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★雑記/NO.648 【 『原点想起−2』 】
by:
鈴木崩残
2016/12/03(Sat)11:21:03
「原点の想起−2 」
「精神世界」というものは、結局のところ、
死なないで済むための言い訳を作り上げること、または、
死なないで済むための感覚や意識をでっちあげること、
これに成功したり、失敗したり、それが変化した歴史ではなかろうか、
というのが、私のひとつの見解だった。
よく言われるように、あらゆる薬物は、人の精神が、
死なないで済むための緩和剤であるという意味では、
アルコールを含むドラッグも、そして宗教、もっといえば常識もまた、
人間が死ななくて済むための「杖」または「足」として、
機能しているわけである。
死ななくて済むために食料や水が必要であるのと全く同様に、
人の精神には、信念体系が必要不可欠なのであろう。
では、それらの補助剤、緩和剤がなければ、どうなるのか?
おそらく人間も、宇宙の生物も退屈感か、または虚無感によって
自殺をするか、自殺すらも出来ない生存形態の場合には、
精神が歪んで変形するか、構造が崩れて、滅び去るに違いない。
それが良いか悪いかは別問題として、
宇宙とはそういうものなのだろう。
そして、外部からの薬物の摂取によってであれ、
自らに与えられた心身ひとつを、洗練し、行使してであれ、
それによって、生存の辛さをなんとかして打破しようとする
そういうことは、宇宙中のどこでも、必死に行われてきた。
人が生に絶望して生きてゆけなくなったときに、
アルコールやドラッグや、向精神薬、そして信念体系、
または、それに伴う苦行や訓練を行使して、
なんとしてでも、精神が枯渇することを避けて生き延びよう、
苦痛を軽減したり、消滅させようとしてきたのであるので、
やはり、基本的には、苦痛の発生と、それに対処することが、
意識を持つ生物の活動の根幹であることは間違いない。
決して、遊戯(ゲーム)や楽しみではなく。
それを遊戯や楽しみというゲーム感覚に変化させる、
ということもまた、
死にたくなる感覚を回避できる有効な手段であった。
*********
私は掲示板や本の中で、
とりわけ、地球のような感情豊かな星から生産されるエネルギーは、
どこかの星の内部で、憔悴しきったボケ老人の面倒を見ている、
医療スタッフが使用する、カンフル剤として精製される
原料になるに違いないと書いた。
以前にも書いたように、精製された薬品は、
利用者に「即効性と、確かな薬効を保障」する。
すべての精製された、あるいは抽出された薬物の目的は、
ほぼ間違いなく、苦痛の回避である。
退屈した経験から抜け出したいときに、普通の人やアーティストが、
サイケデリックな体験を欲するとしたら、それもまた、
「変化のなさ」を苦痛や、行き詰まりや、
時には、絶望と感じるからであろう。
平たく言えば、一般的にも、
「辛くてやってられない」または「可能性の拡大の為に必要」
という理由から、
アルコール、ドラッグ、信念体系、または各種の神秘体験、
というものが、使われたり、求められることは間違いない。
平素の生活に何も問題がなければ、または問題を感じなければ、
食物以外には、いかなる薬物も宗教も必要ないのだから。
人間や地球人よりも上位に位置する存在が、
我々の生命の経験のすべて、または一部を、
エネルギー、または記憶その他の形状で搾取し、
そこから、彼らの精神の退屈や、精神の苦痛や、
精神の枯渇を回避するための薬品を製造するというイメージは、
まるで、私達が家畜や農作物のように思えてしまい、
いささか、または大きく、私達の自尊心を傷つけることがある。
もっとも私達とて、全く同じことを他の動植物に対してしているのだから
文句を言えた立場ではないですが。
それで、もしも、そのエネルギーの食物連鎖が、
延々と続くのが高次元であるとするならば、
宇宙は、まぎれもなく、
いつも「必死に、死なないように出来る理由」
または「そういう状態」の維持に翻弄され続けていることになる。
この事自体を、建設的な創造として見る視点と、
逆に、絶望的と見る視点は、すでに太古からあるので、
その話は置いておいて、ここで、私のごく個人的な話にします。
*********
ニコチンという代替物が、
不自然なほどの大量のドーパミンを脳内に分泌させた、
そういう時代が、昭和であり、また今もまだ続いていることは
前にも書きました。
私自身も、毒父親から、経済的に自立できた、
ちょうど20歳のところに、ほとんど立ったままで14時間続くなどの、
過酷なアルバイトをこなせたのは、煙草のおかげであろうと思っています。
ようは、自分で生産できる天然物のアセチルコリンでは、
全く気力が足りなくなるような過酷な作業をするために、
煙草に依存したわけです。(二人三脚の関係)
それと同じことが、昭和の時代の日本または世界で生じていたわけですが、
結局のところ、煙草でもアルコールでも、さらにはドラッグでも、
