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★分割自我復元★その574●【新刊の「CD」への感想】●
by:
鈴木崩残
2016/01/27(Wed)09:48:24
新刊のCDシリーズを聴いての感想の声
この投稿は、CDを聞いた皆さんから寄せられた感想を元に、
これから数ヶ月かかって、少しずつ、追加されてゆきます。
◎・◎
■1/28−8:00記
感想が来るまでに1週間ほど間があると思いますので、その間に少し書いてみます。
皆さんの休日が必ずしも土日にあるわけではないからです。
このトークCDを聴くには、たとえば、前半を、ゲート123、後半456、
と二日に分けて聴くことも多いかもしれません。
ただ視聴版を数人の方に聴いて頂いたところ、続けて最後まで聴いた、
という人がほとんどでした。
私自身も聴き返したのですが、
聞いていて「疲れる」ということがなかったのは、かなり意外でした。
なにしろ、7時間21分です。
いくらなんでも途中で区切りたくなるだろう、と思って聴いたのですが、
途中で止める気にならなかったのです。
むろんそれは、個々人のその日の疲労の度合いによってそれは異なりますが。
●さて、早速ですが、タイトルについてです。
わりと、このタイトルは、凝っています。
さらりと普通に見えますが、奥が少し深いのです。
メインタイトルの「何が問題なのか?」は、
私たちが生きていて、結局は、本当は、つまるところは、
「何が問題になるのか?」、という問いで、
これは最後まで、この物語の基軸となっています。
まったくこの通りの内容です。
●一方で副題の「宇宙には正しい事は何ひとつないと悟った人々」、
これを、どうして入れたのかを解説します。
最初はこのサブタイトルは入っていませんでした。
シンプルに「何が問題なのか?」の一行だけでした。
そこにこのサブタイトルを入れることでメリットもデメリットもあります。
「宇宙には正しい事は何ひとつないと悟った人々」・・・・
これを見た瞬間に、無意識的にスルーする人もいれば、
逆に、これを見て手に取る人や、注文する人もいると思います。
手に取らない人は、おそらくは、「宇宙」という文字が何か大げさに見える、
または「悟った人々」の文字を見て、
「そういうのは、もう飽き飽きしたんだよな」、
と思ってしまう人がいることでしょう。
しかし最も多いのは、このサブタイトルを見たときに、次の箇所が、
皆さんの心情、価値観に「カチン」と来ることです。
「正しい事は何ひとつない 」
この言葉を目にした時に、短絡的に、あるいは条件反射的に、
「そんなわけ、ないじゃないか」
「何を言ってんだ、この本は、馬鹿馬鹿しい」
「宇宙は正しくて、神様は正しくて、自然は正しくて、
いろいろ苦しい事はあるけど、こんなにすばらしく正しいじゃないか」
「どこかの、ひねくれ者が書いたんだな、きっと。」
これが最も多い、反射的な(自動的な)反応です。
「そんなわけないじゃないか、馬鹿馬鹿しい」、というこれです。
●「世の中には」正しい事は何ひとつない、と書かず、
「宇宙には」と書いた理由は簡単です。
実際に、語られる物語の大半は「宇宙」を舞台にしているからです。
●その次に、「悟った人々」と「複数形」になっています。
これも内容を聞けば、後半部で理由が分ります。
そして、この「悟った」には、二種類の意味があります。
ひとつは平易な意味で「理解した」人々、という意味です。
もうひとつは精神世界用語としてのそれで、
文字通り「大悟した人々」という意味に解釈して興味を持つ人がいると思います。
このどちらの皆さんの期待も、裏切ることはありません。
この二つのどちらの意味における「悟り」についても語りましたので。
●「正しい事は何ひとつない」という文字を見ただけで、
それだけで、すぐに反射的に不安になったり、拒絶を起こす人々は、
「世の中や、宇宙は、正しくあるべきだ。絶対に正しいはずだ」
と思いたい、という「衝動」に自動的に縛られています。
一方で、その正しさこそが、迷いを生み出すという知見があります。
また一方では、
「正しさがないとか言っても世の中では通用しないよ。
科学法則や、法律があるじゃないか」という言い分も、至極ごもっともです。
いずれにしても、
「正しいものは、いずこに?」という考えが、
「それが個人や社会の中に生み出した結果」について、
