朴な会話であるというイメージを持ったけれども、
そう決め付けることのできる説明はない。
あの世ではお金がないのなら
お金が大事であるかどうかの議論すらないだろう。
お金のあるなしで判断されているということ自体、
お金という価値観に縛られた考えだ。
この親子がお金を持っているのかないのかもわからない。
なのに早計に、幼い子供が母に囁いた美談のようなものとしてイメージしてしまう。
ジョークということでこの話を楽しむということであれば、
これで良いのかもしれない。
けれど、私はあまりに無自覚に自ら検証することもなく、
私の都合の良い話として受け入れてしまっている、
ということに気づかされる。
感じたことを書き出そうとすると、
この短い話をひとつの方向性をもったストーリーとして決めつけ、
ストーリーに感情移入し、盲目的に美談に仕立て上げようとしている。
その上でこの親子に、
特に幼い子供にかわいいとかかしこいとか、感想を抱き、
こういう素直な子供に育てた母に感動し、
負けずに頑張れと応援したくなる。
幼い子供であるかすらわからないにもかかわらずである。
この短いストーリーの中には、
自分を盲目的にさせている価値観が潜んでいて
無自覚に受け入れてしまっている。
しかもここで立ち止まって考えてみてくださいと言われて、
初めてひょっとしたら、こう考えられるかも、いやこうともとれる。
とあれこれ考え始める始末である。
こう書きながら未だ無自覚である。
リアリティーがないからだ。
全部机上のものとしてこねくり回している。
これだけ多くを語る必要があるのだろうか?
私はこう考えるで良いんじゃないだろうか?
私はこんなことも考えられるこんな可能性も見いだせる。
すごいことができるんだ。
だからひとつずつ説明するから、聞いて欲しい、
とでも思っているんだろうか?
わかってもらえないかもという不安が、ここまで書かせるのだろうか?
これは「ジョーク」だったのじゃないのか?
ならば「ジョーク」として楽しめばよいのではなかろうか?
どんどんこの話とは関係ない方向に考えが向いていってしまう。
そもそもこんな問いがなければ、
この短い文章に対してここまで意識的に考えなかっただろうし
そういう生き方を言われなくてもできるのだろうか?
という不安もある。
お題をもらったことは、
こうやって真剣に考えもするが、自らお題を作れるのだろうか?
自らのお題じゃないものに、何故こんなに考えてしまうのか?
無明庵からの宿題であるからか?自我復元に関係するからか?
そもそも正解すらないと明言されているではないか。
というか、昨年1度しかもつい最近判定をしていただいただけで、
こういった質問に返答しても良いという資格を得た、
と思い込んでいるのか?
図々しいにも程がある。
いろんな可能性が内包されているにもかかわらず、
ひとつのストーリーとして決め付けてしまう。
こうやって私は私自ら騙されてしまう癖があるだろうと感じた、
という一言ですんでしまう感想を、
こんなに長々と表現しようとしているのはなぜか?
言われなければ素通りしてしまうことだったのに、
よくもまあ私はこんなに気付けますよと言わんばかりに、
偉そうに書き連ねられるのか?
こういう時は自分をごまかしている自分がいる?
そうだ、この話を読んで、
私はかわいい幼い子供のイメージを持った。
それしか気づかなかった。
なのに、あれこれ考えていろんな可能性があるよねと捏造した。
その捏造を知っている私は、
それをごまかすために必死にあれこれ書き連ねた。
なぜ捏造したかというと、私を虚飾しようとしたからだ。
誰に対して?
無明庵からの宿題に対して。
いいかっこをしようとした。
けれど私の浅知恵では大したこともひねりだせず自信がない。
だからここまで、だらだらと書く事でごまかそうとした。
立ち止まって考えるよう言われて考えた。
いろんな可能性があって、ひとつの可能性を真実だと思ったけれど、
別の真実の話である可能性もある。
と考えた。
これは自分でひねり出したものだ。
だけど、それをすごいことであるかのように話そうとしたこと。
本心では、この程度のことしかわかりません。考えつきません。
こんなんじゃ恥ずかしい。
と思っている。
その本心をごまかそうとしている。
であれば、無理に報告する必要はあるのか?
