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「分割自我復元」
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[235]
■
★分割自我復元★その235■ レアな話「その5」 ■
by:
鈴木崩残
2013/06/30(Sun)07:48:32
5つ目のレアな話
●これまでに、「純・女性」、「囚われた2人」、「空室の鏡」、
そして「長期的な自我判定の放置」など、めったにないことの事例について
書いてきましたが(別にシリーズを書いているつもりはありません)、
今回は、生まれつき「中高自我率」の人の持つ、大きな欠陥について書きます。
この話題は、戦車さんからのレポート待ちにしようかと思ったのですが、
少し勇み足で進めることにしました。
●ちなみに、この手の話題は、何度も言うように「レア」なケースですが、
「絶滅危惧種であるほどレアだ」と私が言っているのに、
すぐに自分の経験や記録と、オーバーラップさせたがる人が、
たまにですがいます。
たいていは、無明庵サイトの新参者です。
昨日あたりも、「純・女性原理」について、
自分も過去に関わって、被害をうけた事がある・・・
というようなことを書いてきた、おそろしくアホくさいメールが来ましたが、
私が「レアである」と言っている意味が分かっていないところも、
本当にKYで、妄想癖が酷いです。
というか、こいつの脳内は、全部マンガじゃねぇーのか?と疑われるような
内容のメールでもありました。
●しかし、この「脳内漫画状態」は、大の大人でも持っている人はいますし、
やれ、自分のソウルメイトや、メンタルなパートナーや、
前世の恋人が、どこにいるはずだ!
などの現実逃避をしたがるのは、たいていが、リアルな恋愛経験で、
美味しい思いをしたことのない人ばかりです。
その人の現実生活が、つまらないと、
とにかく、小説、漫画、精神世界、なんでもパクって、
自分の考えや、頭の中で見たものだと思いたがる、
少年少女のような悪癖と、その妄想の、
「マンガ仕立て」のような「薄っぺらな内容」には、
私は、ほとほと呆れています。
*********
●さて、そんな話は、どうでもよくて、本題に入りますが、
数回前の投稿に書きましたように、1/2自我以上の人というのは、
自我復元をしている人だけを統計に使うと、約10%です。
無明庵サイトに限らず、精神世界サイトには、
特に自我率が低い人も集まりやすいと仮定すると、
一般社会では、多くても20%、つまり5人に1人が、
1/2自我以上と推測してみます。
おそらくは、そんなにいないと思いますが。
●そういうわけですから、今回の話題も、このサイトを見ている人でも、
10人に1人しか関係ありません。
それは、自我判定の初期値が、1/2以上だった人にしか関係ない話題なので、
それ以外の人にとっては、役に立たない知識となります。
もしも、初期値が、1/2自我未満だった人が、
下手に覚えて関連づけて、考察しすぎると、
本人の自我復元が、どんどん遅れる結果にもなりかねません。
あくまでも、「初期値」が50%を超えていた人にのみ関係する話題です。
*********
●自我率が50%以上あった場合の人を見ていますと、
その後、自我復元をした人も、復元をしていない人も含めて、
まず「鈍感さ」「反応の鈍さ」においては、
はっきり言って、50%未満の人よりも酷いです。
50%未満の人は、1/10自我未満でもない限りは、その鈍感さはありません。
やはり、自我の皮膜が弱かったせいもありますが、
それが幸いしてか、自覚的な苦があり、自覚的な問題意識を持っています。
これが10%以下とかになると、自覚的な問題意識すら曖昧になり、
その夢遊病から目を覚ます可能性が低くなるので、
おおむね、1/8自我から、3/8自我あたりの範囲の人たちは、
わりと、自我復元が順調な人が多いです。
●しかし、50%以上の自我率の人たちは、
確かに、自我復元をすれば、自我率は90%を超えてゆくのですが、
自己というものの「新規開拓」が全く出来ないという特徴を持っています。
この新規開拓が出来ないというのは、過去の成功体験にずっと
囚われたままで、それを捨てられないことが原因ですが、
捨てられない原因が、これまた面倒なのです。
●自我率が50%以上あったということは、
本当は、そこにACやトラウマがあっても、
それ以下の自我率の人たちよりも、下手に自我のツラが厚かったために、
問題に全く気づけない期間が長期化するということもありますが、
それと同じほどに問題なのは、
