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[3537]
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■ 和尚ラジニーシの 講話集の 問題点
by:
崩残
2006/06/05(Mon)10:48:26
●前回「のうたりん」サニヤシンの話が出たところで、
今回は、その「のうたりん」が傾倒した、
導師そのものについての話を少ししておきます。
かつてはバグワンとかラジニーシと呼ばれ、晩年には
和尚と呼ばれたその導師が、
実のところ、弟子が悟りを開くのにはほとんど何も
役に立たないという事を、「彼自身が、生前に選択した」という事は、
EO師が(別の次元からこの世界の様相を観察した上で)述べていた通りです。
すなわち、今回の役目は「TAOイズムのや悟りの本質」について
それを現実に生きているひとつの「標識」として振舞うことが
和尚が許諾した役目であり、それは「悟りの広告塔」としての
機能を、他の誰よりも充分に果たしたということです。
ただし、そこでは、厄介な問題が生じているのである。
それは、導師が、もしも自分で弟子を厳しく選択して選ばないと
語られることは限りなく、聴衆のレベルに呼応したものとなったのである。
平たく言うと、どうでもいいような話までしてしまっているということ。
実際、和尚は、とりたてて、よほどの最低の馬鹿者以外は、
特に自分のところに来ることを拒むということをしなかったために、
600冊以上もあると言われている彼の講話録は、
門下のサニヤシンの目にさえも、あきらかに、質の低下したものや、
心や意識に響かないものがあるということは、少々目と耳の肥えた
弟子または一般読者には、わかることだろう。
●和尚という存在が、「直接的」には弟子には何の役にも立たない
という現象を生み出してしまった最大の原因は、
1000人の聴衆を相手に彼が話すとしたら、
そのうちの、その日の流れによって、実はその話は一環しておらず、
あるときには、後ろの席の誰か、あるときには、前の席の誰か、
あるときには、集団としてひとまとめにして、同じような事に疑問を
持っている者たちにと、話のインターバルごとに対象としている
聴衆が変化しているからである。
そうすると、もっとも厄介なのは、話の中には、
「迷いの原理に関するもの」
「初歩の小悟に関するもの」
「最後の大悟に関するもの」
「その他、彼の個人的な昔のエピソード」
主に、この4つが、渾然と混在してしまうということである。
●その結果、和尚の講話というものは、それこそ、
落語として聞く分には良いとしても、
瞑想法などに関して詳細な説明が、うまくまとめられた
そういった書籍以外のものは、
(グル狂いや、導師依存症、のただの、うかれた和尚ファンではなく)
「真の探求者たち」にとっては、
「実用性」がない、という結果となってしまうのである。
具体的に言うならば、和尚の講話には次のような各パーツが
ひとまとまりのその日の講話の中に、未分類のままに混在している。
1.彼自身の幼少のころや若いころの昔話のエピソードの部分。
これは、弟子の好奇心を満たす以上には、何の意味もなさない。
2.無明庵用語で言うなれば、「ゾンビ人間」がやらかしそうな、
愚かな思考のやり口、エゴの偽善や欺瞞、ずるさといった問題に対する
指摘をしている、「エゴとはこういうものであるという」という部分。
即興のジョークを交えて語られるのも、
ほとんど100%これに属するものである。
そこで語られていることは、「他人事ではない」のに、なぜか、
そうした講話を聴いて、弟子たちは、笑うのである。
笑われているその対象は、自分のザマそのものだというのにである。
3.小悟に関する説明。これは、用語としては、
「中心が決まる」とか「あなたは、思考ではなく観察者だ」とか
「本当のあなた」とか、「あなたの本性は立会人だ」とか
「意識的に目覚めていない」とか、こうした用語を多用して
語られている部分である。
この部分を弟子、聴衆、あるいは読者が耳にしたり読むと、
「自分もなれるかもしれない」と期待を持ったり、悟りに憧れたり、
「既にあなたはそれだ」といわれる事に、馬鹿っぽくエゴが陶酔する。
あるいは、それに向けての意識的な努力をきとんと始める弟子も
いるだろう。
4.大悟に関する記述。これは和尚の講話のたったの1%以下しか
占めていない。100冊の本があったとしても、それは、まとめたら
たったの1冊の量にすらならないほど少ない。
この部分での、強調点は「無」であったり「からっぽ」または
「死」であったりするが、
とりわけ重要なのは、「悟りを知る者はいない」という部分である。
最後には、静寂など感じる者はいないということ。
この部分に関しては、そもそも、聴衆や弟子に理解など不可能であり、
そのことについての話が本当に役に立つ者というのは、実際に
既に小悟してる者でしかあり得ない。
そのことが語られた部分というのは、当時弟子の中にきわどいところへ
