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★雑記/NO.647 【 『原点想起』 】
by:
鈴木崩残
2016/11/23(Wed)17:37:31
「原点の想起 」
もうひとつの覚書
【 無 明 庵 の 原 点 】
以前にも書きましたし、回のニューズレターにもある内容ですが、
悟りのことについて関心を持ってしまった人たちのことを、
私は比較的、揶揄することの方が多かったです。
1995年あたりの読者の人たちは、変な人が多かったという印象を
述べているところが、掲示板にもあります。
悟りというのは、人を魅了する分野ですから、確かにそういう面はあります。
私がよく言う一発逆転的な人生の巻き返しに使えないかと思っている人たちです。
しかし一方では、1995年から1998年までに、
無明庵を知ったり縁を持った人たちの臭覚には、特別なものがあったことも事実でした。
このことは、いろいろな誤解や邪推を招くので、
長い間、どこにも書きませんでしたが、
初期の無明庵をかぎつけた人たちの臭覚には、確かな性能もありました。
何しろ、それは乱立していた他の書籍とは明らかに異質な内容だったものを
嗅ぎつけたからです。
しかも「廃墟のブッダたち」「ひきつりながら読む精神世界」の、
一番最初の発行部数は、わずかにたったの120部です。
それを嗅ぎつけて、探し当てた人には独特の感覚もある人がいました。
異質だっただけに、
普通の宗教感覚しかない人たちはスルーしてしまったはずです。
今だから、いえますが、とある著名な仏教団体の代表者が、
EOシリーズを読んで、「これこそ本当の仏教だ」というような主旨のことを、
うっかり言ってしまったことがありました。
*********
さて、無明庵の原点を再確認するとき、
そこで見落とされてはならないのが、
他の悟り系の体系や書籍の内容と何が違っていたかです。
悟りについての言葉による説明には、過去のそれと、
それほどに大きな誤差はありません。
それゆえに、過去の悟り人と同じようなものだろう、
という誤解や、過去の覚者との比較もまた、常に投影され続けて、
人々の間で論議されたと思います。
しかし、その背景にあったものが、存在への完全絶望であった、
という点が、いわゆるスピリチュアリズムで語られる、
魂が改変や改良をしながら、成長して宇宙を旅するという世界像とは、
根本的に違っていました。
そして、もしもその事実に覚醒したらば、
「次の生はない」、それが無明庵の原点でした。
故に、廃墟のブッダたちのシリーズのサブタイトルにはこう記されています。
「宇宙から消滅する死に方」
「輪廻なき絶対無への帰還」
いささか大げさなタイトルに思って書籍を手にした人も、
その内容に触れたとき、そういう消滅もあり得るのだろうか?と
推察したに違いありません。
ニューエイジ的な精神世界ビジネスが蔓延していた1990年代に、
「森羅万象は苦である」という、原点を再び想起させたと言えます。
またブッダが同様に「覚者が死ねば寂滅あるのみ」、
と言ったかどうかは知りませんが、
覚者が超えてゆく境界線が、宇宙や存在そのものであるという視点もまた、
復活したと言えます。
無明庵の初期の書籍群(「廃墟のブッタたち」〜「反逆の宇宙」までの7冊)は
法としては、目新しいことは書かれていませんが、
ただし、それは、仏法が本来は、本当はどうであったかということを、
人々の中に、とても微かな信号として、復活させたという功績はありました。
内容を理解できるか出来ないか、体験として、到達可能か否かは別としても、
そもそもが、我々が高い次元に移動したり、自分の望む世界を構築したりする、
そういうのが仏法なのではなかったはず、ということを
明確にした法話録が初期の書籍群でした。
*********
その「絶対無」や透徹した「単純な意識」についての書籍の発行が
ひと区切りついた時点から、無明庵は異なる方向へと枝を伸ばしました。
初期のEOシリーズによって無明庵の書籍から何かしら
打たれるもの、響くもの、異質なもの、あるいは理解できるもの、
そうしたものを感じた人々が、興味を持たないかもしれない分野へと
その後、無明庵の枝葉は伸びてゆきました。
物事の必然なのですが、原点となる種が落ちると
土壌や天候や光の環境によって、それに応じた形に植物は育ちます。
そこに誰がいるか、どんな関心にさらされるか、何に影響されるか、
によって、同じ種でも、異なる品種になります。
無明庵は、EOシリーズの発行を終えたあとは、
その後は、私(崩残)の判断によって、
性の問題、そして悟りついていくつか補足的な私の見解を加えた書籍を発行し、
その後、より個々の読者の人たちとの距離を縮めるために、禅書を開始し、
その禅書がやがて、自我復元の方法へとつながりました。
そして最終的には、前回の投稿でも問題になった「トラウマ問題」で
ついに、限界に行き着いたのでした。
思えば、無明庵は、その原点からは、遥か遠い場所へと
漂流してしまったのかもしれません。
なにしろ、無明庵の原点は「輪廻なき生」でした。
消滅のみを願う魂がもしもあるとしたら、
次の生などは関係ないものでした。
次の生への拒否、輪廻の拒否、存在と活動宇宙を絶望と見る視点、
そして絶望ゆえに、結果として到達されることのある無欲さ、静寂さ、
そうしたギリギリの世界においては、
どこかの宇宙に生まれるとか、次の自己世界をどう設計するか、
といったことは、全く無関係なことでした。
だから、自我復元といったものが登場した段階から、
初期の徹底した論調の無明庵とは方向が違っていったために、