自分の経験と、自分の本体を切り離せないという決定的な欠陥です。
●たとえば、
自我率が50%以上で、特に初期値が75%以上の人たちに最も顕著な性質は、
それまで世間と自分の間で「せめぎあってきて」、
その努力や、せめぎあいの中で形成された、
成功体験の記憶、自分が勝ち得たと思った手法や、考え方、
そうしたものと「自己同化」します。
つまり、それらの「せめぎあいの結果」出来上がった自分が自分である、
と思い込む力が、それ以下の自我率の人よりも強いわけです。
それ以下の自我率の人は、自分に自信が持てない期間が長いために、
もとより、これが自分のやり方だと、しがみつく「成果」が少ないのです。
成果としての「成功体験」が少ないことが幸いして、
その人たちは、新しい経験をどんどん出来ますが、
「自分の力でやってきた、
(事実かどうかは別として)トラウマなどなかった」あるいは、
「トラウマは克服した」と自負するような人に限って、
人生そのものが、まったくの、どんづまりになります。
●この50%以上の自我率の人たちは、一見すると世間では、
上手く世渡りをして、あたりも悪くはないでしょうが、
個性に欠けるという明白な特徴を持っています。
「個性的な活動」はしているかもしれませんが、
本人自体に個性が薄い人がほとんどで、
これまでの判定で、例外はありませんでした。
この個性の薄さは、初期値が、50%から、87.5%の自我率の人まで、
その全員がそうでした。
活動は個性的な分野かもしれませんし、話の内容はいろいろですが、
対話をすると、本人それ自体に、さしたる個性がないのです。
●どうしてそうなったのかの原因は、見ていると明白でした。
過去に、この人生の中で、
50%以上の自我率を行使して、ある程度鈍感になり、自らを保護し、
そして、その自我率によって、トラブルなどを解決してきた、
そして、その中から、自分を創ってきた、という意識がある人は、
その「せめぎあい」や「戦い」の中で出来た人格や考え方と、
どっぷりと同化しており、同化するだけではなく、
その自分のやり方が正しいのだと「自己確認」をすることを常に欲しています。
つまり、この人たちにとって人生の「経験」とは、
本人が分かりきっていると思い込んでいる同じ経験を、
「確認するためだけ」のものとなっています。
だから、この人たちには、新しいものは何も生まれません。
本人としては、そんな自分の人生に、退屈しているでしょうから、
新しいものを好きであったり、興味を持つかもしれませんが、
本人そのものは、新しくはなれません。
●そして持論や、自分の方法論が、この世界では使えるという、
「自己確認」をするためのトラブルを、自分で好んで引き寄せますので、
この、初期値が50%以上の自我率の人は、
「毎回、毎回、全く同じトラブルにからまれて」
「解決やオチも全く同じパターンで終わる」というループを繰り返しています。
この人たちは、他人と関わっているのではなくて、
他人は、この人たちの「自己確認」のただの道具です。
●このように、下手に自我率があったり、
その自我で出来たことを多く経験し、
さらに、その、トラブルとの「せめぎあい」の中で「構築」したことと、
本人の価値観や、死活問題が、完全に癒着してしまっている場合には、
その自分なるものの正しさ、またはそれ通用するという「自己確認」のために、
それを確認するための、トラブルや対象を常に必要としていることに
全く無自覚です。
だから、同じトラブルになり、同じ解決をするという、
変化のないことを延々と繰り返しています。
●たとえば、これが全自我の人だと違ってくるのです。
その違いは、次のような言い方で表せます。
初期値が、中高自我の人は、何かを経験した場合に、
「*****、のあの経験をした自分があってこそ、今の自分がいる。」
と言います。
しかし、生まれつきの全自我の人は、
「*****、の経験をしたなー」、これで終わりなのです。
「経験によって、作られた、今の自分の人格」、
これに固執し続けるのが、中高自我の人で、
「経験によって作られた人格ではなく、経験の観察者」にウェートがあるのが、
全自我の人の特徴です。
ただし、その人たちは、瞑想などに興味など持っていません。
だから、瞑想とかに下手に手を出す人の中に、全自我の人はほとんどいないです。
生まれつき、経験内容よりも、経験主体の方がリアリティーがあるからです。
●経験主体にウェートのある、先天性の全自我の人たちは、
経験内容を客体化して、ときには自分の恐ろしい経験や不快な経験を、
笑い話にすることすらも出来ますが、