きていた者がいたからではなく、
それを体験して理解できるものが
「いつの日か、世界のどこかに現れるかもしれない」
という僅かな期待をもってして「未来に向けて」語られたのだろう。
あるいは、そうでなければ、
講話の元になった経典資料自体の中に、
大悟の時点に来てこそ初めて問題になる問題に、
論点が絞られている「詩句」などの箇所があった場合である。
たとえば、こうした未分類のままのいろいろなレベルの話の「混在」は、
「信心銘」という経典を題材にした彼の講話の中でも、
区別が曖昧なままに、散乱している。
___________________________________
●たとえば、この「信心銘」の中で、
>「昨日もなく、明日もなく、今日もない」
という、この経典を残した禅僧の言葉に対する、
和尚の注釈は、次のようにある。
「どこに未来がある?未来はどこにもない。想像の中にあるだけだ。
過去とは今はもうないもの。未来とはまだ来ていないものだ。
だからこそ、神秘家たちは、常に現在しかない、と言ってきたのだ。
ところが、この禅僧は、もう一歩を進めて言う。
現在すらない。彼は何を言っているのだろう。彼は絶対的に正しい。
もしも過去がなく、未来がないのだとしたら、
どうして、現在があり得よう。
というのも、現在は、過去と未来の間にしかないからだ
〜中 略〜
人間が言語を捨てれば、時間は消える。考えることを落とせば、
過去もなく、現在もなく、未来もない。
人は時を超えてゆく。
_________________________________
と、相変わらず、
終わりの部分では、全く意味をなさない、ただの「わるノリ」で、
「人は時を超えて行く」といった美辞麗句で
締めくくられているのであるが、
問題は、中略から「後半部の部分」である。
そもそも、この経典は、この部分では、小悟のことではなく、
大悟のことについて語っているにもかかわらず、
和尚がここで言っているのは、小悟のことになってしまっている。
たとえ、人が言語を捨てても、思考を捨てても、時間は消えないのだ。
思考を消したぐらいで、時間を超えられたら誰も苦労はしない。
道には、どこにも困難さはない。
そうではなく、言葉と思考が一切消えたところでさえも、
依然として、気づきにくい部分で、我々を縛るものがある。
そのことを、信心銘という経典は、
この詩句で論破しているのである。
>過去もなく、未来もなく、今もない。
これは、バーナデットロバーツが、
「見るもの」と「見られるもの」と「見るという行為そのもの」
この3つが、不可分である意識の領域について語っているのである。
クリシュナムルティーは、「見るものと見られるものはひとつである」
と言ったのに対して、バーナデットの表現は、より完璧なものだ。
そこには、見る行為それ自体が加わっている。
この三位一体のみが、正しく、大悟の状態を表現し得ているからだ。
同じく、昨日もなく、明日もなく、今日もない。
問題は、この「今日もない」という、一種の謎めいた言葉にある。
常識的な頭でも、人の意識には実際にはこの今の現在しかなく、
過去は記憶にすぎず、未来は、記憶が投影した想像にすぎないことぐらい
頭では理解できているつもりになっている。
そのくせ、明日飢えて死ぬかもしれないというまさに「想像上の恐怖」に
多くの人は毎日、怯えて今日を生きているのであるが。
しかし、その常識が通用しないのが、「今日もない」「現在もない」
「今もない」というこの言葉だ。
だからといって、「何んにも ないない教」の無を意味しているのでもなく
闇とか虚無のことを言っているのでもない。
この終盤の「もっとも重要な部分」の「正しい解説」は、
この和尚の本の中では最後の最後のこの終盤ではなく、
それより少し前にずれた、別の部分で語られているのである。
それは次の箇所である。
それは意訳すれば、こういう話である。
↓(原文を簡略化しています)
_________________________________
ダルマの弟子がやってきたとき、達磨はその弟子に、
「完全にからっぽで、静かになったら、
そのとき、始めて、私のところに、やって来るがいい」
そう告げられたその弟子はそれから何年も修業し、
自分が空っぽで静かになったので、達磨のところにやってきて
こう言った。
「師よ、参上いたしました。師はわたくしに、静かで空っぽになるよう
おっしゃりましたので、こうして今、私はからっぽで静かになりました。」
ボーディダルマはその弟子に言った。
「行って、
その空虚と沈黙も、投げ出してこい」
___________________________________
もしもそれが感じられるようならば、それは全面的ではない。
そこには分割がある。分裂がある。
静けさを「感じる者」は、まだ静かになっていないということだ。
沈黙は気配のようにその弟子の周囲を取り巻いているかもしれないが、
それを感じている者は、まだ静寂ではない。
さもなくて、誰がその静寂を感じるのか?