失礼ではないのか?
そもそも、この質問は何を聞かれているんだろうか?
なんて答えれば良いのだろうか?
正解はありませんとあったではないか!
なのにどうしてこんなこと考えるんだろう。
ただ知ってもらいたいのか?
それともこれすら私は考えているんですというアピールなのか?
そんなつもりは全くないし、
そう考えているかもと自分を疑う自分に腹が立つ。
どんどん最初の質問から離れていっている。結論は?
結論がないと話をしてはいけないのか?
小学校3年生の通知表に、思いつきでしゃべる。
これでは身につかない。
よく発表するけれど他人の話は聞けないと(ほぼ原文)書かれていた。
子供時代、よく整理して話をしろ。何を言いたいかまとめてから話せ。
と言われて育った。
何を言いたいかまとめて話そうとすると
その前提から全て一から説明することしかできず逆に話が長い、
無駄な説明が多いとも言われた。
どんどん話ができなくなっていった。
特におしゃべりが苦手になっていった。
だから結論のない話、
おちのない話はしてはいけないと刷り込まれている。
>この文章を読んで、想像したこと、考えた事を、
>ありったけ書くのみです。
とあるじゃないか。
最後にこう書かれているじゃないか。
ちょっとほっとしました。
気づくとこの話とは全然関係ないことを考えていた。
これで良いも悪いもなく必死に考えていた。
考えていた内容は目を覆いたくなる。
素直に自分の考えをまとめたものでなく
自分をごまかすために必死で書き連ねたもので、
それにうすうす気づき、違和感を感じた。
私が自己嫌悪を感じる元、
自分を偽っている。ということに気づいた。
感じたことは、いろんな可能性があって、
そのうちの自分がそうあってほしいと願う一つを盲目的に信じてしまう
というだけのことだったのに、
大げさに表現しなければ認めてもらえないような気がして
必死に書いていたこと。
考えろと言われて考えてみた。
そしたらいろんな可能性があると思ったこと、
そしてそのひとつの可能性に自ら勝手に、
簡単に騙される可能性があるということ。
それを報告したら良いではないか。
それが私だったんじゃないのか?
それに対して、この程度しか気づかない私は・・・・
言われなければ考えない私は・・・・・と自己卑下していた。
ごまかすために必死で書いていた。それに不快感を感じた。
だから気がづいた。
以上この文章を読んで想像したこと、考えた事の報告です。
敬具
●たいへんによく、思考のプロセスをそのまま追っていたので
その一例のひとつでした。
●あびさん
あびです。宿題、出します!
やりました。
それは済ませた、ということじゃなく、
こうやって私は、宿題というのを、やってみたかった、
という意味で、「やりました!」。
以下、手書きノートに書いたものを
そのまま転記し、宿題を提出します。
思う存分、やった!
その前に、この楽しかった宿題、その「話」を
ここに書き写してからにしたいと思います。
教会で、説教をしている、牧師が言った。
「あの世では、お金は大事ではない、
なぜならば、あちらには、お金がないのだから」
すると、誰かが、こうささやくのが聞こえた。
「今の聞いた、ママ?
ぼくたち、もう天国にいるんだよ」
それでは、以下、手書きノートより。
◆・◆・◆
さあ、宿題をやろう。「ありったけ」書くぞー!
(心の中で、「好きにやってみろ、あび」)
とべ!とべよ!もうとんでいるんだから!!
いこう、「空」へ。
・・・
この男の子、それは私。
この子の目はランランと輝いている。
毒母きいたか!「ざまぁみろ」だ。
あいた口がふさがらないアンタ、
これが「命」だよ。
ぶちこんでやったね、男の子!