先天性の中高自我の人たちは、自分のやり方の正しさの証明のために、
何度も同じループを繰り返しており、全く余裕がありません。
つまり、物凄く簡単に言うと、「お笑い」を作り出せないのです。
本人は、なんとか笑い話にしているつもりの人もいますが、
傍から聞いていると、ちっとも笑えないのです。
●そもそも、(下品な笑いは別として)、
完成度の高い、笑いやジョークというものは、
「客体化能力」以外に、それを支えるものはありません。
また、全自我の人たちは、中高自我の人たちのように、
「中途半端な、未完成な、成功体験」に固執していませんので、
むしろ、良い意味で、正直に自信がないことを認めており、
また、何かが上手くいったときには、
中高自我の人が陥いる「これは、私が上手く出来た」という慢心もありません。
いろいろな複合的な要素や他者が関係して起きた現象に対しては、
その結果原因の「所有」を主張しないのです。
いろいろな人たちのおかげもあって、ラッキーだったよね、でおしまいです。
しかし中高自我の人たちは、口では「皆さんのおかげもあり」と言ますが、
本心の中身は、「自己確認」の繰り返しに精一杯で、
他人のことなど、眼中にありません。
「よし、今回も、なんとか上手くやった。この自分の方法でいいんだ」
という、これを、ただ繰り返し確認しているだけの人生なのです。
●しかし、恐ろしいことに、この原因が、幼少期のトラウマやACに
見つかればまだしも幸運なのですが、
今回の生の子供時代の家庭環境にはどうしても見つからずに、
生前契約の中身のロートを、こじあけないとならなくなる人が稀にいます。
あ、ここで、
「自分もそうだ。幼少期ではなく、前世を探ると原因があるはず」
と思っている方は、挙手して下さい。
その人には、最も丁寧な助言として、私が、
「ぶん殴ります」
いいかげんに、自分の都合いい話だけを、つまみ食いするのは
やめてください。
前世とか、あるいは今回の生前契約まで本当に掘る必要があるのかないのかについては、
自我復元をやっている途中の人の場合には、
その必要があるのかないのかは、私が判断して、言います。
全自我に戻った人は、必要を感じたらば、
ご自分の判断で、こじ開けてください。
そして、そこを、こじ開けてみると、
おそらくは、トラウマを掘るよりも、ずっと困難な、
「自分で自分にやってしまった、価値観による呪縛」が見つかるかもしれません。
50%未満の自我率の人たちが、苦しみながらも、それでも、
すいすいと、超えてゆけて、全自我に戻ってゆくのに対して、
50%以上の自我率の人が、もしも生前契約まで掘らないとならないとなると、
それは、トラウマを掘ったぐらいでは、解消されない「足についた鎖」
となって、その人の全自我への復帰を妨げます。
●そもそも、全自我というのは、主体性や、自主性のことですが、
中高自我の人たちは、その「主体性と自主性」の全部ではなくとも、
その一部を、不覚にも、他人の目的の為に、売り渡してしまった形跡が濃厚です。
ですから、彼らには、自主性があるように見える一方で、
そもそも人生の目的を本人がどう定めているか、
といった話になると、ぱったりと、思考停止へとブラックアウトします。
●自我復元をしていない人で、これにあたる人を、私は3人見ました。
今も復元をしている人や、自我判定を依頼してきて音沙汰のない人では、
10人ほど見ました。
ですから、全体の中では、ごくごく一部なので、レアな話題なのです。
逆にいうと、50%未満の自我率の人たちは、
そんな面倒な生前契約もしていないことがほとんどで、
契約をしていたとしても個人契約ですから、
へんてこな、雇用をされていたり、へんてこな制限を加えている可能性も低いのです。
これですから、初期値が中高自我の人たちは、
それ以下の自我率よりも厄介な困難と、
しかも、それに対する問題意識を持てない、鈍感さを持っているのです。
ただ、そんな、初期値が、中高自我中の人で、
たった、おひとりだけ、そこから抜け出せるかもしれない可能性を持つ
と私が見ている人が、こんなメールをくれました。
*********
崩残様
*****です。
一つだけですが、
今までわからなかった自分の思考の癖を見つけました。
私はどうやら今まで、自分の問題を回避するために、
「自分の問題」にふれる直前に、
自分で自分を徹底的にダメ出し(自虐)をし結論づけるという方法、
という、あまりに不健全な方法で保身をする、
という手段をとっていたことに気づきました。
これに気がついたのは、今回、生まれてはじめて、
ショックで食べられなくなるという経験をし、
なぜ、今まではこういうことが起こらなかったのだろうか?
