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★雑 記★NO.620【良き死に方?】●
by:
鈴木崩残
2016/08/07(Sun)06:49:14
良い死に方とは
●雑記となりますが、追記しながら、長くなるかもしれませんし、
手短に切り上げるかもしれません。
やる気がないので、誤字脱字は、しばらく放置します。
「良い死に方」といっても、博士君のことではありません。
彼はまだ健在です。むろん、少しずつ弱ってはいますが。
今回の話は、「私の死」についてです。
私は、「ぴんぴんコロリ」(なんだか、殺虫剤の商品名みたいだ)
というのは、好みではありません。
たとえば、末期の瞬間まで絵筆を持っていた画家とか、
ラッパ加えて死んでいた兵隊とか、刀をもって、路上で死に果てていたとか、
そういうのは、全く好みではありません。
また精神世界においても同じです。
それまでの勢いや、思想や、信念体系や、そういったものを
とっちらかしながら、ここぞ最期の瞬間とばかり、燃焼させて死ぬ、
というのが、好みに合いません。
なぜかというと、それは、結局、同じ世界をぐるぐるする原因になるからです。
●それよりも、私は、愛着のあったもの、もっと単純に言えば、
「多大なる関心のあったもの」が、ひとつひとつ、
嘘のように自分の中から、剥がれ落ちてゆき、枯渇するように死に行くのが好みです。
つまり、私は「老い」や「衰弱」というものの経験も嫌いではありません。
そして、何だかんだ経験したり、知ったような気になったり、
沢山の思い出があったのに、
「結局、何も残らなかったね」というのが、もっともさっぱりとした終わり方です。
●ただし死といっても、おおざっぱに、2つの意味があります。
もしも自分を次に再生させる世界、または戻る世界を射程に入れているのだとすると、
それは実質的には、死ではなく、ただの移動です。引越しにすぎません。
そのときに、死の「実感」にさらされるのは、
主に肉体感覚で、次に記憶や感情になると思います。
が、何か種のようなものは残る。
これが「転生を有りとする前提」で成立する思想世界です。
この壊れる範囲がどこまでか、残る種子が何であるか、によって、
簡単には、死というものは語れないし、誰もが同じ世界に移転するわけではないし、
あっけなく、もくろみが失敗して、宇宙の藻屑となることもあるだろうし、
死んでみたら、本人の想像できる限界がいかに貧相なものだったかを
痛感する人もいれば、
死ぬ前に予想したものとは、だいぶ違うと思う人もいるだろうし。
●ところで、
気づいている人もいるかもしれませんが、
3月の肺炎での入院の前と、その後では、
私の人格はほぼ完全に、入れかわっています。
退院直後ぐらいまでは、私の体調への心配のメールをよこした読者の人に、
以前の私と同じように、相変わらず、冷たい言葉を書いたりしていて、
まだ以前の私の性質が残っていたかのように見えるでしょうが、それでも別者です。
この今回の人格は、私の生涯で「第4の主体」となります。
それぐらい、これは第3の主体、つまり、鈴木崩残とは異なります。
言葉の選択や、文体や、印象、性質は似ているように見えるでしょうが、別者です。
普通ならば、一生に一個の人格で最期まで生きて死ぬものだし、
かなり大きな心情的変化や、ショックがあったしても、
普通は、せいぜい経験しても、一生に多くても2つの人格のはず。
それが、なんで、一生の間に、
4つもの違う人格主体を経験しなければならないのかと思うと、
さすがに精神的にも限界で、疲労もピークに達しています。
主体が切り替わるたびに、適合したり慣れるのに、
ひーひー叫んだり、嘆いたりするはめになるからです。
操縦する車の車種が変わるとか、そんなレベルではなくて、
操縦する乗り物自体が変わってしまうか、
もしくは、もっといえば、操縦者そのものが変わってしまうようなものだからです。
ただ、これには現在、私自身が、戸惑うほど複雑な「混線」もからんでいて、
上手く説明は出来ませんが、上手く説明する気もないので、下手に説明します。
●そもそも、昨年2015年の春ごろから、私は、とにかく、
