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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
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[849]
■
●「禅と戦争」禅仏教は戦争に協力したか
by:
崩残
2006/12/28(Thu)08:53:20
●「禅と戦争 / 禅仏教は戦争に協力したか」
ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア著
エィミー・ルィーズ・ツジモト訳
という本がある。
これを受けて、臨済宗は公式の謝罪声明を出した、
という、いきさつのある本である。
資料はあまり多くないが、目次が見つかったのでリンクしておきます。
↓
目次と概略
http://elgar.hp.infoseek.co.jp/syuukyou/zenatwar_pre.html
個人のブログ
↓
http://plaza.rakuten.co.jp/bhavesh/diary/200611160000/
_____________________________________________________________
●さて、言うまでもなく、ここで私がこの問題を取り上げるのは、
松の間でも、皆さんに突きつけた、
>「仏に遭うたら、仏を殺し」の真意とは、何ぞや?という問いと、
>「殺してくれと懇願する母子と自分の3者を一刀で全員斬れ」という問い。
これにも関係するものです。
●むろん、前述の著作を受けて、まさか臨済宗は原文から、
「仏を殺し、祖を殺し」を削除などしていまいと思うが。
もっとも、もしも削除したら、それは決して許されない、
祖師に対する冒涜なのだから。
そもそも、この文言「仏に遭うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し」が、
いかなる境涯から語られたものであるかは、
「竹の間」に全て、私の方で解説した通りである。
禅問答回答の投稿
↓
http://www.mumyouan.com/k/?T3645
親鸞の「歎異抄」の文言を例にした補足
↓
http://www.mumyouan.com/k/?T3646
●これを読んでいる読者が、日本全国の禅寺に問い合わせても、
土下座して頼んでも、1億のお金を積もうが、
絶対に、「仏に逢うては仏を殺し」の意味については、答えては貰えず、
そもそも、彼らには答える能力もありませんから。
それが出来た禅寺など、ただのひとつもないですよ。
あると思ったら、日本中の禅寺に、私が書き記した注釈を教えずに、
「仏に逢うたら仏を殺しとは、どういう意味ですか?」と、
質問をしてみればよい。
ただの1人として、どのような権威ある禅僧であろうが、
または、小悟した程度の禅僧であろうが、
私の出した注釈と等質のものを答えられる者は存在しません。
彼らにせいぜい答えられるのは、
竹の間の「不正解者」ですらも、答えられるような、
「仏だろうが、祖師だろうが、そういう妄想を捨てよ」という程度の
どんな「阿呆僧」でも答えられる「誤答」でしかない。
●さて、「仏を殺し、祖を殺し」は、言うまでもなく、
戦時中にも、おそらくは口にされた「殺人の口実」であったことだろう。
なにしろ、少し調べてみたら、
戦時中に、道元の「只管打座(坐るときは只坐れ)」を真似て、
「撃つときは、ただ撃ちまくれ」と銃を撃ちまくって人を殺した日本兵も
いたそうである(真偽は不明)。
こんな馬鹿どもが禅を引用するから、ロクなことにならないのであるが、
武術家とて、笑い事ではない。
そこで登場するのが「禅と戦争」という本だが、
そもそも、どうして当時の軍部に、禅にかぶれた阿呆がいたのかを
考えてみみるがいい。
それは、言うまでもなく、明治維新やそれ以前、古くは戦国時代に遡る
そこにあった剣術家や武家の「一部の馬鹿ども」が、
禅を彼らの思想に、歪んだ形で取り込んだからに他ならない。
剣術をやっているであろう、ここの読者の何人かも、
江戸時代や幕末の時代に、禅語に毒された馬鹿者がいることは
ご存知のとおりである。
そもそも、禅寺というのは、
刀など下げて、人を殺すことを仕事や趣味としている人間が、
行く資格などないところであり、
また、人殺し専業者などは、禅僧が、取り合うべき人種でもない。
ちょいと、一禅僧に、その傲慢な「鼻をつままれたぐらい」の事で、
彼らは、いきなり、禅僧を崇拝したり、師とあがめてしまう。
まっとうな生き方をしていたら、
禅などというものは、頭で生きている人間には、決して理解できるものではなく、
それは、私が何度も言うように、「生きるための知恵」ではないということ。
また、「死に方の美学ですらない」ということ。