ということを考えていた最中でした。
私は、自分がおぞましい存在で、偽善で、
どうしようもない人間、何も徹底できず、
自問すらできないダメなやつで・・・
といった自分への自虐的なレッテル付けそのものは、
実は、一度も私を苦しめたことがなかった、
ということでした。
むしろ、これらの思考パターンと思考方法は、
「自分でない外側」から何か言われる前に、
事前に、まるでシェルターのような働きをしており、
それらを自分の内側(自分の問題)に取り込まないための、
巧妙な保身をしていたみたいです。
物事が起こる事前に、それを予測して、
事前に自分で自分をおとしめることで、自分の問題に「ガード」をかけて、
物事が起こったときには、相手の問題として、か、
あるいは、ただの出来事として扱う癖が完全に身についていたようです。
今回、その意味で、生まれてはじめて、完全なミスをしました。
私にとってこのミスがなければ、おそらく、
永遠に気づかないことだったかもしれません。
それは、
自分で自分を「おぞましい」と位置づけるより早く、
他人からそれを言われた、ということでした。
こんなことは、今までなかったのです。
自分が自分のダメ出しをする速度のほうが、必ず早かったから、
私は、相手に「お前はダメだ」といわれても、
「そうだ、私はダメなんだ」と「自己嫌悪すら生み出さないような仕組み」を、
事前に作っておくという、
救いようのない不健全な保身方法をとっていました。
(実際は、きっと保身でなく、
自分を傷つけている行為であることにすら無自覚に、です)
今回の私にとって人生ではじめてのミスで、
内部をえぐられるという経験をし、
想像もしていなかったショックを受けたようです。
食欲が戻らないなど、今まで一度もなかったのです。
同時に、このような対外的な活動をしながら、
人の苦しみすら、何も理解していなかったことに愕然としました。
つねに、「他人事」だったのです。
ですから当然、自問という行為は、私には「一度もなかった」
ということに、おそらく、なります。
別な言い方をすれば、自問を上手く避けるために、分析をし、
「誰の話でもないような机上の空論」をもっともらしく、語っていただけでした。
今思えば、自問という行為が自分にはできていない、
それを避けている自分を、どこかで知っていたと思います。
ただ、それは見ないようにしてきました。
自問ができない人間は、最低だと思ってきたからです。
その最低な人間だと思いたくない気持ちと、
自らそれを認めて楽になりたいという気持ち、
その確認作業ばかりで、自問の入り口にすら、立てなかったのです。
その確認作業を内省や自問に思い込もうとさえ、していたのだと思います。
今回はじめて、内部、自分の問題がえぐられる経験をしました。
これは自分がずっと放置してきた問題で、
少なくともここ20年、「自分自身の手」を放してしまったこと、
無視し続けてきたことのツケであり、当然の結果でした。
昨日、私はこんなことがふと、
頭をよぎりました。
「結局は、孤独に死ぬ」
ということです。
その土壇場で、自分が満足していないとしたら、
そこに何の意味があるだろうか、
何一つ、意味がないと思いました。
私は自分の問題に蓋をして生きてきて、
それがどんなに正当な理由があろうと、
自分が抱いてきた違和感を、
その土壇場で、ごまかすことなんてできるはずもないのに、
私はどこかで「他人への利他的な奉公のための滅私だから」と、
違和感に麻痺するのために、認識をぼかしてきました。
自我復元をやろう、と決意した直前に、
砂手さんが書かれた「賢者と村人たち」の中の、
「本人が自覚していない大罪」を読み、
歯をくいしばったような、悲しげな表情で、
心から笑ったことがないような子供を、自分の内面に発見しました。
この子の手を今度は放さないと誓って、復元をはじめました。
手を放していないつもりでした。