このCDの随所で、話題を変えつつも、一環して疑問を投げかけています。
●また「何が問題なのか?」という疑問を投げただけではなく、
「その問題が何であるか」をも明確にしました。
それを、皆さんがどう理解するか、理解できるか、
そして、「体験」できるか、ということです。
ただし、机上の空論が好きな者たちのように、
「正しい事などない」と、何かを論破した気になってい者たちが
軽薄かつ無力に呟いているような、そんな退屈な内容ではありません。
なぜならば、このCDに「机上の空論」は存在しません。
その机上に置かれているのは、
「存在そのもの」ですから。
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● ◎ ●
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■ 寄せられた感想 ■
「何が問題なのか?」を聴いての感想
精神世界の本という特別感を感じさせない語り口で、
かしこまらずに、気楽に聞いてしまいました。
話すスピードや滑舌が聞き取りやすかったです。
文章の間というか、呼吸も、ちょうどよくて。
それと、声質もいいなと思いました。
イヤホンで聴いたのですが、声質が自分の好みで良かったです。
文字だったら、ちょっと厳しい内容も、
崩残さんの声質なら聞けてしまい、厳しめのつっこみも芸風というか、
キャラクターなんだなと受け止めてしまい、むしろ、楽しみました。
今までの活字本よりも、今回の声の本の方が好きになりました・・・。
(物書きの方に対して、すいません。)
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私はラジオが好きでよく聴くのですが、
まさに深夜放送を聴くように今回のCDをのんびり楽しく聴けました。
講演会やライブなどの録音ものは不特定多数の聴衆に話しかけているので、
出演者との距離感を感じます。
それがこういう風にラジオパーソナリティーが、
リスナーに話しかけるようなスタイルですと、
自分に話しかけているように錯覚するんです。
そこが、親近感があっていいと思いました。
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このCDを通じて、久しぶりに興味深い本に出会った。
もう、こういう本は読まないんだろうな、と思っていた。
注意深く読んでいる。AC人格が悪用しないように。
最初の数ページを読んでたら、震えるように涙が出てきた。
特に感動的なことが書いてある訳じゃなかった。
理解できたからでもなかった。
何で泣いてるんだろうと思った。
涙それ自体が涙を流していた。
こういう本はいつも向こうからやってくる。
バグワンも無明庵もそうだった。
「おい、たまには自分で探してこいよ!」って言われてるのかなぁ。
私がこの本を理解することはないんだろうな。
「私」が解るなんてあり得ない。
でも、きっと、いつか、
「解る」が「解る」という日が来るのかもしれない。
>注/この方の言われている「本」とは今回のCDのことではなく、
>CDの中で語られている本についてです(崩残 記)
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「足元の宇宙風景」を聴いての感想
最初から最後まで「足元の宇宙風景」を聴いていて、
私が「ずっと」感じ続けていたことを、最初に書きたいと思います。
それは、今回のCDは、前回「何が問題なのか?」とは違って、
私にとっては、まるで桜の間の「雑記」の音声版でした。
桜の間の「雑記」とは、私にとって、どういうものだったか、というと、
まさに、崩残さんが読書のことでいつもおっしゃるように、
読んで必ず「ずどーん」とそれから忘れられない何かを
身体に落とし込まれるような、つまり、ずっと頭に残り続ける、
そういう何か、考えされられるもの、
というと、どこか他人事に思えるので、そう表現したくないのですが、
とにかく、それは、忘れられない自分事として、
強烈なインパクトを、内容が、ではなく(もちろん内容もあるのですが)
それよりも、語りそのものが、「落としていく」のです。
何かを・・・。
それは、ある意味、「恐ろしい」ものです。
ただ、この恐ろしいというのは、仮想恐怖による妄想のそれとは違います。