牧師なんて、眼中にすらない。
この子はね、「生きている」んだよ。
解毒とはこういうことだ。
いや、毒されない前の子どもの目だ。
ここが地獄だとなど思うことない。
思う必要のないことのはず。
そこをずっと見ていて、この男の子の声は、
たとえ、大人になりACになりはてても消えない。
「今の聞いた、ママ?ぼくたち、もう天国にいるんだよ」
という声に、誰もが耳をふさいで逃げて生きている。
今、直視せよ。
これが魂の声だ。
牧師、よく聞け。
説教など、一発でぶっとばす魂の声があることを。
誰の中にもある声。
そしてこの誰の中にある声にもかかわらず、逃げまどうゾンビたちよ。
この子の声は、毒母、牧師に「死刑宣告」をしている。
毒母は、毒親又は世代間連鎖の毒の象徴であり、
牧師は、親以外にも子どもを殺す毒の大人、
又は毒親の亡霊たちの象徴だから、
AC人格全てに「死刑」を言い渡している。
「誰かが、こうささやく」の「誰かが」というのが、強烈なジョークだ。
他人事じゃないんだよ、あんたの中の子どもなんだよ。
あんたが首をしめて殺した
「あなた自身が、その誰か、だよね」という身も凍るジョークだ。
自我復元最大のホラーだ。
なんという腐った親だ。
ここに出てくる「ママ」、牧師の言葉が子どもに届いているかを、
その腐った目でちらちら見て、
自分の手も汚さない怠惰さを、誰が「逃がしてやる」というのかい?
逃げきれると思っているのか!
この話から、鮮明に浮かびあがる一番は、
「恐怖に甘んじた間抜け面の毒ママの様子」だ。
そこで言うんだ。「今の聞いてた?」って。
今の聞いた?
今の聞いてた?
今の聞こえてるよね?
ちゃんと聞こえてたよね?
こうやってどこまでも間髪入れず、男の子、そう、
「私自身」「あなた自身」が言う。自問だ。
思考停止した毒ママは、
「何いってんだい。この子は」とはぐらかす。
「馬鹿なこといってんじゃないよ。とっとと宿題しなさい」と。
「この(今回の)宿題、お前がやれよ」と(逆に子どもから)言われたら
どーすんの?・・・とことん、ざまあみろだ。
私の毒父が「馬鹿か、お前」と言うのと同じ。
逃げられなくなったら、
親の権威をふりかざしてしか黙らせられない。
でも、永遠に黙らないのが、
「内なる子ども」だ。
だから、(あなたは)ずっと怯えて続ける。
見たくないからと、
どんなに虐待しようと刃物でずたずたに切り刻んでも、まだ、動いている。
私はこういう夢、私自身が「切り刻んでいる側」の夢をよく見たことがある。
ゴム製の昔よくあったウルトラマンとかの中にゼリー状の何かが入っていて、
腕とかがのびるフィギュア人形を、何とか「跡形もなく」しようと、
血眼になっているが、「まだ生きている」のを見て、
どんどんエスカレートし、残酷になっていく自分が怖くなっていく、
こういう夢だ。
今思う。
この人形は「私」だったのだ、と。
で、その毒ママが、とり乱しているのを察した牧師は、
歩みより、こう、この男の子に「笑顔で」言う。
「さあ、天国のお話はおしまいだ。
ママの言う通り、早く家にかえって宿題をやりなさい」と。
最低なんだよ、お前!本当、最低。
ここでよくアニメとかで、
「はぁーい!」とか「チェッ、わかったよ」と
すこし悪態をつきながらも、従順な男の子が「作られる」が、
私が監督なら、こうするね。
「あの世では、宿題は大事ではない。
なぜなら、あちらには宿題がないのだから。ね、牧師さん。
ね、お母さん」と。
ここで牧師も、その悪臭全開の笑みが止まるだろう。
私はこの男の子のように生きていきたい。
「はーい」となど従わず、憎まれっ子、世にはばかる、だ。
なまいきな子、ふと今思い出した。
崩残さんが、小さい頃に「アイ ヘイトユー」と言って、
境界を土足で入り込んだ大人の顔にツバをはきつけた話。
私が小さい頃を思うと、歪んで笑っていたけれど、
そのどれくらいが本当は怒っていたろう。
どれだけ、「してはならない遠慮」をしてきたのだろう。