なぜ、それらが必要だったかといえば、
それだけ多くの「苦痛」と「矛盾」に、
人間の心身がさらされる環境にいた、ということになります。
この9ヶ月、禁煙をしてみて、
どれだけ自分がニコチンというスイッチに依存していて、
それがないと、脳がまともに機能しないか、という、
当たり前の事実を認識したとともに、
では、天然物なら正しいのか、となるとかなりの疑問を持ちました。
天然物の良さは、余計な経費がかからないことと、
細かいコントロールが自分で出来ること、生理的な依存性がない事ですが、
心理的な依存性という意味では、宗教や信念体系や、
あるいは常識や、何かの感覚や、考え方、意識状態といったものもまた、
「自分が定義するところの自分の正気」を維持するために、
それに依存している、という意味では同じです。
当たり前の事を繰り返しますが、
死にたくなる、つまり、自分の事をも含んで、
知覚をしているすべての世界(または一部)を拒絶したくなり、
拒絶の結果として、引きこもったり、自殺したくなる、
この感覚や状態に陥らないために、
常識、快楽、麻酔、薬物、宗教や修行もあるのであり、
悟りの体系や、さらには自我復元や、トラウマ解消の模索なども、
その中で生まれたものです。
それが目的とすることは、いかにして、
死にたくなるほどの、生への拒絶感を、
自分自身の感覚世界に生じさせないか、ということ。
良し悪しの問題ではなく、
精神の飢えを回避できる、新鮮な感覚を生ずる対象を見つけることは
常に、「良いこと」とされています。
退屈や、停滞や、枯渇に対しては、
それはそれで「全体の中」では独特の位置づけをすることは可能でしょうが、
それもまた、あくまでも、その目的は「苦痛の回避」です。
どうにもならないほど「辛い状態になったこと」、
そして、必死の試行錯誤の結果、それぞれの時代や場所で、
「これならば、長持ちしそうだ」というシステムを創造し得たこと、
それが、地球のみならず宇宙に、
それぞれの「世界像」「信念体系」
そして「抽出や合成された薬物」を生じた原因です。
1950年からの数十年、近年のドラッグカルチャーが
一時的に発生して、その時代に作られたものは独特の威光を今も放っています。
もっとも、ドラッグカルチャーそのものは太古からあったわけで、
宇宙のどこでもそれは生産されて、改良を重ねてきたと推測できます。
その近代のドラッグカルチャーが生じた時代背景といえば、
言うまでもなく、第二次大戦後の冷戦や、沢山の地域紛争、代理戦争などによる、
社会に生じた不安や不満や、矛盾といったものです。
思考の中で整理できない矛盾はそれ自体が苦痛ですから、
矛盾を統括できる体系や経験を持ち込もうとして、
薬物にであれ、瞑想によってであれ、どちらにしても、
変性(変成)意識なるものを求めて、
なんとかして、世界に感じる矛盾の感覚や、違和感に、
折り合いをつけられるような、落としどころを見出そうとするわけです。
これと同じことは、昨今の陰謀論や、あるいは、
精神世界でも全く同じであり、
自分個人の中や、特定範囲の集団に、
整理できない矛盾や疑問(=落ちさかなさ)という苦痛が発生するたびに、
それを明確に位置づけたり、説明して整理して、
結果、それによって、納得したり、安心して、
「自分や、自分たちが、生きることを肯定できる信念」を、
構築しようとします。
死にたくなることを回避するというゲームです。
ゲームと言うと、気楽に聞こえますが、実態は必死そのものです。
当たり前すぎることですが。
*********
私自身はドラッグカルチャーの育ちではありません。
自分が成人したその当時の社会の勢いの中で、
単に、生活を営む上での、自分の補助剤となった煙草以外には、
特に、親しんだ薬物はありません。
アルコールは個人的に嫌いで、あまり飲みませんでしたし、
その麻痺効果にはずっと否定的でしたが、ここ最近になって、自分自身が、
それと類似する補助効果をニコチンから長年得てきたことに鑑みると、
アルコールでは、作業効率が悪くなること、何かの運転ができないこと、
対人関係で、常に問題が生じやすい、記憶の劣化を起こす事を除けば、
今では「個人が辛さを訴えるのであれば、必要なもの」とも思います。
ちなみに、ドーパミン分泌の枯渇は、極端に思考力の衰退を招きますので、
単に不足した、それだけで、個人が持っていた信念体系もまたゆらいだり
消滅するほど、もろいものです。
特別なカルチャーショックがなくとも、ドーパミンを枯渇させるだけで
それまでの考え方は、消えてしまいます。
消えるどころではなくて、脳内は、
見事に、絵に描いたような「鬱状態」になります。
もっとも、その場合には、ドーパミンを放出されせる物質を再摂取するか
または自身で、天然の脳内物質を生産すれば、
めでたく「元の考え方」に戻ります。
映画の「時計仕掛けのオレンジ」と同じということ。
*********
話は変わりますが、EOイズムというものは、
では、「信念体系という薬物」を枯渇させたらば、どうなるのか?
