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★分割自我復元★その391■ 「絶対に」という「決意」
by:
鈴木崩残
2014/09/21(Sun)07:16:26
>9/22 7:00 少し本文に加筆しました。
> ↓
実は、下記の投稿は、今年の「7/4」に書いて、一度桜の間に出したのですが、
季節も暑い中でしたし、夏の暑さで、頭もぼーっとしている皆さんに、
酷な事を言っているのではないか?と躊躇して、
数時間もしないうちに、掲載を取り下げたものでした。
数人の人は目にして、メールを寄こしましたが。
しかし現在は、こうしたことを書くことも必要だと思い、掲載することにしました。
*********
(・【 絶 対 】・)
●今日は、かなり、耳あたりの厳しい事を書いておきます。
ここ最近、何通か、自我復元の報告が来ました。
確かに、苦しみながらも、頑張っているとは思いますが、
その反面、私は、イラっときました。
●また、*さんのブログも、*さんのブログも、イラっときました。
他にもいくつかありますが、
何をイラっときたのかを書きます。
これを書くことで、自我復元やトラウマ堀りを現在やっている人も、
これからやろうとする人も、
また自我復元後の、過去の後始末をやっている人も、
どんどん、ここのサイトから、私の管轄圏内から、消えていって構わないと
そう思ってこれを書いています。
●以前に、私は「決意」ということについて書きました。
どこかで決意できるかどうかに、すべてはかかっていて、
それは何も自我復元にかぎらず、「物事は何でもそうである」と。
決意もなく、何かが変わったことなどないのですから。
●今回、私が問題にするのは、
【 絶 対 に 】
これが皆さんの中にあるのかないのか、自問して欲しいということです。
自問して欲しい、ではなく、「自問しろ」と言いたいです。
【 絶 対 に、* * す る!】
この「絶対に」というものは、口で言うのは簡単です。
【絶対に復元は諦めません】
?、何人か諦めましたよね?
ですから、そんな言葉は、全く信用できません。
もう絶対にしませんとか、絶対にやりますとかいって
同じことしたり、しなかったりする嘘つきなど珍しくはありません。
というよ、日常茶飯事じゃないですか。
ただし、これはダメです。
↓
「絶対に、無明庵で優等生になってやる」
「絶対に、自分を馬鹿にした、誰かや、世間や、家族を見返してやる」
これは、アウトです。
そんなところに、「絶対に」を使うのは愚かです。
●「絶対に」とは、
【絶対にこの自分は嫌だ】
これが、あるかないかのみです。
私は、この世界で非常に馬鹿にして、軽蔑するタイプの人がいます。
軽蔑というより、生きていなくていいから、早く死んでね、と思うタイプです。
それは、
【 絶対 などない 】
と、ほざく、馬鹿者です。
絶対的なことはない、というのは、よく「自称理屈が得意のバカ」がいう詭弁ですが、
それは、全ての論理には絶対性がない、という事を意味するだけである。
よくいますよね?