それは、そもそも、人間や社会が扱えるような次元の問題ではないということ。
全くそれは、「それ自体で完結した法則」の元に成立していて、
それを人間の都合で思想的、または個人的解釈として利用することは、
不可能であるということ。
●しかし、大戦中の当時の日本の軍部の上層部には、
それ以前の時代からの剣術師範や、武家の末裔や、何何流とかに
頭がトチ狂った連中で、しかも禅に毒されたような者も多くいたに
違いない。
時代が変わったのに、いまだ勘違い系の武士道を捨てられず、
また、それだけなら、いいものを、
全く殺生や「生き残り」とは関係のない禅語を身勝手に解釈し、
軍人らの士気を高めるために「悪用」したのだろう。
●(中国禅ではなく、)「日本の禅」が、
他の仏教諸宗派とは異なり、そうなってしまった原因のひとつは、
これまた曲解された「人間禅」という言葉の弊害もある。
実際には禅というものは、
それが釈迦や達磨の時代にそうであったように、
それは、地に足をつけたものでもなければ、
現世で何かの充実感や幸福を得るためのものでもない。
いわんや、それは、くだらない殺し合いの勝利の為のものでもない。
しかし、非常に悪い意味で、人間臭さに堕ちた禅師というものが
日本には多くいて、その彼らが仏法を汚してしまった面がある。
そのせいで、禅において扱われる「死」というものは、
なんら、物理的な肉体の死を意味するわけでもなく、
死の覚悟を意味するわけでもなく、
死にざまを意味するわけでもない、
「精神的な死」を示唆した、「形而上学的な次元の話」であるにも関わらず、
日本の禅の一部の「阿呆僧」や、剣術師、そしてその末裔の軍人が、
現実の世界での死という問題に摩り替えて、歪曲してしまったのである。
その結果やその事実関係の一部が「禅と戦争」でレポートされていると
思われる。
●そうした、本来は、とてつもない深遠さを持つ禅語
(といっても、本当に深遠なのはごくごく一部の禅語や、逸話だけであるが、)、
それを悪用し、歪曲し、勘違いした、
その一例として、松の間にも登場したのが「新陰流の極意書」に
書かれていると言われる文言である。
●元々の禅として、その句が持つ真意は、当然のこととして、
>「行く手を遮る者を、皆殺せ」でも全くなければ、
また、
>「精神的な意味において、
>自分の行く手にある全てを超えて独自の道を行け」、でも全くなければ、
>あるいはまた、「仏や祖への囚われを、捨て去れ」、でも全くない、
ということを、私は、隣の「竹の間」で述べた通りである。
全くもってして、そのような「俗」の解釈には収まらない意味を持つのが、
「仏に逢うては、仏を殺し。祖に逢うては、祖を殺し」であるということを。
●この「殺し」と「生かし」の区別は、
ここの文脈の中においては、全く意味をなさないのだということを、
既に解説してある。
そして、それは、その「明らかな矛盾にも思える語句」に向き合い、
苦悶し、その謎(公案)を自分の座禅によって突破する僧の為に、
それは、永久に禅の中に残されねばならない、方便の句であるということも。
●
____________________________________________________________
●ようするに、今回の禅問答で、私が言いたかったのは、
>今後、二度と、禅を剣術となど、関連させて語るな、
そういう事は、私は絶対に許さない、という事である。
人斬りは、人斬りに徹すれば良い。
阿呆な頭で、のうのうと、大間違いの解釈をした禅など口に出したら、
その口が、腐って顎の骨がむき出しになるほどに、祖師たちに呪われるぞ、
と言っているのである。
実名あげれば、甲野氏もな。
といっても、それ以外にも、ずいぶんと、剣術師というのは、
昔から禅に「かぶれて」いたようである。
●しかし、こうしたことは、何も禅だけに起きたことではなく、
経典の曲解というものは、キリスト教、イスラム教、
世界中のどこでも繰り返し起きてきたことであることは、
言うまでもないことである。
それが政治的利用、または戦争に利用されたか、されなかったか
という違いがあるだけで、いまだに、人々を騙す詐欺のような
「曲解 解釈」は、カルト宗教のみならず、
それよりもいっそう始末が悪い「形骸化した伝統宗教」の中にも、
石を投げたら当たるほど、世の中には溢れている。
そもそも、あらゆる経典の文言というものは、
実体験なしには、いかなることも語られてはならないのであるし、
実体験に根ざすほど、それは解釈それ自体が、
決して常識では理解できないシロモノになるのである。
なにしろ、常識を超えたところにあるものを、
この世界になんとかして、言葉に引き下ろそうとした、
「苦渋の努力の記録」、それこそが、優れた経典の実体なのだから。
____________________________________________________________
禅手裏剣とは何か?