という意味でのひとつの実験だったと言えます。
人間が死にたくなるのを回避するために必要としていたもののうち、
薬物ではなくて、「宗教や精神世界」の概念を、
あたかも禁煙するように、ひとつずつ頭の中から絶っていったらば、
一体、人はどうなるのか?と。
ちょうど1995年という時代は、
日本でカルト宗教が前代未聞の大事件を起こした年でした。
EOシリーズそのものは、1992年から書かれていたわけですが、
それが表に出たのは奇しくも1995年でした。
そのカルトの大事件が発生して、なんと書店の精神世界コーナーが縮小される、
といった「神経質すぎる異常事態」が発生した、その年に、
よくも出版社(古川氏)があれを発行したと思います。
今でもそのことには唖然とします。
しかし、結果は、こうなりました。
1995年のカルト宗教の事件がもたらしたものは、
「世間は正しく、カルトは間違いのキチガイどもだ」、
という論調で、すべてのマスコミや社会がいっせいに、
カルトに対して嫌悪感と、憎悪と、軽蔑の目を向けたの対して、
EOシリーズは、カルト宗教を一切擁護することなく、
その上さらに、
「社会の常識もカルト宗教と大差ない」ということを、
痛切に人の心に突きつけた結果となりました。
「・・・のブッダたち」という表題を見て、
「おいおい、このご時勢に、仏教カルトか?」と思っていたり、
または、
「カルトの事件のせいで偏見を持たれてしまった宗教を擁護してくれるのか」
と思いきや、
批判しているのは、「両方だった」というオチです。
精神世界のことを「精神世間(せいしんせけん)」だ」と言うことで、
世間のこともまた「カルトだ」と言い放ったわけです。
こうした動きが当時発生したこともまた、
時代の動き、もっといえば「人の苦痛」と無関係ではありません。
すでに書いたように、人の苦痛のひとつに、
「矛盾」に見えるものが表出するとき、
または、自分の頭の中で整理できないものが増えたとき、
人は、明確に何かを「説明してくれるもの」を求めるからです。
明確な説明でなくとも、
明確な認識に至るような「体験」をさせてくれるものです。
だから、カルト宗教が引き起こしたあの大事件の前後には、
いわゆる自己啓発セミナーなどが大流行していました。
そこで、
「人は、みんな、何かが苦しくて、
生きている辛さによって自殺することを回避する、
そういうものを、有史以来求めつづけた結果が、
人間社会の普通の常識であったり、
宗教であったり修行であったりするわけだけど、
そもそも、なぜ、そんな苦痛が蔓延しているのだろう。
そもそも・・・・なぜ。」
その疑問の視点から、精神世界と、精神世間とを見回したらば、
死にたくならないで済むような考え方、
生きる意欲が枯渇しないで済むような体験、
苦痛を感じないで済むような物質を求め、それを渇望し、
そうしたものを、疑うこともなく肯定しているのが、
世の中、ないしは、宇宙と呼ばれるものだったこと。
しかし、「本当にそうなのか?」
いったん、宇宙の外側に出るか、
さもなければ、いったん、宇宙という動きを止めてみて、
本当のところは、何がどうなっているのかを、見る事は出来ないのか?
一体何のために、それぞれが認識するところの知覚そのものが生じたのか。
(昆虫には昆虫の宇宙があり、魚類には魚類の世界があるように)
日々、自分が死なないように、または死にたくならないようにと、
必死に、自分に、信念や薬物という薪をくべて、
絶えず、自分を走らせているけども、
どこへ向かって走っているのか?
なぜ走っているのか?
そもそも、本当に走っているのか?
何の意思でそうしているのか?