でも、実は、私はまだ、手をつかんですら、いなかったのです。
それどころか、手にふれないように、自虐思考でガードしていました。
そのことが、今回、明るみになりました。
この自虐思考は、誰からかに洗脳されたわけでもないように思えるのですが、
完全な刷り込みとして、備わっています。
これは表面的にではあっても、
「自分を困らせないための装置」としての刷り込みだったので、
気づきようもないような、刷り込みでした。
はた、と、もう一つの刷り込みも
浮上してきました。
自虐思考がありつつも、それと同時に、
私はどこかで「自分は幸せなんだ」と思っていました。
もちろん何が幸せなのかわかっていないのですから、
そう思い込もうとしていた、ということです。
周囲の人も「****さんは、幸せですね」と言いました。
こういうのを幸せというのだと、思おうとしてきました。
自分自身にどこか違和感を抱きつつ、一方で、
これは幸せなんだ、と思うべきだ、と思っていました。
そして、いつの日か、幸せかどうかも、考えなくなりました。
ときどき「私は幸せだ」と何かの思考が反応すると、
私は、その都度、違和感を抱いている自分がいるのに、
それに気づかないようにごまかしている、
そういう自分は偽善者だと思ってきました。
次第に、私は幸せだ、とか、快適だ、という感覚が
生じる自分を抑圧してきたのだと思います。
そういうことに笑ったり喜ぶ自分が、恥ずかしくなりました。
楽しい出来事の後は、どこか居心地が悪かったのでした。
そして、つまらない、冷めた人間になりました。
喜怒哀楽がわからない子どもで、そのまま大人になりました。
私は「自分は実は一度も、心から笑ったことがないのではないか?」
と考えました。
自分のために、私は笑ったことがないのではないか、、、と。
いずれにしても、私は、自分で自分をダメだ、と思い込むことで、
そのときの状態に納得をつけていました。
「滅私奉公」は、滅私(自分を売った事)には、
都合のよいものだったのかもしれません。
生前契約の時も、私はその調子で、
「奉公なら多少の滅私、多少の我慢なら(自分も)許してくれるだろう」
という、甘い認識だったのだと思います。
どんなかけひきがあったにせよ、自分を売って
何が人生か、何が個性だ、何が満足だ、と
昨日、その思いが沸いてきて、結局は孤独で死ぬ、
という確実に来るその時に、
私はそれでいいはずなんてない、確実に後悔する、と思いました。
私は自分で何がしたかったのか、
本当は、何をずっとしたかったのか、まだ掘り出し中ですが、
すぐにわかったのは、恋愛をもっとしたかった。
奉仕やお世話も、嫌ではまったくなかったけど、
自分はもっと恋愛をしたかった。
セックスの経験は、結局、お世話係りの枠内での行為だったのかもしれない。
そのときは恋愛と思っていたけれど、それは一時的なことだったのかもしれません。
その不満は、恋愛の不満は、やはり残してしまったと思っています。
一人の異性とのセックス経験のみで、もう我慢するしかないと、
ただそう思ってきて、
今の私の仕事でも、その叶わぬ思いを、なんとか吐き出そうとしています。
しかも、そのような感情と重ね合わせることは
あまりに不純で誰にも言えずにきました。
ここでも、そういう不純な自分であることを、自分に言いきかせてきました。
誰かに気づかれる前に、誰かに言われる前に。
もっと沢山、自分がやりたいことはあったかもしれません。
しかし、とくにこの3年間は、完全な「滅私奉公」と、
「歪んだ自己表現」で埋めた毎日だったように感じています。
いつの日か、こう思うまでになっていました。
「これでいいや。
自分なんてこの程度までできればもうそれでいいじゃないか。
それ以上何を望む? みんなは喜んでくれているんだ、
十分じゃないか。それ以上望むことは、それこそ、バチあたりだ。
これが幸せなんだよ」と。