●ところで、無冥流の「禅手裏剣」というものは、
一体、いかなるものであるのか、
それを私は、皆さんに、ほとんど見せたことはありません。
それが目指しているもの、表現しているものは、
おおよそ、武術でもなければ、「生き方」でも「死に方」でも
ありません。
禅というものは、そもそも、刀や手裏剣などで表現できるようなもの
ではありません。
超有名な話に、欧米人が、うっかり感銘など受けてしまった、
弓道と禅がありますが、
そもそも、禅というのは、いかなる武器をも必要としませんし、
それを現す手段というものは、日常生活の全てですから、ことさら、
弓や剣など必要ありません。
禅書といえども、そのほんの何割かを表現し得ているに過ぎません。
●私が、あえてそれを手裏剣という表現媒体の中で行う理由は、
特に手裏剣に何か優れたところがあるからではありません。
表現手段としては、書のほうが遥かに優れていますし、
誰でも自分の身ひとつで、容易に出来る修業です。
禅のなんたるかを教えてくれと言われたら、
私は「書でそれをどういう意識状態で書くべきか」ならば、
皆さんに教えることは出来ます。
しかし、それを手裏剣術で行うというのは、
非常に難しいことです。
しかし不可能ではありません。
皆さんにはまだ見せたことの殆どない映像の中で、
それをした記録はあるからです。
それは、おおよそ、手裏剣術とか投剣術というものとは
かけ離れた理念による動きになります。
●分かりやすく「極論」で言えば、
それは、自分がどこへ、どのように投げるか、
その一切を、コントロールを全く放棄する、
ということによって成立しています。
その場の気、その場の運命、その場の自然、そして人。
あらゆるものを剣を放つという動作の中で、
間違いのない完璧なものにするためには、
そこに、自分という「人」はいてはならないということ。
ただの無心、雑念がない、という程度ではそれは表現できないということ。
そうした打剣を私は、ほんの少しだけしたことはあります。
それは打剣というよりは、舞です。
自然に奉納するための「舞」です。
その「無冥流」の「禅手裏剣」というものは、
言うなれば、こういうものです。
↓
その時に、その剣が、飛びたい方向、飛びたい位置、
それにすべてを委ねること。
もしもその剣が、人を殺したいのならば、躊躇なく無心に殺す。
もしもその剣が、自分の死を求めるならば、自分が無心に死ぬ。
敗北も勝利も全く関係ないということ。
すなわち、ただの1センチも運命に逆らわないこと、
それを読み取れるように、剣を放つ稽古をすること。
これが、無冥流の中の「禅手裏剣」というものの怖さです。
それが強要するのは、「あなたの死」です。
誰かや何かを守るために投げるのでもなければ、
自分の勝利の為に投げるのでもない。
その剣が何をどうするか、
そのことに、立ち入る事を絶対にしない境地。
その結果に、いかなる栄誉も不名誉も、受け取る者がいないということ。
「雪が融けて地に落ちる」ということに、そこに、
何の善悪も、勝敗も、優劣もないように、
もっとも自然なことを、ただそのまま自分の身体を通じて
通過させるだけであること。
そこまで、空っぽにならなければ、
「無心剣」は、放てません。
だから、それは勝つなどという意識には不可能なことであり、また、
生き延びようという意志にも不可能であり、
また、死に様をデザインすることすら、それは許さず、
その結果によって、喜ぶ者も悲しむ者も許されず、
もっと簡単に、いうなれば、
「ただ、わが身をも、心をも、放ち忘れて、剣の内に投げ入れて、
剣の側から行われ、これに従いもてゆくとき、
心をも入れず、力をも入れず、生死を離れた剣となる」
とでも「替え詩」に出来るようなものかもしれません。
ようするに、完全に自分を殺し、滅して、
「道」をそこに憑依させることです。
そこに憑依するものが、「道」となるか、「魔」となるか、
それは、剣の飛行結果に、明確に現れます。
ただ、それを見ることの出来る人が、
この世界には、ほとんど誰もいません。
ごくごく一部の、感性や霊感の鋭い人以外には。
ちなみに、私は、ただの一度も、「道」が憑依した打剣を見たことは
ありません。
私が見たすべての打剣は、
それがどこまで技として高度に洗練されていても、
しょせんは、
「心」が投げていて、
「邪心」や「殺気」が投げていて、
「人」が投げていて、
「魂胆」が投げていて、
「迷い」でなければ「妄想」が、