そんな当たり前の疑問が、
最後に言い出すことは必ずこうです。
「もしかして、なくても、いいんじゃないか?」
そうつぶやいたときに、その「無い世界」が、
世界の母体であるかもしれない、その無い世界が、
アンチテーゼとして、世界と宇宙を取り囲みはじめる。
完全なる無意味に対して、なんとか拮抗していた
意味づけ、動機づけ、理由づけ、
つまり、死にたくならないで済むような、
一時的に(数年から数万年ぐらいは)通用する何かの生存理由、
これらに対して、全くの「無言」で、その実相をつきつけているもの。
そして「それ」に触れても、そこから無事に出てきて、といった
二つの極の世界の「往復」を「器用に出来る人たち」も多くいるものの、
それを繰り返すうちに、無い世界から、出てこられなくなる人や、
たった一度だけ触れただけでも、出てこられなくなる人、
そうした「事故」のようなことも、しばしば起きたのかもしれない。
そんな時には、その事故物件の内部では、価値観が効力を何も持たなくなるので、
思考が作り出した価値観ではなく、
「何かしらの感覚」だけが、生存の維持を可能にするのだろう。
多くの人たちが、それが使える間は、思考や価値観を行使し、
それが使えなくなったり、思考と価値観を交換しても、それでもどうにもならなくなると、
たいていは、瞑想といった形で、
思考より上位にある何かを、模索しはじめるものの、
その思考よりも上位にあるはずのものは、
常に思考が理解して満足した「という錯覚」をするために、
引きおろされた形に、原型を変形してしまう。
目下のところ、説明の必要のないものと説明という手段の間に、
橋をかけようとする動き大昔からあるものの、
これまた、昨今ではなく、太古から、そもそも、それをなし得るには、
通常の言葉や文法による説明の仕方ではない、
ということも、知られるに至っている。
詩文とか、言霊とか、発声法によってという方法。
構造的な説明
(「これは生きるのに得だよ」と、頭が持つ利害関係に訴えかける方法)と、
芸術的な説明(情緒または高尚に感じる感情に訴えかける方法)とが、
人をその「門前」にまで運ぶルアーとなり、
説明ではない説明法が、説明不可能なものの「扉」を開く、
そんなことが、ずっと繰り返されてきた。
それもこれもみな、
普通のことをしていたのでは、
あるいは、普通の感覚では、
または、普通の価値観では、
生きていられない=死にたくなるほど辛くなる、か、
または、ときどき辛くて、死にたくもなる、
といった絶望的な感覚の想起が、大小の差はあれど、
人間に生ずるからなのであろう。
*********
腹が減ると、食べ物を食べる。
腹が減らない生き物も、
胸や頭、その他、魂が空腹感を感じると何かを食べる。
どこかが、飢えては、食う。
これに対しては、
飢えを安定的に満たすものを生産するか、
飢えないようにするか、
そのどちらかしかない。
前者は、変化と増殖をし続ける、生の道。
後者は、変化を抑えたり、または変化を止める、死の道。
前者は、ときどき、または頻繁に、
「疲れるとき」がやってくる。
でも、その疲れることを、
「疲れるのは悪くないどころか、快感だ、
いや、疲れることは、疲れない耐性をつけるために必要だ」、
と感じるので、
いつしか、その面白いと感じる創作行為を再開するか、
または、面白いと感じる「感覚」を再開する。
一方で、死の道は、疲れはしないが、
その眠りが長期に渡ると、ひどく退屈する時がやってくる。
そして、また、慎重に、または無謀に、生を再開する。
しかし、この二つの繰り返しを、
延々と、やっていたらば、
最後には、誰もが、
ため息をつく。
すると、その、
うんこ、または嘔吐物のような、ため息が、
漂っていったその先で、
別の宇宙になったりするから
始末が悪い。
絶えまなく、「さぁー、次は何をして遊ぼうか?」
という意欲が続く、時代または性質と、
何もしていないが、それ自体が遊びとなる、
という時代または性質と、
遊びにも、興味を失う、
という時代、または性質。
これらを3つのグナに、こじつけることも可能かもしれないが、
やはり、最後には、3つが、ひとつの、
ため息になる。
なので、かの小説に出てきた言葉を意訳した、
次の、宇宙における知的生物の通る「進化の3大過程」の概要は、
かなり正しいと、私個人は思う。
1/生の手段を模索する段階
どうやって、死にたくならないように、楽しむか?
または、死にたくなること自体をも、どうやって楽しむか?
2/生の目的を問う段階
なぜ、そのように、必死になって、楽しもうとするのか?
楽しむ目的は、死なないようにだろうが、なぜ死んではいけないのか?
それをずっと考えていたら、死にたくなってしまった。
3/世慣れの段階
理由とか、なぜとか、めんどうなことは、もう考えずに、
どこで、楽しむか、だけを探して放浪する。
ちなみに、3番目の道は、
浮世慣れすれば、あるいは悟りでもすれば、出来そうに見えるだけで、
多くの場合には、そう簡単には継続できずに、必ず2に戻ってきます。
*********
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