「絶対ということは、何事にも言えない」と。
よく言うとは、つまり
「何か都合が悪くなったときに、世間でよく言われる事」という意味です。
皆さんも耳にしたり読んだと思いますが、
放射能は、絶対に危険だとも安全だとも言えないという、
ご都合主義のバカたれの言い分です。
一件すると中立そうに他人に見えると思い込んでいるだけです。
あるいは、そういう連中は、ただの御用学者です。
危険かどうかを決めるのは、危険の実害を被る立場にいる現場の人であって、
論理やデータをどう見るかの視点も、その汚染地の現場の人の自由です。
どういう視点が正しいというものはありません。
どの視点で見るのかは、常に、目的を設定してから決まるものです。
AC人格報告にも、何人も、これを掘り出した人がありましたが、
↓
「自分はこんな視点を持てるんだAC人格」は、
立派なコンプレックス人格と断言できます。
*********
さて、話の続きですが、
世の中には、
【 絶 対 というものがある】
それは、あなたの「意志」だ。
あなたの感情、意志、感覚だ。
だから、
絶対に、許せないものがあっていい。
絶対に、折れないと決めたものがあっていい。
死んでも、最後まで、絶対に「貫く」と決めること。
これは、論理や理屈ではなく、
「あなたの」、意志、感覚、感情なのだから、
ここでは「絶対」という言葉を使ってもよいのであり、
むしろ、「使うべき」であり、
【絶対に、**する/**しない】
これを自分に対して、貫けないで、
くねくね、ねちねちと、絶対なんてないかと、嘯いているような奴は、
早く寿命が尽きて、死んでください、と私は思います。
また、無明庵に関わらないでください。
そんなの当たり前のことです。
【 絶 対 とは 対のないこと】
つまり
「対となるもの」が「絶たれている」ことです。
あなたの意志は、ひとつしかない、これが「絶対に」の意味です。
こっち と あっち、はなく、「こっち」だけ。
それが「絶対に」の意味です。
【自分に対しては「絶対」を貫け】
生きているのは、「あなた」であって、論理ではありません。
論理に対しては絶対を言うことは控えても、
自分の意志に対して「絶対に」と決められないような人は、
少なくとも、このサイト、あるいは私には関わらないでください。
昔、無明庵を読んでいたが、自我復元の問題が出てきてから、
現在、人間が陥ったいろいろな現象の元凶が、
希釈自我の問題にある、と定義または説明されてることに対して、
自分は、希釈自我のはずかないと、
くだらないプライドが傷ついた、とか、
あるいは逆に、自分もやらないとダメになる、とか、
他の人が成功していそうだから、やってみるか、とか、
これは、やってみても、他人から馬鹿にされないだろうとか、
あるいは、
自我復元だけは、他の者と同じようになりたいとか、
そんなくだらないことは、お断りです。
●そもそも、このサイト、あるいはその前身となった、無明庵の書籍群で、
常に、言われてきたのが、
【苦を認識しているのか?】
でした。
自分の中に、明確に苦を、認識できていない者は、失せろ、
と本にも書いてあるし、私もいい続けてきました。
自分の中の「苦」を見極めるということが、仏教の本質であるにも関わらず、
それもなしに、超人になろうとしたり、
上から目線で偉ぶりたいとか、
あるいは、他の体系を馬鹿にする道具に無明庵を悪用したり、
自分を代弁してくれていると勘違いをしたり、
はたまた、無明庵や私に反抗したり逆らえば、
「どうだ、自分だって、少しは主体性があるんだ」といえるからとか、
もう、本当に何度も言いますが、そんな、
腐って、悪臭を放つ、食えないAC人格は、
私やこのサイトに、その汚れた顔と口を向けていないで、
あなた自身の「親」に向けてください。
・・・
という話は、どうでもいいとして、
「苦」という問題の有無を、当サイト、というより
当「体系」は、1995年からずっと一環して、
それこそ、「絶対的」なまでに貫いてきています。
そこで、自我復元の話です。
【絶対にこんな自分から抜け出してやる】
これがない人は、自我復元など、出来るわけがありません。
自我率だけ90%台になったり、あるいは100%になっても、
見てのとおりの停滞状態です。
以前にも言ったように、
何か絶対にしたいこと、やりたいこと、あるいはやめたいこと、
これがあれば、自我率は、基礎体力のようなものですから、
それに使うことが出来ます。
何度も言うように、全自我とは、筋力が元に戻るということです。
しかし、筋力があるだけでは、ただの筋力馬鹿です。これも何度も言いました。
それを
「技」に使う、「作業」に使う、「何かをすること」「何かをやめること」
に使わなければ、あっても無駄なものになります。
では、自我率は、何に使うべきでしょうか?
何度も言うように、それは「AC人格の燃料」にはなりません。
正常化した、筋力、基礎体力、容器としての自我は、
唯一、元々それを支配していた、原主体以外の命令には従いません。
それは、しぼんで、無気力だった、それまでの不自然なAC人格には、
とても扱えるようなものではないからです。
それ故に、AC人格が居残っているブロガーの人も、
ブログなしに報告をくれる人も、
増えた分の自我率を使えていない人がいます。
逆に、自我率は、まだ全自我に達しないのに、
フルにその基礎体力を使っている人もいます。
一例として、Abyさんです。
全自我後もフルに使っているのがマディアさんです。
その他、自我率はまだなのに、フルに使っている人もいますし、
全自我になっても、意志、決意、絶対に、というものを
固められずに、ただ無駄に、焦りだけが漠然とある時間を過ごしている人もいます。
【絶対、絶対、と言うな】
と言いたい人が、これを読んでいる中にいたとしたら、
私はそういう者に問いたいです。
じゃー、あんたの人生、今まで、どこでも、
「絶対に」なしに、ふらふら、よぼよぼ、くねくね、だらだらと、
まるで、死んだように、生きてきたのか?