恐ろしいとそれを感じたのならば、しっかりそうと認識し、
真正面から取り組まなければならない、
それ以外はダメだ、という厳しさがあるものです。
語り口調こそ、ソフトではありましたが、
その質は、まったく、私にはソフトには感じることはなく、
最初の1時間の「雑談」とおっしゃられている部分すら、
私には、その「雑記」と同じだけの強烈さ、
それは存在の強烈さみたいなものですが、
そういうものを、ずっと、感じながら、聴いていきました。
そして、ずっとそれを感じながら聴いていた、
というのが、今回のCDに向き合った私の体験でした。
中略
そして、2日間強の時間をかけて、これを味わえたのは本当によかった。
なぜなら・・という理由づけではないのだけれど、
もう一つ、このCDを聴いて「つねに雑記のようだった」ということ以外に、
私に起きたことがありました。
それは、最後の最後でした。
最後のほうで、崩残さんは沈黙の時間をとられました。
私は、姿勢を正し、目をつむり、その沈黙を聴きました。
私に「起こり始めた」のは、実は、その沈黙が終えて、
・・・プツリ。
と、沈黙の音が消えた、つまり、電子的な再生音が消えて、
本当にしーんとなった「その瞬間から」でした。
その瞬間に、ではありません。
その瞬間から、起きたことが、私に起きたことです。
あえて、その瞬間に起きたことがあるとすれば、
後付けの考えですが、おそらく、
「********」と感じたのだと思います。
電子音がなくなった瞬間、これは私には、
実は、この「足元の宇宙世界」を聴いていて、
私に、もっとも「強い影響」を「体験として」与えたものでした。
その瞬間から、私は、考え始めました。
妄想ではありません。
自問です。
「何を、今、しようか」と。
そして、答えとなるものは明確でした。
中略
私にとって、2枚の続いたCDは「続いてくれて」よかった、と思っています。
この間の時間、2枚の続く時間は、私が「ここが私の世界だ」と
リアリティーに、くさびを打ち込むのに必要な時間でした。
そして、繰り返しですが、
2枚目の、ここに「怖いほどの気迫」として私が感じることのできる、
本当に「嬉しい」と実感するリアル、まさに、「自問」です。
そう、自問。私は、自問し続ける人間でありたいんです。
桜の間の「雑記」とは、「自問し続けられるのか、お前は」と
常に私自身が私に目を背けたりしないかを突きつけられる記事でした。
今も、私は、この「自問し続けられるか?」に対して、
「はい」などと軽率には言えない。
自問し続ける、とはそんな甘いものじゃない。
自問し続けるとは、地獄なのだ。
「そこに行きたい、私」、なんて軽率に言える馬鹿はいない。
言えたとしたら、嘘だ。偽善だ。
しかし、そこ以外、どこに、向かうべき方向があるだろうか?
***************************
「はじめての無明庵」を聴いての感想
「異性にモテる奥義」、これを聴いて思いました。
まるで、飲み屋に一緒に行って、
そこで崩残さんが話しているのを聴いているかのように、
私は、楽しく聴いていました。
まるで、友人が飲み屋で楽しそうに、
「あのさ、モテるってさ、あれだよね、結局」って、
本当に楽しそうに語る崩残さんを見ているかのようでした。
内容は猛烈に濃厚で、「ぶったぎっている」コンテンツばかりです。
文字として書かれている桜の間より、実際は、「容赦」はありません。
ただ、私たち人間というのは、文字で妄想する性質が強いのかもしれません。
声や語りで聴くと、その「容赦なさ」をスルーしやすいだろう、と思います。
つまり、簡単に、声音(こわね)とかで、騙されるのもAC。
また、不必要に恐怖し、仮想恐怖で妄想に浪費するのもAC。
ここ最近に出された数枚のCDは、容赦ない内容としていえば、
無明庵のすべてが語り尽くされていると私は思いました。
「はじめての無明庵」今回のCDは、たったこれだけの収録時間に、
よくすべてが入っている、と思うほどに「容赦なさ」が密度濃く入っています。
感情の豊かさ、というのは、このCDでも話されていたことですが、
楽しそうで、時に真剣に、ジョークの時もあれば、
声のトーンが落ち着いている時もあれば・・・
まさにそういう多様な感情がバランスよくある状態、
それがまさにこのCDでした。
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