>本当に静かになったら、人は静かですらない。
なぜならば、静けさとは、騒音の対極にすぎないからだ。
騒音がないのに、どうして沈黙があり得よう。
騒音が消えるときには、その対極も消える。
そうなったら、人は「私は静かになった」と言うことすら出来ない。
言えば、それを逃がすのだ。
___________________________________
と、↑ これが和尚の注釈である。
この説明であるならば、これならば、「ほぼ完璧」なものだ。
これならば、それは、信心銘の言わんとしたことを明確にしている。
>本当に静かになったら、人は静かですらない。
これは言い換えれば、
>本当に、今になったら、人は今ですらない。ということだ。
すなわち、
>昨日もなく 明日もなく 今日もない
この真意、大悟の状態は、本来語られるべき箇所でではなく、
別のところで語られているのである。
●こうした、前後の錯綜、弟子の質による講話の混乱、
無為自然であるが故に、小悟と大悟の間にある重要で決定的な
違いが、混同されている点。
これが原因で、和尚の講話は、具体的な方法論について記述されている
箇所を除外すると、そのほとんどが、
3つか4つほどの、全くレベルの異なる内容が混在していおり、
これでは、本当に重要なことは、聴衆や読者には伝わらない。
そこで読者や弟子たちに伝わるのは、
「どえらい、おっさんが、この世に、存在したもんだ」
という印象や、崇拝や、よくて「敬意」でしかないのである。
________________________________
◆この大悟と小悟の相違点が、全く明確に分離されているもの、
その違いについて、生涯を捧げた女性。
それが、バーナデットロバーツであった。
和尚がやってしまった「弟子の混乱がそのまま反映した、混在講話」
については、EO師自身が、
かつて、このような趣旨のことを述べたことがありました。
「私は申し訳なく思う。
私がいろいろな人々に書き散らした手紙の内容には、
人間の愚かしさ、自我の仕組みについて、外宇宙の様相などについて、
そして最後の悟りと、まだ一歩及ばない小さな悟りについて、
これらが、混在してしまっている。
しかし、それは私にはどうしようもなかった。
その瞬間瞬間に、誰か個人に対して、
無為に出てくる言葉を記した結果が、
そのような混在であっのだが・・・・
しかし、本当に、後世の人々を思うのであれば、
それは明確に内容別に、分割されるべきだった。
そこで、私は、いろいろな人たちにあてた手紙の文章の中から、
今の時点で振りえかえっみても、
本当に、これは洞察に値する問題であると感じた部分や、
これは光明と、その一歩手前の小さな悟りの
その区分について書いてある部分、またその他の要素を、
明確に話の内容別に分けておくことにした。
手紙の原文をプリントアウトした用紙に、
ラインマーカーで囲ってピックアップしておくので、
機会があったら、それだけをまとめたものを残しておいてほしい」
_________________________________
●こうして生まれたのが「闇のタオイズム」です。
書籍の冒頭にも記しましたが、それは、より「絞り込まれた」
重要な論点だけを、手紙の原文から集めたものでした。
その闇のタオイズムが、当ホームページには、全文記載されています。
【EO師の詩句】〜最も重要な教え。
http://www.mumyouan.com/e/eosiku.html
【EO師の悟りとその背景】〜参考資料
http://www.mumyouan.com/e/eoex.html
【闇のタオイズム】全文〜重要部分の抜粋
http://www.mumyouan.com/e/eoyami.html
これらの絞り込まれた要点以外をも含む、
「全体的なEO師の語り」は、
それ以外の既刊の
「廃墟のブッダたち」から「小さなブッダの大きなお世話」
として、「7冊の本」となっています。
そのうち、いくつかは、版元のまんだらけ出版部や、
無明庵でも、「絶版」となりつつありますが。
絶版本については、無明庵では再販できない状態ですので、
復刊ドットコムなどに、投票をして再販に働きかけてみてください。
↓
http://www.fukkan.com/group/?no=4167
●
最後に、ここ数日以内にでもアップしますが、
こちらで保存してあった「小さなメモ」ですが、
「ダイジ」が生前に語ったことを、
その傍らにいた弟子が書き留めた断片を掲載しておきます。
内容的には、あくまでも「断片」の言葉です。
これは、ごくごく私的なメモであるために、
ダイジ師が、集まった少数の人たちに語った説法テープなどにも
収録されていないものであると思われます。
そこから、得るものがあるか、響くものがあるかは、その個人次第です。
●今、そのメモに目を通したのですが、
只管打座の基本について、ダイジ師が、述べた項目のほかには、
O氏、T氏、A氏、Hの他、先生、そして老師(これがダイジ師のこと)
などが登場し、その現場に、その瞬間に居なかった人には、
これらの言葉は、ほとんど何の役にも立たない、と判断しました。
よって、ダイジ師と周辺に居た者との、やりとりはほとんど記述せず、
多少なりとも、不特定多数の読者の立場の皆さんが、
何か得られそうなものだけに限定して、ダイジ師の直接の言葉を中心に
記述しておきます。
量がそれほどないのですが、
次の投稿として、新規に投稿する形にすると思います。
***************************
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