人生では、それが、たとえ、
あとで「勘違い」や「間違い」だったと認識したとても、
「絶対に」という瞬間を、その人が、どれだけ重ねてきたかが、
その人の主体性を培うのである。
ただし、冒頭に書いたように、
「絶対に、見返してやる」はダメです。
絶対という、それだけの決意は、
その意志を向ける価値のあることに使うべきです。
「自我復元にそれを向けなさい」といったところで、
出来ない人にはできません。
しかし、
【絶対に、このAC人格は嫌だ】
これならば、向ける意味があります。
これは、すなわち、
「絶対に原主体を取り戻した全自我になるんだ」と、全く同義です。
●
私は、今までの人生の中で、そして今よりも以前の生でも、
絶対とは言えないものを、沢山見たり、聞いたりしてきました。
しかし、それは、あくまでも、自分の「外」の問題です。
もう一度言いますが、それは自分の「外」のことです。
しかし、自分自身に対しては、
【 絶 対 に 】
を何度課したか、数え切れないほどの「方向の決定」をしてきました。
過去の話ではなく、ここ最近でも、今でもそうです。
「絶対に」と自分に宣言して、それを守るという事それ自体が、
ひとつの魔術儀式なのです。
ただし、自分への誓いを破れば、自分に跳ね返ってくる、
という諸刃の剣です。意志とは、一種の剣なのですから。
その「絶対に」とは、他人に求めるものではなく、
また、他人に、「絶対などない」と、
ただの誤魔化しにすぎない「馬鹿っぷり」を披露することではなく、
自分自身に対して言うこと、
自分自身に対して決めること、
自分のことに関して決意すること、なのです。
たとえば、自分が絶対にダメ人間だと思う人がいたら、
せめて、それぐらいは、
【私は絶対にダメなままだ。絶対にだ】
とぐらいは、決め付けらけないのでしょうか?
絶対にダメだとか口で言っていながら、
ダメじゃない自分でいられる場所や分野を、うろうろしてしまう、
そんなものは、「絶対」という言葉に対して失礼です。
ダメだと言うなら、死んでも、馬鹿にされても、
絶対的なダメ人間を、いささかもブレることなく、貫いてください。
「それも出来なくて、ブレてしまうから、私は、さらにダメ人間なのです」
とか、胡散臭い「言い訳」をする人は、
何度も言いますが、 早く死ねばいい、と私は思っています。
というのも、早く死ねば、
今よりも以下の環境へと、早く消えてくれるからです。
今の環境よりも改善された環境を目指しているのが、
自我復元者のはずですから、そうではないなら、やめてしまえばいいのです。
●
といった、口調のことを書きましたが、
これを読んで、
「別に、自分に不満なんて、そんなにありません」
「自我復元ぐらいなら、自分にも自慢できることが増えそうに思いました」
こんなことで、自我復元を、はじめた人は、いなくなってください。
依然として、カルトや宗教や、あるいは、当体系から去らない、
または、AC人格丸出しの人たちに、私は言いたいです。
【今のこの自分では絶対に苦しい!】
これなしに、
変化した人、
変化した弟子、
変化した人生、
そんなものは、過去の地球の、どこにもいないのです。
当たり前のことです。
一方で、今、自我復元や、トラウマ掘り、AC人格解除を、
必死に、続けている人たち。
この人たちにあるのは、
【 絶 対 に 】
という意志です。
自我復元を始める前から、
元から、あった、と言うべきかもしれません。
*********
このような事を書くと、まるで私が、皆さんに「もっと苦しめ」
と言っていると勘違いする者がいるかもしれません。(かなり頭の弱い人の場合)
そもそも、苦しめたら、それ自体が「感性が正常」である事なのです。
私は「苦しいことを認識できる感性を、自我復元で取り戻して下さい」
と言っているのです。
●むろん、苦しいという場合も、ただ苦しいとか、違和感があるとか
いくら言っていても、それは、解決にならないので、
その原因を掘るということを、ここではしています。