私はまったく何もかも、分からなくなっていました。
今もこの声の正体は、よくわかりません。
この「これでいいじゃないか」と納得させようとしているヤツが、
いったい誰なのか、
どうして、そんなことをするのか、
自分を守るためなのか、
それとも自分を傷つけるためなのか、
お前はいったい誰なんだ、と、
よくわかりませんが、
この声がどこからきているのか、少し混乱しています。
混乱しているとはいえ、今思えば、
自分のしたいことも抑圧し、事前に自分で自分を
ダメ出しし、自虐し、偽善者だの、鬼畜だの、
殺人マシーンだの、そう簡単に自分にレッテルを
貼ってしまうそんな自分の、一体どこが幸せなのか。
それに自己嫌悪も抱かせないような仕組みを
自分でせっせとこしらえて、作り笑いばかりして、
自分の問題を見えない押入れの奥にしまいこむのに
必死な自分の、一体どこがそれでいいのか、
どうしてそれでいいままにしてきたのか、
私はしっかり考えてもこなかったのです。
自己嫌悪を封じこめる装置としての、自虐思考ガードは、最悪です。
自問すらできないように、自分でしてしまう。
誰からもそうしろ、と言われていないのに、
反射的に、そうなっていたようです。
どうしてこうなってしまったか、というところまでは、まだわかりません。
自我復元のことは、桜の間の投稿を読んで、
内容についていこうとするだけで精一杯ですが、
最近の投稿記事から思うのは、
私の場合には、とんでもない難関になると覚悟しています。
でも、私は諦めたくありません。
救いようがないことばかりをしてしまっていますが、
私にはこれしかないから、続けます。
そのために、これまで生きてきた間、
ずっと押し殺してきた違和感を徹底的にあぶりだして、
「ここでもういい」という嘘はもうやめて、
その違和感を持ち続けてきた自分の手を、しっかりにぎりなおして、続けます。
ここ数日、いや、今までずっとおびえてきた私ですが、
昨日「結局は孤独で死ぬんだ」という思いが頭をよぎったとき、
自分で進むんだ、孤独でもそうするんだ、それしかない、
と思ったとき、一瞬ですが肝がすわりました。
「こんな私でいい、と決めつけない限り、
全自我に戻ることは可能だ」と信じ続けて、
まだ始まったばかりの自問と復元を継続していきます。
「踏ん張れば、何とかなったんじゃないか」という
後悔だけはしたくありません。
「滅私奉公」の滅私(自分を売る)が私の生前契約になっているのでしたら、
この滅私の契約だけは、絶対にあってはならないと思っていますので、
何とか契約内容を変更する力を取り戻したいです。
難関でも、目標をしっかりもって、できるだけ早く、
(いつ私が死んでしまうかわからないから)
できるかぎり減速しないぞ! と、がんばります。
私自身が笑顔を取り戻すまで、諦めません。
孤独でもやります。
よろしくお願いいたします。
*********●*********
これも、レアケースです。
だから、この内容は、この方に限っての話です。
この方の経験している困難を、都合よく、自分と重ねて、
「自我復元が、今、停滞していることのいい訳」にしようとするような、
そんな前世物語を「捏造」することは、決して許されません。
この人は、この人自身の手を、
必死になって、放さないようにしているのですから、
私が生きているかぎりは、
私も、このメールを下さった「旅人」の手を、放さないつもりです。
*********
参考・過去ログ『賢者と村人たち』
1
http://www.mumyouan.com/k/?U1194
2
http://www.mumyouan.com/k/?U1195
3
http://www.mumyouan.com/k/?U1197
___________________
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