約24年分の休暇を取りたい、休みたい、だから休む、そう決めた。
ところが、自我復元者のサポートなどにも、なかなか手間取り、
休むことが、どんどん今年にまでズレこんでしまった。
そこで、とにかく、どこかで、この24年間にやってきたこと全部を
いったん私から切断するために、
「何が問題なのか?」「足元の宇宙風景」「はじめての無明庵」のトークCDを、急いで収録しました。
前にも書きましたが、あれは、「遺言」です。無明庵の24年分の簡単な遺言です。
それで、それを収録し終えた直後に、私は倒れた。
もっとも、昨年から、「絶対に、いいかげんに、少し休むんだ」と
自分で決めていたくせに、ずるずると、作業をかかえていたのですから、
それでは、いいかげんに、「自分が自分に対して」、
「おい、いいかげんに、決意したことを守れよ」と言う羽目になります。
その結果が、入院です。
しかも、禁煙鬱つきのおまけサービスで、しっかり、
脳みその根元まで、強制中断となり、機能停止となりました。
この機能停止の中で、いくつか、
今までの私では経験できなかった感覚を味わったのですが、
それはまた別の機会に記します。
●また今年の3月の私の入院の、もう一つの要因は、
これは、以前に、桜の間の「521」番だったかの投稿にも書きましたが、
2014年の暮れあたりから、私に対して「帰還勧告」が出ていたことです。
この勧告は、合計3回ありましたが、以前に書いたように、
いずれも、明確な理由もなく、無視してしまいました。
また、その後、「死のボタン(承諾のスイッチ)」のヴィジョンまで
現れる始末でしたが、これも、スルーしました。
●今にして思うと、あれを軽くみたのは間違いでした。
あのときに、もっとまじめに、
自分の死期についての検討や、契約を確立すべきでした。
2014年の秋ごろから、すでに勧告がされていたのに、
それをことごとく、いいかげんに扱ったことも、
今年の3月に入院する羽目になった原因なのかもしれませんが、
このあたりは、まだ、分析できておらず、よく分かりません。
●それで思い出したのは、昨年の夏から秋にかけて、
地球に二度と生まれないことになったり、
もしくは、地球型の惑星や、このタイプの感覚を持つ身体を今後、二度と持たない、
といわれたら、どう感じるか、などと、
外でキャンプベットに寝っ転がりながら自分で想定していました。
当時は、地球の自然環境とか、特定の景色に対して、
何か少しの名残惜しさがあったのですが、今年に入院したら、全部吹っ飛びました。
退院してから、外界の自然とか植生とか見ても、まったく関心がなくなりました。
●また、確か、これも昨年に桜の間に書いたと思いますが、
私の中には、死というものが実感を持って迫ってくる場合に、
当時は、意外にも、「自分が連れ添った自分のこの身体」に対する、
愛着というか、あともう少しだけ使い込んでみたい、といった気持ちがあり、
それが肉体との接点になっていたのですが、
肺炎で入院して、しこたま肉体がボロボロになったおかげでなのか、
最期に私の裾をつかんでいた、(というより私自身がつかんでいた)
今回、使い込んだ身体に対する執着が、離れました。
自分の身体とか、性格なんて嫌いだと口で言う人は沢山いますが、
じゃー、ほかの人のそれと交換しますか?となったら、
95%の人は、拒否すると思います。
その出来、不出来には関係なく、
一度、自己同化したものには執着するように出来ているからです。
●私が、肺炎になる直前までいた、この世界と、上手くつながらず、
「アンプラグ」の状態にあるという話も、これまた退院後に、桜の間に書きましたが、
この私のアンプラグ状態は、あきれるほど、徹底してきています。
目を閉じると、本当に、ほとんど何もない。
ただ、ただ、何もない(と認識されるものすらも希薄)な、
しーんとした、薄い暗闇が広がっています。
何がその静まりを生み出しているのかは明白で、それは「無関心」です。
対象物がないからではなく、私の意識の側に動きが少ないからです。
今までに、並々ならぬ関心を向けてきたもの、
正確に言うと、今までに、自然に関心そのものが向いていたもの、
それら複数のものへの関心がことごとく、消え去っています。
●人間というものは、関心がない、と口で言うのは簡単なのですが、