あと、何かないかなー
今日は、この宿題をやるこの今をすごく楽しみにし、
しかし、こういうまさに「楽しみにする私」を委縮させるような声とも闘い、
正直、この「岸」にたどりつくまで、超苦しかった。
でも「勝つ」と決めた闘いだったから、
私はこの宿題が書かれたノートを
「さあ、やろう」と開くことができた。
だから、もっと感じたい。
そう、最初思ったけど、この世にもすでにお金なんてないじゃん。
腐った権力しかないじゃん。
お金という価値を信じこまされているだけで、
あの世にいかなくても、
十分、ここにはお金など大事じゃなくなってるじゃん。
しかし、ここは地獄だ。
AC人格の支配する地獄。ゆえにあの世も地獄だ。
死後、天国が待っているというなどということはない。
この生と同じ死後が待っているだけだ。
しかし、私は、この男の子のように「目を輝かせる」ことはできるんだ。
この物語が語っているのは、
「死なない目」がある、ということだ。
ランランと輝く目、これがこの話を私が読んだ時、
一番強く入りこんだ感情だ。
私はこの感情を必死に守るために、今日一日も生きた。
そう生きてよかった。
ああ、書ききった。やったぁ。さあ、宿題を出そう!
◆・◆・◆
以上です。
よろしくお願いいたします。
●ぶっ飛んでいますね。あびさんのは。
なんか、ある意味で、なんでもないジョークの題材を、
講話にでっちあげている、和尚みたいですね。
そういうわけで、
別に、正解はないのです。
他にも断片的に、いろいろと頂きましたが、
総じていえば、最初のNさんの変形バージョンがほとんどでした。
それでいいと思います。
●この出題をした理由について、Nさんにこうメールしました。
「今回のように、あれこれ、あれこれと、妄想したことを
ありったけ、そのまま書けばいいのです。
とても、いい回答でしたよ。
出題した私自身も、あれこれと、考えました。
たった数行からでも、推測することは、いろいろあるな、
と思えたので出題しました。
禅問答のような正解というものはないのです。
沢山推測してもいいし、少なくてもいいのです。
ただ、その考えたことを
考えた自分について考えたことも、
感じたことも、迷ったことも
それも、ただ書く、その徹底さにおいて、よしあしはありますね。
_______________________________
●このジョークの最後について、一番多い、思考の展開は、
この子供が、素直に信じて、大人たちに騙されているのだとしたら、
それが悲しいことなのか、純粋さの美化なのか?
あるいは、また、
この子供は、ませていて、
大人を、からかうつもりで、意図的にジョークを飛ばしたのか?
とか、
この子供のささやきを聞いた母親は、どういう心境だったのか、
とか、
もしも、自分がそこで、その子供のすぐそばにいたら、
いったい、子供に、どう言えば、
その子供の将来に良いのか、
などという、大きな、おせっかいまで、考えてしまうものです。
牧師は偽善者だが、それを信じた子供は純粋だから、いいとするのか、
子供が嘘を信じさせられていて、かわいそうだから、正さねばならない、
と思うのか、
母親は、いつも、この子供に、どういう事を言っているのか?
とか、そりゃまー、あれこれ、考える題材が、たくさんあります。
しかし、ここでもまたもや、
「視点の多さ競争」(俺はお前らより視点が多い)
「他人との思考比べ」(こんなに俺は考えられる)
「こんなに自分の思考をちゃんと観察している」(自己観察自慢)
といった事をしてしまったとしたら、
それは、AC人格であることを自覚しないとなりません。
皆さんからの回答からわかったことは、
普段から、その人が、
何に関心が向いているかということでした。
関心地図のようなものが浮かび上がってきました。
_____________________________
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