「妄想」でなければ「信念」が、投げているものに過ぎませんでした。
ただし、私は、ふと、見知らぬ小さな子供が投げた、
小石の飛跡に、「それ」を感じたことはあります。
それは、なんの邪念も、努力も、意志もない、自然な一投でした。
そこでは、その小石も、そこから投げられるべき運命にあり、
その子供も、それを手にして投げる運命にあった、
そういうような、あまりにもすべてが符号する、
完全なる一投。完全なる調和。
その時間と空間の一瞬において、運命として「間違いのない一投」。
それが私の言う、禅手裏剣です。
だから、それは、厳密には記録映像に残せないのです。
なぜならば、それは、完全な「ライブ」なのですから。
そこに誰かがいて、私がいて、その日の天候や運命があり、
その組み合わせにおいては、ある時間の一瞬に投げられるべき剣は、
「たったのひとつ」しかあり得ないのです。
それ以外のものは、すべて、どれだけうまく正確に刺さろうが、
「不正解」なのです。
●だから、もしも、人生においても、
何かの判断において、行為において、
また、たとえば、音楽家であれば、ライブの即興演奏で、
間違いを絶対に犯したくない、
そう思う人は、禅手裏剣という道を歩めばいいです。
それは生活すべての中に浸透してきます。
会社で、家庭で、そして1人でいるときにも。
ただし、そのためには、
個人だの、人だの、人生の目標だの、哲学だの、個人の意志だの、
そんなものには、全員「死んでもらう」必要があります。
でなければ、「仏」は、あなたに乗り移れませんから。
●ちなみに、手裏剣以外、書以外で、
私がこれを完全に可能である分野がひとつあります。
それはセックスです。
私は過去20年以上に渡って、確かに、完全なまでに体系化された
セックスの技法や知恵を持っていますが、
しかし、辿りついたところは「無心」と「無無心」です。
私が自らの性欲を忘れ、自分の身体感覚も忘れ、
何をどうしようとも思わないままに、
ただ、身体の動きに、自分が口を出さずに全託する。
そういうセックスにおいては、何ひとも努力もなく、
学んだテクニックを気にすることもなく、学んだものを使うこともなく、
相手の女性は、何度も繰り返しオーガズムに至り、
失神して気絶することで、そのセックスは終了します。
そんなとき、私は何ひとつ、しようとはしていません。
私が気持よくなろうともしておらず、
女性を気持よくさせようとすら、していません。
まったく、何ひとつも、計らうことなく、努力することなく、
すべては、完璧な結果を生むのです。
だから、そうした結果というのは、
「私がやったことだ」などとは言えません。
自然が、自然に、やったことであり、
それは「起きる事」なのです。
ただ、生きていて、「自分」という意識がある段階のままでは、
それは、決して起きることはありません。
また、ただの無意識でも駄目です。
夢中になっていて自我喪失をしていたという程度のことでは駄目です。
軽薄な人生経験しかない人達は、
この状態のことを、「それまでに学んだことが、無意識に自動的にされた」
としか理解できません。
事実は、全くそうではないのです。
事実は、学んだことや、訓練されたことなど、
そこでは、何の役にも立たないのです。
訓練できないもの、学ぶことができないものが、
その瞬間に、「次元の向こう側」からやってくるのですから。
それは「訓練されたことが無心になって効率よく発揮される」などという
そんなレベルの低い話をしているのではありません。
それは、そもそも、「技」ではないのです。
セックスの中における私の身体の動きにおいてもそうですし、
禅書の筆の動きにおいてもそうです。
それを表現するための「慣れ」は、確かに必要です。
その「回路をあけるための訓練」は、確かにあります。
しかしそれは、
全くのところ、武術的ではない訓練なのです。
それは、今までに、ほとんどの人が使ったことのない回路を
開くことになります。
そのための代償、支払い、リスクというものもあります。
それは、常に、意識の起点をゼロの状態にリセットする訓練と言えます。
●だから、その世界を体験し、
自分の中を通過させるために必要なのは、
まずは「無心」です。
あらゆるものを、意識化して、
かつ、全く無思考で、ただ見ている、という状態の「無心」。
そして次に、
その意識化の観察意識の主体すら捨てる、ということです。
●
●かつて、ほんの一時期だけですが、この日本という国の、
戦国の時代に生まれていた私は、ぐるりと360度、ただの人殺しでした。