本当に関心がなくなっているかどうかは、かなり怪しいものだ、
という事が、人間をやってみたり、他人を見た経験から感じました。
単に、一時的に関心がなくなっただけの人が多いわけです。
だから、長い周期でも短い周期でも、
また、ぐるぐると同じところに戻ってくる。
それは対象物が、たとえ精神世界のことでも、食欲や性欲とも似ている。
また嫌ったり、軽蔑したり、嫌悪している対象があると
それに足を取られますが、無関心というものは、そういうのにも無関心です。
●また、精神世界に関わる多くの人が勘違いをしやすいのは、
この世界で生きてきて、特に自分の外部から得たような知識や、
参考にした他者の信念体系、といったものへの関心、
さらには、この地球の音楽や芸術や、自然など、そういったものに、
関心がある状態というのは、何をどう組み合わせても、
地球からの離脱症状を起こすことは困難です。
ようは、本当に、地球的なもの一切に、心底無関心にならないと、
「離陸」が出来ないわけです。
(地球の諸事に関心を持ちながらも離陸するのは、出来なくはないでしょうが、
変化の感覚が小さく、予想外の要素がなく、面白さが全くないと思います)
●今回の私の「無関心」と「アンプラグ」の徹底は、
今、まさに、今日か明日に、私が死んでも不思議ではないほど、
この世界との切断(断線)が深くなっています。
死ぬ前の状態としては「私個人」にとっては、かなり「理想的」です。
普通の人だと、それまでの自分とは到底思えず、不安になりまくると思います。
(私でも、慣れるのにまた時間がかかっています。
これは、生きながらに半分死んでいるようものですから)
悟り系にも関心なし、
精神世界全体にも関心なし、
自分で構築した性の体系やセックスそのものにも関心なし、
音楽を創ることにも、聴くことにも関心なし、
あれだけ書きまくった禅書にも関心なし、
手裏剣にも関心なし、
食品の放射線測定にもほとんど関心なし、
この世界の文化というもの自体に関心なし、
ニュースどころか天気予報も見ないので、
日本が戦争になってもたぶん知らないまま生活していると思う。
そして自我復元の体系にも関心なし。
この24年間、無明庵でやってきたことそのものが、
私の中からは、剥がれ落ちていっている。
また博士君のことは、ある程度、腹をくくって覚悟をしているので。
この点では、離陸の準備に関して完了間近なので、50%は上手くいっている。
問題なのは「行き先」が決まっていないこと、行く先との契約がまだということ。
これだと、引越しでいうなら、「路頭に迷って、のたれ死に」と同じになるわけで、
次の居住世界を決めていないという点では、全く準備不足です。
しかし、今の私は、そうでしか在れないので、
とりあえずは、行く先は決めませんし、自己再生させない可能性もあります。
それによるリスクも予測されますが、あまり細々としたことにこだわるのは、
今の私の、この新鮮な「無責任感覚」に馴染みません。
●もしも今の私の「無関心」による、この世界との切断状態、
この部分だけを、抽出して、他人が利用したらば、
意識の「浮力」にはなると思います。地上から浮くだけですが。
ただし単に浮くだけで、移動力は一切ないので、
移動先を明確にしていない人には全く利用価値が無いパーツになります。
ちなみに、私はこの世界を、何気に、あまり関心なく眺めるのは嫌ではありません。
昔は息をするのも嫌なほど、嫌ったことがありますが、今はそういうことはありません。
蝶がひらひらとか、木々の葉が揺れていたりとか、
風・空気は心地よいことが多くあります。
寝床の肌触りも悪くない。
しかし最近、鳥の鳴き声は、好きではなくなった。
●前にも言いましたが、自分が居るという自覚を生ずる主な感覚は、
呼吸、触感、それに重力の感覚。
死ぬと(たぶん)大きく変わるものばかりですね。
*********
●と、きわめて個人的な近況を書いているのですが、
私の感覚では、実は、これは個人的なことではなく、
今年2016年と、来年2017年は、無明庵の読者の人たちも、そうでない人たちも、
それぞれの人が、自分の死について、
それぞれが現在、妄想しているように本当になるのか?