関心を失った人たちもいる一方で、
全自我でなければ探求は無理であろうという見解に同意して、
自我復元をはじめた人もいるかもしれません。
しかし多くの人たちは、自分が自覚して抱えていた、
トラウマAC問題に取り組もうと決めて始めたと思います。
それは、無明庵の「原点の一点」からは、
物凄く遠くにある異国の土地のような領域でしたが、
その土地に咲いた花を、私は否定するつもりはありません。
ただ、いえることは、1995年の原点からは、本当に遠くまで、
ある意味では、非本質的な領域にまで、触手が伸びましたが、
今一度、無明庵の原点を、私自身が思い出す必要を感じたのでした。
その原点こそが、すべての始まりだったのですから。
忘れてはならない原点でした。
そして、その原点こそが、
その後に展開していった、不安定な動きの「軸」でもあり続けたのですから。
それは、この宇宙で、どう在るか、いかに生きるか、
どう、自分の安定的な立場や、持ち場、自分の役割を確保するか、
つまりノーキスト氏が
「そんなものはどこにもない」と断言した言葉を借りるならば、
それは、
「宇宙における人間の位置づけ への関心といった問題ではなく」、
この宇宙に存在したいのか、存在したくないか、
といった、生き死にのエッジに立つことがその原点でした。
そして、選び取る道が、もしも「無への帰還」と決定されたならば、
二度と再び、存在世界を楽しむために、この宇宙に生まれることがない、
そのような消滅の道を目の前に出されて、
我々の魂は、納得できるのか、それとも震え上がるしかないのか、
そんな自問と、境界線をさ迷う苦悩が、
無明庵の宇宙観の基軸でした。
次の生など、存在しない。
これが最後、今この瞬間が常に最後、
だからこそ、在りえた、未知の次元。
完全な死がもたらす逆説的な生。
その歪んだ、奇妙なブラックホールのような点と渦が、
無明庵の原点でした。
そして、むろん今も、
その圧倒的な虚無という概念に憑かれる人々がいます。
しかし、今の私や無明庵は、その探求者の人たちの役に立てません。
ちなみに、存在離脱の方向にシフトした場合には、
先日書いた「死の神」という選択路線もキャンセルということになります。
*********
EOイズムが、はじき出した、絶対的な事実とは、
「生きるとは 飢えて 苦しみ もだえて 動く。
たとえそれが 宇宙の どこであっても。」
ということであった。
その絶望的な普遍的事実の前で、
再び意識ある存在として、生まれないことを、
切望するか、または許諾した場合に、
その魂の自殺と引き換えに、偶発的、そして
まったく本人にとって、予測外の現象として、
覚醒を手にする者もいるかもしれない。
しかし、もしもそうなったらば、
次の生はないという確約を忘却してはならない。
そして偶発的に生じたその覚醒の光を、
残すことなく放射し続け、
自らのその覚醒の意識が枯れはて、枯渇する時がきたら、
その時には、そこにあるのはただただ寂静のみである。
そこには、もはや悟りもない。
もしも、果たすべきことを、果たし、
欲望が尽きるまで生きた、
あるいは無為自然に存在をしたならば、
ついには、一時的ではない、本物の、正真正銘の、
無関心と、無気力と、無責任と、無意味さが生じてくる。
外界に存在した対象への、
関心と愛着と、それらそのものを失ってゆくとともに、
それは自分という身体と魂を、ついには失うことである。
その時には、比喩ではなく、
その者は、本当に、存在する価値の全くない「最低の者」となるだろう。
それ以上に崩れることのない最低の底辺を生きる者は、
やがて、ついには、その逆説的な意味で頂点でもあった、
輝ける底辺が崩れ去る時がやってくる。
なぜならば、悟りの意識として存在する世界を徘徊することも、
いつまでもそのように在ることは、許されないからである。
宇宙からの消滅を懇願し、承諾した原点に生じた悟りであるならば、
その契約は、履行されなければならない。
真の消滅という形で。
そのようにして、
魂や、悟りも、すべてを「それが生じた宇宙へと返して」、
はじめて、宇宙から消滅することが可能になるだろう。
転生と輪廻なき無へと消えることを、本当に承諾して、
魂を返してこそ、ようやく、解脱がなされるのである。
価値もなく、意味もなく、覚醒もなく、意志もない、
ただ、すべての力が尽き果てたところにある静寂。
魂の復活なき静寂。
生や存在とは、全く対極にある、動きなき、力なき世界。
恐ろしいほどの、抗えないほどの、無意味さを包含した、その闇は、
何度も、次元の隙間から、
この存在宇宙へと漏れ出てくることがある。
なぜ、漏れてきてしまうのか?といえば、
こちら側から、非存在の側へと触手を伸ばした存在たちが
過去にも、そしてこれからも無数に出現するからである。
どうして彼ら(ないしはそうした意識)が出現するのか、
それは、やはり、明確に整合性があって、納得できるような万物の存在理由や、
存在の究極の意味、その目的といったものを、認識として手にしなければ、
もやは、これ以上、存在して生きることは不可能だ、
そう思うに至る、成熟しきった魂や種族(ないしは老いた魂)がどうしても、
進化や変化の限界にまで、行き着いてしまうからであろう。
平たくいえば、
「欲望」と「無欲」の二極を、統合または制御することは、本当に難しいことなのだ。
特に、妥協する事が出来ずに、執拗なまでに、真実を求める癖のある魂にとっては、
欲望も、無欲も、どちらも、
その極に接近してしまうことが、しばしばあるからである。
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