ただ、最期に死ぬときに(戦地ではなく、死んだのは病床でしたが)
ある人物を自分が殺したのが間違っていたのか、正しかったのか、
そのことで、悩み続けました。
私が死ぬ約一日前に、
最期の最期に、私にようやく理解できたことは、
世の中には、そこで死ぬべき死と、そうでない死があるということでした。
逆に言えば、生きてはならない時もあり、生きるべき時もある
ということです。
しかし戦国の時の流れ中にいた私には、
それをもう一度、そこで学ぶことは出来ませんでした。
ですから、そののち、私は、
一時、この惑星の生を離れました。
少しばかり、「奇妙な形の生き物」に、奇妙な星で生まれたのですが、
そこで、何が自分に必要だったのかを学習しました。
そして、それが学習されたので、
もう一度、この国に生まれることにしました。
そして、かつての自分には、決して放つことの出来なかった、
自分が、そこで、死ぬか生きるかも、自然に任せる一投。
その「正しい一投」が、出来る状態になったとき、
私は、この松の間で、この講座を始めたのです。
●今までの講座は、いわば、ただの遊びです。
よく言えば、「論理的な基礎づくり」です。
だから、徹底して、まずはその「媒体として使う物」としての剣について、
論理的に、探求し、解説したのです。
しかし、このあとは、
もはや、人殺しの道具としての武術ではありません。
何かを生かすか殺すかは、全く不明の剣です。
それには、「予定」や「リハーサル」というものが存在しません。
もしもこのような打剣法や剣術が、
戦国の時代に、私によってなされたのなら、
私は出会った相手を、自分の意志と関係なく、躊躇もなく殺して、
しかも、何があったかも全く忘れてしまうか、
それとも、自分の意志と関係なく、何もせずに手を広げて殺されて、
どう殺されたのかも、全く忘れてしまうか、
それすらも、自然に「一任する」わけですから、
それは、360度、まるっきり、勝とうとする武術などではありません。
かつての古い戦国の時代の、精神的に未熟だった私は、
病床の中で、何ヶ月も「人の生死」について思い悩んだ末に、
そのように、自分が死にたかったのです。
すなわち、「正しい死に方」です。
_____________________________________________________________
・補足・
この「無心剣」と「無無心剣」の違いについては、
既刊の「中級手裏剣術」の最後の部分に書き記しましたが、
あの本の「主題」ではなかったので、
それほど多くのページは割いていません。
■
・余談・
禅手裏剣を表現するためには、その基準で選ばれる剣
というものがあります。
まず第一に、絶対に、「殺気が無い」ということ。
第二に、「殺戮や暴力の歴史を持たない出生の剣」であることです。
また殺戮や暴力の「動機」を一切持たない心で制作された、
汚れのない、純粋な剣であることです。
そういう点では、物理学的な飛行の機能性のみを追及した結果生まれた
半田師範の剣などは、それに該当します。
ただし、微妙なのは、こと「禅手裏剣」の場合には、
性能がいい、ということが、逆によくない面があるのです。
というのも、目的が正確に標的の位置に「一定して刺さることではない」からです。
そういう意味では、ちょっとしたミスやブレが如実に出やすい、
角型のままでいいかもしれませんが、
現在、考えているのは、断面六角です。
「六角柱」の場合には、
蜂の巣や、雪の結晶や花の構造など、
自然界に無数のシンクロニシティー(共時性)や「類似性」を持ちますから、
そうしたものに共鳴させるためには、八角ではなくて、
六角の方がいいというのが、私の現在の推測です。
本当を言うと「断面が五角形」というのも、
自然界にも共鳴しますし、非常に実験的で面白いのですが、
ただし、四角の結晶も鉱物や塩の結晶、
あるいは皮膚や細胞の構造などには多いですから、
そのあたりは、いずれにしても、まだ未定です。
今のところ、無冥流の規格剣は、無心剣を投げるのには、
問題はありません。
より、その場の状況を「吸収して反映しやすい形」というのは
今後のテーマになりますが、まずは8間程度を安定して飛行しないことには
話にならないので、物質的な「性能面」の追及は、
来年の前半ぐらいの時期までは、もうしばらくは、続くと思います。
■
★
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