今信じたり、信じたがっている事に対して、
あなたは本当に、確信はあるのか?
やりたいこと、やり残していることは残っていないか?
それこそ、死んでも行きたいとあなたが切望する世界や、
自分の大切な何かと引き換えにしてでも、得たいと思う世界は本当にあるのか?
などなど、
宇宙はどうこうだと、他人からの話で聞いたからとか、
あれこれの本やネットを読みあさった結果、
たぶん・・・死んだらこうなる・・・のかもしれない・・・と自分で思うからとか、
そういうことを、一度、ゼロに戻して、
ゼロが無理ならば、10%ぐらいまで先入観や、望みを排除してみて、
自分の死について、考えたり、実感したり、どうするかを決める、
そういう二年間になると感じます。
「今までに、自分の知らない世界について、
たとえば、それは宇宙であったり、意識のことについてであったり、
そうした問題に対して、あたかも確実な確信を持っているかのように語る人々、
そして、あなたの好奇心を、退屈させずに、くすぐるような話をする人々に、
あなたは一喜一憂したり、人生の時間の多くを使ってきただろう。
しかし、ちょっと待てよ。と、あなた思うはず。
そうした話が本当かどうかは、自分で経験する以外にない。
また自分では経験できそうもない内容も多い。
また仮に他ならぬ自分が直接に経験しても、
もしも経験の仕方が違えば、結果は異なることも多い。
そうやって、何十年もかけて構築した「自分の信じている現実」
という錯覚または感覚を、一度、振り出しに戻してみる。
しかも、どこがその”振り出し”なのかも、あいまいなのであるが」
●人間あるいは、人間でない何者かが、さんざんに、ひねり出した妄想によって、
いろいろな体系が、いろいろな世界に異なる法則としてあるのだろうが、
混乱の大きくなった世界では、
いつも、目指すものは、おおかた、二種類しかない。
ひとつは、
「かつて、まだ混乱が少なかったころの状態に戻すことを目指す」
まー、だいたいの体系はここに目的があり、自我復元も基本的にそうでした。
より以前の「マシだったころ」のデフォルト状態を目指すものです。
世界中にある瞑想体系などもほとんどがそうです。
原点回帰を正しいだろうと踏んでいる、という意味のそのベクトルでは、
基本的にはどこも同じです。
●もうひとつは、混乱したり、ひどく荒れた世界を、そのまま突き進めて、
どこかで「別のもの」や、過去のものと「ベストミックス」をして、
なんとかして、制御できる知覚や動きに納めようとするもの。
しかし、いずれの場合にも、
そんなこと(膨大な努力)までして、
あるいは、そんな生存形態(高次元の、うんたら体)になってまで、
そうまでして、意識を持った存在として、生存するのは、
いったい、何のためなのか?
永劫に見える時間と空間も、実際には、本当にたいした意味もない、
どころか、実は、全く意味がない、
そういう現実があるとしたら、
そういう、徹底した、容赦のない不毛さと、絶望との間に、
折り合いをつけてまで、生存をしようとする、
とにかく、生存しようとするという、非常に単純なコマンドによって、
生物は生きているのだと思います。
生存している意味や目的や、
進化の意味や、進化の定義そのものや、
娯楽や感覚を作り出すことが何の意味があるのか?
こうした、さまざまな疑問や、試行錯誤のすべてをも、
「存在しろ 生存しろ 存続しろ」という方針が貫かれていて、
それが全体を突き動かしている。
ただし、何事においても、明確な説明はされていない。
宇宙に、いつも、いつも、転がっているのは、
「そう・・かも・・しれない。
経験的には・・その可能性がある」
という、結局は結論の出ない、あれこれの推測話と、
期間限定、地域限定で有効な夢見のみである。
******************
今日のところは、以前の無明庵というか、鈴木崩残のような論調を、
かろうじて残してありますが、それも、だんだんと消えてゆくかもしれません。
参考URL
無明庵の足跡と私
↓
http://www.mumyouan.com/k/?S521
_________
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