すると、ほとんどの場合にそれは「毒親からの影響」に行き着きます。
●人間というのは、他人から苦しみなさいといわれて苦しめるほど
起用なものではなく、
また、他人から苦しむなと言われて、苦しまないほど起用なものではありません。
ほっておいても、苦しんだり、苦しまなかったします。
●毒親というのは、よりあなたに苦しくて、出口のない迷路を与えます。
あなたが、不幸のままが彼らには都合がいいからです。
彼らがあなたに与える不幸は、不幸になれということ。
私が皆さんに言っているのは、
「苦痛をきちんと認識できる感性と、
それに向き合える感情を取り戻してください」
ということと、
「不幸と感じる感性がないならば、無明庵ではないところに行って
暇つぶしをしていてください」
ということ。
●ただし、人によっては、トラウマを掘り始めてから、
ようやく、幼少期に、
親の何がおかしかったかに気付く人も沢山いますから、
最初から「不幸センサー」が敏感でありなさい、などとは言いません。
しかし、もしも、いつまでも、それに気付くことがないのであれば、
それは、時間の無駄ですから。
気付けないことに苦しむとしたら、それはそもそも、
気付こうとする動機が、間違っていると思っていいです。
「気付きましたよ、評価してください。
前世探しを、早く私にも教えて下さい」では、目的と手順が間違っています。
*********
●何人かの人たちが、楽になってゆくとき、
自我復元をサポートしていて本当に良かったと思います。
が、一方で、うまくいかない人や、停滞する場合に、
常に、私はその原因を何日も休まずに、考え続けます。
しかし、これまでにも何度か結論したように、
本人に「問題意識」がなければ、
本人自身に「何とかしないと」というものがなければ、
自我復元に限らずとも、
ただ、「やっていますよ」、だけでは、
カルチャーセンターの学習すらも、ダイエットすらも、
それどころか、「何をやっても、同じこと」になります。
違いといえば、そこに、心にもなく、よく考えずに、あなたを評価して、
あなたから、もっとボッタくる商人がいるかいないかとか、
あるいは、不当に、低く評価して、もっと頑張らねば、
という者がいるかどうかです。
しかし私のところでは、過大評価も、過小評価もしません。
AC人格を、おだてて喜ばせたところで、
自我復元をやっている皆さんには、全く何の得もないからです。
●そういうわけで、
自分で自分を、どうにかしたいと、思っていないならば、
「自分で自分をどうにかする方法」こそを扱っているここは、
その人には必要ないのです。
そういう人は、他に行って、
他人に、どうにかしてもらえばいいだけなのです。
*********
【 絶 対 】ということを、大げさに考える必要などどこにもありません。
簡単なことです。
車で山道を走っていて、Y字路にさしかかり、
左は確実に海へ落ちる、右は確実に落ちない。
この設定で、もしもあなたが「死にたい」ならば、左へ
死にたくないならば、右へ、ハンドルを切ればいいだけです。
これは絶対に間違いのないことです。
その人が「どっちの目的」を選んだかによって、
絶対に、間違いなく、
その人は、右か左に、ハンドルを切らねばなりません。
生きたいと思った人は右、死にたいと思った人は左です。
しかし、
死にたいのか、生きたいのか、そんな事もわからない、のであれば、
そんな人には、目的によって、そこでは絶対的なまでに二者択一しかない、
という、その簡単な決断すらも、出来るわけがありません。
ただし、自我復元の理論では、
そのY字路は、生死の境目ではありません。
希釈自我のまま、次に、さらに劣化してゆくか、
それとも、元の姿を取り戻すかの、二者択一です。
*********
●順序が逆になってしまいますが、
私が今回のこの投稿を7月に書いた理由を、ひとつ前の↓投稿の最後に書いておきます。
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